EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

松山市城東地区歴史散策 7-1 赤穂の「櫨・はぜの木」

2010年07月22日 | 往年の名車 メグロ
松山市城東地区歴史散策 7-1 赤穂の「櫨・はぜの木」

画像は、赤穂市尾崎にある赤穂八幡宮境内にある、大石内蔵助良雄お手植の櫨の木(中村宮司の許可を得て平成21年5月11日撮影)
内蔵助が赤穂を去るときに植えたものか、時期は不明。
中村宮司も伊予松山に櫨の木を感謝の意を籠めて記念に贈った事が分かり次第連絡しますと言って頂いたが、そのご連絡が無い・・資料としてまた文献として不明なのか??である。
註:赤穂の特産といえば「塩」であるが櫨と赤穂の関係が知りたいのである。
櫨も赤穂の特産なのか??であれば和蝋燭が生産されているはずだが、赤穂の和蝋燭など聞いた事がない。
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松山市城東地区歴史散策 7 赤穂から贈られた「はぜの木」

2010年07月22日 | 往年の名車 メグロ
松山市城東地区歴史散策 7 赤穂から贈られた「はぜの木」

元禄14年(1701)3月14日、江戸城本丸・松の廊下において、赤穂藩主である浅野内匠頭長矩が、吉良上野介義央に起こした刃傷事件により、即日切腹のうえ領地没収という厳罰に処せられた。赤穂藩家老の大石内蔵助良雄は、翌年7月28日、京都円山に集まった19人の浪士とともに、吉良邸への討ち入りを決意。同士を集めて密かに準備を始めた。

元禄15年12月14日、赤穂藩士大石良雄以下47人が吉良上野介義央の屋敷に討ち入り仇を果たした。
元禄16年2月4日、伊予松山藩預かりの赤穂浪士10名は三田の松山藩中屋敷藩邸(現 イタリア大使館)において幕命により切腹した。

10士の名前は

大石主税良金   16歳
堀部安平武庸   34歳
中村勘助正辰   48歳
不破数右衛門正種 34歳
千馬三郎兵衛光忠 51歳
木村岡右衛門貞行 46歳
岡野金右衛門包秀 24歳
菅谷半之丞政利  44歳
貝賀弥左衛門友信 55歳
大高源五忠雄   32歳
この時伊予松山藩主、松平隠岐の守定直は義士たちを武人の鏡として丁重にあつかった。後にこの事を知った播州赤穂の人たちは赤穂の特産である櫨(ハゼ)の木を感謝の記念として松山に送り届けてきた。

松山藩ではこれを石手川の堤防と湯築城跡の外堀に植えた。
春は鮮やかな新緑で、秋は辰砂色の紅葉で松山の四季を彩り赤穂義士の快挙への思いの様子が伺える。今は残るのは画像の木のみとなった。
ちなみに、菅谷半之丞政利は、伊予郡松前町の生まれであり、杉野十平次は松山市興居島の人であり、中村勘助正辰の娘「るり」は大洲新谷に嫁いで来た。

そして、大高源吾と木村岡衛門の介錯をした宮原久太夫は、松山に帰った後、自家の菩提寺である興聖寺に供養のため大高・木村両士の墓を建立した。
終戦までは浪士の討ち入り当日赤穂義士供養が行なわれていたが戦後中断していたのであるが昭和39年から復活され、最近は義士祭として盛大に行われている。
大高源吾は、子葉と号し辞世の句「梅でのむ茶屋もあるべし死出の山」は句碑となっている。
子規は、鶯や主税今年年十七  の句を詠んでいる。

なお、興聖寺は伊予松山藩第2期藩主、蒲生忠知の菩提寺として由緒ある寺である。
昨年5月11日赤穂城紀行に行く前に赤穂市観光協会に松山に贈られて来た櫨の木の由来を照会しているが未だ連絡が無い。

「平成21年4月22日赤穂市観光協会に照会しているが回答がいまだ来ていない。」

赤穂城跡見学の後、大石神社に伺いこの事を伺うも判明できず社務所の職員さんから赤穂八幡神社に大石内蔵助良雄のお手植えの櫨が保存されているから宮司に聞いてくださいと朗報をえたので伺った。熊本に贈った事は聞いて居るが、伊予松山に贈ったというのは今日始めて聞きましたと言った。

画像は、播州赤穂から贈られて来た「櫨・ハゼ」の木で、場所は湯築城跡外堀の南側に保存されていて、管理は地元の道後水利組合が行っている。




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松山市城東地区歴史散策 6-1 湯築城跡 の模型

2010年07月22日 | 往年の名車 メグロ
松山市城東地区歴史散策 6-1 湯築城跡 の模型

画像は、湯築城跡資料館に設置してある湯築城の模型である。
戦後、道後動物園が作られていたが移転に伴い、愛媛県が計画した日本庭園整備のため昭和63年に発掘調査をしたところ湯築城跡の遺構・遺物が極めて良好な状態で残っていたので、その保存を求める県民の強い要望もあり、日本庭園計画を中止し文化財を生かした公園として整備し平成14年4月12日に開園した。

 動物園のあった場所の発掘調査の結果を基に、武家屋敷や土塀を復元し、一般公開している。
広さは、外堀を含む・南北350m・東西295m・面積8,6ha、8町6反 東京ドーム1,7倍の広さで、丘陵の高さ約31m、発掘調査されて史跡公園として開園された面積は、2、9ha、平成14年9月20日国指定の史跡公園に指定を受けた。

日本100名城第80番目に指定されている。
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松山市城東地区歴史散策 6 湯築城跡

2010年07月22日 | 往年の名車 メグロ
松山市城東地区歴史散策 6 湯築城跡

ここ湯築城は、14世紀前半から16世紀後半:「南北朝時代~安土桃山時代」にかけて、約250年間に渡り伊予の守護であった河野氏の居城として存続した湯築城跡です 「今からから約672年前・京都に室町幕府が開幕した頃・ヨーロッパでは
100年戦争が始まった頃に湯築城が出来た。」
 天正13年(1585年)に豊臣秀吉の四国平定により、小早川隆影との抗戦により開城した。

城郭は、外堀で囲まれている内側すべてが湯築城跡なので、市街地に中世の城跡がこのような遺跡が、このような形で現存している事自体が日本でも珍しい事で本当に貴重なものであり、 中世の城跡が、市街地にあるものは、殆ど外堀は埋め立てられ、土塁は取り壊され宅地として開発されておるが、この湯築城は戦国時代の様子がタイムカプセルの様に現存している事が貴重な史跡である。

 この城の構造は、外堀が周囲を囲み、その内側に土塁が取り巻いており、 そして真中には小高い山があり、その回りにも堀があり、発掘調査により堀りの外側に土塁の痕跡があったので山を二重の堀と・土塁で取り囲んだ平山城といった形状で、堀・土塁がかなり大きい規模で残っており全国的に比較しても大きい規模であることが特徴である。

 そしてこの城が造られた時期は、文献によると南北朝期(14世紀前半・1335~1338年頃、足利尊氏が征夷大将軍になった。)とされておりますが、南北朝期に築城さられた当時は、丘陵部を利用した山城の形態であったと思われる。
その後今のような形になったのは戦国期になってからで、発掘調査の結果16世紀前半、1535年、ポルトガル人が、種子島に漂着し鉄砲を伝導した頃・に外堀を掘って城を拡張したとある。
 今から約475年まえの事である。

湯築城跡には戦後、道後動物園が作られていたが移転に伴い、愛媛県が計画した、日本庭園整備のため昭和63年に発掘調査をしたところ湯築城跡の遺構・遺物が極めて良好な状態で残っていましたので、その保存を求める県民の強い要望もあり、日本庭園計画を中止し文化財を生かした公園として整備し平成14年4月12日に開園した。
 動物園のあった場所の発掘調査の結果を基に、武家屋敷や土塀を復元し、
一般公開している。


広さは、外堀を含む・南北350m・東西295m・面積8,6ha 8町6反 東京ドーム1,7倍の広さで、丘陵の高さ約31m、発掘調査されて史跡公園として開園された面積は、2、9ha、
平成14年9月20日国指定の史跡公園に指定を受けた。

日本100名城第80番目に指定されている。


画像は、伊予の守護大名、河野通盛が築城した湯築城跡

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