日本100名城紀行 高遠城
9月7日松城の宿舎を午前8時に出発午前9時の開門を待って松代城紀行のあと長野ICから長野自動車道に乗り、岡谷JCT経由、中央自動車道に入り伊那ICで降り一路第30番、高遠城に向かった。
この日も猛暑である。
高遠城
戦国期~江戸期の城。
長野県伊那市高遠町東高遠にあり、伊那ICから車で30分程掛かる。
別称を兜(かぶと)山城ともいう。
室町期から戦国の初期にかけて諏訪氏の一族高遠氏がこの一帯を領していたが、1545年(天文14)高遠頼継(よりつぐ)のとき武田信玄に滅ぼされ、翌々47年秋山信友(のぶとも)、山本勘助らによって築かれた。
城は本丸、二の丸、三の丸のほか、法幢院(ほうどういん)・笹・南・勘助曲輪(くるわ)の各曲輪があり、自然地形を巧みに生かした甲州流の縄張りがうかがわれる。
信玄は遠江(とおとうみ)、三河に進出する拠点としてこのような大規模な城を築いたのである。
のち城主は保科正俊(ほしなまさとし)、武田勝頼(かつより)、保科盛信(もりのぶ)というように変遷し、江戸期には保科氏、鳥居氏、内藤氏が入った。
以後内藤氏8代続き明治維新をむかえる。
現在、城址(じょうし)には太鼓櫓(たいこやぐら)、城門が残り、城址公園は桜の公園として知られている。
と頂いた資料には記載してある。
東京の新宿御苑は、江戸時代に高遠藩内藤家の下屋敷のあった敷地で、戦後新宿御苑として一般公開され現在に至っている。
高遠城は、日本100名城第30番目の指定で、私は63番目の紀行である。
画像は、保科正之と生母お静の顕彰碑
慶長16年(1611年)5月7日、第2代将軍・徳川秀忠の四男として生まれる。幼名は幸松。母は秀忠の乳母の侍女で北条氏旧臣・神尾栄嘉(かんお さかよし)の娘・静(志津、後の浄光院)。
恐妻家であったとされる秀忠は静の妊娠を知り、継室・江(崇源院)に知られないよう武田信玄の次女・見性院(穴山信君正室)に預け、そこで生まれた幸松は見性院に養育された。この事実は秀忠側近の老中・土井利勝他数名のみしか知らぬことであった。
元和3年(1617年)、見性院の縁で旧武田氏家臣の信濃国高遠藩主・保科正光が預かり、正光の子として養育される。
秀忠の継室・江の死後、寛永6年(1629年)18歳にして初めて父・秀忠との面会する。寛永8年(1631年)正光の跡を継ぎ高遠藩3万石の藩主となり[1]、正四位下肥後守兼左近衛中将に叙任。以後、肥後守と通称される。
兄、徳川家光没後1651年(41歳)の時江戸に招かれ20年間第4代将軍徳川家綱を助け武断政治から文治政治に転換を図り幕政と藩政の両立させながら江戸幕府265年基礎を築き上げ、高い理想と安全安心の世の中をめざした正之と大願成就を願った慈しみ深い生母お静の顕彰碑がある。
兄弟:徳川家光、徳川忠長、保科正之
9月7日松城の宿舎を午前8時に出発午前9時の開門を待って松代城紀行のあと長野ICから長野自動車道に乗り、岡谷JCT経由、中央自動車道に入り伊那ICで降り一路第30番、高遠城に向かった。
この日も猛暑である。
高遠城
戦国期~江戸期の城。
長野県伊那市高遠町東高遠にあり、伊那ICから車で30分程掛かる。
別称を兜(かぶと)山城ともいう。
室町期から戦国の初期にかけて諏訪氏の一族高遠氏がこの一帯を領していたが、1545年(天文14)高遠頼継(よりつぐ)のとき武田信玄に滅ぼされ、翌々47年秋山信友(のぶとも)、山本勘助らによって築かれた。
城は本丸、二の丸、三の丸のほか、法幢院(ほうどういん)・笹・南・勘助曲輪(くるわ)の各曲輪があり、自然地形を巧みに生かした甲州流の縄張りがうかがわれる。
信玄は遠江(とおとうみ)、三河に進出する拠点としてこのような大規模な城を築いたのである。
のち城主は保科正俊(ほしなまさとし)、武田勝頼(かつより)、保科盛信(もりのぶ)というように変遷し、江戸期には保科氏、鳥居氏、内藤氏が入った。
以後内藤氏8代続き明治維新をむかえる。
現在、城址(じょうし)には太鼓櫓(たいこやぐら)、城門が残り、城址公園は桜の公園として知られている。
と頂いた資料には記載してある。
東京の新宿御苑は、江戸時代に高遠藩内藤家の下屋敷のあった敷地で、戦後新宿御苑として一般公開され現在に至っている。
高遠城は、日本100名城第30番目の指定で、私は63番目の紀行である。
画像は、保科正之と生母お静の顕彰碑
慶長16年(1611年)5月7日、第2代将軍・徳川秀忠の四男として生まれる。幼名は幸松。母は秀忠の乳母の侍女で北条氏旧臣・神尾栄嘉(かんお さかよし)の娘・静(志津、後の浄光院)。
恐妻家であったとされる秀忠は静の妊娠を知り、継室・江(崇源院)に知られないよう武田信玄の次女・見性院(穴山信君正室)に預け、そこで生まれた幸松は見性院に養育された。この事実は秀忠側近の老中・土井利勝他数名のみしか知らぬことであった。
元和3年(1617年)、見性院の縁で旧武田氏家臣の信濃国高遠藩主・保科正光が預かり、正光の子として養育される。
秀忠の継室・江の死後、寛永6年(1629年)18歳にして初めて父・秀忠との面会する。寛永8年(1631年)正光の跡を継ぎ高遠藩3万石の藩主となり[1]、正四位下肥後守兼左近衛中将に叙任。以後、肥後守と通称される。
兄、徳川家光没後1651年(41歳)の時江戸に招かれ20年間第4代将軍徳川家綱を助け武断政治から文治政治に転換を図り幕政と藩政の両立させながら江戸幕府265年基礎を築き上げ、高い理想と安全安心の世の中をめざした正之と大願成就を願った慈しみ深い生母お静の顕彰碑がある。
兄弟:徳川家光、徳川忠長、保科正之
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