湯築城の関係は、天正13年(1585)豊臣秀吉の四国征伐の命を受けて小早川隆景は湯築城を攻め落とし、河野通直他一族たちは伊予を追われた。林淡路守道起は、現在の山口県熊毛郡に移り、伊藤家に入った。その11代目の嗣子が明治の元勲、初代総理大臣伊藤博文である。
小早川隆景は湯築城主となるが天正15年(1587)豊臣秀吉から知行替えを命じられ伊予を去り、その後秀吉の直臣である福島正則が伊予に入部する。
正則はすぐに府中の国分山城に支配拠点を移す。この時南北期以来一貫して伊予一国の中心であった湯築城は廃城とされた。湯築城主河野通直は、親戚関係に当たる毛利氏を頼って安芸の竹原に移り住み病死した。々一族の林淡路守道起は、現在の山口県熊毛郡に移り住む。そして中世の社会は終焉し近世の時代と移り、やはり秀吉の直臣である加藤嘉明は文禄の役の戦功により正木(松前)城主となり、慶長5年(1600)関ケ原の合戦の功により20万石に加増され松山城を建設し政治経済の地は松山城に移り現在の松山市の発展の基礎となった。
この淡路ヶ峠、273mからは湯築城跡と松山城が眼下に良く見える。そして今や松山市の人口は51万6千人四国一の人口を抱える都市として発展した。眼下に見える住宅街は、江戸時代は20万石の藩主を支えた穀倉地帯であった。こんな事を考えながら淡路ヶ峠展望デッキから風景を眺めた。
一昨日(10月22日)順光で写真を撮るため午前8時に登って来た。コースは、ゆったりマドンナコース700m(駐車場)を歩いた。松山はこの所夏日に近い気温で、大気の水蒸気が多くこの日も少し霞んでいた。画像は展望デッキ。
展望デッキには、眼下に見える松山市の主な所在が描かれ掲示してある。
主な地名を画像に記載してみた。
画像中心を左右に緑が見えるのが松山城の外堀の役目を果たした石手川。
松山市は、現在515、932人。(平成27年9月1日)
慶長8年10月、加藤嘉明は、松前城から居を新城に移し、その時この地を松山と称すとして松山が誕生。その後明治22年12月15日、松山市政施行愛媛県初の市が誕生。当時の町数は、100町、戸数は7,519戸、人口は32,916人であった。
松山市南部と、伊予郡砥部町、松前町、伊予市を遠望。
松山市東北部で右側に旧松山藩主、久松家の屋敷跡がある。現在の当主は、第19代である。
伊予松山藩は、初代加藤嘉明、2代目蒲生忠知(がもうただちか)3代目松平定行で明治以後本姓の久松に復姓する。
小早川隆景は湯築城主となるが天正15年(1587)豊臣秀吉から知行替えを命じられ伊予を去り、その後秀吉の直臣である福島正則が伊予に入部する。
正則はすぐに府中の国分山城に支配拠点を移す。この時南北期以来一貫して伊予一国の中心であった湯築城は廃城とされた。湯築城主河野通直は、親戚関係に当たる毛利氏を頼って安芸の竹原に移り住み病死した。々一族の林淡路守道起は、現在の山口県熊毛郡に移り住む。そして中世の社会は終焉し近世の時代と移り、やはり秀吉の直臣である加藤嘉明は文禄の役の戦功により正木(松前)城主となり、慶長5年(1600)関ケ原の合戦の功により20万石に加増され松山城を建設し政治経済の地は松山城に移り現在の松山市の発展の基礎となった。
この淡路ヶ峠、273mからは湯築城跡と松山城が眼下に良く見える。そして今や松山市の人口は51万6千人四国一の人口を抱える都市として発展した。眼下に見える住宅街は、江戸時代は20万石の藩主を支えた穀倉地帯であった。こんな事を考えながら淡路ヶ峠展望デッキから風景を眺めた。
一昨日(10月22日)順光で写真を撮るため午前8時に登って来た。コースは、ゆったりマドンナコース700m(駐車場)を歩いた。松山はこの所夏日に近い気温で、大気の水蒸気が多くこの日も少し霞んでいた。画像は展望デッキ。
展望デッキには、眼下に見える松山市の主な所在が描かれ掲示してある。
主な地名を画像に記載してみた。
画像中心を左右に緑が見えるのが松山城の外堀の役目を果たした石手川。
松山市は、現在515、932人。(平成27年9月1日)
慶長8年10月、加藤嘉明は、松前城から居を新城に移し、その時この地を松山と称すとして松山が誕生。その後明治22年12月15日、松山市政施行愛媛県初の市が誕生。当時の町数は、100町、戸数は7,519戸、人口は32,916人であった。
松山市南部と、伊予郡砥部町、松前町、伊予市を遠望。
松山市東北部で右側に旧松山藩主、久松家の屋敷跡がある。現在の当主は、第19代である。
伊予松山藩は、初代加藤嘉明、2代目蒲生忠知(がもうただちか)3代目松平定行で明治以後本姓の久松に復姓する。