どこからでも十マイル・マンクスフッド邸

「どこからでも十マイル・マンクスフッド邸」(P・H・ニュービー、L・P・ハートレイ 南雲堂 1955)

もはや部屋中が本だらけになっている。
どこになにがあるのか、自分でもよくわからない。

先日、風呂場の近くで──といっても、狭い部屋だから、風呂場も台所も玄関もみんな近いのだけれど──「どこからでも十マイル・マンクスフッド邸」という本をみつけた。
くたびれた箱に入っていて、箱の肩のところに鉛筆で50と書いてある。
きっと、古本屋で50円でもとめたものにちがいない。
箱からだしてみると、パラフィン紙に包まれた、クリーム色のそっけない表紙があらわれた。

ほかに読む本もなかったので、それをもって風呂にいき、湯船につかりながら読んだ。
おお、面白い。
自分の部屋でみつけた本だけれど、なんだかすごく得した気分だ。

本書は短編集。
P・H・ニュービーと、L・P・ハートリーという2人のイギリス人作家の短編をまとめている。
収録作は以下。

P・H・ニュービー(訳はすべて小倉多加志)
「叔父カヴォーク」
「驢馬の死問答」
「熱風(カムシーン)」
「昇進」
「アレキサンドリア向けの小包」
「どこからでも十マイル」
「一杯の水」
「録音されなかったインターヴュー」
「バルセロナからきた男」

L・P・ハートリー(訳はすべて坂本和男)
「W・S」
「二人のヴェイン」
「マンクスフッド邸」
「ブランドフット氏の絵」

ハートリーは知っていたけれど、P・H・ニュービーというひとはぜんぜん知らなかった。
巻末の「P・H・ニュービー、人と作品」から、その経歴を引いてみたい。

パーシー・ハワード・ニュービーは、1918年サッセクス州で生まれ。
少年時代の大部分はウスター州ですごし、第二次大戦ではフランスへ。
フランスから撤退後、いったん帰国したのち、1941年に今度はエジプトへ。
除隊した1942年12月から、1946年にエジプトを去るまで、カイロのファド一世大学の英文学講師となる。
その後、文筆に専念。

というわけで、このひとはエジプトと縁が深い。
本書収録の9編中、最初の5編はエジプトを舞台としたものだ。
どれも、ストーリー展開に説話めいた乱暴さがあって、大変楽しい。

「叔父カヴォーク」
アレキサンドリアにカヴォーク・ハマムジアンというアルメニア人の靴屋がいた。
自分が死んだら、カイロのアルメニア人墓地にある、一族の地下納骨所に遺体を埋葬してくれ――。
と、たったひとりの身内である甥に話していた。
そうしてくれたら、店をゆずろう。

さて、1月のある日、午前4時。
カヴォーク叔父さんが亡くなった。
そこで、甥のゴルギスは苦心惨憺のすえ、叔父さんに一張羅を着せて駅にむかった。

なぜ、ゴルギスはそんなことをしたのか。
叔父さんの遺体をちゃんと棺桶におさめてカイロまで送ると、20ポンドかかる。
これは、ゴルギスの一年分の給料に匹敵する。
なので、ゴルギスはカヴォーク叔父さんの遺体と一緒に、列車でカイロに向かうことにしたのだった──。

ゴルギスは叔父さんの遺体はとともに、5時発の2等車のコンパートメントにうまくおさまる。
しばらくすると、堂どうとした体躯のエジプト人が入ってくる。
それから、お腹がすいてくる。
考えてみれば、朝食を食べていない。
ゴルギスは、叔父を残してひとり食堂車へいく。
叔父はときどき発作を起こし、石みたいにこちこちになる。
いまも発作の最中で、カイロにいるかかりつけの医者でないと治せない。
──とまあ、そんなつくり話も考えてある。
なにがあっても大丈夫。

しかし、大丈夫ではなかった。
食堂車からもどると、叔父はいなくなっていた。
堂々とした体躯のエジプト人に訊いてみると、
「この前の駅で降りましたよ」
という返事。

──こうストーリーを紹介すると、列車のなかでだれかが消失したというたぐいのミステリのようだ。
でも、じっさいはそうではない。
というのも、だれも謎を解こうとしたりしないからだ。

このあと、途方に暮れるゴルギスに、エジプト人は、自分はアブドゥル・ラマダンというボクサーだと名乗る。
そして、しょっちゅうひとに騙されていると打ち明け、話しているうちに、ゴルギスは月10ポンドでラマダンのマネージャーになることになる。
ところが、ラマダンは自分はおそろしいかんしゃくもちなんだと、さらに打ち明け話をはじめて──。

ストーリーは、予想外のラストまで二転、三転。
じつに完成度の高い、愉快な短編だ。

「驢馬の死問答」
これも列車が舞台。
〈わたし〉がたまたま出会ったできごとを書いたという感じの、スケッチ風の短編。

カイロとポートサイド間を走る列車(本文中では「気動車」と書いてある)が、不意に停車する。
原因はロバをひいたため。
そのことに、機関士は心を痛めないが、機関士の助手は大いに痛める。
ロバを放し飼いにしとくのがいけないんだ、という機関士に助手は反論する。
ちょっと前は立派に生きていたんだ、それがいまはもう死んでいる、こうしたことは少なくともまじめに考えなくちゃいけない──。
2人はいい争い、ついに一触即発の事態になりかける。

「熱風(カムシーン)」
娘のファウジアを連れて、ある後家のところに転がりこんだハッサン。
ハッサンは、妻のファウトがファウジアを連れもどしにくると考えている。
当のファウジアは、後家さんのところの下ばたらきの、サリーという中バーバリ人中年男が気になってしかたがない。
ファウジアは、いつもサリーに横柄な口をきいてみたり、強がりをいってみせたりする。

ある日、サリーはハッサンの妻ファウトの情人であるサイディにナイフを突き立てられる。
ファウジアを返すようにとしたことだったが、サリーはそれに応じない。

そのうち、ハッサンとファウトのよりがもどる。
すると、ハッサンはサイディに殺されてしまう。
その後、ファウジアはファウトと後家さんのあいだで厄介もの扱いされるのだが、けっきょくファウトのもとにもどることになる──。

エジプトを舞台にした世話物といった感じの作品。
タイトルの「熱風(カムシーン)」は、カムシーンの季節を扱ったことから。
「室内はまるで十人あまりの人間が、絨毯の埃を叩き出しているようだった」
という描写が印象的。

「昇進」
ファラカ駐在所の主任、ラシッド警部補の指示で、ネドル巡査とサフラブ巡査は、首がなくなってしまった被害者の遺体をはこんでくることに。
2人はどちらも昇進間近なのだが、どちらか一方しか昇進できないというあいだ柄。

7月の暑さのなかをナイル河沿いに5マイルも歩いて、2人は現地にいき、被害者を担架にのせてもどってくる。
途中、椰子の木立のあるところでひと休み。
つい寝すごしてしまったと飛び起きると、死体はなくなっていて──。

これも、「叔父カヴォーク」同様、死体がなくなる話だ。
でも、ゴルギスとちがって、ネドルとサフラブには、死体がどこにいってしまったのかすぐ見当がつく。
おそらく、ハエがうるさくて、眠っているあいだに死体を河に蹴こんでしまったにちがいない。

死体をなくしたのは、明らかに自分たちの過失。
だから、2人はなんとか挽回しなくてはいけない。
その挽回の方法が大変乱暴だ。

「アレキサンドリア向けの小包」
大学で教鞭をとる〈わたし〉が、たまたま郵便局にいくと、同僚のスペアリングが小包係と小競りあいを起こしている。
その小競りあいは、宛名にアレキサンドリアと入れるか入れないかから発したもの。
ちょうどカムシーンが一週間に渡りカイロに吹きこんだため、みんなこらえ性がなくなっている。

〈わたし〉は郵便局からスペアリングを連れだすが、スペアリングは憤懣やるかたない。
郵政大臣に手紙を書くといいだし、〈わたし〉に官製用紙を買ってこさせ、関係局員の即時解雇を要求した抗議文をしたためて投函。

それから一週間後、スペアリングが〈わたし〉に助けをもとめてくる。
小包課の局員が詫びを入れにやってきたのだ。
局員は、謝罪を受け入れてくれるなら署名をしてほしいと、用紙を持参。
しかも、その用紙には、謝罪を受け入れなければ解雇すると書いてある。
そこで、スペアリングはまた立腹。

「ひどいよ! 同国人をこんなふうに扱うなんて」

そこで、スペアリングは直接郵政省に抗議にでかけ──。

支離滅裂に怒りっぽい〈わたし〉の同僚、スペアリングについての一編。
どこまでも自分勝手なスペアリングの描写がみごとだ。

さて、エジプトを舞台にした作品はここまで。
どれも、登場人物の乱暴さが魅力だった。
なにしろ、だれも死なないのは、最後の「アレキサンドリアの小包」だけなのだから、乱暴さは推して知るべしだろう。

このあとは、本国を舞台にした作品が続く。
ストーリーの意外性は相変わらずだけれど、乱暴さは影をひそめる。
どらかというと、微妙な人間関係に照明があてられる。
異国を舞台にしたほうが、乱暴な想像力がはたらきやすいということだろうか。

「どこからでも十マイル」
主人公は男の子(男の子だけで名前がない)。
迷信深い祖母と、母親の仲はいまひとつ。
しばしば、陰で相手の悪口をいいあい、男の子は2人に振りまわされる。

「熱風(カムシーン)」の本国版のような作品。
巻末の訳者解説が的を得ていると思うので引いておこう。

「子供の夢ばかり掻き立てる祖母の溺愛と、ことさらに理性的に子供をしつけようとして、却って子供の夢をこわしてばかりいる母親の愛情。しかし、これも見方によればどっちもどっち。テン・マイルズ・フロム・エニウェアであろう」

「一杯の水」
田舎で道に迷った旅人が、農夫に水を一杯もらえないかとたずねる。
が、農夫はそれを断る。
「水の一杯くらい、大したことじゃないでしょう」と、旅人は憤るが、農夫は頑として聞き入れない。

「きっと水不足なんでしょう」
「水はうんとありますよ」
「じゃ、汚れているんですか」
「この荒野でいちばんきれいな水です」
 ……

4ページの、コント風の小品。
本書で最初に読んだのが、もっとも手軽に読めそうな、この作品だった。
これを読んで、本書全体を読んでみようと思ったのだ。

「録音されなかったインターヴュー」
老作家H・M・ライトのインタビューを録りにやってきた、記者のプライス。
が、H・M・ライトは大変意地が悪い人物。
プライスにばり雑言を浴びせて、インタビューに応じない。
プライスは、作家の機嫌をとるために、作家が懐かしく回想するトルコ菓子をもとめてさすらうことに。

「一杯の水」同様、主人公が意地の悪い人物に振り回される話。
でも、こちらのほうがストーリー展開に屈折が多く、小説らしい。

「バルセロナからきた男」
20年ぶりに、バルセロナで暮らしていた弟のアンドルーが帰省。
兄のメインプライス少佐とその一家は、当惑を隠しきれないながらもアンドルーを歓待する。

アンドルーが帰ってきたとたん、イギリスの冬景色が立ち上がる。
エジプトものでもそうだったけれど、風景描写と人間関係をないまぜにしてみせるのが、この作者はうまい。
ところで、アンドルーはなぜ20年ぶりに帰ってきたのか。
だれもがその理由を知りたがる。
じつは、アンドルーはただたんに子どものころの風景を味わいたかっただけだった。
でも、そのことは兄とその家族にはうまくつたわらない。
このあたりの、微妙さは要約不可能だ。

本書の、もうひとりの収録作家はL・P・ハートリー。
ニュービーがなにを書いても喜劇的になってしまう作家だとすると、ハートリーはなにを書いても怖い話になってしまう作家といえそうだ。
その作風は大変精妙。
そして、読み手をとらえる握力がすこぶる強い。

喜劇的な作品は、しばしばコント風になり、寓話風になり、簡潔すぎる作品になるけれど、怖い作品はしばしば瑣末で冗漫な作品になる。
ハートリーの作品にも、そういうところがないとはいえない。
でも、最初の「W・S」は文句なしの傑作だ。

「W・S」
作家のウォルター・ストリーターは、未知の読者W・Sから絵はがきをもらうようになる。
妙に気をもたせるような文章がそえてあるこの絵はがきのことが、ウォルターは気になって仕方がない。
しかも、絵はがきにプリントされた名所から、差しだし人がだんだん近づいてくるのがわかる。

不気味になったウォルターは警察に相談。
恨みを抱いている者はいないかと問われるが、そんなおぼえはない。
しかし、一度、作品の登場人物のひとりを徹底的に悪く書いたことがあった──。

登場人物が作家に会いにくるというパターンの話。
そのパターンが怪談となり、しかも成功している。
サスペンスの盛り上げかたといい、ラストの切れ味といい、素晴らしい。
同趣向の作品で、この作品を超えることはもはや不可能なのではないか。

「二人のヴェイン」
女神やニンフなど、たくさんの像が立てられた庭に、館のあるじそっくりの像が立てられている。
あるじは、自分そっくりの像と出会った客たちの反応をみるのがなによりの楽しみ。
ある日、〈わたし〉は、このあるじであるヴェインの片棒をかつぎ、客のフェアクラフを引っかけようとするのだが──。
分身モチーフの怪談。

「マンクスフッド邸」
マンクスフッド邸の泊まり客となった〈わたし〉は、あるじのネスタから、同じく泊まり客のヴィクターの噂話を聞く。
ヴィクターは火災恐怖症にかかっている。
深夜、火元の点検をしないと気がすまない。

その夜、眠れなくなった〈わたし〉は、本をさがしに書斎へ。
すると、書斎にはひとの気配が。
翌朝、ヴィクターはよく眠れたという。
すると、暖炉におおいかぶさっていた、あの人影はだれだったのか──。

これは幽霊屋敷ものといえるだろうか。
しかし、じつに奇妙な幽霊屋敷ものだ。

「ブランドフット氏の絵」
セルトマーシュという田舎町では、ブランドフット氏が面白い絵をもっているという噂でもちきり。
町の社交界の奥様がたは、ぜひともその絵をみてみたいと思っているのだが、ブランドフット氏は容易にみせてくれない。
はたして、ブランドフット氏の絵とは、どんなものなのか──。

サキの短編「名画の背景」と同趣向の作品。
それにしても、よくこの題材をこんなに引き伸ばせるものだ。

ハートリーは、ここ数年では、「ポドロ島」(河出書房新社 2008)という短編集が出版されている。
でも、この本は読んでいない。
収録作品をみるかぎり、本書とかぶっているのは、「W・S」だけのようだ。



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