中小企業診断士 泉台経営コンサルタント事務所 ブログ

経営のこと、政治のこと、社会のこと、趣味のこと、人生のこと

読書紀行11

2009年02月01日 | Weblog
司馬遼太郎
 司馬遼太郎(1923-1996)が亡くなってもうすぐ*6)13年になる。その存在感が大きかっただけに、そんなに経つとは思えない。

 『「竜馬がゆく」のラストで竜馬が若くして暗殺されます。「天に意思がある。としか、この若者の場合、おもえない。天が、この国の歴史の混乱を収拾するためにこの若者を地上にくだし、その使命がおわったとき惜しげもなく天へ召しかえした。」と優雅にセンチメンタルにといいますか、まことに情のこもった、他に例がないくらい灼熱した文章を書いていらっしゃいます。・・・日本の戦後の社会が健全さを取り戻すためには、どうしても司馬遼太郎が必要であった。司馬遼太郎が出現して、一個人の能力という点から考えても驚天動地の素晴らしい活躍をして、まだ、七十二歳という年に、天が司馬さんをまた呼び戻した。私はそういう印象を受けました。』司馬 先生が亡くなられた年に、谷沢永一氏がその著書「司馬遼太郎」PHP研究所 の中で、その急逝の悲報に接しての心境として、そう述べておられる。

司馬先生の本は、山口県での工場研究所時代に、職場の先輩から「竜馬がゆく」は絶対面白いからと薦められた記憶があるけれど、なぜか最初に読んだのは新潮文庫「関が原」(上・中・下巻)である。32、3歳の頃だ。確かに「現代日本文学館」にあるような文学と比べると読みやすく、面白かった。島左近なる武将も初めて知った。

 私は愛媛県で生まれ、就職した地、山口県でも長く過ごした。司馬先生の代表作である、「世に棲む日々」や「花神」は毛利藩(長州藩)すなわち山口県が舞台だし、「坂の上の雲」の主人公正岡子規や秋山兄弟は愛媛県松山市の生まれである。「この国のかたち」には松山城が松前(まさき)城であった話があるけれど、その松前城跡で子供の頃私は遊んでいた。竜馬にしても同じ四国、お隣の土佐の高知のお侍さんだ。浅からぬ縁があるというほどでもないけれど、司馬文学と無縁の生い立ちでもないのだ。

 「竜馬がゆく」は、結局千葉県の工場に転勤になった昭和58年になって読み始め、全6巻を数ヶ月で読み抜いていることは、当時の私にしては相当のスピードといえる。転勤前くらいから右目がおかしくなり始め、23歳の時に手術した左目だけで読んだことになる。父が倒れ、千葉から愛媛まで短期間に何回も往復したけれど、その移動の電車や船の中で読み次いだ因縁の小説ともなった。

 司馬遼太郎は私にとって、最も多くその作品を読んだ作家となるけれど、「翔ぶがごとく」、「菜の花の沖」、「梟の城」、「風神の門」、「北斗の人」、「空海の風景」、「最後の将軍」・・・と並べてみても、まだまだその作品群の一部でしかない。

 また、ドナルド・キーン氏*7)との対談本*8)に、司馬先生が書かれた「懐かしさ」と名づけられた「あとがき」の一節が印象的である。『キーンさんという人は、対座している最中において、こんにちの意味において懐かしい。このようなふしぎな思いを持たせる人は、ほかに思いあたらない。それほど、この人の魂は重い。そのくせ、ひとと対(むか)いあっているときは軽快で、この人の礼譲感覚がそうさせるのか、他者に重さを感じさせない。精神の温度が高いのか、たえず知的な泡立ちがある。・・・いい芸術に接しているようなものである。そのあたりも、キーンさんへの懐かしさの一つである。』人をこのように評することのできる司馬先生の精神の高邁さを思う。

  *6)命日は2月12日
  *7)日本文学研究者 文藝春秋2009年二月号巻頭随筆「勲章随想」執筆
  *8)「世界の中の日本」司馬遼太郎/ドナルド・キーン 中央公論社1992

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。