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四国88ヶ所霊場第75番札所 善通寺

2014年10月23日 | 伊予松山歴史散策
陸上自衛隊第14旅団内にある、乃木館を見学後、乃木希典将軍も度々巡拝されたと思います四国八十八ヶ所霊場第75番善通寺をお参りした。
今年、四国八十八ヶ所霊場開創1200年を記念して、各県で「四国へんろ展」が開催されている。善通寺は、香川県善通寺市にある寺院で、真言宗善通寺派総本山である。本尊は薬師如来、四国八十八箇所霊場の第七十五番、真言宗十八本山一番札所。
和歌山県の高野山、京都府の東寺と共に弘法大師三大霊場に数えられ、平安時代初頭の807年に真言宗開祖空海の父である佐伯善通を開基として創建された。伽藍は創建地である東院と、空海生誕地とされる西院(御誕生院)に分かれている。
お大師さまに付いて、日本の歴史上、朝廷から大師号(諡号)を賜った高僧は24人いるが、真言宗の宗祖空海も延喜21年(921年)に「弘法大師」の諡号を賜った。大師の諡号を持つ高僧達の中、「大師は弘法にとられ…」とも言われ、大師といえば弘法大師を指すほど、弘法大師は広く人々の信仰をあつめ、敬慕の念と親しみを込めて「お大師さん」「お大師さま」と尊称されている。
お大師さまは、宝亀5年(774年)6月15日、御父・佐伯直田公(さえきあたいのたぎみ)と御母・玉寄御前(たまよりごぜん)の子として、四国の香川県北部にひろがる讃岐平野の西端、そののどかな田園地帯の一角にある善通寺の地に御誕生になった。幼名を「真魚(まお)」と名付けられ、ご両親の寵愛を受けてお育ちになった。幼い真魚さまは非常に聡明で信仰心の篤いお子様だっだと伝えられている。
現在、善通寺の西院が建つ地は、当時は佐伯家の邸宅があり、その西院御影堂の奥殿が建つ場所は、母君のお部屋があった場所と伝わっており、お大師さま御誕生の聖地として大切にされている。
現在の善通寺近隣には、真魚さまが泥土で仏像と小さな御堂を作って遊ばれた「仙遊ヶ原」や仏法により人々を救済するお誓いを立てて切り立った崖から身を投げられた「捨身ヶ嶽禅定」、幼少の頃の学問所「獅子の岩窟」など、幼少期のお大師さまを今に伝える史跡が幾つもある。
30数年前に、納経帖と軸を持ち3年掛かりで四国八十八ヶ所霊場を巡礼した時以来の善通寺さん参りである。一番目に付く総高45メートルに及ぶ総欅造の大塔、五重塔、善通寺のシンボルである。


今年四国霊場開創1200年各霊場には案内板が掲げてある。


善通寺の案内板・・私がお参りした時には案内図は無かった。


金堂(本堂)で先ずご本堂にお参りをする。善通寺の本堂。創建当時の金堂は、永禄元年(1558)、三好実休の兵火により焼失し、現在の建物は、元禄年間(1688−1704)に再建されたものです。本尊・薬師如来坐像は、像高3メートルにも及ぶ丈六の巨像で、元禄13年(1700)、御室大仏師運長法橋によって造像された。


そして御影堂(大師堂)をお参り。・・そして納経所で御印を受ける。これがお参りの順序である。
画像は、御影堂((大師堂)で、弘法大師が御誕生された佐伯家の邸宅地に建ち、奥殿には大師自作と伝わる本尊・瞬目大師像が秘蔵されています。現在の建物は。天保2年(1831)に建立され、昭和11年に修築されたものです。また、御影堂地下には、約100メートルの「戒壇めぐり」があり、暗闇の中、法号を唱えながら大師と結縁する道場となっています。


善通寺のシンボル、五重塔で、総高45メートルに及ぶ総欅造の大塔で善通寺のシンボルとして、広く人々に親しまれており創建以来、台風や火災により、いくたびかの倒壊・焼失を経したが、そのたびに再建されて来た。現在の塔は、弘化2年(1845)、仁孝天皇の御綸旨により再建が始められ、明治35年(1902)に完成したものである。


境内に大きな楠がある。説明板には、弘法大師誕生の時から植されていたと明記してあるので今年樹齢1240年になる長寿の楠である。


楠には注連縄が締められていた。


楠の説明板。


西院側にある広い駐車場に車を止めてお参りをされる方が殆どである。歩き遍路さんは正面からお参りされる。画像の皆さん橋の欄干から何かを眺めている。


欄干から眺めていたのは、この花を眺めていました。・・これは睡蓮の花ですか?


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