EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

松山市城東地区歴史散策 11 文珠院にある石像

2010年07月23日 | 往年の名車 メグロ
松山市城東地区歴史散策 11 文珠院にある石像

画像は、松山市荏原町、衛門三郎邸宅跡にある文珠院境内にある石像。
左の大きな立像が弘法大師、右の小さな坐像が衛門三郎夫妻である。
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松山市城東地区歴史散策 10 文珠院 説明版

2010年07月23日 | 往年の名車 メグロ
松山市城東地区歴史散策 10 文珠院 説明版

画像は、松山市荏原町、衛門三郎邸宅跡にある文珠院境内にある説明版。
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松山市城東地区歴史散策 9 八つ塚

2010年07月23日 | 往年の名車 メグロ
松山市城東地区歴史散策 9 八つ塚

伊予の国浮穴郡荏原の郷(現 松山市荏原町)四国霊場48番札所八坂寺の北方向に文殊院という番外札所がある。
石手寺で書いた伝説、衛門三郎の邸宅跡である。ここから西に200mゆくと三郎の八人の子供を祀る「八つ塚」がある。

塚の頂に小祠が置かれ石地像が安置してある。
衛門三郎の戒名は「光明院四行蓮大居士」で天長8年(831年)12番焼山寺で死亡したという。そして三郎が生まれ変わってこの世に出たのが、石手寺で書いた文保2年(1318年)らしく長い間眠っていたと見える。

画像は、衛門三郎の子供を祀る塚といわれており、画像のような塚が点々と八つある。 松山市指定の史跡である。
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松山市城東地区歴史散策 8 石手寺

2010年07月23日 | 往年の名車 メグロ
松山市城東地区歴史散策 8 石手寺

石手寺(いしてじ)は、道後温泉の東1kmにあり、四国霊場51番札所で、真言宗豊山派の寺院、本尊は薬師如来である。

寺伝によれば、神亀5年(728年)に伊予国の太守、越智玉純(おちのたまずみ)が夢によってこの地を霊地と悟り熊野十二社権現を祀った。これは聖武天皇の勅願所となり、天平元年(729年)に行基が薬師如来刻んで本尊として安置して開基したという。

創建当時の寺名は安養寺、宗派は法相宗であったが、弘仁4年(813年)に空海(弘法大師)が訪れ、真言宗に改めたとある。寛平4年(892年)河野氏に生まれた子どもが石を握っていという衛門三郎再来の伝説によって石手寺と改められた。

衛門三郎のこと

遠い千年もの昔、伊予の国浮穴郡荏原の郷に強欲な長者がいた。うだるような夏のある日、弘法大師がこの男の邸に托鉢に来た。快よい昼寝の夢をやぶられた三郎は立腹「乞食坊主、うるさい立ち去れ」大師は目を閉じたまま読経を続けた。「去れというにわからぬのか」三郎は杖をひったくり手の鉢をはっしと打った。

鉢は八つに割れて飛び散る。「誠に非道な男である、心を改めぬと何か不幸が起こるであろう」大師は静かに去った。そのご三郎の八人の子が次々と変死していく、三郎ははじめて己の罪を悟り弘法大師の姿を求め四国巡礼の旅に出た。「ひと目あの僧にあって懺悔したい、このままでは死にきれない・・・」こう言いつづけ20何回目かの巡礼で12番焼山寺へたどりついた。

余命もないとき忽然と大師があらわれ「お前の罪は許された、河野一族の子に生まれ変わるであろう・・・南無阿弥陀仏・・・」三郎は「衛門三郎再来」と書いた小石と経文一巻を手に大師を伏し拝みつつ世を去った。天長8年(831年)の出来事であった。そのご伊予の湯築城主河野家に子供が出来たが手を開かぬ。

安養寺に祈願したところ手を開き、この石が出た。石を寺に奉納し寺号を安養寺から石手寺と改めたという。
衛門三郎が行った四国巡礼が現在の四国88ヶ所巡りの元祖である。

この伝説の裏づけ:本堂前の春日燈籠の台座に嘉元4年(1306年)安養寺と鋳造したものがある。毎年8月20日は永代施餓鬼が行われ善男女でにぎあう。
以上松山市教育委員会発行「伊予路の文化」引用


石手寺の建物
国宝仁王門をはじめ、重要文化財の五重塔、県・市指定の文化財が沢山現存し、四国霊場でも随一の寺宝・文化財を有する名刹と言われる。

画像は、四国霊場51番札所、石手寺国宝仁王門で、伊予の守護河野通継が文保2年(1318)年に建立したとの記事が見られる。


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