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淡路ヶ峠に18年振りに登った

2015年10月23日 | 伊予松山歴史散策
松山市桑原地区の東に、地区のシンボルとして小高い山、淡路が峠がある。桑原小学校の校歌にも「淡路が峠に朝日が映え、石手の川に夕日浮く」・・と歌われている。高さは、松山城の約2倍、273mで平成9年の春、山の頂に展望台が設置され素晴らしい景観を眺める事が出来る。平成10年2月淡路ヶ峠遊歩道整備協議会が結成され、遊歩道3コースが整備された。
一昨日、18年振りに登って来ました。近年遊歩道3コースが整備されたが私が登った時は整備されてないガタガタ道でした。
コース1、ゆったりマドンナコース700m(駐車場) コース2、ガンバル赤シャツコース880m(砂防ダム) コース3、青い空坊っちゃんコース1000m(桑原中学)所要時間は、30分から40分で、多くの人はガンバル赤シャツコース880mから登る。コース4、繁多寺コースがあるが、此処は登ったことがないのでまたの機会に紹介します。
3コースは、地元の淡路ヶ峠遊歩道整備協議会の一人が奉仕活動で毎日整備されており遊歩道が綺麗に保たれている。
淡路が峠は、400年前の天正年間(1573~1597)道後湯築城、河野通直の砦があり、道直の家臣、林淡路守道起が守っていた所で、地元民たちは淡路が峠と呼ぶようになった。天正13年(1585)豊臣秀吉の四国征伐の命を受けて小早川隆景は湯築城を攻め落とし、河野通直他家臣たちは伊予を追われた。林淡路守道起は、長州熊毛郡に移り、伊藤家に入った。その11代目の嗣子が明治の元勲、初代総理大臣伊藤博文である。博文公が朝鮮総督府統監の時代に伊予道後に来られ、来年再び来て祖先の供養をしたいと言われ明治43年(1910)10月、ハルピン駅で暗殺され、その計画は果たせなかった。
淡路が峠の「峠」は、普通「とうげ」と読むが「げ」を省略して「とう」と言う。東雲大学の北西の小高い所は昔から原の峠と書き「はらのとう」と言っておりその事と相まって「あわじがとう、と呼び記載は、淡路が峠・淡路ヶ峠」と表記されている。
では、3コースを画像で紹介します。松山一の眺望の良い所です。


桑原中学前を北上すると右手に池があり三叉路になるそこに画像の表示板があるのでそれに沿って山に入る。


400m程入ると画像の看板がある。砂防ダムの前にバイクを止めて徒歩開始。


登山口に「ガンバる赤シャツコース、展望台へ880mと掲示してある。


バイクを置いていざ登山開始、18年前にはこの道は無かった。


暫く歩くと分岐点に出る。青い空坊っちゃんコース1000m(桑原中学)からのコースと。ここから展望台まで600m。


登山道途中に峠まで300mと掲示板が標記されている。


峠まで200mと掲示板が標記されている。この地点はなだらかな道であるが、所々急な坂道がある。


峠まで100mと掲示板が標記されている。


峠まで20mと掲示板が標記されているのを見るとやったーの気持ち。


約30分で到着。18年振りの山頂、標高273m展望デッキはこげ茶色で塗装されていた。18年前は後ろの東屋は無かった。ベンチも。


展望デッキからの素晴らしい松山の眺望は、明日に掲載します。
午後は逆光でこの日は台風の影響か大気の水蒸気が多く霞んでいた。


山頂にある「淡路ヶ峠」の説明板とコース表示板。


山頂にある「淡路ヶ峠」の説明板。


暫くすると二人の「淡路ヶ峠」愛好者の方が上がって来られ暫し談話をした。
このお二人は毎日登っているとの由。


この日は画像の様に霞が掛かって眺望悪し。


毎日来ているお二人、一方は、青い空坊っちゃんコース1000m(桑原中学)コースに下り、もう一方は、ガンバル赤シャツコース880mに下った。私もガンバル赤シャツコースに下った・・バイクを置いているので。翌日の朝8時過ぎにゆったりマドンナコース700mから登ったので眺望を見て下さい。

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