松山市城東地区歴史散策 5 宝厳寺と一遍上人
宝厳寺は、道後湯月町(もと松ヶ枝町遊郭の奥)にある古刹で、寺伝には天智天皇の4年(665年)国司乎智宿弥守興が天皇の詔によりて建立、のち伏見天皇正応5年(1292年)再建され天台宗を時宗に改めた。
時宗の開祖一遍上人誕生の地として名高い。
一遍上人は、伊予の豪族河野氏の出で河野七郎通広の第2子として宝厳寺で生まれ、幼名を松寿丸といった。10歳で母を失いすぐ仏門に入り、隋縁と称し、大宰府の聖達上人の下で修行し智眞と改名、のち紀州熊野権現に参籠してこれより一遍と名乗り南無阿弥陀仏を唱名しながら全国を遊行し踊念仏を行い51歳、兵庫県で生涯を閉じた。世に遊行上人と尊称された。
宝厳寺には一遍上人の木像があり室町期の作で重要文化財指定、寺境も県指定の史跡である。
明治28年子規は漱石と、松ヶ枝町遊郭を歩き宝厳寺に散策に来た時次の句を残している。
古塚や恋のさめたる柳散る
色里や十歩はなれて秋の風
なお、時宗の総本山は神奈川県藤沢市の遊行寺で寺紋は伊予の守護河野氏の出であるため河野家と同じ紋「角切折敷に三文字」である。
画像は、時宗の開祖、一遍上人誕生の地「宝厳寺、山門」
宝厳寺は、道後湯月町(もと松ヶ枝町遊郭の奥)にある古刹で、寺伝には天智天皇の4年(665年)国司乎智宿弥守興が天皇の詔によりて建立、のち伏見天皇正応5年(1292年)再建され天台宗を時宗に改めた。
時宗の開祖一遍上人誕生の地として名高い。
一遍上人は、伊予の豪族河野氏の出で河野七郎通広の第2子として宝厳寺で生まれ、幼名を松寿丸といった。10歳で母を失いすぐ仏門に入り、隋縁と称し、大宰府の聖達上人の下で修行し智眞と改名、のち紀州熊野権現に参籠してこれより一遍と名乗り南無阿弥陀仏を唱名しながら全国を遊行し踊念仏を行い51歳、兵庫県で生涯を閉じた。世に遊行上人と尊称された。
宝厳寺には一遍上人の木像があり室町期の作で重要文化財指定、寺境も県指定の史跡である。
明治28年子規は漱石と、松ヶ枝町遊郭を歩き宝厳寺に散策に来た時次の句を残している。
古塚や恋のさめたる柳散る
色里や十歩はなれて秋の風
なお、時宗の総本山は神奈川県藤沢市の遊行寺で寺紋は伊予の守護河野氏の出であるため河野家と同じ紋「角切折敷に三文字」である。
画像は、時宗の開祖、一遍上人誕生の地「宝厳寺、山門」