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MrKのぼやき

煩悩を解脱した前期高齢者男のぼやき

さらに深まったミス・リンディ遭難の謎

2017-07-20 13:38:04 | 歴史

まずは 2012年8月12日の

拙ブログ『ミス・リンディ 遭難の謎』

ご一読いただきたい。

 

1927年のチャールズ・リンドバーグに続いて、1932年に

女性としてはじめての大西洋単独横断飛行に成功した

米国の伝説的女性飛行士 アメリア・イアハート(ミス・リンディ)の

太平洋における遭難事故の話である。

彼女はナビゲータのフレッド・ヌーナンとともに

1937年5月21日、今度は赤道上世界一周に飛び立ったが

1937年7月2日、太平洋の赤道直下で消息を絶った。

当時の米国政府は大規模な捜索を行ったが、

結局、遺体も機体も発見されないまま

2年後の1939年、両名の死亡が宣告された。

その後も調査が行われたが、

彼女らがどこで遭難し、どのような最期を迎えたのかは

いまだにわかっていない。

当時から彼女らの遭難に日本軍が関与していたとの説も

捨てられないでいる。

 

そんな中、

このたび米国公文書館で発見された一枚の写真に、

マーシャル諸島のとある島の波止場に

遭難後の二人とみられる姿が写っていたことから、

今月上旬にテレビ番組で特集が組まれるなど

米国では俄然大きな話題となった。

不時着後、彼女らは生存しており

日本軍に捕えられていたというのである。

しかし、この説の根拠となった写真に写る二人が

彼女らではありえないことが即座に

日本人ブロガーの投稿により端的に証明され、

二人の生存説は再び謎に包まれることとなったのである。

今月に入って繰り広げられたこの騒動の顛末を

以下の二本の記事で紹介する。

 

7月6日付 NBC news 電子版

 

Amelia Earhart May Have Survived Crash-Landing, Newly Discovered Photo Suggests

Amelia Earhart(アメリア・イアハート)が不時着し生き延びていた可能性あり、新たに発見された写真で示唆

by TOM COSTELLO and DANIEL ARKIN,

 

国立公文書館で発見された写真にマーシャル諸島の波止場にアメリア・イアハートに似た女性が写っている。

 

 80年前に世界一周飛行中に消息を絶った伝説的飛行士 アメリア・イアハートが不時着後にマーシャル諸島で生存していたことが新たに発見された写真により示唆されている。

 この写真は国立公文書館の長く忘れられていたファイルの中から見つかったものだが、波止場にイアハートに似た女性と、ナビゲータの Fred Noonan(フレッド・ヌーナン)と見られる男性が写っている。この発見については、歴史専門チャンネルの History channel で“Amelia Earhart:The Lost Evidens(アメリア・イアハート:失われた証拠)”として特集されており7月2日に放映された。

 番組に無関係のアナリストたちも History channelに対してこの写真は本物であり捏造されたものではないようだと述べている。FBI の元次官補で、現在 NBC News のアナリストである Shawn Henry 氏はこの写真を詳しく調べ、そこにその著名なパイロットとナビゲータが写っているとの自信を持っている。

 「写真を手に取って、行われた分析を知れば、見る人にはそれがアメリア・イアハートとフレッド・ヌーナンであることに疑いの余地はないと思います」Henry 氏はNBC News にそう語っている。

 イアハートの最後の消息は1937年7月2日、彼女は世界で初めて地球を一周した女性を目指しているところだった。彼女は、2年後、太平洋のどこかに墜落したものと米国政府が断定、死亡が宣告され、彼女の遺体は発見されることはなかった。

 

1937年5月20日、カリフォルニア州 Burbank の空港で Electra plane のキャビンに座るアメリア・イアハート。

 

 しかし、調査員たちは、イアハートとヌーナンが飛行コースを外れながらも難局を生き延びた証拠を発見したと信じている。History channel を支える調査チームは、米国のために太平洋における日本の軍事活動に対してスパイ活動を行っていた誰かによって撮影された可能性があると考えている。

 イアハートとヌーナンがどのような経緯であれほど遠くコースを外れてしまったのかは明らかではない。

 イアハートらを15年間捜索した元政府調査員の Les Kinney 氏は「イアハートが日本人に捕えられたことをこの写真は明白に示しています」と述べている。

 一方、日本当局はイアハートを拘束していた記録はないと NBC News に対して答えている。

 “Jaluit Atoll”と記され、1937 年に撮影されたと考えられているこの写真には、おそらくイアハートと見られる短髪の女性がカメラを背にして波止場にいる姿が捉えられている。(彼女はズボンを履いているが、それからもイアハートと知ることができる)。彼女は、髪の毛の生え際が後退したヌーナンに似た格好の立っている男性の近くに座っている。

 「髪の毛の生え際は最も際立った特徴です」と話すのは、この画像を精査した顔認識のエキスパートである Ken Gibson 氏である。「きわめて鮮明な後退した生え際です。また鼻はとりわけ高く見えます」

 さらに Gibson 氏は、「これが恐らくヌーナンであることのきわめて説得力のある証拠になっているというのが私の考えです」という。

 この写真には、38フィート(約11.6メートル)の長さがありそうなものを載せた荷船を曳航している日本の船舶“Koshu”(膠州丸)が写っている。奇しくも38フィートはイアハートの飛行機と同じ長さである。

 何十年もの間、地元民は、飛行機が墜落し、イアハートとヌーナンが連行されるのを見たと証言していた。一方、地元の学童たちもイアハートが捕えられたのを見たと主張していた。彼女の物語は1980年代に発行された郵便切手にも記録されている。

 「膠州丸で(マーシャル諸島の)サイパンまで彼女は連行され、日本人による拘束下に彼女は死亡したものと考えています」History channel の制作責任者 Gary Tarpinian 氏は言う。

 「彼女がどのようにして、いつ亡くなったのかはわかりません」と Tarpinian 氏は言う。

 子供のころサイパンに住んでいた Josephine Blanco Akiyama 氏は、日本の拘束下にあったイアハートを見たと長らく主張してきた。

 「それが女性であるということすらわかりませんでした。男性だと思っていました」と Akiyama 氏は言う。「みんな彼女のことを話していました。日本語で話していたのです。それによって私は彼女が女性であることを知りました。彼らは女性飛行士について話していました」

 写真の人物が誰であるかを米国政府が認知しているかどうかは不明である。もしこれがスパイによって撮影されたものであるならば、米政府はこの画像を公開することによってその人物を危険にさらしたくなかったのかも知れない。

 


ところがこのあとの7月9日、

日本人ブロガーが自身のブログで反証を示したのである。

 

7月11日付 NBC news 電子版

 

Questions Raised Over Unearthed ‘Amelia Earhart’ Photo

発見された『アメリア・イアハート』の写真をめぐって持ちあがった疑問

 

by TOM COSTELLO and PHIL HELSEL,

 

 先週、History cable channel は、消息を絶ったのちにマーシャル諸島の波止場にいる女性飛行士 アメリア・イアハートを写した可能性があるとされる写真を公開、20世紀の最大の謎の一つが明らかにされたかと思われた。しかし、7月11日(正確には7月9日)、この写真は彼女が行方不明となる2年前に撮影されたものでその女性はイアハートではないと日本人のブロガーが自身のブログに書き込んだ。

 それを受けて、History channel はこのブロガーの主張を検証するために精査を行っているところだという。

 「私たちは発見したことに透明性を持たせます」今回のブログ投稿があった 7月11日、同チャンネルは声明でそう述べている。「最終的には歴史的正確性が私たちや視聴者にとって最も重要です」

 同チャンネルは7月2日に“Amelia Earhart:The Lost Evidence(アメリア・イアハート:失われた証拠)”と題した2時間スペシャルを放映し、間違ったラベルを貼られて米国国立公文書館に秘匿されていたとされる写真を公開し、イアハートが1937年に目指した世界一周飛行中、生き延びていた可能性を示唆した。

 この写真には、マーシャル諸島の波止場にいるイアハートに似た女性と、彼女のナビゲータ フレッド・ヌーナン とみられる男性が写っているとされた。

 

Hitory channel によってアメリア・イアハートに似ているとされる女性が中央の赤丸、彼女のナビゲータだったフレッド・ヌーナンとみられる男性が左端に写っている。

 

 しかし、その日本人ブロガーはブログに、これと同じ写真が1935年刊行の太平洋の島々についての日本の旅行本に載せられていたと書いている。1935年は、イアハートとヌーナンが行方不明となった 1937年7月の2年前である。日本の国会図書館のウェブサイトにも刊行年を1935年と記載されている。

 この投稿によると、この写真の元々の説明文には、マーシャル諸島にある Jaluit Atoll の Jabor という町で撮影されたと日本語で書かれているという。さらにその写真に、のちに行方不明の二人の捜索にも参加し、1935年にその地に立ち寄った可能性がある日本の蒸気船が写っているとそのブログに書かれている。

 NBC News の翻訳によると、この写真の説明文には、Jabor の港のことを、大きな船が内地からの物資を運んで到着するたびに大変活気にあふれた稀に見る良港であると日本語で書かれている。「このような状況から、我々はこの件の調査を続ける所存です」 History channel の調査員 Shawn Henry 氏は NBC News に語っている。「正確であることが重要であることは言うまでもありません」と History Channel の調査員 Shawn Henry 氏は言う。「私たちは導かれた事実に従いたいと考えており、確実にそうするつもりです」

 これまで、アハートとヌーナンが不時着し日本軍に捕えられ最終的に拘束下に死亡したとの説が存在していた。マーシャル諸島の地元民の中には、イアハートの飛行機が不時着し、両人が捕えられ連れ去られたのを見たというものがいる。

 History 特番の制作責任者 Gary Tarpinian 氏によると、調査員たちはイアハートが日本人によりサイパンに連行されそこで死亡したと考えているという。

 

日本の国会図書館のウェブサイトからのこの写真は米国公文書館からの写真に類似しているが、1935年に刊行されたものであると記載されている。アメリア・イアハートが消息を絶ったのは1937年のことである。

 

 こういった議論があるにもかかわらず、「これまでのところ我々が集めた証拠からは全体として、ヌーナンとイアハートがマーシャル諸島に上陸したことが示唆されると考えています。それが真実であると思います」と Henry 氏は言う。

 イアハートは1937年7月2日を最後に消息を絶った。米国政府は彼女が太平洋のどこかに墜落したものと結論づけ、1939年に公式に彼女が死亡したと断定した。

 イアハートの行方がわからなくなったのは、彼女が地球を一周した世界で最初の女性飛行士にならんとしていた、まさにその矢先だったのである。

 

それにしても日本人ブロガー(山猫男爵氏)、

よくぞその写真を見つけたものである(グッジョブ!)。

これまでの状況を考えるとやはり、

イアハートらの行方不明に日本軍が関与していた可能性は

極めて低いと思われる。

米国の番組制作担当者たちは

全く往生際が悪いと言わざるを得ない。

とにもかくにも、決め手となる写真の存在が

完全否定されてしまっているのだから…。

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血の伯爵夫人

2014-08-26 18:19:55 | 歴史

史上最多の殺人を犯したといわれる狂気の伯爵夫人、
Elizabeth Bathory (エリーザベト・バートリ)。
没後400年なんだそうである。

8月22日付 CNN .com

On the trail of the 'Blood Countess' in Slovakia
スロバキアの “Blood Countess(血の伯爵夫人)” を追って

By John Malathronas, for CNN

Bathoryblood03

2014年8月21日は Elizabeth Bathory(エリーザベト・バートリ)の死から400周年となっている。彼女は歴史的最大の大量殺人者として自宅監禁中に Cachtice(チェイテ)城で死亡した。Bathory の生涯は Bram Stoker (ブラム・ストーカー)の1897年の小説 “Dracula(ドラキュラ)” に影響を与えたとも伝えられる。

 丘の上に不気味に現れる廃墟と化した築何百年の古い城があるスロバキアの Cachtice(チェイテ)村は容易にゴシック小説の恐怖映画の表舞台となれそうである。
 しかし、ちょうど400年前の8月21日、そのホラーはまさに現実のものとなっていて、Elizabeth Bathory(エリーザベト・バートリ、ハンガリー語ではバートリ・エルジェーベト)伯爵夫人という名前の高貴な女性で史上最も多くの女性を殺害した大量殺人者の命が消えた。
 それは Cachtice の村で人々がお祝いをするような記念日ではなく、Bathory の恐怖の時代はいまだに当地の地元の人たちにつきまとっているが、私を含めて一部の人たちにとっては奇妙な魅力が存在する。
 Trencin(トレンチーン)というスロバキアの美しい町で、友人の Martin と私は Ivan Kralik と Peter Pastier の二人のガイドの協力を得る。彼らは地元の観光局で働いている。
 彼らは車で30km離れた Cachtice の村まで我々を連れて行き、Blood Countess(血の伯爵夫人)の話を詳しく語ってくれる。
 ぞっとするようなその名前は犠牲者の血にまみれたいという彼女の性癖に由来する。
 処女の血が彼女の若々しく見える皮膚を保つと信じていたのだと伝えられている。
 Bathory の人生は映画、書物、あるいはネット上のウェブサイトの題材となってきた。そして一部では、1897年の Bram Stoker(ブラム・ストーカー)の小説 “Dracula(ドラキュラ)” に影響を与えたと考えられているが、ウィーンより西では忘れ去られているようである。
 名門でありながら謎の多かった彼女は現在のスロバキアの一地域の絶対的支配者であり、3人の召使の助けを借りて、100人から650人の少女を残虐な形で拷問し死に至らしめた。
 正確な数字は誰にもわからない。

Missing daughters 行方不明の娘たち

 彼女は、トルコとの戦争でハンガリーの国民的ヒーローとなっていた貴族の Ferenc Nadasdy(ナーダシュディ・フェレンツ)と結婚した。1604年の夫の死の前から殺人が伝えられていたが、その後彼女は完全に錯乱した状態になったとみられる。
 彼女が Cachtice に居を移したころから周辺の村から次々と少女が姿を消し始めた。
 ついには自分の趣味を満たすための少女が足りなくなると高貴な家柄の少女をもおびき寄せるようになった。その家族たちは行方不明となった娘たちを通告し始めた。

Bathoryblood04

100人以上の若い少女を殺害した女性

 1610年までには、彼女の恐ろしい行いの噂がハンガリー王の耳に届くこととなり、彼は副司令官の Palatine Georgy Thurzo(パラティン伯・トゥルゾー・ジェルジ)を調査に送り込んだ。
 1610年12月、Bathory は彼女の3人の召使とともに逮捕された。召使たちは拷問を受け火あぶりの刑に処せられた。
 彼女は裁判にはかけられなかったが、Cachtice城 に幽閉され、そこで 1614年8月21日に死亡した。

Castle restoration 城の修復

 今日、Cachtice は、高い生垣や、衛星放送受信アンテナを備え、私道には最高級の SUV 車が置いてある大きな家々がある裕福な村となっている。
 メイン広場の Elizabeth Bathory の大きな木製の像を除けば中央ヨーロッパのどこにでもある風景である。
 標識が我々にその城を教えてくれる。それはそこから2.5 km のところにある深い森に覆われた自然保護区の真ん中にある。ブナや栗の木々の下にある狭い石だらけの道をクワの茂みや野苺をくぐりながら心地よく40分歩く。
 城は廃墟となっているが、青い空をバックに映し出され、壮大で超然として見える。
 多くに待ち望まれていた2年間の修復により2014年6月に再公開された。
 1980年代に塔の一つが崩壊し、建っているのは2つの塔だけとなった。チャペルのある東側の物見やぐらと Countess Bathory が死んだ南向きの居住用の塔である。
 驚くべきことに、彼女の居住区周辺を歩くことができるのだが、それは彼女が幽閉され死亡した区域と考えられる。
 屋根は長い間失われているが、壁が天井の名残を示している。
 4メートル×5メートルの部屋に4メートルの高さの屋根があったと思われる。
 れんがで塞がれた窓のように見えるものの名残を見ると身体が震える。

Sense of shame 恥の感覚

 今日、地元の人たちはこの伯爵夫人のことをどう思っているのだろうか?

Bathoryblood02

多くの人たちが町の広場に置くことを反対した像である。

 「昔の人たちは彼女のことを恥ずかしく思っているようです。広場に Bathory の像が建てられたときいくらか反対がありました」と言うのは、城のガイドとして夏の間仕事をしている 18 才の Adam Pisca である。
 「でも若い世代は過去のことをそれほど悪く見なしません。彼女が女性たちを殺害したことは知っていますが彼女は私たちにとって重要ではないのです」
 「城の復元の前、私たちは中でバーベキューをし、テントで一晩キャンプをしたのです!」
 村に戻った私たちは14世紀の St. Ladislav 教会に足を踏み入れる。そこで Vladimir Ondas 神父が我々を案内してくれる。
 Elizabeth Bathory はここに埋葬されたが彼女の墓を知る人は誰もいない。おそらく彼女の遺体はその後 Nagyesced に移されている。そこは Bathory 家の先祖の地で現在のハンガリーにある。
 Vladimir 神父は私たちを驚かせるものを見せてくれる。
 彼は外にあるゴシック様式のチャペルを開錠した。そこには Cachtice 城にあった絵の描かれた3枚の木製の板がある。それらは同城の室内装飾で残っている唯一の品目である。
 この教会の隣に、Elizabeth Bathory や彼女の時代の人々の肖像画や彼女の衣服の複製、古い城
 しかし我々が本当に見たかったのは地元のワイン共同組合だが、これはただワインのためだけではない。
 その建物は古い Bathory 家の領主の館があった場所に立っている。
 あの伯爵夫人が拷問の時間の大部分を行ったのがこの場所である。
 今日、外壁だけが残っているが、多大な苦痛と苦悩を見てきた元の地下貯蔵室は原型を保っており、現在はワインの樽の保存に用いられている。
 この共同組合のオーナーの一人 Jozef Carada が私たちに試飲を勧めてくれる。
 いずれのワインも一様にすばらしい。

Bathoryblood

 いくつかのものには“Bathory Blood”のラベルが表示されている。
 このブランドは2010年に製造中止されたが、顧客からの要請により、彼女の死の400周年を記念する特別なワインとともに2014年に再び製造された。
 当然のことだが、それは真紅色である。

Visiting Cachtice Cachtice を訪れる

 観光客が Cachtice 城に行くためには自家用車が必要となる。
 そこそこのホテルがある一番近い町は Trencin で Cachtice の村から 30km 北にある。
 そこへ行く最善の手段は鉄道である。毎日10本の直行列車がある(Bratislava から60~80分の行程である。
 (時間はかかるが)バス便もある;行程はおよそ2時間;チケットは6ユーロ/8ドルである。Trencin の最良のホテルは四つ星のHotel Elizabeth である(Generala Milana Rastislava Stefanika 2, Trencin; 電話 +421 32 6506 111、二人部屋で132ドルからとなっている)。
 Trencin から Cachtice 城までの公共交通機関による接続はない。そこに行く最善の方法はタクシーによる(40ドル)。
 Trencin tourist office (+421 32 6504 711, kic@trencin.sk )あるいは Hotel Elizabeth のフロントが英語を話すガイドの手配をしてくれる。
 Cachtice 城は5月から10月まで公開されている(月曜から金曜は午前10時から午後5時30分、土日は午前10時から午後6時までである)
 John Malathoronas はロンドンを拠点とするトラベルライター、写真家である。“Rough Guide to Europe”を始め15の自著、共著がある。

処女を殺して血液を浴槽に満たしそこに浸かることで
自分の肌が美しく若返ったことに端を発し、
残虐極まりない行為を繰り返すようになったとか。
当時の状況を想像しただけで
身の毛もよだつ思いがするのである。
現地にはどれだけの霊がただよっていることやら…。

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12,000 歳の“少女”が教えてくれること

2014-05-22 23:10:48 | 歴史

地球最後の氷河期が終わったのは今から一万年前だそうだが、
それ以前の地球とはどのような状況だったのだろうか?
今から7年前、メキシコのユカタン半島で見つかった人骨は
約12,000年前の15才の少女のものであり、
新たな発見がもたらされたのだという。
あまりに太古のこと過ぎて想像の及ぶところではないが、
その新発見とは一体…

5月16日付 Washington Post 電子版

Girl’s 12,000-year-old skeleton may solve a mystery
12,000年前の少女の遺骨が謎を解く?

By Joel Achenbach,
 ダイバーたちは岩棚の上で頭蓋骨が腕の骨の上に載った状態の彼女を見つけた。そのそばには肋骨と骨折した骨盤が発見された。ユカタン半島の洞窟に入り込んだとき彼女はまだ15才であり、暗闇の中で、彼女は目前に迫っていた大きな窪地が見えていなかったに違いない。
 それから 12,000年以上経った2007年、海面が持ち上がってこの洞窟一帯が水没した状態で、彼女の頭蓋骨―それは逆さまになっていたが、歯は全く無傷だった―がスキューバ服に身を包んだ男性の目に留まった。

Girls12000yearoldskeleton02
水没した洞窟が秘密を明らかにする:ユカタン半島にある100フィートの深さの空間の中でダイバーたちは少なくとも12,000年を経過した頭蓋骨を発見した。

 彼とその仲間 2人の 3人のダイバーたちはこの少女に名前をつけた:Naia(ナイア)である。彼女の遺体は Paleoamericans(パレオアメリカン=最古のアメリカ人)の起源を見つけ出すのに役立ち、それらが、この数千年間の Native Americans(アメリカ先住民)とはかなり著しく異なって見えるのは何故なのかという謎の最終的な解決につながる可能性がある。
 Science 誌に5月15日にオンライン掲載された論文では、最古のアメリカ人と、より最近のアメリカ先住民との間の外観の差異は、少し以前の比較的急速な人類の進化の結果であって、アメリカへのその後の人々の移住による結果ではない可能性が高いと論じている。
 Naia から採取されたミトコンドリア DNA の検査で、今日アメリカの人々が共通に持っている遺伝子マーカーを彼女も保持していたことが示され、科学者らによるとそれは Beringia(ベーリング地峡)に何千年もの間隔絶されて生きていた先史民において進化したものだという。この地峡はアラスカとシベリアの間にある氷河期にアラスカとシベリアの間にあった陸塊で、氷河期に二つの大陸間には陸橋が形成されていた。
 この報告によると、このためアメリカ先住民と最古のアメリカ人は同じ系統であり、同じベーリング民族の子孫であるという。彼らは、少し前に起こった進化のために違って見えるだけなのである。
 「これは実に驚くべき発見です」と Yemane Asmerom 氏は言う。彼はこの報告を共同執筆した University of New Mexico の地球化学者である。彼は、Hoyo Negro(オヨ・ネグロ=スペイン語、“black hole”ブラックホールの意)として知られるこの洞窟を、初期の人類の祖先(318万年前)である“Lucy”が1974年に発見された場所、エチオピアの Awash Valley に匹敵するものとみなしている。
 アメリカに来た最初の人類は、氷河期後に海洋面が上昇する前に存在していたベーリング地峡を通ってユーラシア大陸から渡ってきたとほとんどの科学者たちは考えてきた。しかし、これが、単一の移動の出来事か、沿岸を伝った移動などの様々な経路を介してユーラシア大陸の異なる部位からの複数の移動によるものかについては大きな論争がある。考古学的知見に基づいて、北大西洋を氷の縁に沿って回り込んでヨーロッパから人が来たと主張する特異な説も存在する。
 さらにこういった謎に加えて、Naia のような最古のアメリカ人がその後のアメリカ先住民に似ていなかったという事実がある。Naia は小さな出っ張った顔を持っており、頬骨は小さく、目の間隔は広く、前額は突出していた。一方、この数千年のアメリカ先住民は、広く長い平坦な顔と、丸みを帯びた頭蓋骨を持つ傾向にあると、ワシントン州に拠点を置く無所属の研究者でこの論文の筆頭著者である James Chatters 氏は指摘する。
 最古のアメリカ人の独特な形態は“Kennewick Man(ケネウィック人)”に認められたのが最も有名である。これはワシントン州のコロンビア川沿いで20年前に発見された9,000年前の骸骨である。顔面再構成によって俳優の Patrick Stewart(パトリック・スチュアート:映画『新スタートレック』『X-メン』に出演)にちょっと似た人物が浮かび上がった(いわゆる白人系の顔)。
 彼が海岸沿いに展開し最終的にポリネシアに入植した東アジアの民族につながっていた可能性があると科学者たちは理論づけている。そのシナリオに基づくなら、より現代に近いアメリカ先住民たちは別の移住集団の子孫である可能性がある。
 Chatters 氏はインタビューで、「20年間、なぜ最古の人々が異なって見えるのかを理解しようとしてきました。後世の人たちの形態は最古の人たちとはかなり異なっているため、同じ民族の一部であるようには見えないのです」と述べている。
 彼はさらにこう続けた。「彼らは世界の異なる地域の出身なのでしょうか?これについては答が出ています。おそらく否であると」
 この論文の共著者の一人でオースチンにある University of Texas の考古学者 Deborah Bolnick 氏は、アメリカ先住民に単一の祖先集団が存在するという仮説が新しい遺伝子検査によって支持されていると言う。
 「アメリカ全土に見られる血筋です」と彼女は言い、「考古学的研究、遺伝的研究、形態学的研究などからの数十年にわたる様々な系列の証拠、そのすべてから、アメリカ先住民はベーリング人に起源を持つ集団に由来を尋ねることができるのです」
 Smithsonian's National Museum of Natural History の法医人類学者で Kennewick Man 研究についての第一人者である Douglas Owsley 氏は、この新しい研究はただ“一つのサンプル”に基づくものであると警告する。『後期更新世の人骨とミトコンドリア DNA が最古アメリカ人と近代のアメリカ先住民とを結びつける』というタイトルのこの論文を読んでいないと断った上で彼は、この報告の中心的仮説を支持するさらなる遺伝学的証拠を見てみたいと述べている。
 集団の外見に急速な変化が存在するときには、「人々の移動や流入を意味するものと考えるべきです」と彼は言う。
 とはいえ、「これは素晴らしい発見であると思います」と彼は付け加えた。
 2007年、3人のダイバーが Hoyo Negro 洞窟を探検した。この洞窟はメキシコのユカタン半島の5マイルほど内陸の窪地が散在する地域にある。Naia(これはギリシア神話の“water nymph”水の精に由来する)が生きていたとき、この洞窟網は間欠的な水たまりを除いては乾燥していたとみられる。現在そこは完全に水につかっているが、その水は大部分澄んでいる。
 洞窟の入り口から狭いトンネルを 0.6マイル入ったところで、ダイバーたちは驚くべき光景を目にする:少なくとも150フィート(約46メートル)の深さを持つ巨大な窪地があったのである。
 「地中にあるバスケットボールのドームスタジアムを想像してみて下さい」とカリフォルニア州 Monterey を拠点としているダイバー Alberto Nava 氏は言う。
 この窪地を発見して2ヶ月後、再度のダイブを行った際、Nava とその2人の仲間とが大きな岩に覆われたその窪地の底に到達し、実質的に動物の骨の博物館となっているものを発見した。その筆頭は gomphothere(ゴンフォセレ)と呼ばれる動物の大腿骨だった。これは象のような動物で、アメリカの他の多くの巨型動物類と同じく人類の到来とほぼ同時期に絶滅した(因果関係があるかどうかはこれもまた永遠の謎である)。
 そして Nava 氏の探検仲間である Alex Alvarez 氏は岩棚の上で頭蓋骨を発見した。
 「歯は完全に揃っていて、私たちの方を見つめる暗い眼窩を持った小さな頭蓋骨が逆さまになっていました」と Nava は言う。
 ダイバーたちはこの骨を動かそうとはしなかった。
 「遺骸を発見したら何にも触りたくないでしょう。その状態となるまでに 10,000年かかっているわけですから」と彼は言う。
 このダイバーたちはメキシコの National Institute of Anthropology and History の考古学者 Pilar Luna 氏に連絡し、National Geographic Society の支援を受けて、その窪地の探索と水底の化石(剣歯を持った2匹の猫〔剣歯虎、サーベルタイガー〕、6頭のクマ、3頭のクーガー、2頭の地上性オオナマケモノ)の記録を継続した。
続いて一連の細かい計測が行われた。科学者たちは骨の表面から擦り取った物質を検査し、さらに Naia の臼歯の一つを調べるために様々な技術が用いられた。彼らはこの遺骨の年数を12,000~13,000年と推定し、Naia をベーリングの集団と関連づける遺伝子マーカーを発見した。「アメリカ先住民と、彼ら最古のアメリカ人祖先との頭蓋顔面形態の違いは、シベリアの祖先からベーリング人が逸脱した後に生じた進化的変化と説明されるのがベストである」とこの論文は結論づけている。
 この洞窟に来るダイバーの一部がこの窪地にある骨を動かしたり誤って壊したりするかもしれないと科学者らは懸念するようになった。そのため Naia の頭蓋骨と彼女の他の4つの骨は研究施設に移動された。
 筆頭著者の Chatters 氏は現在、“Human Wild Style”な集団という説を論じようとする新たな論文作成に取りかかっているところだと言う。
 これらの最古の移住者たちは攻撃的な種族、つまり冒険人であり、新奇探索者であったものと彼は考えている。彼らはマストドンやサーベルタイガーといった巨型動物類などの野生の獲物を彼らの先祖の狩猟場から遠く離れた人の住んでいない土地に追い込んだ。
 しかしその後、彼らの子孫が定住し農業を取り入れるようになると、自然淘汰により穏やかな人格が有利となり、男性も女性も、より柔和で女性らしい外観を帯びるようになったと Chatters 氏は主張する。“Neotony(ネオトニー)”すなわち、より幼少期の特徴が自然選択される方向に向かおうとするこの傾向は世界のあちこちで見られてきたと彼は言う。
 それが今後の論文のすべての下地となっているのだが、木曜日に発表された今回の報告では、この最古のアメリカ人少女と化石の洞窟の奇跡に固執している。
 Naia はなぜあの洞窟に行き、死に至ってしまったのだろうか?恐らくユカタンが干ばつとなった時代に彼女は水を探し求めていたのだろうと Chatters 氏は言う。あるいは動物を追いかけていたのかもしれない。彼のシナリオによれば、彼女は Wild Style な人物であり、冒険人だったのかもしれない。そして彼女はさらに進み、暗闇の中、あの洞窟の中に入り、遠い未来に向け転落していったのである。

一万年以上前の人骨(しかも少女)から
壮大な人類史の謎が紐解かれるとは感動的だ。
この少女の想像図、ならびに話題の洞窟の構造はこちら

記事中に出てきた
人骨のミトコンドリアDNA から検出された遺伝子マーカーとは
『mtDNA ハプログループ D1』と呼ばれるものである。
元々はユーラシア大陸の民族に由来するものだったそうだが、
現在ではアメリカ大陸の人々にのみ見られるのだという。
今回の知見のみでは、
最古のアメリカ人がベーリング地峡から渡ってきた人たちであるという確証にはなり得ないようであるが、
可能性をうかがわせる一つの有力な証拠としては注目される。
今後 Naia のすべての DNA 配列の検証が行われるとのことで
新たな画期的な発見が期待されるところである。

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“ミイラ”が何を語るのか

2014-04-11 13:38:54 | 歴史

ミイラから古代の人たちの生活様式など
得られる情報は多い。
とはいえ、その棺をむやみに開けたり遺体を傷つけたりすれば、
死者の永年の安らかな眠りを妨げることになる。
そこで活躍が期待されるのが高解像度のCTということらしい。

4月9日付 Washington Post 電子版

New technology unwraps mummies’ ancient mysteries
新しい技術でミイラの太古の謎を解く

Mummiesancientmysteries

紀元前900年ころの神殿の歌手だったとみられる Tamut のミイラ(the Mummy of Tamut)が 2014 年4月9日水曜日にロンドンの British Museum(大英博物館)で行われた記者会見で示された。British Museum の科学者たちはCTスキャンとボリュームグラフィックス・ソフトウェアを用いて包帯の下を覗いて、皮膚、骨、内臓を明らかにしてきたが、ある一体では遺体処理人が頭蓋内に残っている脳を掻き出すヘラが認められた。これらの結果は、同博物館の8体のミイラとともにそれらの内部の詳細な3次元画像が用意された展示会で公開されることになっている。

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2014年4月9日(水)に大英博物館より提供されたこの日付のないこのサンプル画像は、名前の不明な成人男性のミイラの頭蓋骨のコンピューター処理されたCTスキャンを示している。このスキャン画像には、青色で塗られた脳の残存と、緑色となっているミイラ化処置の間の失敗として頭蓋内に残された道具の形跡が認められる。

By Associated Press,
ロンドン発―ミイラの魅力は決して廃れることはない。今、大英博物館は新しい技術を用いて太古の謎を解こうとしている。
 同博物館の科学者たちはCTスキャンと最新の画像化ソフトを用いて包帯の下を覗いて、皮膚、骨、残っている臓器を明らかにしてきた。そしてある一体では、遺体処理人が頭蓋内に残っている脳を掻き出すヘラが認められた。
 今回の発見は来月、同博物館の8体のミイラとともに、それらの内部の詳細な3次元画像や、それらに埋め込まれたいくつかのアイテムの3次元プリンターによって作られたレプリカなどが用意された展示会で公開されることになっている。
 生物考古学者の Daniel Antoine 氏は水曜日、その目的は、こられのはるか昔に亡くなった個体を“ミイラとしてではなく人間として”提示することだと述べた。
 1759年の開設以来、ミイラは大英博物館の最大の呼び物の一つとなってきた。館長の Neil MacGregor 氏によると、昨年、ロンドンにあるこの施設を680万人が訪れたが、「私どもの職員に対して誰もが『ミイラはどこ?』と尋ねるのです」と言う。
 同博物館は 1960 年代からミイラのX線検査を行ってきたが、近代のCTスキャナーははるかに鮮明な画像を与えてくれる。今回の展示会に選ばれたミイラは、生きている患者と同じようにロンドンの病院で検査された(とはいえ診療時間後に運びこまれるのであるが…)。
 もともと自動車工業技術用に作られたボリュームグラフィックのソフトが、スキャンの骨格に情報を付け加えるのに用いられた。つまり、骨格を表示し、軟部組織を付け加え、内部のへこみや空洞を探索した。
 この8体のミイラは紀元前3,500年から紀元700年の間にエジプトやスーダンに住んでいた人のものである。それらは、最も廉価な埋葬方法として土中にそのまま残された貧乏な人から、手の込んだ儀式的な葬儀が行われた高い身分のエジプト人まで様々である。
 「基本的に金を惜しめばそれなりしか得られないということです」と博物館のミイラの専門家 John Taylor 氏は言う。「ミイラには様々なグレードがありました」
 遺体処理人は鼻から死者の脳を取り出すなど非常に熟練した技術を持っていたが彼らはしばしばミスを犯していた。
 脳の取り出しに失敗するだけでなく、ある男性の頭蓋骨の内部からヘラの様な棒が発見され、同博物館の科学者たちは興奮した。
 「頭蓋骨の後ろの方ににあったその道具は驚くべき新事実でした。なぜなら遺体処理人の道具は私たちにはよくわかっていないものだからです」と Taylor 氏は言う。「ミイラの内部に実際にそれを見つけたということは途方もない前進です」
 紀元前600年ころに死亡したこの男性には痛みを伴うような歯の膿瘍があり、それによって命を奪われた可能性がある。別のミイラで、紀元700年ころスーダンで生活していた女性は、大腿の内側に Archangel Michel(大天使ミカエル)の名前のタトゥーを入れたクリスチャンだった。
 今回の展示のスターは Tamut で、彼女は高級な祭司の家系の出であり、紀元前900年ころテーベで死亡した神殿の歌手だった。鳥や神の絵で覆われ、鮮やかに飾られた彼女の棺はこれまで開けられたことはなかったが、CTスキャンによって、彼女の良好に保存された身体が、その顔や短く刈られた髪の毛にいたるまで、きわめて詳細に確認された。
 死亡したとき Tamut は30ないし40才代で、動脈には石灰化したプラークが認められた。これは彼女が脂肪の多い食事を摂っており社会的地位が高かったことの証である。おそらく、心臓発作あるいは脳梗塞で死亡したとみられる。
 彼女の身体にはいくつかの魔除けがきちんと並べられており、その中には彼女の喉の周りを守るように広げた翼を持つ女神の像がある。また、死後に内蔵を守るために彼女の胸の内部に置かれた蜜蝋でできた神の像を見ることもできる。
 「画像の鮮明度はきわめて急速に進歩しています」と Taylor 氏は言う。「科学技術の進歩とともに、ミイラの内部の物体に象形文字で書かれたものを読むことさえできるようになると期待しています」
 MacGregor 氏によると、同博物館は最終的には所有する全120のエジプトとスーダンのミイラを検査し、それらの生活についてさらに多くを明らかにする予定だという。
 「もう5年して再び来られれば Tamut が歌うのを聴くことができるかもしれませんよ」と彼は言う。
 『古代の生命:新たな発見』は5月22日より 11月30日まで開催される。

ミイラの作成には複雑な手順が必要で
完成まで一年近くの月日を要したようである。
遺体を永年に渡って残しておきたいというのが
当時の人たちの強い願いであったと思われるが
3,000年が過ぎても風化しないで存在し、
歴史を後世に伝え続けているということは
きわめて優れた保存技術であるといえる。
一度、大英博物館で実物を拝んでみたいものである。
詳細を知りたい方はここをご覧いただきたい。

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食べられた美少女 “Jane”

2013-05-10 22:14:59 | 歴史

日本では徳川幕府が開かれて間もない1609年、
イギリスから新大陸に渡った初期の入植者たちは
厳しい飢饉という苛酷な運命にさらされていた。
人々は生き延びるために人肉を食べることも厭わなかった。
その事実を裏付ける発見についての記事である。

5月1日付 Washington Post 電子版

Skeleton of teenage girl confirms cannibalism at Jamestown colony  10代の少女の遺骨から植民地 Jamestown (ジェームズタウン)における人肉食(cannibalism、カニバリズム)が裏付けられる

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復元された Jane(ジェーン):研究者らは、人肉食の犠牲者となっていた可能性がある Jamestown 植民地の 14 才の少女の遺骨から復元像を作成した。

By David Brown,
 前額部への最初の数撃は骨を越えておらず、おそらくそれはこの作業に対して躊躇したしるしであろう。身体が転がされたあとの次の一撃はそれより効果的だった。それによって、頭蓋底に至るまで頭蓋骨が割られていたのである。

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 「その人物は忠実にその状況を解明してくれているのです」と、Smithsonian Institution (スミソニアン学術協会)の形質人類学者 Douglas Owsley 氏は言う。
 この14才の少女は食べられてしまったのである。バージニア州 Jamestown で考古学者によって彼女の骨が発見された後、彼女は復元された。彼女の遺体は“飢饉”の時期に死亡したことを示しており、人肉食の証拠となる徴候が明らかになった。
 一方、恐らくより経験豊富な誰かは足の方に取り掛かっていた。牛を解体するときに行われるように脛骨が一撃で折られていた。
 これは1609年から1610年にかけての冬に Jamestown で起こった可能性のある出来事の経緯である。確かなのは、絶望的になった植民団の何人かが生き残るために人肉食の手段に訴えたことである。
 人肉食が植民団の“飢饉”の間に起こったことはまず疑いはない。その時期を生き残った人や、生き残った入植者と話をした人たちによる少なくとも6編の記述が、その冬にあった人肉食という非常的行為を記録している。その記録には、掘り起こされ食べられた死体、自分の妻を殺害しその遺体を塩漬けにした夫(そのために彼は処刑された)、狩猟生活をしている入植者の謎めいた失踪、などといった話が含まれている。
 その立証は14才くらいと見られる少女の遺骨片の形でもたらされた。その遺骨は、その飢えた入植者たちが避難していた James River の川沿いに存在した砦の中の残骸であふれた穴蔵で見つかった。頭蓋骨、下顎骨、および下肢の骨が残されたものすべてだったが、そこには斧あるいは大きな包丁、およびナイフが使われたことの証拠となる痕跡があった。
 「歴史学者はこのようなことが実際に起こっていたのかどうかを解決しなければなりません」と Owsley 氏は言う。彼は数千の白骨化した遺体を考古学的かつ法医学的に調べてきた。「私は起こっていたと思います。誰かによってその肉が実際に食べられたかどうかまではわかりません。しかし、非常に大きな証拠です」
 Colonial Williamsburg Foundation(コロニアル・ウィリアムズバーグ財団)の研究責任者で、この植民団の歴史学者である James Horn 氏は、この発見は「Jamestown で起こったと伝えられていることに対して重要な立証をもたらすものです」という。Jamestown と同様に、他の地区でもそういった行為の記述は存在しているが、今回の発見は、すべてのアメリカ大陸の入植地の中でも唯一の、ヨーロッパ人による人肉食の物的証拠となるものである。
 「私は“unique(他に類を見ない)”などといった単語をむやみに使用したくありません。しかし、これは文字通りそんな発見の一つだと思います」と Horn 氏は言う。
 1609年11月、約300人がこの砦に住んでいた。しかし翌春にはわずか60人となっていた。おそらくは女召使、あるいは入植者の娘だったと思われるこの少女はその犠牲者の一人だった。
 彼女の遺骨は、1994年に始まった Jamestown Rediscovery archaeological project(ジェームズタウン再発見考古学的事業)の一環として昨年8月に発掘された。まだ約18インチの盛り土がその穴蔵に残っているので、彼女の遺骨がさらに発見される可能性がある。しかし、彼女の頭蓋骨は揃っていたため、CTスキャンや、コンピューターグラフィック、彫刻材料、および人口統計データを用いて、彼女がどんな容姿をしていたかを想像することができた。
 その遺骨、彼女の頭部の復元物、およびこられの情報は Smithsonian's National Museum of Natural History でのイベントで5月1日に発表された。それらは今週末から Jamestown 砦遺跡発掘現場にある博物館 the Archaearium で展示されることになっている。その部屋の入り口にある警告掲示には、人間の遺体が展示されていると書かれてある。しかし、遺体が食肉処理され、調理され、食べられたとの記述はない。
 問題の飢饉はこの植民地を絶滅に近い状態に陥らせたが、同地は、ほぼ1607年の創設期から Powhatan Indians(インディアンのパウハタン族)による襲撃や食物不足にさらされる中、内紛による分裂もあった。
 9隻の補給船団が1609年6月2日にイギリス、プリマスを出港した。乗組員を含め500人が乗船しており、おそらくそのうちの30数名が女性や少女だった。この船団は1609年7月23日にハリケーンに襲われた。1隻は沈没。旗艦の Sea Venture 号はバミューダに難破する。乗客と乗員の大部分は島に逃れたが、このできごとが William Shakespeare の“The Tempest”の話の核となっている。植民地の次期副総督 Thomas Gates はこの生存者の一人である。(島に残された人たちは難破船の残骸から2艘のボートを作り、翌年5月に奇跡的に Jamestown にたどり着いた)
 残りの7隻の船は損傷を受けちりぢりとなりながらも航行を続けた。6隻は8月中旬にたどりついたが、研究者たちにより“Jane”と名付けられたこの少女がそのうちの1隻に乗っていたのはほぼ間違いない。7隻目の船は10月に到着した。
 およそ300人のこの新たな到着者は植民地において安心が得られた一方で浪費の元となってゆく。
 船の乗組員たちは食糧を貯めこんだ。一方、夏のトウモロコシの収穫は年間約50人分を供給するに足りるほどだった。この植民地の軍指導者 John Smith 大尉は、入植者の2つのグループを、それぞれ自力で生き延びることができるよう上流と下流に分散させた。しかし彼は暗殺の企てと思われることで重傷を負い、船で本国に帰国した。そのころには人々は既に飢えていた。
 その少女の骨は馬や犬やリスの骨と混じった状態で発見された。これらは入植者たちがその冬に向けて考えた究極の食糧源となっていた証である。それらは、砦全体の片付けの際に収集され、来たる6月の 植民地の総督 Lord De la Warr 氏の到着前に穴蔵に捨てられたゴミの一部だった。
 彼女の死の原因はわかっていない。頭蓋骨の前側のためらい傷や後ろ側の深い傷はすべて近い位置に存在していたが、これはそれらが加えられたとき彼女が身もだえすることなく死亡していたことの証拠となっている。側頭骨は脳に到達するためにこじ開けられていた。顎には数十ヶ所の傷があり、これは筋肉がそこから剥ぎ取られたことを示している。
 そのような跡が動物によって残された可能性があるのだろうか?
 「絶対にあり得ません」と Owsley 氏は言う。「私はいつもこの問題に取り組んでいます。その可能性はありません」事実、彼はその解体者あるいは解体者たちが右利きだったと自信を持って言うことができる。
 骨の化学的解析では豊富な“窒素プロファイル”が明らかにされているが、これは彼女の食餌に多くのたんぱく質が含まれていた証拠である。これはつまり、彼女が高貴な家族の一員であり、少なくとも彼女の生涯の多くをそのような家庭で生活していたことを示唆する。
 彼女は Jamestown に一人で行っていたわけではないだろう。彼女と一緒にいた人物が誰であれ、おそらく飢餓のために彼女自身が食糧となった時までには死亡していただろう。「彼女の死の前であれ後であれ、もし彼女を守ってくれる家族がいたなら、おそらくこんなことにはなっていなかったでしょう」と Horn 氏は言う。
 彼女が誰だったのかを知ることは困難である。その航海の完全な乗客リストが存在しないからだ。プリマスの Virginia Company のスポンサーに対して調査を行えば、1595年または1596年に生まれた少女を連れてアメリカに渡った家族が判明するかもしれない。今回の骨片には抽出可能なDNAが存在する可能性があるが、現時点ではそれと対比する子孫が存在しない。
 Owsley 氏と彼の共同制作者がその少女に与えた容姿もまた、ある程度、推測作業となっている。
 彼らは Jane の顔の組織の厚さを決定するために、イギリス南部の同年代の少女たちのそれを用いた。彼らは彼女に多数派の髪の毛(明るい茶色)を与えることにし、他の緯度や地域に多い赤毛やブロンドにはしなかった。さらに彼らは、死の前には彼女が間違いなくそうだったと思われるような、やせ衰えてやつれ果てた姿にはしなかった。
 「とはいえ、彼女が健康で肉付きの良いティーネイジャーのように見えるようにもしませんでした」と Owsley 氏は言う。「私は彼女を、当時の彼女の状況下に置いています」
 彼女の顔の汚れや何かに憑りつかれたような眼差しがそれである。が、しかし、哀しいかな彼女の名前はそうなっていない。

1609年の冬、
どうやらこの14歳の少女は食べられたようである(脳まで?)。
バージニア州にある Jamestown はイギリス人による
最初の永続的植民地である。
ロンドンにある Virginia Company という会社によって
植民が進められた。
1609年の冬は記録的な寒波に襲われ、
その翌年にかけてひどい飢饉に陥った。
Jamestown は修羅場となる。
人々は生き残るためにネズミ、ヘビ、馬の生皮まで
食べられるものなら何でも食べた。
その時、人肉食(カンニバル)も行われたようである。
今回の解析で人肉食の伝説が証明されたことになる。
入植者たちはその後も様々な疾病に倒れ、
またインディアンとの血で血を洗うような戦争も繰り返され、
1607から移住した計14,000人のうち
1624 年時点で生き残っていたのはわずかに 1,132人だったという。
当時のアメリカ西海岸の生活環境がいかに厳しいものであったかが
うかがわれる。
現代のアメリカの繁栄は、
このような苛酷な時代を乗り越えてきた
ヨーロッパ移民の壮絶な生きざまによって
成り立っていると言えそうだ。

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