MrKのぼやき

煩悩を解脱した前期高齢者男のぼやき

『天使と悪魔』:レビュー

2009-06-07 22:44:32 | 映画

公開前に好きなこと書いていましたが、
ようやく映画『天使と悪魔』みてきました。
とにかくドタバタの連続の2時間だった、という印象。
あまりにもあわただし過ぎ~。
ま、原作をできる限り生かしながら時間内に
納めようとすれば仕方がないのかも。
プロットは原作からかなり変更を加え、
前半部分やとんでもスーパー・アクション?も
割愛しているのだが…
科学と宗教の対立なんて考える余裕もなく。
ま、原作を読んだ時には想像するしかなかった、
教会を初めとするローマの様々な施設。
割と想像通りの映像でそこは満足しましたね。
原作でもそうですが、
犯人の動機に今一つ納得できないところがあり、
タイトルには説得力がないようです。
例によって New York Times には
日本ではお目にかかることのないような
難解な評論があったので、
ご紹介しておきましょう。

6月1日付 New York Times 電子版

Wisdom in a Cleric's Garb; Why Not a Lab Coat Too? 聖職者の服装には感じられる知恵;なぜ研究者の白衣には存在し得ないのか?

Angelsdemons2

 Tom Hanks 主演、Ron Howard 監督の映画『天使と悪魔』の終盤近くに、一見ほのぼのとした場面がある。
 ハーバード大学の宗教象徴学者 Robert Langdon 役の Hanks 氏は、粒子加速器から盗まれた反物質を用いてヴァチカンを吹き飛ばすと脅迫する凶悪犯の正体をようやく暴く。映画中ずっとHanks 氏を窮地に追いやっていながら、突然キラキラ輝く眼に変わったカトリックの枢機卿は、自分たちを救うために人を遣わされたことに対し神に感謝するささやかな祈りの言葉を口にする。
 Hanks 氏は、自分は遣わされてなどいないと答える。
 もちろんまぎれもなくあなたが遣わされたのであり、あなたはそれを知らないだけだ、とその聖職者は穏やかに言う。Hanks 氏は、驚いていかにも彼らしいオドオドした感じで微笑む。そして突然、彼は確信を持てなくなる。
 これは、ハッピー・エンドに見えるかもしれない。信仰と科学の融和、あるいは少なくとも神秘に直面する時、お互いに批判することを控える。しかし、私にとって、その場面は、それがなければ楽しいはずであった雨の日の午後の2時間をぶち壊してしまった。それは、大衆文化の科学に対する見方にとって不都合な点を露呈させてしまった。科学者や研究者は smart(優秀)であり、片や宗教指導者は wise(賢明)であるということを。
 原子の分割法や遺伝子の組み換え法を知っている自分を優秀だ思っている人たちは、先人たちのしっかりした導きによって本来の立場に置かれる必要がある。
 それはまるでその聖職者がアインシュタインの頭に手をおいてクスクス笑いながら、「坊や、気にすることはない、いつかは君にもわかるだろう」と言っているかのようだった。
 同じ Howard 氏監督、Hanks 氏主役で、Dan Brown による大ベストセラー作品を基にした“The DaVinci Code” の過去を描いた続編に当たるこの “Angels & Demons” は、今ひとつぱっとしない論評ながら5月の興行売り上げ1位で公開となり、いまだに評判は上々である。
 それらの人々すべてが科学と宗教の関係をじっくり考えるために劇場に集まってくるわけではなさそうだ。“Angels” は “24” スタイルのスリラーであり、そこでは、Hanks 氏と、Ayelet Zurer 演ずる彼の協力者である生物物理学者は、枢機卿の一団を殺害しヴァチカンの爆破を予告した何者かを見つけ出すために、ルネッサンスの芸術家で彫刻家のBernini によってローマ市中に残された手がかりを追って時計と競争する。
 この新しい映画には、拷問あり、稼動中の粒子加速器の冷たいショットを初めとする華麗な撮影技術あり、奇抜なプロット、紆余曲折ありで、前回の映画と同じく、鍵を握る瞬間に Hanks 氏は図書館(今回は伝説的なヴァチカン文書保管所)に駆け込み、長らく行方不明となっていた文書を限られた時間内に探し出し、解読する。
 しかしすべてのこういったアクションの骨組みとなっているのは何世紀も続く科学・宗教間の対立である。17世紀初頭より、Galileo や Bernini も加わっていた Illuminati として知られる科学者や懐疑論者からなる秘密のネットワークが、地下に潜って教会との戦争に関わっていたということになっている。
 今年の初めにこの本を読んだ私の反応は、果たしてこの歴史に真実があるのだろうかと思ったことだった。私は当てがはずれてしまったが、その簡単な答えがノーであるとわかった時、特に驚くことはなかった。Brown 氏があまりに上手にその寓話を語ったので業界は彼の誤りを暴くことに躍起になった。
 1776年―Galileo や Bernini には遅すぎる時期だが― Bavaria で結成されたIlluminati と呼ばれる組織は実際に存在していた。しかし、歴史学者によれば、それは10年かそこらで消滅した。それにもかかわらず Illuminati は陰謀説を唱える人たちの想像の中で生き続けている。
 “アポロ13号” や“ビューティフル・マインド”のような映画では、物事を正すことで定評のあった Howard 氏にとって、歴史的事実と、Dan Brown の作品における創作との間にある曖昧さは映画の面白みの一つであるといえる。「彼 (Dan Brown) は物事をでっちあげはしません、想像を作り上げるのです」と Howard 氏は言う。
 1600 年、コペルニクスの太陽中心説を支持したことをはじめ様々な異説を唱えたとして、教会は Giordano Bruno を火刑に処し、1633年、異端の疑いが強いとして Galileo に永久的自宅軟禁の判決を下した。しかし近年カトリックは、米国におけるいくつかの原理主義一派と比較すると、科学とは良い関係となっている。教会は1951年以来、宇宙のビッグ・バン起源説を容認してきた。そして現在の法王である Benedict は、人類誕生の理由まではわからないとしても、少なくとも人類がどのようにして誕生したかを説明するものとして進化論を容認する意向を示唆している。
 最近のインタビューにおいて、Howard 氏は、科学と宗教の間にはなんら軋轢はなかったと思うと述べた。両者はともに大きな神秘に続いて生まれている。科学が何を発見しようとも、「『で、その前は?』という質問が続くことになる」
 私はこの映画や本が歴史を書き換えたことについてさして気には止めていないし、この映画は多くのSF映画に比べると科学をいじったところは少ない。
 しかし、私は例のほんわかとした終盤の場面、頭(MrK註:実際には肩)に手を置くと言う比喩的なシーンにいらいらせずにはいられなかった。すべてが語られ行われた後、信仰を持つということは smart(優秀) であるということよりほんの少しだけ優れていることを意味しているようにとれる。
 映画の中で科学と宗教の歴史のすべてを理解するためにこの映画の砂粒をあまりに重んじすぎているのかもしれない。しかし、もし少年のような Hanks 氏が、より恐れ多い面々、たとえば Frank Langella や Clint Eastwood や Humphrey Bogart のような別人に差し替えてみたなら、そのシーンは使えなかっただろうと私は感じている。
 この映画に楽しみを与えるもののひとつに、古いヨーロッパの伝統に立ち向かう頑固なアメリカ人の古き Henry James 的観念がある。父さんは時代遅れの旧弊な頑固者だと叫んでいる10代の若者のように、私たちは、今や新しい世界なのだと主張すると同時に、いまだにそういったすべての伝統に畏敬の念をいだいているのだ。
 そして、私たちの頭の上に手が置かれているのである。
 なぜ知恵と安らぎは研究室の白衣ではなく、聖職者の襟にあるのだろうか?おそらくは宗教は安らぎを与えてくれるが科学は与えてくれないからであろう。
 かつて、物理学者の故 John Archibald Wheeler 氏は、偉大な指導者に力を与えるものは死を前にしている人たちを安心させる能力であると言った。しかし、現代の物理学の偶像的な成果は原爆であり、それは死の象徴である。
 さらに、Galileo の時代以来、科学者たちは宗教を怒らせることを恐れて形而上学的弁論を極力避けてきた。実際、彼らの多くは神の心を探索しようと確信している敬虔な信者であった。今は亡き古生物学者で作家である Stephen Jay Gould (スティーヴン・ジェイ・グールド)が科学と宗教について『重なり合うことのない権威』と言ったことは有名である。
 この映画でしばしば発せられ、原作でもさらに多く表現されていた嘆きは、科学が、とめどなく疑念を減らしてゆきながら、世界から不思議なことと意味を奪い、人間から、とりわけ道徳的基準を奪ってしまったことだ。
 教会は確信を持って強さを示した。しかし、隣人を愛せよ、汝殺すなかれ、柔和な人たちに幸いあれ彼らは地を受け継ぐであろう―そういった、寓話や戒律や箴言の同じような寄せ集めから始まっていながら、世界の宗教は、例えばゲイ同士の結婚のように、どんな行いが正しく、あるいは誤っているのかについて驚くほど多様な結論に至っている。
 もし科学が世界から確実性を排除しているのであれば、それはたぶん適切であるだけでなく励ましともなる。枢機卿が彼の絶対的なものの安泰を手ばなしで喜ぶ一方で、Tom Hanks と私は、自分自身の宇宙学者になり、自分自身の意味を作り出すという目標によって元気づけられることになる。
 一方、アメリカはもはやそれほど若くなく無垢でもない。そして科学はそれ自身の伝統を、そして、そう、いにしえにさかのぼる知恵を持っている。
 科学においては、その結論は手段―我々がどのような質問をし、それをどのように尋ねるか―によって正当化され、探求の意味は答えからではなく、答えが見出された過程から導き出されるのである。好奇心、疑念、謙虚、忍耐。
 あの父親のように頭に手を置かれることは慰めとなるように思えるが、人生の葛藤や探求への答えとしては何かが欠けている。
 私は父を懐かしく思う。しかし、彼が私に助け舟を出し、家業で身を立たせようとしたがった時、私が自分の立場を守り、著作業を続けてきたことはなによりと思っている。Hanks 氏も自分の立場を守り続けるべきである。

意味不明の評論だが、どうやら著者はこの映画の
宗教優位な表現に不満をお持ちのようだ。
我々日本人は、神や仏を精神上信じてはいても
それが、科学によって否定されるとは思っていない。
宗教は宗教、科学は科学と割り切っている。
そういう意味で、科学と宗教の対立など
真剣に考える気持ちもわかないし、理解もできそうにない。
ともあれ、この映画、
せかされるように一つの現場から次の現場へと
曲りくねったローマの町中を疾駆し続け、
さらに人ごみの中をカメラ映像はぐるぐる回りっぱなしで、
映画が終わった時には
もはや疲れしか残っていなかった…(アーメン)

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