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おとうさんとぼく 〈承前〉

「おとうさんとぼく」は、青萠堂という出版社から、別のタイトルで2005年に出版されていた。
ついこのあいだそのことを知り、図書館で借りて、「おとうさんとぼく」と読みくらべてみた。

青萠堂版は全3冊。

「大好き!ヒゲ父さん いたずらっ子に乾杯!」
「ごめんね!ヒゲ父さん わんぱく小僧、どこ行った?」
「最高だね!ヒゲ父さん いつも一緒に歩いていこう」

1冊に50編、全部で150編が収録されている。
正方形の本で、見開きの左ページにタイトル、右ページに漫画という構成。
1編をつねに1ページにおさめるので、コマ数の多い作品だと、絵が小さくなってしまうところが難点だろうか。
以下、岩波のことし出版された版(2018年版)にはなく、青萠堂版には収録されている作品をあげておく。

《青萠堂版にあり、岩波2018年版にはない作品》

「大好き!ヒゲ父さん いたずらっ子に乾杯!」
「あんな風になったらどうする!」
「チェックメイト!」
「父さんだって熱くなる」
「助けられた人の心得」
「その手は食わない」
「残念!」
「貧しき者は幸(さいわい)なり」
「血を見ること父より弱きはなし」
「馬糞にも衣装」
「クリスマスの飾りづくりは秘密」

「ごめんね!ヒゲ父さん わんぱく小僧、どこ行った?」
「ウサギが持ってきたんだよ」
「「なんだと、これがオレだって?」」
「夢と現実」
「待ちわびた歓声」
「高くつく犬」
「人形芝居」
「白鳥に御用心」
「はけVSブラシ」
「大みそかのカン違い」
「サンタクロースのはち合わせ」

「最高だね!ヒゲ父さん いつも一緒に歩いていこう」
「尻ぬぐいの家系」
「手品の落とし穴」
「先んずれば”父”を制す」
「ぶっ放して年の瀬を祝おう」
「虚栄心をお脱ぎなさい」
「あいさつ代わり」
「野生の馬」
「やじ馬」

青萠堂版の3冊に当たれば、「おとうさんとぼく」は全部読めるのかと思ったら、そうではなかった。
読んでみると、岩波の2018年版にあり、青萠堂版にない作品もあったので、これも記しておこう。

《岩波2018年版にあり、青萠堂版にはない作品》

「朝のたいそう」
「虫歯」
「遊びにむちゅう」
「スケート」
「エンスト」
「すべるゆか」
「おとな1枚」
「ろう人形」
「クリスマスのごちそう」
「おとうさんとぼくとおとうさんとぼくと……」
「すごいおとうさん」
「まいった」

書きもらしたり、まちがえて記してしまった作品があるかもしれない。
そのさいは、申し訳ない。

全作品をあつめた本が出版されていれば、読むほうはラクなのになあ。


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おとうさんとぼく

「おとうさんとぼく」(e.o.プラウエン/作 岩波書店 2018)

「おとうさんとぼく」が再版された。
これは、戦前に描かれたドイツの漫画。
旧版の出版は、1985年。
今回と同じく岩波少年文庫から。
少年文庫の装丁が、まだレモン色だったころだ。

この作品に、セリフはほとんどない。
古い漫画らしく、シチュエーションとうごきでみせる。
特に、うごきをとらえた絵が素晴らしい。
――岩波少年文庫に漫画が収録されているとは
と、最初にこの作品のことを知ったとき、大いに驚いたものだ。

旧版は全2巻だったけれど、新版は1巻にまとめられている。
新版は旧版とちがい、つかわれている紙が薄い。
おかげで読みやすくなった。
もちろんページ数も多い。

新版の収録作は、134話。
旧版は、数えてみたら140話。
6話削られたことになる。
それらの、削られたと思われるタイトルを記しておこう。

「王手!」
「ひとりずもう」
「とばした手紙」
「えっ、どうして?」
「入場できないときは」
「人形しばい」
「サンタクロース」

こうしてみると7話ある。
新版には増えた作品もあるよう。
みてみると、「朝のたいそう」がそれに当たるようだ。

なぜ、この7話が削られたのか。
「ひとりずもう」は、〈ぼく〉がパイプを吹かしているから、まあ駄目だとして、ほかの6話についてはよくわからない。
〈ぼく〉が理不尽な理由でおとうさんに怒られているせいだろうか。
たんにページ数の都合からだろうか。

これらのことは、ちゃんと調べたわけではない。
新版と旧版を、漫然と読みくらべてみつけただけのことだから、あるいは数えまちがいなどをしているかもしれない。

旧版の1巻目には、「e.o.プラウエンについて」という、上田真而子さんによる解説がついている。
これは新版にも収録され、さらに児童文学者として高名なケストナーによる「プラウエンからきたエーリヒ・オーザー」という文章が追加されている。

作者の、e.o.プラウエンというのはペンネーム。
本名は、エーリヒ・オーザーといった。
1930年、ドイツ東部のザクセン州の生まれ。
ライプチヒ美術大学在学中に、エーリヒ・ケストナーと、編集者のエーリヒ・クナウフと出会い、生涯の友になった。
3人のエーリヒは、ライプチヒのジャーナリズムで活躍。
が、ある少々不品行な記事が問題となり、ケストナーは失職し、オーザーは執筆停止に。

そこで、2人はベルリンにでる。
のちにはクナウフも合流して、ベルリンのジャーナリズムで再び活躍。
が、ドイツはナチスの時代に。
ケストナーは執筆停止。
社会民主主義系出版社の編集者だったクナウフは、短期間ながら強制収容所に入れられる。
オーザーも執筆停止に。
そもそも、ナチスを風刺する絵を描いていたオーザーには、だれも依頼をしてこない。

ところが、ベルリンの大出版社ウルシュタインが、週刊紙「ベルリングラフ」に連載漫画をのせる企画を立て、オーザーに依頼を。
ウルシュタインは当局の許可も得る。
それには条件が2つあり、ひとつは非政治的な絵にすること、もうひとつは変名にすること。

こうして、e.o.プラウエンというペンネームが誕生。
e.o.は本名の頭文字。
プラウエンは子ども時代をすごした故郷の地名。
「おとうさんとぼく」の連載は、1934年から1937年まで続き好評を得る。

その後の運命は痛ましい。
自宅が空襲で破壊され、クナウフとともに避難した家の同居人が2人を密告。
ゲシュタポに逮捕され、オーザーはクナウフの釈放を上申する遺書をのこして自殺。
クナウフは死刑になる。

《オーザーは非政治的にという執筆の条件を逆手にとって、永遠に人間的なものを守りとおし、人びとの心をしっかりつかまえたのでした。そういう仕方で体制への不参加を貫きとおしました。みごとな抵抗だったといえないでしょうか。》

と、上田真而子さんは解説で、作者と「おとうさんとぼく」を称えている。



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かかしのトーマス

「かかしのトーマス」(オトフリート・プロイスラー/作 ヘルベルト・ホルツィング/絵 吉田孝夫/訳 さ・え・ら書房 2012)

前々回、ウェストールの「かかし」をとり上げた。
で、今回はかかしつながりで、「かかしのトーマス」を。

プロイスラーは、ドイツの名高い児童文学者。
もっともよく知られた作品は、「大どろぼうホッツェンプロッツ」(偕成社)シリーズだろうか。
でも、読んだことがない。
プロイスラーの作品で読んだことがあるのは、「クラバート」(偕成社 1986)一冊きりだ。

「クラバート」は、残念なことにあまり面白いとは思えなかった。
まず、いささかくどすぎた。
それに、主人公が不気味な親方の手からやっと逃れたと思ったら、不気味なヒロインの手に落ちてしまったという感じが否めなかった。
ヒロインの手に落ちるということは、つまりハッピーエンドなのだけれど。
どうも素直にうなずけない。
へんてこな読みかたかもしれないが、そう読んでしまったのだから仕方がない。

そういえば、「クラバート」の舞台は水車小屋だ。
ウェストールの「かかし」も水車小屋が重要な役割をはたすから、ここにも共通点がないこともない。
こうやって、無理にでも共通点をみつけると、本を読む興趣が増すものだ。

さて。
「かかしのトーマス」はウェストールの恐るべき「かかし」とはちがい、もっと低年齢層向きの、いかにも児童書らしい作品だった。
ページ数も100ページちょっとと薄手で読みやすい。
さし絵もたくさん入っている。

語り口は、3人称トーマス視点。
ストーリーは、まずトーマス誕生のいきさつから。
キャベツを食い荒らすスズメたちに腹を立てていた、お百姓のトビアス・ゾンマーコルンは、下男のグスタフにかかしをつくるようにいう。
かかしづくりには、トビアスの2人の子ども、ジーモンとウルゼルも参加。

3人は、畑の真ん中に熊手の柄をさしこむ。
そして、ハシバミの長い棒を十字架のように結わえつけ、麦わらのほうきを頭にし、コートを着せ、グスタフの古い帽子を頭にのせ、赤いマフラーを首に結んで、両手に3つずつ、ひもでつないだ空き缶をぶら下げて、さあ完成。
最後にウルゼルが、「トリビックリ・トーマス」とかかしに命名する。

ここまでが第1章。
第2章はこうはじまる。

《トリビックリ・トーマスは、自分の仕事と、子どもたちにもらった立派な名まえとで、とてもほこらしい気もちになりました。》

というわけで、以後はトーマス視点に。
トーマスは身うごきこそとれないものの、人間や動物の話が理解できる。

畑にトーマスがあらわれたことが、スズメたちは気に入らない。
「はやく家に帰りやがれってんだ」などと不平をいう。
それが、トーマスには面白くてならない。
ところが、トーマスが身うごきできないことを、スズメたちはだんだん察しはじめる。
振る舞いも大胆になり、「こいつに、びくびくするこたあない」と、皆でキャベツ畑にやってくる。
そのとき、風が吹き、トーマスの両腕にぶら下がった空き缶がガラガラと音を立て、スズメたちは散りぢりに逃げていく。

トーマスは、お日様の運行にあわせて自身の影が伸びちぢみするのに驚く。
雨に降られてずぶ濡れになり、晴れの日が続いて喜ぶ。
しかし、晴れの日ばかり続くとキャベツが育たない。
日照りを心配するグスタフとトビアスの話を聞いて、トーマスは反省する。

《かわいそうなこのキャベツ諸君は、のどがかわいて死にそうになっている――。それなのにわたしは、晴れの日をよろこんでいたのか。わたしはなんというばか者なのだ。》

じき雨が降り、キャベツ畑は生気をとりもどす。
これは雨の魔法だと、トーマスは考える。

そのうち、トーマスはお月様と話をするようになる。
お月様は世界中のことを知っている。
トーマスも世界を旅してみたいと思うが、それはできない。
畑のなかで、ひとりぼっちで立っているほかない。

トーマスは、うごくことこそできないが、感受性に富んでいる。
周りのできごとに目を向け、耳をかたむけ、仕事にはげむ。
読んでいて、愛すべきかかしだと思わずにはいられない。

このあと、キャベツの収穫がはじまる。
キャベツがなくなれば、トーマスの仕事もなくなる。
自分はどうなるのだろうとトーマスが思っていると、まったく思いがけないことが起こる。
この思いがけなさは、児童文学特有のものだといっていいだろう。

結果、トーマスは世界を旅するようになる。


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かかし

「かかし」(ロバート・ウェストール/作 金原瑞人/訳  徳間書店 2003)
原書の刊行は1981年。

ウェストールは、イギリスの児童文学作家。
この作者のものは以前、「ブラッカムの爆撃機」を読んだことがある。
爆撃機に乗ることになった少年が語る、ゴースト・ストーリーで、素晴らしい作品だった。
いまでも、ときおり作品の最後の数行を思いだすほどだ。

カバー袖に書かれた作者紹介によると、ウェストールは、英国の児童文学にあたえられる賞として名高いカーネギー賞を2度受賞している。
最初が、「機関銃要塞の少年たち」(ロバート・ウェストール/作 越智道雄/訳 評論社 1980)。
2度目が、この「かかし」

本書の内容をひとことでいうなら、思春期の少年の煩悶を大変な臨場感でえがいた作品、ということになるだろうか。
テーマ、表現ともに、ずいぶんきびしい。
これが児童書だということに驚く。
一体だれが読むのだろうと思う。
児童文学というもののとらえかたが、彼我ではちがうのかもしれない。

では、内容を詳しくみていこう。
主人公は、全寮制の学校に通う少年、サイモン・ウッド。
パラシュート部隊の将校だった父は亡くなり、家族は母親と妹のジェーンと3人。
本書は、3人称サイモン視点で語られる。

まず冒頭で、去年の夏の参観日のエピソードが記される。
寄宿舎では、消灯後、意地の悪いボードンがほかの連中にからんだり、冷やかしたりするのが恒例となっている。
去年の夏、母親のことでからかわれたサイモンは、ボードンを叩きのめした。
殴りかかったあと記憶がとんで、気がつくとボードンがトイレの床に倒れ泣きじゃくっていた。
――悪魔たちがやってきた。
と、このときのことをサイモンは考える。

それから8か月後。
今夜もボードンは別の生徒をいじめている。
サイモンは、再び自分のなかに悪魔たちを入れて、ボードンを殺してしまおうとする。
が、そのとき、ふざけてばかりいるトリスが、またふざけだして、ことなきを得る。

その後、春の参観日。
ママが、白いレンジローバーに乗った男と一緒にあらわれる。
男は、ジョー・モートンという、著名な風刺画家。
モートンは校長先生に乞われて、その場で校長先生の似顔絵を描き、その絵はチャリティとして競売にかけられる。

イースターの休みに、家に帰ったサイモンは、ママがいつも夜、うきうきとでかけるのにうんざりする。
ママがつとめるギャラリーにいくと、ちょうどジョー・モートンの個展をやっているところ。

学校が再開。
サイモンは校長先生に呼びだされる。
ママがきていて、2人は車に乗り話をする。
ジョー・モートンと再婚することにしたと、ママはサイモンに告げる。
いまの家は売ってモートンのところに引っ越すから、あなたの荷物で残しておきたいものがあれば……。
あいつとは結婚しないでと、サイモンは訴えるが、結婚していいかどうかたずねにきたんじゃないのとママ。

自分のものはみんないらない。
結婚式にももどらない。
パパの軍隊の備品だけとっておいてほしい。
あれはぼくのだからね、とサイモン。

夏休みの最初のひと月は、ナンクのいる兵舎ですごした。
ナンクは、読んでもよくわからないのだけれど、おそらくサイモンの父親の友人。
パラシュート部隊の隊員たちは、皆サイモンの父親のことを知っている。
サイモンは、幼いころの家に帰ってきたような思いをする。

しかし、いつまでもそこにはいられない。
サイモンは、いまではママとジェーンが住むジョー・モートンの家に向かう。
だが、3人の仲むつまじい様子をみて、サイモンは玄関で固まってしまう。
そして、また悪魔たちがもどってくるのを、サイモンは感じる――。

このあたりで、全体の3分の1くらい。
このあと、物語はジョー・モートンの家と、その向かいにあるこわれかけた水車小屋を舞台に展開する。

ジョー・モートンの家で、どんどん孤立していくサイモンは、亡くなった父親に助けをもとめる。
すると、水車小屋の前にあるカブ畑に、3体のかかしがあらわれる。
水車小屋は、戦時中、三角関係のもつれから殺人事件が起こった場所だった。
サイモンの祈りは、邪悪な霊を呼びさましてしまったのか。
かかしは、倒されてもいつのまにか立ち上がっている。
そして、だんだん家に近づいてくる――。

というわけで、後半はゴースト・ストーリーじみた展開になるのだけれど、実際はそうならない。
いや、そうなっているのかもしれない。
このあたりの書きかたは、あいまい、
虚実をはっきりさせないのは、イギリス児童文学のお家芸だろう。

本書は、先にも書いた通り、3人称サイモン視点。
サイモンの1人称で書かれていたら、この作品はロマン派の作品のようになったかもしれない。
が、この作品は3人称なので、ときどきサイモンからはなれた記述がなされる。
しかし、サイモンからはなれた記述をするといっても、語り手が客観的な記述をするとはかぎらない。
このあたりの、ほとんど詐術といってもいいような、巧妙な語り口には脱帽する。
それに、全編にみなぎる不穏な雰囲気といい、人格をもっているような水車小屋の描写といい、その筆力は素晴らしいのひとこと。

家庭内で孤立したサイモンは、どんどんあやしう物狂おしくなってくる。
3人称から1人称へ、客観から主観のほうへ決壊していくといったらいいだろうか。
そんなサイモンを、正気の世界に引き止める役割を果たすのが、サイモンの友人であるトリス。
ジャージー島でトマト畑を経営している両親をもつトリスは、サイモンに手を焼いたママに誘われ、ジョー・モートンの家に遊びにくる。
いつもふざけてばかりいるトリスは、自意識の水位が低いタイプで、他人の緊張をほぐすことができる。
「トリスは悪魔を出し抜くことができる」のだ。
読後、トリスのような友達がいてよかったねえと、思わずサイモンに声をかけたくなる。

少年の心によく寄り添ったこの作品は、その迫力からいって、賞をとるのにふさわしい。
たしかに傑作だ。
でも、それにしてもと、当初の疑問が頭をもたげてくる。
傑作にはちがいないけれど、一体だれが読むのだろう?



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長すぎる夏休み

「長すぎる夏休み」(ポリー・ホーヴァート/著 目黒条/訳 早川書房 2006)

夏休みなので児童書を読むことに。
原書の刊行は2005年。
「ハリネズミの本棚」シリーズの1冊。
早川書房が出版した児童書、「ハリネズミの本棚」シリーズは、2002年にはじまり、2007年に終わったようだ。
ネット書店で確認するかぎり、出版点数は48点。

本書は12歳の少年が主人公。
両親や叔母さんたちに振りまわされ、アメリカ中をドライヴするはめになるというもの。
全体にコミカルな味わいがあり、軽く、読みやすい。

主人公は、〈ぼく〉、ヘンリー。
ヘンリーが12歳になった週、お母さんのキャサリンが、モルモン教徒になってアフリカに布教しにいくといいだす。
お父さんのノーマンは、これに反対。
ノーマンは、ブラシ会社のセールスマンしていて、始終あちこちに出張している。
キャサリンはノーマンに、一緒にモルモン教徒にならないかと誘うが、ノーマンは断る。

モルモン教徒になっても、すぐには宣教師になれない。
よって、アフリカにはいかれない。
それを知ったキャサリンは、方向転換。
アフリカでの学校建設ボランティアに参加することに。
ノーマンもこれにつきあうことになり、2人はケニアに出発。

ノーマンが、ヘンリーに男同士の話として打ち明けた内心はこう。

《「女というのは、中年になるとものすごく突拍子もないことを言い出したりするもんだ」》

――いま好きにさせてやれば、あと10年か15年は落ち着いてくれるだろう。
と、お父さんが考えているのを、ヘンリーは察する。

ノーマンとキャサリンが留守のあいだ、ヘンリーの面倒をみに、ピッグおばさんとマグノリアおばさんが家にきてくれることに。
2人はキャサリンの姉妹。
2人でインテリア会社を経営していて、大変もうかっているので、仕事は助手たちにまかせてヘンリーのもとにくることができた。

くるとすぐ、マグノリアおばさんは具合が悪くなり寝たきりになる。
それから、退屈のあまり2人して家じゅう模様替えをはじめる。

プライバシーを重んじるヘンリーは、クローゼットのなかで本を読んで暮らし、クローゼットが2人に襲撃されると、あわててバスルームに避難し、立てこもる。

そのうち、アフリカにいったノーマンから電報が。
「チンパンジーの生態を調査している動物学者のチームを見るツアー」に参加したところ、お母さんは、動物学の学生と一緒に森の奥にいってしまい、行方不明になってしまったとのこと。

40歳の誕生日を迎えたマグノリアおばさんは、医者にかかる。
病名は、突発性血小板減少性紫斑病。
病名を聞いたとき、マグノリアおばさんはもう死ぬんだとヘンリーは思ったけれど、そんなことはなかった。
からだが過剰防衛してしまい、外から侵入してきたばい菌だけでなく、出血を止める自分の血小板までころしてしまうという病気だった。

病気から回復すると、マグノリアおばさんは、人生でなにもしていないという思いにとりつかれる。
海にいってみたいなどといいだす。
おかげで、ヘンリーは早めに卒業させられる。
おばさんたちがあなたをアフリカにいるお父さんのところに連れていくのは当然のことですねなどと、先生はすっかり勘ちがいして申し出を了承。
車に乗りこんで、3人は海をめざす――。

この作品、12歳の男の子が語り手のため、一見児童書にみえる。
が、じつはそうではない。
中年女性小説といえる一冊だ。
主人公は、キャサリン、ピッグ、マグノリアの三姉妹といっていい。
40歳前後と思われる、大人げない三姉妹は、大人げないことがしたくなってたまらなくなり発作的に行動を起こす。
ヘンリーは――そしてお父さんのノーマンも――この3人に振りまわされるだけ。

語り口は軽快。
全体に、おかしみが横溢している。
キャサリンがモルモン教徒になってアフリカにいくというのがおかしいし、アフリカで妙なツアーに参加して行方不明になるというのがおかしい。
まるで、げらげらと笑い声が入るアメリカのコメディドラマのような展開。

例をあげよう。
まだ、旅にでる前、家の改装に夢中になっているピッグおばさんが、ここにあなたの面倒をみにきてほんとうによかったという。
びっくりするヘンリーに、ピッグおばさんは続ける。

《「だれにも邪魔されずに、自由に家ぜんぶを改装できるなんて、わたしたちも初めてなのよ。統一感が出せるから、ほんとうにやりがいがあるわ。ねえ、そう思わない?」》

《それを聞いて、ぼくは二日間バスルームの中にこもった。ぼくは統一感の中に入りたくなかった。でもおばさんたちは、ぼくがこもっていることに気づいてもいないようだった。》

もうひとつ。
マグノリアおばさんの40歳の誕生日の場面。

《「四十歳のお誕生日おめでとう」ぼくは言った。
 でも、そう言ってはいけなかったようだった。マグノリアおばさんは不機嫌になって言いかえした。「チンパンジー女、じゃなくて、あなたの母親はお元気かしらね?」》

万事がこの調子だ。

さて、一行はめでたくヴァージニア・ビーチに到着。
ここで、アフリカにいった両親がもどるまで、のんびりすごすはずだったけれど、そうはいかない。
海岸はすごい暑さで、水着のひとたちが気持ちよさそうに寝転んでいる雑誌の広告のような場所ではなかった。
海に入ればクラゲに刺され、午後からは風が強くなっていられなくなる。

海辺の休日にはすぐにあきてしまい、また出発。
マグノリアおばさんがいきたい場所を思いつくまで、丸々2日間ドライブしたあげく、シェナンドア川に向かうことに。

その後、ショッピングモールで、おばさんたちが好きな有名著者のサイン会にでくわしたり、
三姉妹の父、つまりヘンリーのおじいさんであるチェット――キャサリンは、チェットとまったく性格があわず、キャサリンが13歳のときから口もきいていなかった――の家を訪ねたり。
フロリダの沼地でキャンプをし、ヘンリーは沼で3日間行方不明になるはめにあったり。

とまあ、いろんなことがある。
でも、それらがみな、しまりがなく、まとまらない。
ものごとが劇的にならないよう、きびしく配慮されている。
さまざまなできごとが結びついて、なにかを構築するということがないのだ。
できごとは、車からみた風景のように流れ去っていくばかり。

読んでいるぶんには面白いし、するする読める。
完成度は高くないけれど、そのぶん親しみやすくなっている。
読書感想文を書くには向かないけれど、消夏にはぴったりの、愉快な一冊だった。


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消せない炎

「消せない炎」(ジャック・ヒギンズ/作 ジャスティン・リチャーズ/作 田口俊樹/訳 理論社 2008)

去年の暮れ、手元にある未読のジャック・ヒギンズ作品を読破しようと志を立てた。
どれもまず面白いから、どんどん読める。
が、こんどは手元にない本が気になり、古本屋でみつけては買ってくる始末。
おかげで、ちっとも部屋が片づかない。

話はそれるけれど、ジャック。ヒギンズの本なんて、古本屋にいけばいくらでもみつかると思っていた。
ところが、そうではなかった。
さすがに代表作、「鷲は舞い降りた」(菊池光/訳 早川書房 1997)はよくみかけるけれど、それ以外はほとんどみかけない。
あんなに人気があったのにと思うと、なんともさびしいかぎりだ。

それはともかく。
――自分はどのヒギンズ作品を読んでいないのだろう?
そう思って、調べていたら、
「消せない炎」
という作品をみつけた。

なんと、児童書だ。
いったいヒギンズは、どんな児童書を書いたのか。
知りたくなり、すべてのヒギンズ作品の読書予定をとばして、図書館でこの本を借りて読んでみた。

児童書といっても、本書はヤングアダルト向け。
内容は、15歳の双子の姉弟が国際的陰謀に巻きこまれるという冒険小説。
主人公が10代というだけで、やっていることはいつものヒギンズ作品とそう変わらない。
ただ、児童書らしく活字が大きいのがなんだか妙だ。

共著者のジャスティン・リチャーズは、TVドラマ「ドクター・フー」などの脚本を書いたひとだそう。
では、ストーリーをみていこう。

まず、プロローグ。
とある石油貯蔵施設に2人の男が侵入。
2人はある液体サンプルを入手し、脱出。
警備員に気づかれた2人は、脱出時石油貯蔵庫を爆破する。

本編に入り、15歳の双子の主人公、姉のジェイドと弟のリッチが登場。
ジェイドはからだをきたえるのが好きで、リッチは読書家。
かれらの母親であるサンドラ・チャンスが亡くなってしまい、ちょうど葬儀の最中。

アメリカで長くはたらいていたサンドラは、右側通行にすっかりなじんでしまっていた。
そのため、反対側をみず、交通事故にあってしまった。
サンドラは2人の子どもを連れて、地元であるマンチェスター郊外に引っ越してきたばかりだった。

その母親の葬儀のさなか、ひとりの男があらわれる。
40歳くらいの、大きな、もの静かな男。
男は、リッチとジェイドに、自分はきみたちの父親だと名乗る。
2人は仰天。
自分たちに父親がいるとは知らなかった。
父親と名乗る男――ジョン・チャンスも、自分に子どもがいるとは知らなかったという。

ともかく、ジョンは2人を引きとると宣言。
ただ、現在かなり面倒な仕事をかかえている。
それに、アパートはとても狭い。
だから、今学期が終わるまで、寄宿学校に入ってもらいたい。

ジョンの提案に、2人は猛反発。
でも、きょうのところはジョンのアパートに。

それからのジョンの行動は、いかにも怪しい。
夜中、電話がかかってきて外へでかける。
電話機には変な箱がついている(のちに盗聴防止用のスクランブラ―とわかる)。
ゴミ箱に突っこまれた封筒の宛名は、ヘンリー・レシターという別人の名前だ。
自分たちの父親は、本当にジョン・チャンスなのか。
リッチとジェイドは怪しむ。

次の晩も電話がかかってきて、ジョンはでかける。
リッチとジェイドは、ジョンのあとを尾ける。

ところで、この作品は3人称多視点だ。
だから、悪者たちの行動もえがかれる。
リッチとジェイドは、このとき敵方の女性マグダに尾行されていた。
2人は結果的に、父親の居場所を敵方につたえる役割を果たしてしまう。

ジョンがやってきたのは、くず鉄置場。
そこに大型の青いヴァンがあらわれる。
銃をもった男たちが降り立ち、父親を拉致して去っていく。

ジェイドとリッチは警察へ。
父親が誘拐されたと訴える。
が、ジョン・チャンスなどという人物はいないと巡査部長にいわれてしまう。

アパートにもどり、どうしたらいいか2人が話しあっていると、血まみれの男があらわれる。
父の友人で、フィリップと名乗る血まみれの男は、「サンプルをどこかに隠して、きみたちは逃げるんだ」と、息も絶えだえにいう。
ジェイドもリッチも、サンプルなんて知らない。
当惑していると、男たちが襲撃してきて、銃撃戦。
サブマシンガンまで撃ってくる。
2人はなんとかアパートを脱出して――。

さて。
これだけ紹介しておいてなんだけれど、この作品が面白いかと問われたら、うーんと唸らざるを得ない。
大変なスピードで、次つぎと出来事が起こるのは、後期ヒギンズの作風。
でも、出来事が次から次へと起こるだけでは作品にはならない。
そこには、出来事を貫くなにかがなければならないのだけれど、そのなにかがとぼしいと感じられる。

たとえば、突然あらわれたリッチとジェイドの父親、ジョン・チャンスは、いつ2人の母親であるサンドラと出会って別れたのか。
2人のなれそめが作中で語られるのかと思ったら、語られない。

また、サンドラはなぜ2人の子どものことをチャンスにいわなかったのか。
いわなかったことが今回の事件に関係があるのだろうかと思ったらない。
今回の事件について、ジョンもサンドラも個人的なかかわりをもっていない。
これが、「出来事が次つぎと起こるだけ」と感じさせる大きな理由だろう。

ただ、訳者あとがきによると、本作はシリーズ化されているらしい。
だから、こういったことは、これから語られるのかもしれない。
少しずつ、シリーズが進むごとに、登場人物に厚みが加えられていくのかもしれない。

本作品の、事件の背景も簡単に記しておこう。
リッチとジェイドの父親は、政府の特殊な部署ではたらいていた。
今回の任務は、クレジキスタン石油会社(KOS社)の内偵。

KOS社のあるクレジキスタンは、元はソ連の一部だった。
産油国ではないが、KOS社はパイプラインのリース契約から収益を得ている。
経営者の名前は、ヴィクター・ヴィシンスキー。

チャンスは仲間とともに、ロンドン郊外にあるKOS社の極秘研究所に侵入し、サンプルを入手したのち、施設を爆破。
これが、プロローグ。
爆破のため、もはやサンプルはチャンスが入手したものしか残っていない。
そこで、悪だくみに必要なサンプルをもとめて、KOS社はチャンスを拉致し、リッチとジェイドを追いかけることになった。
一方、チャンスが所属する部署も、血まなこになってサンプルをさがすことに。

このあと、リッチとジェイドはクレジキスタンにおもむき――敵側につかまり連れていかれるのだが――そこで大暴れする。

一般小説の書き手が児童書を書くと、たいていうまくいかない。
本書もそうだし、エルモア・レナードの、「ママ、大変、うちにコヨーテがいるよ!」(高見浩/訳 角川書店 2005)もいまひとつだった。
成功例としては、カール・ハイアセンの「フラッシュ」(千葉茂樹/訳 理論社 2006)が思い浮かぶ。
成功した作品は、ほかにはなにかあるだろうか。
一体どうしてうまくいかないのだろうか。

それから。
日本の児童文学にはうといのだけれど、冒険小説は書かれているのだろうか。
登場人物が擬人化された動物ではなく、ファンタジー色もそう強くはなく、主人公の少年少女が現実世界のなかで適度に能力を発揮し、適度に活躍する――。
マンガではなく児童文学で、そんな作品は書かれているのだろうか。


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月明のひとみ

「月明のひとみ」(ジョセフィン・プール/著 美山二郎/訳 大日本図書 1976)

正体不明の本を紹介するのは不安だ。
すでに定評のある作品なら、それを支えとして自分なりの感想を書けばいい。
著名な作者なら、別の作品や前評判を引きあいにだせばいい。
でも、今回とりあげる本書の著者は、この一冊しか邦訳がないようだから、ほかの作品を引きあいにだすわけにもいかない。
というわけで、とりつくしまがない。

本書は英国の児童文学。
訳者あとがきによれば、作者のジョセフィン・プールは、1933年イギリスの生まれ。
読み進めてわかったのだが、この小説はホラー小説だった。
ホラー小説というのが極端なら、怖い小説といい直してもいい。
主人公である15歳の少女ケイトが、家に入りこんできた女性と対決するというのが、そのストーリーだ。

怖い小説は好きではないので、普段は絶対読まない。
ただの英国児童文学だと思って読みはじめたら、恐ろしい目にあった。

さて、ストーリーを追っていこう。
ケイトのお父さん、ポーレイ氏は画家。
お母さんは、弟のトーマスを生んだあと、亡くなってしまった。
ポーレイ氏は、ロンドンで展覧会を開いたこともあったが、いまは絵を描く情熱を失ってしまっている。
そこで、情熱をとりもどすために、旅行にでかけることに。

ケイトとトーマスは留守番。
お父さんの留守中は、近所のビアおばさんが毎日世話をしにきてくれることに。
このビアおばさんは、

「おばさんのからだの中にはおしゃべりすることが、ぎっしりつまっていて、ちょっとしたきっかけがあれば、よどみのない川のように流れでてくるのだった」

というタイプのひと。

弟のトーマスは5歳。
口をきかず、ひとりで何時間でもすわって切り紙細工をしたりする。
専門医にみてもらったが、口がきけなくなるような悪いところはどこにもないと診断された。

さて、留守番をはじめると、妙なことが次つぎと起こる。
庭の池にある、トーマスによく似た石像の台座に、落書きがされている。
その文句は、

「はじめに、われら待たん。
 つぎに、われら口笛を吹き、
 そして、われらとともに踊らん。」

というもの。

この作品は3章立て。
この文句がそれぞれの章の章題となっている。

それから、トーマスが、お父さんが絵を描いた本を一枚ちぎって暖炉で燃やしてしまう。
それは、鳥を口にくわえた黒い犬の絵だった。

その後、じっさい庭に大きな黒い犬があらわれる。
さらに、ローダという女性が登場。
ローダは、ケイトのおじいさんの2度目の奥さんの娘。
この奥さんも2度目の結婚だったので、ローダは連れ子だった。

ローダは、ポーレイの家では暮らさず、近所で家を借りていた。
結婚して1年あまり、生活がうまくいかなかったポーレイ夫人もこの家に越してきて、2人はじきいなくなった。

学校の帰り、ローダに会ったケイトは、自分の家に泊まるようローダを誘ってしまう――。
このあたりまでが、第1章だ。

さて、ローダを泊める部屋を掃除していたケイトは、壁紙の下に星のしるしをみつける。
この星と、黒い大きな犬とはなにか関係があるよう。

ローダがくると家のなかは不穏な雰囲気に。
ケイトはローダを誘ったことを後悔。
はじめてローダに会ったとき魔法にかけられていたのだと、ケイトは思う。
そしていま、ローダに魔法をかけられているのはトーマス。
ローダが叱らないので、トーマスはすっかりローダになついてしまった。

家は男の子が継ぐものだ。
だから、ローダはこの家をねらっているのだ。
と、これはビアおばさん。

ケイトがローダの部屋をのぞきみすると、ローダは魔法の書のようなものを読んでいる。
ひょっとすると、主人はあの黒い犬でローダはその手下なのではないか。
つぎ家のなかに入ってくるとしたら、それはあの黒い犬にちがいない。
そう考えて、ケイトはおびえる。

本書は3人称ケイト視点。
なにをみるのも聞くのも、ケイトを通してえがかれる。
そのため、すべての描写が意味をもっているように感じられ、不穏さをかもしだす。

ローダがきてから、ケイトの不安はつのっていく。
でも、具体的にローダとのあいだになにか起こったということはない。
にもかかわらず、ケイトは追いつめられる。
この、じわじわと不安が増していくえがきかたは見事なものだ。

また、本書は、最後まで読んでもローダがじっさい魔女だったかどうか判然としない。
そういう書きかたがされている。
ひょっとすると、すべてはケイトの妄想だったのではないかという読みかたが可能だ。
ここで思い出すのは、同じ英国の児童文学作家、ジョーン・G・ロビンソンによる、「くまのテディ・ロビンソン」「思い出のマーニー」
どの作品も、同じ趣向がとられている。

でも、本書の緊張感は、「マーニー」に勝るともおとらない。
こんなに緊張感をださなくてもいいのではないかと思うほど。

本書の後半は、侵入をこころみる黒い大きな犬と、それをふせごうとするケイトとのたたかい。
ケイト視点で書かれた本書中、1か所だけトーマス視点で書かれたところがある。
それは、ケイトがトーマスを連れて教会にいく場面。
日差しが教会の窓からさしこみ、姉の姿を照らすのをトーマスはみる。

最後に、大きな役割を果たすのはトーマス。
じつは、たたかいは、ケイトとローダのあいだではなく、トーマスとローダのあいだで起こっていたのではないかとケイトは悟る。

本書の訳文はとても読みにくい。
語尾が、「――だ」の単調なくり返しのため、読んでいても意味がよくのみこめない。
この点では、さきほど挙げた「マーニー」などとくらべると、格段に落ちる。
でも、本書をホラー小説だと考えれば、この訳文も効果的だといえるかも。
意味不明な文章は、それだけで読者を不安にさせるものだから。



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木曜日はあそびの日

「木曜日はあそびの日」(ピエール・グリパリ/作 金川光夫/訳 岩波書店 1980)

岩波少年文庫の一冊。
さし絵は、飯野和好。
筆でえがいたような、黒ぐろとした太い描線が特徴的。

本書はフランスの児童文学。
手元にあったのは、岩波少年文庫創刊40年記念の特装版。
ウィリアム・モリスのデザインをあしらったもの。
古本屋で買ったのだけれど、どこかの学校のハンコが押してある。
学校図書館に所蔵されたものの、除籍され、流れ流れてここにたどり着いたものだろうか。

作者、ピエール・グリバリについてはよく知らない。
内容は、都会風の洒落たおとぎ話集といった風。
収録作は以下。

まえがき
「ムフタール通りの魔女」
「赤靴下をはいた巨人」
「一足の靴」
「万能人形スクービドゥー」
「じゃがいもの恋の物語」
「蛇口の妖精」
「やさしい、子どもの悪魔」
「ほうき置場の魔女」
「ピエール伯父さんの家」
「ブリュブ王子と人魚」
「ずるがしこい子豚」
「誰やら、何やら、もしくは賢い妻」

「まえがき」に、本書の成り立ちが語られている。
パリに、ブロカ通りという架空の通りがある。
そこに、サイド小父さんが経営する、食料品店居酒屋がある。
そのとなりにはホテルがある。

居酒屋には、ナディア、マリカ、ラシダ、バシールといった、サイド小父さんの子どもたちがいて、ホテルの泊り客にも、二コラやティナといった子どもたちがいる。
作者のピエールさんは、居酒屋にちょくちょく立ち寄り、子どもたちに物語を語って聞かせていた。
ところが、ある日、ピエールさんの物語の種はつきてしまった。
そこで、子どもたちにこう提案。
毎週木曜日の午後にあつまって、みんなで一緒に新しい物語をつくろう。
もしそれがたくさんになったら、一冊の本にしよう。
――そうして成ったのがこの本。

だから、物語にはナディアやバシールといった子どもたちが何度も登場する。
万能人形スクービドゥーも、悪賢い子豚の貯金箱も、2匹の金魚が入った金魚鉢も、みんな実際にあったものだそう。
つまり、実際にあった身のまわりのものに、子どもたちは次つぎと物語をあたえていったということだろう。
では、物語をみていこう。

「ムフタール通りの魔女」
昔、パリのゴブラン地区に、魔法使いのおばあさんが住んでいた。
老いぼれて醜いくせに、世界一の美女だという評判を得たいと願っていた。
ある日、魔女は「魔女新聞」にこんな広告が載っているのをみつけた。
――若く美しくなるためには、トマトソースをつけて、少女をまるごと食べましょう。

さて、この地区には、ナディア――お話づくりにきていた女の子――という名前の女の子がいた。
魔女は、ナディアを食べなくてはいけないと思い決める。

その後、魔女はいろいろと苦労をして、ついにナディアを捕まえる。
ところで、ナディアにはバシールという弟がいた。
後半は、バシールによるナディアの救出が語られる。

魔女が、新聞広告をみてナディアを食べようとするのが現代風。
また、物語づくりにナディアも参加していたのなら、魔女とのやりとりなど大いに盛り上がったことだろう。
これは本書全体にいえることだけれど、読んでいて、物語に合いの手を入れる聴き手の顔がみえるようだ。

「赤靴下をはいた巨人」
身の丈が4階建てのビルほどもある大男が、住んでいた地下から地上にでて、お嫁さんをさがすというお話。
大男は、地上にでたとき、最初に出会った女の子に恋をする。
が、いまの大きさでそれは無理。
そこで、人間サイズになるために、中国の魔法使いを訪ね、ブルターニュの大魔法使いを訪ね、ローマ法王を訪ねる。

願いがかなって、巨人は人間並みの大きさになる。
ところが、そうなるといままではいていた赤靴下が、寝袋のようになってしまう。
おかげで、それまでつかえていた魔法がつかえない。
でも、最後はなにもかもうまくいく。

「一足の靴」
右足が夫の二コラ、左足が妻のティナという、一足の靴が主人公のお話。
この二コラとティナも、作者とお話をつくっていた兄妹。

二コラとティナは、靴屋の店先で幸せに暮らしていたが、ある婦人に買い上げられる。
ところが靴をはいた婦人は、何度も足をもつらせ転んでしまう。
というのも、二コラとティナがたがいに近づこうとして、婦人の足を引っかけてしまうから。

でも、靴が愛しあっていると知った婦人は、靴をいつもぴかぴかにしてしまっておくようにと家政婦に命じる。
家政婦は、奥さまがはかないのなら自分がと、靴を盗んではいてみる。
が、やはり足をもつらせ転んでしまう。
そこで、家政婦はこの靴を足の悪い姪にやってしまい――。

一足の靴が愛しあっているという設定が、なんともシュール。
短いけれど、しみじみとした風情のある一篇だ。

「万能人形スクービドゥー」
バシール少年がもつ魔法の人形スクービドゥーの、大冒険のお話。
スクービドゥーは人間同様、歩いたり話したりするだけでなく、魔法もつかえ、目隠しをされると過去や未来をいいあてる。

ある日、スクービドゥーは、バシール少年に、パパが自転車を買ってくれるように仕向けてほしいとお願いされる。
そこで、スクービドゥーは魔法をつかうのだが、それが裏目にでて、バシールのもとを去るはめに。
スクービドゥーは、旅を続けたあげく、港から船に乗り、未来の天気をぴたりと当てる気象予報士としてはたらくことに。
給料は、1日5フラン。
そのお金を貯めて、バシールに自転車を買ってやるつもり。
ところが、航海中に思わぬことが起こり、スクービドゥーは海に投げだされてしまう――。

もちろん最後、スクービドゥーはバシール少年のもとに戻り、バシール少年は自転車を手に入れる。
でも、それまでのいきさつは波乱万丈だ。

「じゃがいもの恋の物語」
ポム・フリット(油で揚げたじゃがいも)になることを夢みるジャガイモのお話。
ところが、運命はその夢をかなえることを許さない。

少年にナイフで目耳鼻を彫られたジャガイモは、口がきけるようになる。
が、ごみ捨て場に捨てられてしまい、そこで弦が2本しかないギターと出会う。
2人が身の上話を語りあっていると、それを聞きつけた浮浪者が2人をつかみ、サーカスに売りこみに――。

ジャガイモのていねいなことばづかいが面白い。
はじめてギターに会ったとき、ジャガイモはこう挨拶をする。

「お見受けしたところ、なみなみならぬご身分のおかたと存じますが。と申しますのは、フライパンにとても似ておいでですもの!」

ラストは、大変なナンセンスだ。

「蛇口の妖精」
この話もまた、魔法が裏目にでてしまうという話。

昔、ガリアの地のある泉に、ひとりの妖精が住んでいた。
当時は崇拝されていたが、ひとびとがキリストに教化されると、かえりみられなくなってしまった。
あるとき、技師たちがやってきて、泉から給水するために工事をした。
そのため、妖精はあるアパルトマンに住む労働者一家の姉娘、マルチーヌの前に姿をあらわす――。

マルチーヌは妖精に親切にする。
お礼に妖精は、マルチーヌの口から真珠がでるようにしてやる。
そのため、両親はマルチーヌを学校にいかせるのをやめさせ、サラダボウルの上でおしゃべりさせるようになる。
まもなく、下品なことばをいうと真珠が大粒になることがわかり、下品なことだけをいわせるように。
こんな生活に耐えられなくなったマルチーヌは家をでる――。

このあとも、マルチーヌの受難はまだ続く。
さらに、マルチーヌの妹のマリは、妖精のために口から蛇がでてくるように。

泉に妖精がいるのなら、蛇口にだって妖精がいるはずだ。
これは、いかにも子どもの発想のように思える。
妖精の魔法からはじまった騒動は、妖精の魔法によって幕を下ろす。
このとき、バシールのノートが活躍するのが、また楽しいところだ。

「やさしい、子どもの悪魔」
心優しいひとになりたいと願った、子どもの悪魔のお話。

子どもの悪魔は地獄に住んでいる。
地獄は、地上とはなにもかもあべこべ。
そのため、子どもの悪魔のすることは、両親を大変悲しませる。

「今日は何をしたんだい?」
「学校へ行きました」
「あきれたやつだ! 宿題はすんだかい?」
「ええ、パパ」
「ばかなやつだ! 勉強は分かったかい?」
「ええ、パパ」
「困ったやつだ!」
――という具合。

年季奉公にだされた子どもの悪魔は、中央大型炉で、大鍋の火を守る番人をすることに。
ところが、大鍋で煮られる罪人のために、火力を加減していたことが、悪魔鍋監督官の定期巡回視察により発覚。
次は、炭鉱ではたらくことになる――。

なにもかもあべこべな話というのは、それだけで面白い。
子どもの悪魔はその後、人間界にいき、法王の手助けを得て天国にいき、試験を経て、ついには天使の仲間入りをする。
こういう話があるのは、いかにもカトリック国らしいというべきだろうか。

「ほうき置場の魔女」
これはめずらしく〈ぼく〉の1人称のお話。
〈ぼく〉がピエールさんに、自分の身に起こったことを話す。
本書中、1人称はこの話だけだ。

さて、〈ぼく〉はポケットから5フランを発見。
さっそく公証人のところに駆けていき、1軒の家を購入。
それにしても、5フランとは安すぎる。

じつは、家のほうき置場の物入れには、魔女がいる。
ある歌をうたうと、魔女がでてくるという。
お気をつけなさいといいながら、公証人はその歌をうたいだす。
おかげで、〈ぼく〉は、その歌のことばかり考えるようになってしまい――。

2年後、ついに〈ぼく〉は歌をうたってしまう。
でてきた魔女は〈ぼく〉にこういう。
ありえないものを3つ、もとめなさい。
その3つをおまえにやれたら、わたしはおまえの命をもらおう。

困った〈ぼく〉はバジールに助けをもとめる。
バジールは、金魚鉢に2匹の魔法の魚を飼っている。
その魚たちと話ができるのは、ハツカネズミ。
ハツカネズミの通訳を介して、〈ぼく〉は2匹の魚から助言を得る。

オチは、「長くつをはいたネコ」のバリエーションといえるだろうか。
「赤靴下をはいた巨人」の、巨人の魔力の源は赤靴下だったけれど、この話では髪の毛だ。

「ピエール伯父さんの家」
これは、「クリスマスキャロル」風の一篇。

ある村に兄弟がいた。
兄はお金持ちで、けちんぼ。
弟は貧乏で親切だった。

あるとき、雇い主にひまをだされてしまった弟は、妻とともに兄の家に身を寄せた。
兄には、深夜に金貨を数えるという妙なくせがあった。
その兄は、冬のさなかに急死してしまった。

兄の財産を相続し、弟たちはお金持ちに。
ところが、家には深夜、兄の幽霊がでるようになった。
生きているとき同様、どこからか鉄の小箱をとりだし、そこにしまってある金貨を数えだす。

弟たちは司祭に相談。
すると、司祭はこたえる。
激しい感情というものは、それがよいものでも悪いものでも、魂に安らぎをあたえてくれないことがある。
あなたのお兄さんは、金貨にたいする執着が強すぎた。
お兄さんが自身が、自分のおこないのばかばかしさに気づくまで、このことは続くだろう。

弟と妻は、近所に土地を買い、なに不自由なく暮らすことに。
そのうち、男の子と女の子が誕生。
母は、ピエール伯父さんの家にはいってはいけないと2人にいいきかせる。
が、ある雨の日、2人は雨宿りをしに伯父さんの家に入りこむ――。

よく首尾のととのった一篇。
収録作中、どれかひとつを選べといわれたら、この作品を選ぼう。

「ブリュブ王子と人魚」
ある大海原の島に、ブリュブという名前の王子がいた。
王子には、幼いころからの遊び友だちである、1匹の人魚がいた。
2人は毎日、王子の専用海水浴場で会っては遊んでいた。

15歳になった王子は、人魚に結婚を申しこむ。
しかし、人魚と結婚するためには、王子は2本の足を魚の尻尾に変えなければならない。
そうして水の精になると、人間は不死身になる。
でも、そうなると、人間は大地や死すべき運命をなつかしく思うようになる。
あなたが20歳になったときにその話をしましょうと、人魚は王子の求婚をしりぞける。

が、王子は自分の希望を、父である王さまに述べる。
王さまは、宮廷付司祭に相談。
司祭は、人魚を悪魔だと断言。
人魚は死なないのだから、死んで天国にいき、神様に会うことはできない。

王さまは、王子と人魚を引きはなそうと画策。
人魚は捕まり、魚屋に売られ、寸切りにされる。
でも、不死身の人魚はすぐ元通りに。

いっぽう、王子は王さまのいとこの、ロシア皇帝のもとへ送られる。
しかし、水さえあれば、どんなところでも2人は出会うことができる。
浴槽で、洗面器で、コップで、王子は人魚と出会う。
王子と人魚を会わせないようにするためには、王子を渇き死にさせるよりほかない。
ロシア皇帝はさじを投げ、王子は国に送還される――。

「やさしい。子どもの悪魔」と同様の、あべこべ話。
これは、「人魚姫」をあべこべにした話だろう。
この話では、王子が試練の果てに人魚となる。
ひょっとすると、「人魚姫」に納得のいかなかった子どもたちが、アイデアをだしたのかも。

このあとも、王子と人魚の試練は続く。
王子は切手に変身させられてしまうし、国では戦争が起こる。
ラスト、王子を失った王さまが、再び子どもをさずかる場面は、なんとも美しいものだ。

「ずるがしこい子豚」
子どもの神さまがいた。
宿題を終えると、お母さん神さまの許可を得て、世界をひとつつくった。
最初に天と地をつくり、次に太陽と月をつくり、それから海をつくり、植物と動物をつくった。
でも、まだ空はからっぽ。
そこで、子どもの神さまは、空に住みたいものはいないかと叫んだ。
たくさんの動物たちが、それに応じて、夜空の星となった。

ところが、子どもの神さまの声を聞いていなかった動物がいた。
それが、子ブタ。
ドングリを食べるのに夢中で、気がつかなかったのだ。
なんとかしてくださいと、子ブタは子どもの神さまにお願いするが、もう空はいっぱいだと、子どもの神さまは聞き入れない。

そこで、子ブタは逆恨み。
毎早朝、星の片づけをするオーロラに、手伝いをすると申し出て、空にのぼり、北極星を盗んで逃走。
フランスはパリのブロカ通り69番地、サイド小父さんの食料品兼居酒屋に飛びこむ。

「まえがき」ある通り、このお話は実在する子ブタの貯金箱から想を得た作品。
「なぜ子ブタの貯金箱がそこにあるのか」を説明する、由来譚といえるだろう。
天地創造から、いきなりブロカ通りというローカルな場所に話が移るのがなかなかすごい。

さて、子ブタが飛びこんだとき、店には小父さんも小母さんも、ナディアもバシールも留守だった。
ちょうど、ナディアは1話目の、ムフタールの魔女に誘拐されていたところで、バシールは姉を救出に向かっていたところだった。
そこで、子ブタへの応対は、マリカとラシダがすることに。
2人は、オーロラに追われているという子ブタを穴蔵にかくまう。
こんな風に、別の話がかかわってくるところも、たいそう楽しい。
その後、この性悪な子ブタは相応の報いを受けるはめに。

「誰やら、何やら、もしくは賢い妻」
昔、3人の息子をもつ金持ちの商人がいた。
3人の息子のうち、最初の2人は利口者だったが、3人目はバカだった。
ある日、商人は息子たちを呼んでこういった。
おまえたちも大きくなったのだから、仕事をおぼえなくてはならん。
金貨を100枚やるから、それで商品を仕入れなさい。
また、船も一隻ずつやるから、外国にいって、商品を売ってきなさい。

そこで、長男は毛皮を仕入れ、次男はハチミツを仕入れ、それぞれ船に積みこんだ。
が、バカ息子は金貨100枚で子どもたちからいじめられていたネコをすくいだし、そのネコを連れてきた。

3人は、めいめいの船で出発。
3か月後、見知らぬ島にたどり着く。
この島にはネコがいなかった。
そのため、ネズミが大繁殖していた
長男の毛皮はかじられ、次男のハチミツは樽から流れだし、みんなダメになってしまった。

おかげで、バカ息子のネコはとても高く売れる。
その値は、金貨3樽。
そのうち、2樽は兄たちにあげてしまう。
そして、自分はこの島に残るという。
ここは、ぼくをまだバカ扱いしない唯一の国ですから――。

ここまでは、イギリスの昔話、「ディック・ウイッティントンとねこ」と同様。
ところが、このあといろいろあって、バカ息子は賢い妻を得る。
すると、島の王さまがバカ息子の妻に懸想し、無理難題を吹っかけてくる。
そこで、賢い妻は夫を助け、王さまの無理難題を解くことに。

と、後半は賢い妻のパターンに。
いろんな話をないまぜにしたような、不思議な一篇だった。

さて。
長ながと紹介してきたけれど、全体として。
時空間がはっきり定まっていないところや、ストーリーの飛躍が大きい点がなんともフランス風。
シュールでナンセンスで、ちょっと意地の悪いところは、シュペルヴィエルやエーメの作品を思い起こさせる。
そして、物語のむこうには、物語の進行に夢中になっている子どもたちの姿がみえる。
それが、本書の愉しいところだ。



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はるかなるアフガニスタン

「はるかなるアフガニスタン」(アンドリュー・クレメンツ/著 田中奈津子/訳 講談社 2012)

アンドリュー・クレメンツの作品はずいぶん読んだ。
ひょっとしたら、ぜんぶ読んでいるかもしれない。
とにかく面白いのだ。
一体、なにがそんなに面白いのか。

クレメンツ作品の面白さは、社会性があることだと思う。
登場人物たちが、社会のなかで暮らしているという感じがすごくする。
登場人物と社会のあいだに、なにかしらやりとりがある。
話が、ただの身の上話で終わらない。
そして、ここが重要なのだが、それでいて面白い。

社会性があり、しかし説教癖がなく、かつ面白い。
こういう児童文学は、そうないのではないか。

本書は、アメリカの女の子が、アフガニスタンの男の子と手紙のやりとりをするというもの。
文章はですます調。
読者に話しかけるような文章が採用されている。
でも、登場人物が内心を語る部分は、当然ながらですます調ではなくなる。
読んでいるとき、そこが気になるといえば、まあ気になる。
ささいなことではあるけれど。

女の子の名前は、アビー・カーゾン。
イリノイ州の小学校に通う6年生。
クライミングが好きで、体育館にある9メートルの登り壁によく登る。
一番上までいくルートは、ほぼ全て制覇した。
でも、あとひとつ、出っ張りのあるルートだけは登り切れない。

イリノイ州には山がない。
だから、アビーは本物の山をみたことがない。

学校の成績はいまひとつ。
というより、悪い。
ある日、アビーは先生に呼びだされ、こういわれる。
もう一度6年生をやったほうがいいと思うの。
アビーは仰天。

落第しないためには、これからすべての試験でBかそれ以上の点をとらなければいけない。
それから、特別な課題をこなさなくてはいけない。
特別課題は10種類ほどのなかからくじ引きで決定。
アビーが引いた課題は、外国の生徒と文通するというもの。

文通する相手国の候補は3つ。
インドネシア、アフガニスタン、中国。
山が好きなアビーは、アフガニスタンの子と文通することを選ぶ――。

アビーがアフガニスタンの子と文通することになったのは、落第をさけるためだった。
それから、アフガニスタンを選んだのは、山が好きだからという理由だけ。
高尚な動機はなにもない。
それが、読者を物語に入りやすくさせている。
この導入にはつくづく感心。

というわけで、アビーの手紙はアフガニスタンの首都カブールから120キロほどはなれた、バハーランという村に届く。
届いて、どうなったか。
村で会議が開かれた。

だれかが返事を書くべきだが、だれが書くべきか。
一番英語ができる、サディード・バヤトがふさわしい。
しかし、女の子からの手紙なのだから、女の子が返事を書くべきだ。
ちょうど、サディードには2歳下の妹、アミーラがいる。
アミーラが手紙を書き、サディードがそれを手伝うことにしよう――と、会議は決定。

じつは本書はこの場面――村の会議を盗み聞きするサディードの場面――からはじまる。
村の長老たちが、自分に奨学金をくれるために会議を開いたのだと思っていたサディードは、大いに落胆。
女の子と手紙のやりとりなんかしたくない。
それに、アミーラに英語で手紙を書かせるなんて無理だ。

最初、アミーラに英語で手紙を書かせようとしたサディードだったが、すぐに方針を転換。
アミーラが話すことばをノートにとり、それを自分で英語に直すことに。
さらに、自分ならもっといい手紙が書けると、アミーラの手紙を書き直す。
でも、マフムード先生に書き直す前と後の手紙をみせると、前のほうがいいといわれてしまう。
ともかく、手紙は両府とも先生に預ける――。

ここまでが、だいたい本書の3分の1.
これから、いよいよ文通がはじまる。
文通によって、たがいの暮らしぶりが明瞭にみえてくる。
それから、たがいの性格も。

アビーの家は地主で、敷地のなかに畑があり、森がある。
自然が好きなアビーは、森をすみずみまで探検。
いまは、倒れたオークの木にツリーハウスをつくっている。
弓矢をつくりたくて、ネットでアメリカ陸軍サバイバルマニュアルをみつけ、その指示に従って丈夫な弓までつくった。
勉強こそいまひとつなアビーだけれど、好きなことは追求する。

一方、サディード。
お父さんは、アシフおじさんと穀物を売る店をやっている。
お母さんは、家の仕事のほかに、裁縫の仕事も。
普段つかっていることばはダリー語。
もう半年近く、村では銃撃戦や爆弾騒ぎは起きていない。
女の子が全員学校にいくことを許されているわけではないけれど、妹のアミーラは、お父さんが許可したのでいくことができた。

成績優秀なサディードは、自己顕示欲が強い。
手紙に、つい自慢めいたことを書いてしまう。
マフムード先生に渡した2通の手紙のうち、けっきょくアビーのもとに届いたのは、サディードが書き直したほうの手紙だった。
そのため、サディードがどう手紙を書き直したかがよくわかる。
サディードが書き直した手紙では、アミーラが兄を称賛していたりして、ほほえましい。

さて、アフガニスタンから返事が届き、それが素晴らしい手紙だったので、アビーは発奮。
自分も素敵な手紙を書こうと決意する。

そのうち、サディードはアビーに本当のことを書いた秘密の手紙をだす。
本当は、手紙はアミーラではなく自分が書いたのだ。
アビーは、文通した手紙を学校の掲示板に貼っているのだが、――これも課題のひとつ――もちろん、この手紙は貼りださない。

2人の手紙は親密さを増していく。
が、それもつかの間。
文通は、政治的な理由により突然終わりを迎える。

きっかけは、サディードが村にあらわれた粗暴な男にアミーラからの封筒をみられてしまったこと。
封筒には、アメリカ国旗の切手が貼られていた。

「おまえはわれわれの国を汚し、民を殺したやつらと関係があるのか? やつらのスパイなのか?」

と、難癖をつけてくる男から、なんとか逃げだしたサディードは、村長のもとへ。
村では、また会議が開かれ、治安部隊を呼ぶことに。
もちろん、文通は禁止。

一方、サディードほどではないけれど、アビーにもこんなことがあった。
アビーは、掲示板にアミーラからの手紙だけではなく、アフガニスタンの国旗も貼っていた。
アフガニスタンの国旗にはことばが書かれている。
その国旗をみた学校の生徒が、親と一緒にそのことばを調べた。
それは、イスラム教のお祈りのことば。
この親は校長に、公立学校にこの国旗を張りだすべきではないと訴え、けっきょく旗ははずされることになった。

サディードとアビーは等身大の子どもとしてえがかれている。
2人とも、無謀な、英雄的な行動をおこしたりはしない。
粗暴な男にからまれたサディードは、怖さと悔しさで、いい返してやろうと思うが、思いとどまる。
アビーは、サディードとの文通が突然終わってしまったことを受け入れる。
手紙をだすと、サディードを危険にさらす恐れがあるからだ。

手紙のやりとりはほんの数回だったけれど、2人は確実に変化した。
アビーもサディードも、自分たちの住む場所を、いままでとはちがう目でみるようになった。
アビーが送った、真っ平で退屈なトウモロコシ畑の写真をみて、サディードが書いた返事はこう。

「あんなに畑があれば、村のひとと動物が冬じゅう食べものに困らないだろう。あの畑は、神のほほえみのように美しいです」

アビーも、サディードの目でトウモロコシ畑をながめるようになる。

また、サディードは12歳の誕生日のプレゼントに、アシフおじさんから山用のロープをもらった。
いままで、山登りなんかに興味がなかったけれど、高い山に挑戦してみようとサディードは思う。

それから。
2人の手紙が親密さを増すきっかけになったのは、アーノルド・ローベルの絵本「ふたりはともだち」(アーノルド・ローベル/作 三木卓/訳 文化出版局 1978)を、2人とも読んでいたことがきっかけだった。
サディードにとって、この本ははじめて読んだアメリカの本だった。
また、アビーにとっては、小さいころ大好きな本だった。

「あなたがすきだという本のことを聞いて、不思議な気持ちになりました」

と、アビーはサディードに書く。

おそらく、作者は2人ともが読む可能性のある本はなんだろうかと考えたことだろう。
それだけではなく、作品のテーマとも結びつく本はないだろうかと考えたにちがいない。
その結果、選ばれたのが、この「ふたりはともだち」だった――と思いたい。

2人が読んだことのある本というものを考えたとき、「ふたりはともだち」以上の本はありえない。
「ふたりはともだち」と、本書と、両方読んだことがあるひとなら、きっと同意してくれるはずだ。




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オタバリの少年探偵たち

「オタバリの少年探偵たち」(セシル・デイ・ルイス/作 瀬田貞二/訳 岩波書店 1957)

訳は、瀬田貞二。
岩波少年文庫の一冊。
いま調べてみたら、2008年に脇明子さんによる新訳が刊行されていた。

これは英国の児童文学。
原書の刊行は1948年。
作者は、名高い詩人。
ニコラス・ブレイクの筆名で書いた、「野獣死すべし」(早川書店)などのミステリの作者としても、また名高い。
さし絵は、「チムとゆうかんな船長」などを書いた、これもまた名高いエドワード・アーディゾーニ。

本書は冒頭に、こんな文章が記されている。

《この「オタバリの探偵たち」は、フランス映画 Nous les Gosses の作りかえです。》

この映画はイギリスで、「ぼくたちチンピラ」というタイトルで上映されたという。
でも、「作りかえ」とはどのていどのことなのか。
翻案なのか、ノベライズなのか、アイデアを得たというほどに留まるのか。
それがちょっとわからない。

まあ、それはともかく。
本書は、ジョージという男の子による、〈ぼく〉の1人称。
年のころは13、4歳くらいだろうか。
この歴史家を自認するジョージにより、ひとつの事件がえがかれる。

ストーリーは、どかん場で戦争ごっこをする場面から。
「どかん場」というのは、戦争のとき爆弾が落ちたためにできた広場のこと。
ジョージの仲間は、親分格のテッド。
それから、爆弾で両親を失い、いまは叔父叔母の世話になっているニック、などなど。

戦争ごっこは、わが軍の勝利。
トピーひきいる敵方のタンク――自転車を改造したもの――を強襲し、一同、奪ったタンクとともにはしゃぎながら学校に帰還。
ところが、誰かが蹴ったフットボールが校長室のとなりの教室の窓を割ってしまう。
フットボールを蹴ったのは、ニック。
皆は、校長にお目玉をくらい、ニックは一週間以内に弁償代を払うはめに。

ニックの叔父叔母は、ニックの話など聞きはしない。
そこで、みんなでニックを助けることに。
トピーたちが再戦を申しこんできても、それには応じない。
すると、事情を知ったトピーたちも、ニックの手助けをするといいだす。
ここに、テッド軍とトピー軍による、オタバリ平和条約が締結される。

さて、どうやって窓ガラスの弁償費用を調達するか。
みんなの寄付や、おもちゃの類を質屋に入れてお金をつくっても、目標額にはほど遠い。
そこで、この週末、みんなそれぞれ得意なことをして、お金を稼ぐことにする――。

この、ニックのためにお金を稼ぐ作戦は、「ガラス屋作戦」と名づけられる。
親たちに話すのは、全員一致で否決。
大人たちは、並のやりかたを外れると大騒ぎするし、知られていたのでは、町を驚かす戦術上の要素を失ってしまう。
なにより自分たちだけでやり遂げるほうがずっと面白い。
ただ、なにかがうまくいかなくなった場合は、委員会がリチャーズ先生を相談役に呼ぶ権限をもつ。

翌日、ガラス屋作戦が開始。
窓ふきをしたり、合唱を聞かせたり、似顔絵を描いたり、少々いんちきな靴磨きをしたり、新聞配達の手伝いをしたり――。
その日のうちに、目標額を上回る稼ぎを得ることができた。

ここまでが、全体の3分の1ほど。
ここから話は急展開。
お金は、箱に入れてテッドが保管していた。
ところが、翌日、お金をニックに渡そうとしたところ、お金がなくなっていたのだ。

お金はどこに消えたのか。
盗まれてしまったのか。
盗まれたとしたら、だれが、どうやって。

もちろん、疑いはお金を管理していたテッドにかけられる。
そこで、ジョージとニックはテッドを助けるために真犯人をさがしだすことに――。

先ほど書いたように、本書はジョージの1人称。
1957年に出版された本書の訳は、さすがに古い。
でも、語句やいいまわしは古びているものの、全体としては生きている。
例として、冒頭近く、ニックについての文章を引いておこう。

《ニックは爆弾が落ちてからめっきり明るくなくなった。爆弾がおとうさんとおかあさんを殺し、かれがひとりきり、めちゃめちゃになったなかから助けだされた。むりもないんだ。でもぼくたちは、やっぱりニックがすきだった。あんなことがあった場所へきて遊ぶなんて、土性っ骨のいることだもの》

また、本書は少年たちの群像劇としてえがかれている。
これは、歴史家としての任務をよくはたして、自身をあまり押しださないジョージのおかげだろう。

それから、これは英米の児童文学の特徴だと思うけれど、子どもたちがじつに組織だっている。
戦争ごっこのときは各班に分かれ、それぞれ隊長が各部下に指示をだす。
停戦のさいは平和条約が結ばれる。
ガラス屋作戦のときは、委員会が設置される。
そして、どうやって窓ガラスの代金を稼ぐかについては、合議によって決められる。

テッドが金を盗んだ容疑者とされたときは、裁判が開かれる。
トピーが判事で、その副官であるピーター・バッツが検事。
ジョージは懸命に陪審員に訴える。

「イギリスの法律では、じっさいに有罪とわかるまでは無罪のあつかいでおかるべきで、有罪証明の任は検察のがわにある――」

英米の子どもたちは、遊びのなかで委員会をつくったり、裁判をしたりするのだろうか。
大人の社会と子どもの社会のあいだに、日本ほどの断絶がないのだろうか。

さて。
その後のストーリーについて触れておきたい。
ジョージたちの推理により、怪しい2人組の大人が浮かび上がる。
ひとりは、ジョニー・シャープ。
もうひとりは、その子分で、〈いぼ〉というあだ名のジョセフ・シーズ。

そして、この2人と、お金の入った箱をつなぐのが、トピーの仲間の一員だった〈すもも〉。
なぜなら、お金を入れる箱をもってきたのは、すももだったからだ。

というわけで、少年探偵たちの捜査は続行。
最後にいたっては、思いがけない犯罪まで発見してしまう。
このあたり、読んでいて、ルパンを追っていてニセ金づくりに出くわした、映画「カリオストロの城」の銭形警部を思いだした。

後半は、推理、捜査、悪漢との駆け引き。
加えて潜入、乱闘、追跡劇。
少年活劇小説として、まったく申し分のない出来映えだ。

以下は、2014年12月の追記。
「オタバリの少年探偵たち」(脇明子訳 岩波書店 2008)をみてみた。

瀬田訳とちがうのは、まず冒頭に、「物語のまえに」という文章が置かれていること。
作品を楽しむにあたっての手引きが記されている。

また、作者による、映画会社への謝辞は次のように訳されていた。

《『オタバリの少年探偵たち』を書くにあたって、私はフランス映画“Nous les Gosses”(『ぼくら悪ガキ』)を下敷きにしました》

「作りかえ」ではなく、「下敷き」ということばをつかっている。
つまり、アイデアを得ただけではないけれど、ノベライズというほどでもない。
本書は、そのあいだにある作品であるらしい。
あとは実際、このフランス映画とくらべてみるしかないだろう。

さて、それではニックについての説明を脇明子訳でみてみよう。

《爆弾が落ちてからこっち、ニックは頭の回転がすばらしくいいとは言えなくなった。両親はそれで亡くなったし、ニック自身がガレキのなかから掘り出されたんだ。だから、そんな具合なのも当然だよね。とにかくぼくらは、以前とかわらずニックが好きだった。なんたって、そんなめにあった場所へ来て遊ぶなんてことは、よほど肝がすわってないとできやしない。》


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