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紀行&散策を画像を交えた紹介です

日本100名城紀行 川越城

2011年09月02日 | 伊予松山歴史散策
日本100名城紀行 川越城
 
8月28日(日)アマチュア無線の祭典:2011年ハムフェアーを見学して仙波氏の発祥の地である埼玉県川越市に行ってきた。
10年前に仙波のルーツを調査に行ったが、今回は川越城跡散策と、喜多院、仙波東照宮等々散策が目的の旅であった。

川越城は、武蔵野台地の北東端に位置する平山城で、嘉永元年(1848年)に建られた本丸御殿の一部が現存する(埼玉県有形文化財)。二の丸跡は川越市立博物館・川越市立美術館となっていて、三の丸跡地である埼玉県立川越高等学校の近くに小高い富士見櫓跡があり御嶽神社と浅間神社が建っている。川越城には天守閣はなく、宇都宮城・清明台櫓と同様に城の中で一番高い所にあった富士見櫓が天守閣の代わりをしていた。富士見櫓は三層と考えられていて、埼玉県指定史跡。中世から近世にかけて改築がなされ規模を大きく変えた。藩政時代には、酒井忠勝・松平信綱(知恵伊豆)や柳沢吉保など幕府の要職についた歴代藩主が多く(幕閣の老中数7名は全国でも最多の藩)、特に江戸時代中期までは「老中の居城」であった(中期以降は親藩)。・・と資料を頂いた中に記述されている。

川越城は、日本100名城第19番目の指定で、私は73番目の紀行である。
次は、第14番水戸城に行く。


川越城本丸御殿前にある石碑。


本丸御殿は、嘉永元年(1848年)、松平斉典の17万石時代に建てられた入母屋造りで、豪壮な大唐破風と霧除けのついた間口19間・奥行5間の大玄関・車寄せをもつ。36畳の大広間は、板間で玄関と区切られ、さおべり天井で奥行3間の座敷には9尺の廊下が四方を囲っている。建坪は165坪である。
東日本唯一現存する本丸御殿。


巨大な唐破風屋根に間口3間の広い玄関を持つ本丸御殿。


喜多院は江戸幕府の直営社であった。


仙波東照宮 (日本三大東照宮の一つ)
江戸時代に仙波御宮と称された当社は、元和三年、天海によって喜多院(川越市小仙波町)の境内に勧請された東照宮である。


久能山から日光山に改葬される際の元和3年(1617年)に、天台宗の僧侶・天海によって喜多院で行われ、後水尾天皇から東照大権現の勅額が下賜され、同年にその地に天海によって創建された。


仙波東照宮 本殿正面にある奉納された灯籠、奉納者・松平吉保(柳沢吉保)が元禄15年12月16日と揮毫されている。
赤穂旧藩士47名が本所・吉良邸への討ち入りしたのが元禄15年12月14日何か因縁があるのか??
柳沢 吉保 ( やなぎさわ よしやす )
第5代将軍綱吉の側近。綱吉が将軍就任以前の上野国館林藩主の頃から綱吉に仕えた。 綱吉が将軍となって幕臣となってからは、数度の加増と昇進で、 500石余りから15万石を超える大名に異例の出世を遂げた。 元禄時代の幕政を主導し松平姓と綱吉の一字を賜り、松平吉保と改名する。
川越藩主としての評判もよく、実直な人柄だったという。


時鳴鐘
現在も残る「時鳴鐘」は、酒井忠勝の創建した遺構。


川越には「蔵造りの町並み」が今も残っていて、蔵造りは類焼を防ぐための巧妙な耐火建築で、江戸の町家形式として発達したも、今の東京では見ることのできない江戸の面影をとどめている。
平成11年12月には国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定され、平成19年1月には「美しい日本の歴史的風土100選」に選定されている。


仙波の地名が残る「小仙波貝塚跡」の記念石碑。(川越市教育委員会指定)

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