今日、仙波太郎の墓参りに行って来た。
仙波太郎は、坂の上の雲の主人公の一人である、秋山好古と陸軍大学校一期生の同期で、安政2年4月21日、温泉郡久米村大字福音寺の庄屋の長男として生まれた。我が家の本家曽祖父の友人である。本家には、仙波太郎から送られて来た手紙を屏風にして大切に保存している。
さて太郎は、同期同郷の秋山好古より4歳年長者である。維新前の太郎は、寺子屋で学び、その後南久米の日尾八幡神社の神官、三輪田米山の下で四書の素読や日本外史を学んだ。明治5年庄屋職が廃止となり家計が苦しく、質素倹約に努め、太郎は農業の傍ら行商により家計を助けた。いろんな書物を読破した中で、軍人になる事が立身にも家計の援助にもなると考えたのか、明治6年に創設された陸軍教導団の入学試験を松山で受験、病床の父を残し母に父を託し郷里を離れる決意をした。明治8年、父が他界、母を東京に迎え暮らすが、母を大切にしたと言われている。東京では、河東坤(こん)(河東碧梧桐の父)に世話になった。明治8年12月陸軍士官学校歩兵科第二期生として入学、その間明治9年の神風連、秋月、萩の乱、翌年西南戦争が勃発した。因みに秋山好古は、明治10年4月陸軍士官学校騎兵科第三期生として入学している。その後旧松山藩主、久松定謨(さだこと)がフランスのサンシール陸軍士官学校の入学への補導役として、初めに仙波太郎に声が掛かったがそれを断ったために秋山好古にその役が回って来た。その後陸軍大学校が創設され、第一期生として太郎も好古も入学し優秀な成績で卒業した。主席で卒業したのは、東条秀教(東条英機の父)で、仙波太郎は三番目の成績、秋山好古七番目で卒業とある。なお一期生は推薦入学で19名が入学、卒業できたのは10名であった。伊予松山から2名が推薦入学でき優秀な成績で卒業出来たことは当時としては郷里の誇りであった。・・それも親藩出身から選ばれたのだから!!その後大正4年2月15日に、秋山は、近衛師団長、仙波が第一師団長のそれぞれ同時に就任した。仙波は、大正8年退役、軍人出身者としては初の衆議院議員として務め昭和4年2月逝去した。好古が北豫中学校長在任中の時であった。
仙波太郎の墓で質素な墓である。
仙波太郎の墓。所在地は、松山市福音寺町の土亀山の墓地にある。
仙波太郎家の墓。右の墓石は先祖の墓。
秋山生誕地に仙波さんと言う女性の研究員がおり、その人が奉仕活動として仙波太郎のお墓掃除をしている。
仙波太郎陸軍中将の時、この後退役して、岐阜から衆議院議員となり青少年、婦人教育に貢献した。奥さんが岐阜市加納の人でありその関係でお孫さん達も岐阜に在住。年に一度墓参りに来松される。
一時期、陸軍の三太郎として活躍した。
宇都宮太郎(軍事参議官)桂太郎(内閣総理大臣)仙波太郎(陸軍中将。衆議院議員。)
仙波太郎、少佐、大佐時代。
真ん中の軍服姿が、旧松山藩主、久松定謨(さだこと)(第一連隊長)で、その右が仙波太郎(第一師団長)左が、秋山好古(近衛師団長)
伊予三山と土亀山の位置。土亀山の墓地に仙波太郎の墓がある。
明治25年冬の終わりに、正岡子規が詠んだ句がある「凩にはひつくばるや土亀山」。是非句碑を建立して欲しい。
松山市星岡一丁目1番8号「雲門寺」の山頂に、仙波太郎が建立した星の岡古戦場記念碑「星岡表忠之碑」である。建立は、明治17年(1884年)5月、仙波太郎陸軍中尉の時に建立。
仙波太郎は、坂の上の雲の主人公の一人である、秋山好古と陸軍大学校一期生の同期で、安政2年4月21日、温泉郡久米村大字福音寺の庄屋の長男として生まれた。我が家の本家曽祖父の友人である。本家には、仙波太郎から送られて来た手紙を屏風にして大切に保存している。
さて太郎は、同期同郷の秋山好古より4歳年長者である。維新前の太郎は、寺子屋で学び、その後南久米の日尾八幡神社の神官、三輪田米山の下で四書の素読や日本外史を学んだ。明治5年庄屋職が廃止となり家計が苦しく、質素倹約に努め、太郎は農業の傍ら行商により家計を助けた。いろんな書物を読破した中で、軍人になる事が立身にも家計の援助にもなると考えたのか、明治6年に創設された陸軍教導団の入学試験を松山で受験、病床の父を残し母に父を託し郷里を離れる決意をした。明治8年、父が他界、母を東京に迎え暮らすが、母を大切にしたと言われている。東京では、河東坤(こん)(河東碧梧桐の父)に世話になった。明治8年12月陸軍士官学校歩兵科第二期生として入学、その間明治9年の神風連、秋月、萩の乱、翌年西南戦争が勃発した。因みに秋山好古は、明治10年4月陸軍士官学校騎兵科第三期生として入学している。その後旧松山藩主、久松定謨(さだこと)がフランスのサンシール陸軍士官学校の入学への補導役として、初めに仙波太郎に声が掛かったがそれを断ったために秋山好古にその役が回って来た。その後陸軍大学校が創設され、第一期生として太郎も好古も入学し優秀な成績で卒業した。主席で卒業したのは、東条秀教(東条英機の父)で、仙波太郎は三番目の成績、秋山好古七番目で卒業とある。なお一期生は推薦入学で19名が入学、卒業できたのは10名であった。伊予松山から2名が推薦入学でき優秀な成績で卒業出来たことは当時としては郷里の誇りであった。・・それも親藩出身から選ばれたのだから!!その後大正4年2月15日に、秋山は、近衛師団長、仙波が第一師団長のそれぞれ同時に就任した。仙波は、大正8年退役、軍人出身者としては初の衆議院議員として務め昭和4年2月逝去した。好古が北豫中学校長在任中の時であった。
仙波太郎の墓で質素な墓である。
仙波太郎の墓。所在地は、松山市福音寺町の土亀山の墓地にある。
仙波太郎家の墓。右の墓石は先祖の墓。
秋山生誕地に仙波さんと言う女性の研究員がおり、その人が奉仕活動として仙波太郎のお墓掃除をしている。
仙波太郎陸軍中将の時、この後退役して、岐阜から衆議院議員となり青少年、婦人教育に貢献した。奥さんが岐阜市加納の人でありその関係でお孫さん達も岐阜に在住。年に一度墓参りに来松される。
一時期、陸軍の三太郎として活躍した。
宇都宮太郎(軍事参議官)桂太郎(内閣総理大臣)仙波太郎(陸軍中将。衆議院議員。)
仙波太郎、少佐、大佐時代。
真ん中の軍服姿が、旧松山藩主、久松定謨(さだこと)(第一連隊長)で、その右が仙波太郎(第一師団長)左が、秋山好古(近衛師団長)
伊予三山と土亀山の位置。土亀山の墓地に仙波太郎の墓がある。
明治25年冬の終わりに、正岡子規が詠んだ句がある「凩にはひつくばるや土亀山」。是非句碑を建立して欲しい。
松山市星岡一丁目1番8号「雲門寺」の山頂に、仙波太郎が建立した星の岡古戦場記念碑「星岡表忠之碑」である。建立は、明治17年(1884年)5月、仙波太郎陸軍中尉の時に建立。
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