植木祭りの帰りに久しぶりに松山総合公園山頂広場荷行って見た。この公園は、平成元年11月28日、市制100年を記念して造られ展望塔からは松山市街の眺めを楽しめる絶好のビューポイントで、標高126mの大峰ケ台全体が公園として整備されている。ヨーロッパの古城を思わせる。山頂の展望塔へ登れるのは17時まで。22時までは展望塔がライトアップされる。花見広場やローラースライダー、スペースネットなど園内施設のほとんどが無料。約500種類2500本の椿を集めた椿園も見ものだ。・・椿は松山市の花である。
開園時間は、
(3月~6月)午前9時から午後8時・(7月~9月)午前9時から午後9時
(10月)午前9時から午後8時・(11月~2月)午前9時から午後5時
※注1:「松山港まつり 三津浜花火大会」開催日は、混雑が予想されるため、全日使用できません。
市制100年を記念して姉妹都市ドイツのフライブルグとの友好関係から、山頂の展望塔はヨーロッパの城をイメージされて作られている。空中散歩を楽しむかのような展望台からは、松山平野を一望できる。公園の遊具は、低学年造られた公園。松山市街の眺めを楽しめる絶好のビューポイントで、標高126mの大峰ケ台に建てられ山頂の展望塔。
公園所在地:松山市朝日ヶ丘1丁目1633番地2
展望塔下にあるベンチから松山城天守を眺める二人の女性。
画像は、安政元年に再建された松山城天守。慶長7年1月15日家康の許可を得て嘉明は5層の天守を持つ本丸、二ノ丸、三ノ丸の築城開始、完成は、蒲生忠知の時、二ノ丸が建築途上でこれを完成、寛永4年で、松山城が完成された。寛永16年松平定行の時代に5層の天守を3層に改築、天明4年1月元旦落雷により本丸が焼失。71年後、安政元年に再建されたのが現在の天守である。昭和10年5月13日、国宝に指定。昭和25年5月文化財保護法の制度により重要文化財に指定され現在に至っている。現存12天守の中で一番新しい天守である。
伊予松山藩初代藩主:加藤嘉明、慶長 8年10月~寛永 4年 2月:20万石
2代藩主:蒲生忠知、寛永 4年 6月~寛永11年 8月:24万石
3代藩主:松平定行、寛永12年 7月~慶応 3年10月:15万石・・明治維新
松平定行から初代松平が始まり第15代松平勝成で明治を迎え、松平は旧姓の久松に改姓する。
参考:藩主と城主
藩主とは、江戸時代大名領およびその領地の支配組織を藩、藩の領主である大名のことを藩主。幕府の許可を得た領地の主。
江戸時代藩の領主。
城主とは、幕府の命令を受け、或いは許可を受け、要地の確保のため住居内に城郭が認められたれ管理を任された大名の家格。
江戸時代城郭を持った大名。
展望塔から見た松山市街で、慶長7年1月15日、加藤嘉明は、徳川家康の許可を得て勝山に築城開始した。
当時築城には、家康に候補地を3ヶ所申請して許可の下りた地点に築城したと逸話が語り継がれている。嘉明は、一番候補地を「天山」二番候補地を「勝山・現在の松山城」三番候補地を「御幸寺山」を申請した。家康は、二番候補地に築城許可をしていたので、嘉明は、勝山に築城したかったので勝山を二番候補地にした。と逸話として残っている。一番候補地「天山」は、画像右上に丘が見えるのがその地点。
三番候補地「御幸寺山」は、画像左の山。
展望台からは市内を一望出来る。平成の合併後(北条市・中島町と合併)人口は、516、280人(平成26年9月1日現在)中四国第三番目の都市である。(広島市・岡山市・松山市)
公園入口の自販機、道後温泉仕様で私は初めて見た。・・伊予弁もしゃべるぞな・・と表記してある。
開園時間は、
(3月~6月)午前9時から午後8時・(7月~9月)午前9時から午後9時
(10月)午前9時から午後8時・(11月~2月)午前9時から午後5時
※注1:「松山港まつり 三津浜花火大会」開催日は、混雑が予想されるため、全日使用できません。
市制100年を記念して姉妹都市ドイツのフライブルグとの友好関係から、山頂の展望塔はヨーロッパの城をイメージされて作られている。空中散歩を楽しむかのような展望台からは、松山平野を一望できる。公園の遊具は、低学年造られた公園。松山市街の眺めを楽しめる絶好のビューポイントで、標高126mの大峰ケ台に建てられ山頂の展望塔。
公園所在地:松山市朝日ヶ丘1丁目1633番地2
展望塔下にあるベンチから松山城天守を眺める二人の女性。
画像は、安政元年に再建された松山城天守。慶長7年1月15日家康の許可を得て嘉明は5層の天守を持つ本丸、二ノ丸、三ノ丸の築城開始、完成は、蒲生忠知の時、二ノ丸が建築途上でこれを完成、寛永4年で、松山城が完成された。寛永16年松平定行の時代に5層の天守を3層に改築、天明4年1月元旦落雷により本丸が焼失。71年後、安政元年に再建されたのが現在の天守である。昭和10年5月13日、国宝に指定。昭和25年5月文化財保護法の制度により重要文化財に指定され現在に至っている。現存12天守の中で一番新しい天守である。
伊予松山藩初代藩主:加藤嘉明、慶長 8年10月~寛永 4年 2月:20万石
2代藩主:蒲生忠知、寛永 4年 6月~寛永11年 8月:24万石
3代藩主:松平定行、寛永12年 7月~慶応 3年10月:15万石・・明治維新
松平定行から初代松平が始まり第15代松平勝成で明治を迎え、松平は旧姓の久松に改姓する。
参考:藩主と城主
藩主とは、江戸時代大名領およびその領地の支配組織を藩、藩の領主である大名のことを藩主。幕府の許可を得た領地の主。
江戸時代藩の領主。
城主とは、幕府の命令を受け、或いは許可を受け、要地の確保のため住居内に城郭が認められたれ管理を任された大名の家格。
江戸時代城郭を持った大名。
展望塔から見た松山市街で、慶長7年1月15日、加藤嘉明は、徳川家康の許可を得て勝山に築城開始した。
当時築城には、家康に候補地を3ヶ所申請して許可の下りた地点に築城したと逸話が語り継がれている。嘉明は、一番候補地を「天山」二番候補地を「勝山・現在の松山城」三番候補地を「御幸寺山」を申請した。家康は、二番候補地に築城許可をしていたので、嘉明は、勝山に築城したかったので勝山を二番候補地にした。と逸話として残っている。一番候補地「天山」は、画像右上に丘が見えるのがその地点。
三番候補地「御幸寺山」は、画像左の山。
展望台からは市内を一望出来る。平成の合併後(北条市・中島町と合併)人口は、516、280人(平成26年9月1日現在)中四国第三番目の都市である。(広島市・岡山市・松山市)
公園入口の自販機、道後温泉仕様で私は初めて見た。・・伊予弁もしゃべるぞな・・と表記してある。
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