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松山市の銅像巡り 19 正岡子規(野球殿堂入り)

2017年08月04日 | 伊予松山歴史散策

松山市に建立された2番目に新しい銅像です。

平成27年3月20日、道後温泉駅前にある放生園に「当時の野球ユニホーム」姿の青年正岡子規の銅像が建立されました。

建立したのは、松山中央ライオンズクラブが結成50周年記念として事業費1200万円で建立し、松山市に寄贈しました。

正岡子規の野球姿像は、高さ3mで、子規が22歳、明治23年春の写真を元に再現、右手にバット、左手にボールを握り腰かけています。

銅像の左には、「まり投げて 見たき広場や 春の草」の俳句を掲示してあり、この俳句掲示は、季節に合わせた野球に関する俳句を掲示するそうです。

 銅像が建立された、平成27年は、全国高等学校野球選抜大会21世紀枠候補に選ばれ甲子園に出場する愛媛県立松山東高校野球部は、県内最古の野球部で、松山東高の前身は松山中学、正岡子規の母校であります。

正岡子規によって、松山に明治22年野球が伝えられ、明治25年に設立された「球技同好会」が起源で、硬式野球部の設立は愛媛県内で最古であり、昭和25年に、夏の甲子園で優勝しています。

21世紀枠候補に選ばれ、その後選抜出場が正式に決定、主催者の毎日新聞によれば、「(選抜史上)過去最長のブランクを埋める82年ぶり2回目」の出場となった。・・と紹介されました。

野球ユニホーム姿の青年正岡子規の銅像建立は、奇しくも選抜甲子園に出場する愛媛県立松山東高校の記念にもなる銅像となったのです。

子規も喜んでいると思います。

対戦相手は、東京代表、二松学舎大付属高校で、大会5日目第3試合、学校法人二松學舎の前身である、漢学塾二松學舎を創設した、三島中洲は、備中松山藩の出身で、漢学塾二松學舎で学んだ夏目漱石が、松山東高校の前身・愛媛縣尋常中学校(松山中学)時代に教鞭をとったという、とてもご縁のある学校との対戦となりました。不思議な巡り合わせであります。

対戦結果は、5対4で松山東高校が勝利しました。2回戦では東海大四校に3対2で敗退しました。

正岡子規は、平成14年「野球殿堂入り」しました。

甲子園で、8月7日から第99回全国高校野球選手権大会が始まります。

松山市では、子規・漱石生誕150年記念、第20回全国俳句甲子園が開催されます。子規が愛した野球と俳句の熱い戦いの幕開けです。

平成27年3月20日、道後温泉駅前にある放生園に「当時の野球ユニホーム」姿の青年正岡子規の銅像が建立されました。

平成14年7月13日、四国で初めてのプロ野球オールスター戦が、松山市の坊っちゃんスタジアムで開催された。

第2戦、5回終了後に特別な行事が行われた。

正岡子規の野球殿堂入りの式典である。試合開始前なら理解できるが、試合途中である。子規はそれだけ大きな功績を果たした結果の証であった。

この年は、松山城築城400年・正岡子規没後100年・四国で初めてのプロ野球オールスター戦、色んな特別な行事が行われた年での殿堂入りであった。

子規は、明治29年に「日本」新聞に連載された随筆の中では野球のルール、用具、方法などについて詳しく解説している。子規の訳した野球用語で今日なお残る訳語には「打者」「走者」「死球」などがあり、日本の野球の創世記に、彼が与えた影響は大きくこの事等々が考慮しての殿堂入りといえるでしょう。

明治22年、子規は松山に帰る度に野球を子供たちに教えました。

最初に教えたのは、子規門の高弟、河東碧梧桐でした。東京予備門時代には、秋山眞之や夏目漱石達と野球を楽しんでおります。

銅像は、高さ3m、子規が22歳、明治23年春の写真を元に再現、右手にバット、左手にボールを握り腰かけています。

子規銅像の裏面。

背中には、「M,NOBORU」と書かれています。

子規銅像の前に設置されている英文と日本語説明板。

子規銅像の前に設置されている説明板。

 

正岡子規の銅像は、明治28年夏目漱石が松山中学の教師時代、道後温泉入浴のために乗車した坊ちゃん列車を望むように建立されている。

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