京都の維新史跡・紀行散策 番外「豊臣秀次の墓所」1
維新史跡散策途中、関白豊臣秀次の墓所、瑞泉寺の門前には「前関白豊臣秀次公之墓」と記された石碑を見つけた。
ここには世にも恐ろしく悲しい歴史が秘められていたとは知らなかった。
豊臣秀次墓所・瑞泉寺
瑞泉寺は、豊臣秀次の菩提を弔うため、角倉了以によって建立された寺院です。瑞泉寺の名は、秀次の法名による。
豊臣秀吉の甥(姉の子)秀次は秀吉の養子となり関白の位を継ぎましたが、秀吉に実子秀頼が生まれてからは疎んぜられ、文禄4年(1595)高野山において自害させられた。
その首は三条河原に運ばれ、その前で秀次の遺児、妻妾39人が処刑された。彼らはともどもその場に埋葬され、そこには「悪逆塚」または「畜生塚」と呼ばれる大きな塚が築かれた。その異様な姿は、当時の「洛中洛外図」にも描かれている。
秀次一族の塚は、その後鴨川の氾濫などにより荒廃してしまい、高瀬川をひらいた角倉了以はその工事中に秀次の墓石を発見し、慶長16年(1611)に秀次らの菩提を弔うために一宇を建立した。
寺伝によると現在の瑞泉寺の本堂はもとの塚の位置に建立されているということだ。そして境内西南に、修築した秀次の石塔がまつられていた。
瑞泉寺の説明版に記載してある。
画像は、維新散策時に偶然に見つけた「前関白豊臣秀次公之墓」の石碑
維新史跡散策途中、関白豊臣秀次の墓所、瑞泉寺の門前には「前関白豊臣秀次公之墓」と記された石碑を見つけた。
ここには世にも恐ろしく悲しい歴史が秘められていたとは知らなかった。
豊臣秀次墓所・瑞泉寺
瑞泉寺は、豊臣秀次の菩提を弔うため、角倉了以によって建立された寺院です。瑞泉寺の名は、秀次の法名による。
豊臣秀吉の甥(姉の子)秀次は秀吉の養子となり関白の位を継ぎましたが、秀吉に実子秀頼が生まれてからは疎んぜられ、文禄4年(1595)高野山において自害させられた。
その首は三条河原に運ばれ、その前で秀次の遺児、妻妾39人が処刑された。彼らはともどもその場に埋葬され、そこには「悪逆塚」または「畜生塚」と呼ばれる大きな塚が築かれた。その異様な姿は、当時の「洛中洛外図」にも描かれている。
秀次一族の塚は、その後鴨川の氾濫などにより荒廃してしまい、高瀬川をひらいた角倉了以はその工事中に秀次の墓石を発見し、慶長16年(1611)に秀次らの菩提を弔うために一宇を建立した。
寺伝によると現在の瑞泉寺の本堂はもとの塚の位置に建立されているということだ。そして境内西南に、修築した秀次の石塔がまつられていた。
瑞泉寺の説明版に記載してある。
画像は、維新散策時に偶然に見つけた「前関白豊臣秀次公之墓」の石碑
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