句、続き

2015-04-15 15:40:17 | 句など
現代芸術は嫌いだ、と書きました。
けれども嫌いなものにアタックするのも勉強です。

現代作家の塚本邦雄の本はそういう意味で最高ですね。

それにしても、現代の句、前衛を含めて百句の紹介は
私にはきつい。
『百句燦燦』いま道半ばで苦闘しています。


たとえば、こんな句。

『子を殴(う)ちし ながき一瞬天の蝉』秋元不死男

自分の子を殴った、長い一瞬。蝉が鳴いている・・・
こういう情景を句にしたものです。

なるほどギリギリまでに削った表現はすごい。
表現されてはじめて気づく世界です。

混沌と昂る気持ちをここまで書けるとは。

けれど、一読、分かりづらくはありませんか。
一般読者を置き去りに、一人高みに登っているような。


そもそも、「表現」は作者の為にあるのか。
受け取る一般人のためにあるのか。

おっと、二者択一にご注意。

答えはたぶん「両者のため」
しかし少なくとも、作者のためだけではないでしょう。

現代芸術は作り手のそこが怪しい。


たとえばこれではどうでしょう。
『我が子殴つ、天から蝉の鳴きやまず』

確かに、当たり前ですが、秋元さんの句が宜しい。
比べ物になりません。

でもね、どちらが分かりやすいですか?

受け手に優しいですか。

作り手が自己をひけらかすかのような難解さは
結局、現代芸術の衰退を招いています。

秋元さんの句などまだ分かりやすいものです。

『火傷して繚乱と挿す冬の芥子』野沢節子

お分かりになります?
私には分かりません。
従って、心底、大っ嫌い。

『折々のことば』4/15

2015-04-15 14:34:01 | 「折々」読んで
今日も、当たり前の「ことば」でした。

『自分の経験から学ばねばなりません。しかしそれだけでは小さすぎる』
                         やなぎみわ

多くの「ことば」は前後、何らかの文章と結びつき
筆者の言わんことを表します。
よって、文脈が分からないと様々に解釈できる「ことば」の
切り取りようができあがります。

それも自由でしょう。
Time is money.だって思うように使えばよろしい。

「ことば」を紹介する側には基本の前提です。

上記のことばもそうです。
至極、当たり前な内容ですけれど。

ただし、であるがゆえに紹介する際の解説は
狭い道に入る事を避けるのが常識でしょう。
場合に寄れば偏ったところへ導くからです。

鷲田氏はこう説かれます。

(自分の存在を確認すべく、自分の過去をほじくり
 その世界は縮こまる)

ふーん、そんな場合の「ことば」だったのか。
そうなのかなあ。

(私には他の人たちとの関係も存在することを認識し
 視野を広げないと)

間違いとは言えないでしょう。

けれど、自分というものはもともと他者との関係で
出来あがっている部分が大きいのです。
自分だけの独自なものってそんなにはありません。

自分と他者とを区別する見方は単純すぎませんか。


自分は他者との関係でできあがっていることを前提に
それでも、まず自分から出発するのが、道です。

そのうえで、自分の中に取りこめていなかった他者を
視野に入れることが大切。

私ならば、今日のことばは、こう思えますね。