EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

日本名城紀行 江戸城

2010年12月24日 | 往年の名車 メグロ
日本名城紀行 江戸城

応仁の乱が起こり、戦国時代に入り世は下克上時代、これを平和な世にしようと信長、秀吉が奮起した。
天正18年(1590)、小田原の役において秀吉が関東を支配していた北条氏を滅ぼした後、家康に関東への領地替えを命じた(関東移封)。家康は長年の根拠地を失ったものの、最大の領地を得ることとなり、豊臣政権の下で五大老の筆頭となった。
家康は、関東でいずれ来るであろう家康時代の基盤を創って焦らずその時を待った。

秀吉没後の慶長5年(1600)、家康は関ヶ原の戦いにおいて勝利し、その覇権を決定づけ慶長8年(1603)には、家康は後陽成天皇から征夷大将軍に任命され、武蔵国江戸(現・東京都千代田区)の江戸城に幕府(江戸幕府、徳川幕府)を開いて、鎌倉、室町時代以来の長期政権の基盤を確立させた。

慶長10年(1605年)に三男・徳川秀忠へ征夷大将軍職を譲り、駿河国駿府(現・静岡県静岡市葵区)の駿府城に隠居した後も、「大御所」として政治・軍事に大きな影響力を保持した。慶長19年(1614年)から慶長20年(1615年)にかけて行った大坂の役(大坂冬の陣、大坂夏の陣)においても、終始指揮を主導して豊臣氏を滅ぼし、幕府の統治体制を盤石なものとした。
江戸城は徳川家の居城、江戸幕府の開幕後は幕府の政庁となり、天下普請の度重なる大拡張工事が行われ、最後に万治3年(1660)に神田川御茶ノ水の拡幅工事が行なわれ、一連の天下普請は終了する。

明治維新後の東京宮城(きゅうじょう)・皇居となった。以後は吹上庭園が御所、旧江戸城西ノ丸が宮殿の敷地となっている。その東側にある旧江戸城の中心部である本丸・二ノ丸と三ノ丸の跡は皇居東御苑として開放されている。南側の皇居外苑と北側の北の丸公園は常時開放され、それらの外側は一般に利用できる土地になっている。
なお、江戸時代最大の規模であった天守は、明暦3年(1657) 明暦の大火により天守は焼失。町の復興を優先し、また経済的な理由から天守は再建されなかった。
江戸城 概要

通  称:千代田城
城郭構造:輪郭式平山城
天守構造:連立式層塔型5層5階地下1階(1606年築)
     独立式層塔型5層5階地下1階(1621年再)
     独立式層塔型5層5階地下1階(1635年再)
     (いずれも非現存)連結式層塔型、大天守は5層5階地下1階
築城主 :太田道灌
改修者 :徳川家康・秀忠・家光・宮内省・宮内庁
城 主 :太田氏・後北条氏・徳川将軍家・天皇家 
築城年 :長禄元年(1457)

昭和31年(1956)3月26日 外堀跡が「江戸城外堀跡」として国の史跡に指定、昭和35年(1960)5月20日「江戸城跡」として国の特別史跡に指定された。
現在、桜田門、田安門、清水門(以上は、国の重要文化財に指定されている)が遺構として現存している

江戸城(現、皇居東御苑)は幾度となく訪れているが、平成17年1月17日カメラ3台持参で午前10時に大手門から午後3時40分まで散策した。途中清水門散策時に12時を迎え昼食をしようと思い探すも食堂がなく、千鳥ヶ渕交差点近くの(パラグアイ大使館近く)のレストランでカレーを食べた。(外国人がよく来るのか大盛りであった)

江戸城大手門


江戸時代最大の天守があった江戸城の天守台
現在見る天守石垣は第8代将軍吉宗が瀬戸内の花崗岩で積み替えたもの、正面黒っぽい石は伊豆石で、家光時代の石垣


巨石で築いた天守台で上部黒く見える石は、大奥が炎上した安政の大火で焼けたもの。


天守台から見た本丸・大奥・中奥・一番奥が、表御殿


松の廊下跡、元禄14年3月14日(1701)江戸城本丸大廊下(通称松の廊下)にて、浅野内匠頭が吉良義央を脇差でもって刃傷に及んだ場所。


平河門枡形、渡り櫓門の奥に高麗形式の、不浄門がある。


不浄門
平河門枡形内に出入りとは逆方向の濠水に接するように開く高麗門がある。城内で起こった犯罪人、死者等不浄なものを城内より水上輸送するための不浄門で、全国で唯一存在する。松の廊下で吉良に刃傷に及んだ浅野内匠頭名長矩はこの門から出された。


清水門:徳川御三卿(第8代将軍徳川吉宗が次男・宗武、三男・宗尹を取り立てて別家させたのが御三卿の起こりで、田安家・一橋家・清水家である。さらに、吉宗の長男である第9代将軍徳川家重が、自身の次男・重好を別家させることで、三家の体制が確立した。家格は徳川御三家に次ぐ)の一つ清水家の門


徳川御三卿の一つ田安家の門で、旧屋敷跡が現在の武道館 


乾門:皇室の通用門
この門は明治になってから建てられた京風の門で、御所がある旧西の丸の裏門にあたり、皇居の乾(いぬい)の方角にあるので、 この名がついたそうで、皇居の北西にある門、坂下門の反対側にあたる


千鳥ケ淵戦没者墓苑(ちどりがふちせんぼつしゃぼえん)
東京都千代田区三番町にある「無名戦没者の墓」である。第二次世界大戦の折に海外で死亡した日本の軍人・一般人のうち、身元が不明の遺骨を安置するため、昭和34年(1959)につくられた。「千鳥ヶ淵」とも表記される。


半蔵門:この門は、江戸時代には吹上御庭と呼ばれ、隠居した先代将軍や、将軍継嗣などの住居とされた。現在は吹上(フキアゲ)御苑と呼ばれ、御所(今上天皇の住居)、吹上大宮御所(かつての香淳皇后の住居)、宮中三殿、生物学御研究所、天皇が田植えをする水田などがある。天皇や各皇族の皇居への日常の出入りには、主にこの門が用いられている。一般人の通行は認められていない。太平洋戦争で旧来の門は焼失し、現在の門は和田倉門の高麗門を移築したもので警護が特に厳しく写真撮影する時も警察官から注意される。


半蔵門入口側から見た警視庁


警視庁側から見た桜田門


桜田門から見た警視庁


皇居:二重橋(正門鉄門)、石橋の奥にあり、伏見櫓の下にある


皇居:皇居正門、石橋(正門石橋)


江戸城の石垣に使用されている標準的な石










 











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