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GHQの指示により撤去され再建立された秋山好古揮毫の石碑・扁額

2017年04月27日 | 伊予松山歴史散策

昨年の5月、長野県安曇野市に発見された秋山好古揮毫石碑、現在52基の石碑が発見され、全て現地に赴き、関りの方達とお会いして、経緯を伺い、秋山兄弟生誕地に「秋山好古揮毫石碑写真展」として展示公開しています。

平成17年5月5日、バカタレ事件がなければ好古揮毫の石碑調査はしていなかったです。

この事に付いては、平成21年7月31日号の週刊朝日、P119に掲載されています。

 さて、今回は、秋山好古が揮毫した石碑と扁額が、昭和20年8月14日、ポツダム宣言を受諾し、同年10月2日、連合国軍最高司令部が設置され、最高司令長官に、マッカーサーが就任、日本の戦後処理が始まった。連合国最高司令部を日本では、GHQと呼称した。

GHQは、色んな改革を行ったが、その中に教育改革が行われ、6・3・3・4の学校制度の導入、教育勅語の廃止、その他多くの改革が行われた。その一つに、教育施設内または、その周辺に軍人が揮毫した石碑・扁額等の撤去指示が発令された。

これから紹介する石碑3基、扁額2面が一度撤去されたが、戦後(昭和27年4月28日、サンフランシスコ講和条約発効、日本の主権が回復)再び元の場所に設置、または、場所を変え移設されたものであります。

先ず初めに、天壌無窮の石碑・・愛媛懸護國神社境内に再建立

この石碑は、松山市立清水小学校が昭和3年に開校され、奇しくも同年、昭和天皇即位の御大典が行われた。この事を記念して、同校の20数名の先生方が醵金をして校庭に建立した。昭和20年11月GHQの命令を受けた松山進駐軍第24師団司令官・トーマスD、ドレーク陸軍大佐から撤去指示が出され石碑は撤去されました。

撤去された石碑は、同校の用具室に保管されていました。平成7年10月、渡部校長の許可を得て愛媛懸護國神社・波(は)爾(に)荘(さかえ)宮司の努力で護國神社境内に再建立されました。石碑が割れているのは、撤去作業時に破損したものです。

秋山好古は当時、北豫中学校長在任中で、清水小学校の直ぐ近くにありました。醵金建立した先生方の名前は石碑裏面に刻印してあったが、風化が激しく殆ど読み取る事が出来ません。

天壌無窮石碑の裏面で、僅かに「奉祝 御大典」の文字が見える。

昭和3年清水小学校開校記念と御大典記念に建立された天壌無窮の石碑。

昭和16年3月、国民学校が公布され教育の目的は、「皇国(こうこく)ノ道ニ則(のっと)りテ初等普通教育ヲ施(ほどこ)し国民ノ基礎的練成ヲ為(な)スヲ以(もつ)テ目的トス」(第一条)とあって、「皇国(こうこく)ノ道」とは「天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼(ふよく)スル道」と意味づけされたと言う。教科書は、知育が軽視され神秘的な儀式教育が重視され国家主義的・軍事的色彩が強く示されていました。

天壤無窮の碑文碑が校庭にある事が進駐軍ににらまれ、司令長官命令で石碑が撤去された。陸軍大将と天壌無窮が重なってのことであったのでしょう。

次は、忠魂碑・・宇和島市吉田町河内、安楽寺再建立

 安楽寺に再建立された「忠魂碑」

  旧、愛媛県北宇和郡喜佐方村立喜佐方小学校(現、宇和島市立喜佐方小学校)に建立されていた石碑。

 日清・日露戦争で名誉な戦死をされた方々の忠魂碑です。昭和20年11月、GHQの命令で石碑が撤去されることになりました。安楽寺・奥山住職は、身の危険もかえりみず「私が罪を被るから、我が寺に引き取り保存する」と断言されそれ以来、安楽寺がこの石碑を守り現在に至っています。

 安楽寺は、吉田町出身で山下汽船(現・商船三井の創業者・山下亀三郎の本家とは、親戚同様の交際があるようです。

 山下亀三郎は、秋山眞之が「日本は中国との貿易を活発にしなければならない」と話すのを聞いて汽船会社を創業し、大成功しました。

 眞之は、小田原にいた山形有朋を訪ねるために、亀三郎の小田原の別荘に滞在していましたが、そこで持病の盲腸炎が悪化して腹膜炎を併発し、大正7年2月4日、亀三郎らに見守られながら49歳で逝去しました。

 その時に読んだ句が不生不滅明けて鴉の三羽かな」三羽とは、正岡子規と清水則遠、と秋山眞之の事で、この三人は、松山中学時代の同級生、末は博士か大臣かと大きな志を抱き東京大学を目指し上京した友人を指しています。三人とも若くして逝去し、眞之は鎌倉霊園に眠っています。

  安楽寺の奥様に聞きました。・・「好古にこの忠魂碑の揮毫依頼をしたのは、亀三郎さんですか」と、安楽寺奥山住職の奥様曰く、「そうでしょうね」と答え、さらに「現代の人々は、この時代のことなど関心がなくなりました。

 NHKで坂の上の雲が放映されるので、時代を振り返り、良いものはどしどし取り入れて立派な国づくりの一助になればいいですね」と述べられました。

昭和48年5月27日、喜佐方公民館傍に、日清・日露・大東亜戦争で戦死された英霊を祭る忠霊塔が建立され、関係者の一人が、安楽寺住職に、忠魂碑はもういらないのではないかと言葉を漏らすと、奥山住職は激怒されたそうです。忠霊塔と、この忠魂碑は訳が違うのだ、貴方は忠魂碑の意味が分かってないと言われたそうです。

奥山住職が再建立され大切に守られています。「忠魂碑」

次も、忠魂碑・・愛媛県西予市城川町高野子、高野井公園

 この忠魂碑の移設再建立の経緯の詳細は不明であるが、移転は、GHQの指示により撤去し、再建立したのではないかと思われます。 建立してあった場所は、学校ではなく、社会教育施設、集会所にあったのを敢えて撤去し、公園に再建立したものと推察されます。

 軍人が揮毫し建立された石碑は、全国に沢山有ったはずですが、GHQの指示により撤去され廃棄され消えていった石碑は数多くあった事でしょう。勇気を持って再建立し保存した関係者は凄い方々です。石碑がなくなると、当時の事は忘れられてしまうのが世の常、形があればその思いは語り継がれて行きます。

撤去前の忠魂碑。

この所、復興担当大臣の不適切な言葉で話題になっているますが、東北大震災の事すら忘れられてしまいそうですが、明治時代の事等眼中にない時代、!! 降る雪や明治は遠くなりにけり・・この心境です。

次は、扁額であります。

質実剛健、秋山兄弟生誕地、秋山兄弟武道場に掲示。

 大正14年、昭宮成子親王御誕生記念にと、愛媛県立松山農学校(後の、愛媛大学農学部付属農業高等学校・現、愛媛大学付属高等学校)から揮毫依頼を受け秋山好古が揮毫した質実剛健の扁額。

この扁額は、職員室に掲示されていたが、昭和20年11月、GHQの命令で扁額は撤去されることになった。

撤去された扁額は、額から外され箱に入れられ保管していましたが、平成17年10月、私の知人である愛媛大学農学部付属高等学校の久山副校長先生から、秋山兄弟生誕地に寄贈しますが如何されますかと連絡があり、寄託の形で譲り受け、新たに額を新調し、現在、秋山兄弟武道場に掲示し来館者に閲覧してもらっています。

質実剛健は、絹の布地に揮毫されている。和紙でなく布地に揮毫するのは大変であったと思われます。

次も扁額であります。

研精而不倦・・けんせいにしてうまず(心身ともに磨き、怠けず、精進努力をする)

 途中でやめることなく、何処までも勉強し尽くす・・の意味の扁額で、愛媛県立伊予農業高等学校の職員室に掲示してあります。 この扁額も、昭和20年11月、GHQの命令で扁額は撤去されることになりました。

平成25年3月20日、愛媛県立伊予農業高校の日山先生から、秋山兄弟生誕地経由で、私に連絡がありました。大洲市長浜の三島神社に秋山好古さん揮毫の石碑がありますがご存知ですかと、日山先生も個人的にいろいろな石碑の調査をされているようでした。私としては、未調査の石碑であったので同年4月4日、現地に行き、その後、伊予農業高等学校にお礼に行くと、職員室に秋山好古揮毫の扁額が掲示してありました。

 岩村校長先生(現、松山商業高等学校長)曰く、どの様な経緯で秋山好古さんに揮毫を依頼したのかは不明ですが、GHQの命令で撤去され、当時の校長先生が、自宅に持ち帰り保管され、戦後、もとあった学校に掲示し現在に至っていますと伺いました。

 いろんな方々が廃棄するのでなく、その時の関係者が心を籠めて、建立し、掲示され大切に保存されていたものを、それを引き継ぎ、現在も存続されているこの気持ちが大切であり、これぞ日本人魂であると感じ入るものです。

 終戦後、日本を占領下にしたGHQの一番の目的は、「日本人から愛国心を奪い、日本人の精神を弱体化させる事」 が重要な使命、任務で、よくGHQの洗脳政策とも言われました。

 

 

現在も愛媛県立伊予農業高校の職員室に掲示してある扁額。

 3基の石碑と、2面の扁額の現在を見て頂きました。撤去されたが、関係者の強い意志で再び建立された石碑・扁額、撤去され廃棄され、再び日の目を見なかった方が多いのではないかと私は思います。

高が石碑・扁額、然れども石碑・扁額であり、これからも秋山好古揮毫石碑の調査は継続して行く所存です。

秋山好古揮毫石碑の原点は、120年前に好古自身が建立した東京都世田谷区池尻の石碑です。これは、日清戦争で秋山騎兵連隊長所属の15名の隊員が戦死された。その隊員の哀悼の意を籠めて好古が建立した石碑であります。

 

 

 

 

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