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歴史に学ぶ 第8回

2018年06月22日 | ブログ
上杉鷹山

 江戸時代半ばというより後半、10代将軍徳川家治(在位1760-1786)から11代徳川家斉(在位1788-1837)の時代に米沢藩主であった上杉鷹山(1751-1822)は、逼迫した米沢藩財政をみごとに再建したことで、経営本などで取り上げられるようになって久しい。

 もっとも江戸時代は、貨幣経済の急速な発展に米の石高で暮らす幕府も藩も取り残され、格式に囚われ極度の財政難に陥った話は多々あり、いずこもその立て直しに狂奔したとある。

 そんな中で、鷹山がなぜ注目されるのか。企業は人なりとはよく聞くけれど、本当に従業員を大切にし、その能力を如何なく発揮させ、事業を成功に導く経営者は現代にもあるが、封建時代の殿様が古い因習に囚われがちな家来を、意識改革に導くのは容易ではなかったろうと思う。

 そもそも日本で鷹山が一般にも知られるようになったのは、ジョン・F・ケネディ大統領が日本人記者団と会見した際、もっとも尊敬する日本人を問われ、上杉鷹山の名を出したことによるらしい。ケネディ大統領は、封建時代にあって民の幸福を願い民主的な政治を行い、自身の日常生活をあくまで質素に律した鷹山に、自分の理想とする政治家の姿を見たのである。

 当時の米沢藩がどの程度の困窮状態にあったか。その成り立ちから探ってみよう。まず米沢藩であるが、殿様の名に上杉とある通り、武田信玄との川中島の戦いで有名な上杉謙信の家の流れを汲む。謙信は戦国武将の中でも最強の一人であり、謙信当時の石高は200万石を超えるものだった。謙信の養子である上杉景勝の時に、秀吉から会津120万石に移され、さらに関ヶ原で西軍に与したため、家康から米沢藩30万石に滅封された。米沢は家臣直江兼続の領地で、兼続は領地を一旦幕府に返上し、新たな領主として景勝を迎える手続きを取ったという。

 景勝の死後その子の定勝が継ぎ、続く網勝が27歳の若さで1664年に急死する。この時に相続の手続きに遅れがあり、忠臣蔵で有名な吉良上野介の息子網憲を急遽養子に迎えたが、領地は半分の15万石に減らされる。しかし、上杉家では藩祖景勝以来どんなに領地が減っても家臣をリストラしなかった。このため享保年間(1725年)5000人の家臣の石高合計が約13万石で、15万石に占める人件費は実に90%に達していたのだ。

 藩は財政が厳しくとも大名の格式を守るため諸費用は嵩む、参勤交代は昔と変わらず仰々しく、江戸屋敷の生活も切り詰めることはしない。幕府からの江戸城修復などの負担も強いられる。しかも吉良から養子を迎えたことで、吉良から吉良家の贅沢のつけ回しもあったという。

 鷹山の先代8代藩主重定の代では藩から家臣に不当たりの金券が給与として支払われる始末で、武具を売るなど序の口で武士を捨てる者もあり、商人も米沢藩には一文の金も貸さなくなった。暮らせない人々は逃散し、生まれた赤子は間引きする。14万人弱の人口は1760年には9万人まで落ち込んだ。重定は幕府に版籍奉還を願い出る。

 鷹山が重定の養子として米沢藩に来たのはそんな時代であったのだ。(続く)



本稿は、童門冬二著、「上杉鷹山の経営学」1992年初版。PHP研究所刊を参考にしています。





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