MrKのぼやき

煩悩を解脱した前期高齢者男のぼやき

息子の発達障害の原因は?

2010-08-29 00:30:45 | 健康・病気

おなじみのメディカル・ミステリーのコーナー

8月24日付 Washington Post 電子版

Medical Mysteries
Mother labored to find reason for son's developmental delays
母親は息子の発達障害の原因を探そうと懸命だった

Klinefeltersyndrome

Jen Dirscoll さんは息子の Adam が4才になるまで彼の障害の原因を知ることがなかった

By Sandra G. Boodman
 Adam Driscoll が赤ちゃんの時、彼に接した人たちは、もの静かで穏やかな性格に好印象を持ったものだった。彼は機嫌が良さそうでほとんど泣かず、生後6週までは夜はずっと眠っていた。しかし、彼の母親 Jen は、やんちゃな上の男の子と正反対な Adam の穏やかさをありがく思う反面、この手のかからない状態を見守りながら、子の成長につれ不安は増してゆくばかりだった。
 University of Delaware の遺伝子研究室で働く元介護士の Driscoll さんは、兄弟間で性格や発育が大きく違うこともあると知っていた。しかし、Adam の行動は何かもっと良からぬことの現れであるのではないかと心配していた。彼の筋肉の緊張は弱く、おもちゃで遊ぶというような他の子供たちにはほとんど本能的と思われることにも戸惑っていた。
 Driscoll さんはかかりつけの小児科医にその心配を繰り返し話したが、耳を貸してもらえなかった。「彼女は私に『彼は良くなりますよ』と言うのです」
 他の専門医たちからも同じような返答しか得られなかった Driscoll さんは、息子の障害の真の原因を知るまでに数年を要することになる。そのころまでには種々の障害が彼の生活の多くの場面で顕著になっていた。
 「彼が新生児期に症状を呈していたという点でははきわめて典型的でした」しかし、診断は数年間つけられることはなかったと、現在7才の Adam を診療している George Washington University の小児科学臨床准教授 Carole Samango-Sprouse 氏は言う。
 「これは容易に診断あるいは除外できる疾患です」が、実際にはしばしばそうはなってない、と彼女は言う。これは医師たちがこの診断名をよく知らなかったり、小児にその診断を下すことを懸念するためである。結果として、この疾患は数年間も治療されないことになりかねず、どこが悪いのかを知ろうと四苦八苦する家族は大きな負担を抱えることになる。

Looking for answers 答えを探す
 Adam は4週間早く生まれており、医師はDriscoll さんと数学の教授である夫の Toby さんに、新生児期のAdam の摂食障害はそのことが原因であると話した。彼は乳を吸うことができなかったりできるようになったりを繰り返すパターンに気付くようになったことを母親は思い出す。「早くから、彼には色々と教え込まなければならない感じでした」と、彼の手を掴んで導きながらブロックを手に取ったり、形を選ぶようなおもちゃで遊んだりすることをどのようにして教えていたかを思い起こす。彼の手足の力はいくぶん弱い感じだったが、医師は脳性麻痺を否定していた。
 彼の経験豊富な小児科医はAdam の発達についてしつこさを増してくるDriscoll さんからの質問をはねつけた。「Adam が大学に行くころには歩くことや話すことができるようになっていますよ」と、その医師が話したのを彼女は思い出す。
 しかし、上の子が歩きだした15ヶ月になっても、Adam には歩く徴候は見られなかった。また話すことも片言を発することすらなかった。託児所のスタッフも心配し、小児科医は彼を就学前早期の教育プログラムに紹介した。
 Adam を観察するために看護師が Driscoll の自宅を訪れた。両親が失望したことに、彼女は Adam が順調に発達していると言い、彼は “ほとんどすぐに歩きだせる” 状態にあると言った;しかし、ほとんど2才になろうとしていたが、実際にはさらに8ヶ月以上も第一歩を踏み出すことはなかったのである。
 社交的な問題も浮かび上がってきた。託児所で Adam は「他の子供に近寄られることを嫌っていました。彼は一人でいたがったのです」と、母親は言う。また、彼はブランコや滑り台を怖がっているようだった。
 彼が2才半の時、Driscoll さんが一緒に働いていた発達小児科医の自宅で行われたクリスマス・パーティーに参加した。その医師は、そこで Adam の行動に衝撃を受けたことを後に Driscoll さんに語った。最初彼はソファ―の後ろに隠れたため、連れ出すためになだめなければならなかった。それから、夜中じゅう両親のそばに静かに座っていて、走り回ったり、他の子供たちと遊ぶことはなかったのだ。
 Driscoll さんの求めに応じて、その発達小児科医は Adam を診察したが、自閉症は否定された。彼は原因不明の運動・言語発達障害と診断され、特殊な託児所に入ることになった。
 そこで彼は大きく進歩したが、そのころまでに Driscoll さんはもっと根本的なところに障害があることを確信するようになっていた。「起こっていることすべてが関連しているに違いないと感じました」と、彼女は言う。「あまりに多くの領域で多くの障害があったのです」Adam と主治医の小児科医に協力していた専門家たちは耐えるしかないと助言した。
 しかし、理学療法士は Driscoll さんと同意見であり、Wilmington にある Nemours/Alfred I. DuPont Hospital for Children の小児神経科医である S. Charles Bean 氏を受診するよう彼女に促した。「もし解明してくれる人がいるとしたら、それは Chuck Bean 氏以外にはいません」と、その理学療法士は Driscoll さんに言った。
 2007年11月、集中的な90分間の診療で、Bean 氏は詳細に病歴をとり、Adam が歩いたり食べたりするのを観察し、彼と一緒にゲームをした。それから彼はいくつかの代謝性疾患や遺伝子疾患のための血液検査をオーダーした。Adam は fragile X syndrome(脆弱X症候群)が疑われると彼は Driscoll さんに告げた。この疾患は、学習障害から精神発遅滞にいたる一連の症状に関連する先天性精神障害の最も多い原因となっている。
 Driscoll さんは fragile X より軽症型の筋ジストロフィーの可能性が高いと思っていた。
 2週間後、検査室から結果が返ったきた。「信じがたい結果となりました」と、Bean 氏が彼女に話したのを思い出す。二人とも違っていたのである。

'A punch in the gut' お腹への一撃
 アダムは、XXY 症候群とも知られているクラインフェルター症候群(Klinefelter syndrome)だった。遺伝性ではないこの疾患は胎児形成の初期に発生するが、そこで男児は、一つのX染色体と一つのY染色体にさらに余分なX染色体をランダムに獲得する。この症候群は、1942年に初めてこの疾患を記載した医師 Harry Klinefelter の名前に由来するが、Genetics Home Reference によると、男児500~1,000人に1人の割合で発症する。最もよく見られる染色体異常の一つであるという以外に、最も悪評高かった疾患の一つでもある。早期の研究は囚人で行われていたし、研究者たちはこの疾患を誤って犯罪行動や低いIQと結び付けたことから、その汚名をなかなか拭い去ることが困難となっているのだ。
 「早い時期からそれはきわめて悪い風評を得てしまっていたのです」と、性染色体異常を持つ子供たちの研究に取り組んでいる神経発達学の専門家 Samango-Sprouse 氏は言う。そういった関連性が、小児において可能性のある診断名として医師の頭に思い浮かぶのを妨げているのではないかと彼女は考えている。
 XXY症候群には様々な重症度が見られるが、この疾患ではテストステロンの産生が障害されるため、ほぼ全例で不妊を生ずる。必ずしもすべての細胞に余分なX染色体を持っていない男性は軽微な症状である可能性があり、不妊症の精査で発見されるまでこの疾患であることが発覚しない。重症の男児では身体的、社会的、および言語性の発達に様々な困難を抱えている。そういった子は乳児期には内向的で手のかからない子である傾向がある。
 もしこの疾患が早期に診断されれば、男児は思春期にテストステロン補充療法が施されるが、これによって成長に重要な段階に男性ホルモンが高まり、大きい筋肉や、まばらになる傾向があるひげや体毛の成長の増進が得られる。10代では、乳房の発達をみることもあり、ほとんどのケースで高身長である。
 クラインフェルター症候群は他の疾患に類似しているため、思春期前に診断することは困難なことがあると、Bean 氏は言う。もし、子供に重大な運動障害がない場合、「私でも頻繁に遭遇するようなものではありません」と、神経学者の立場から彼は言う。
 Adam の診断がついた時の最初の反応は大きな安堵のため息をついたことだったと Driscoll さんは言う。「それですべての説明がつき、彼の命が奪われることはないのだと。これから行うべきことについて、その道筋がきわめてはっきりしたと思いました」
 「しかし、それはまた多少お腹への一撃ともなりました」と、彼女は付け加える。なぜならその診断は Adam のこれからの人生に影響を与えることになるからだ。彼女の家族は遺伝子病、特に性染色体に関わる疾患に付随する汚名、そして誤った認識に立ち向かうことにもなると Driscoll さんは言う。Adam が2つのX染色体を持っていることを知る人は、彼がゲイではないのかと母親に尋ねることがしばしばあるという。(研究では、全人口における率と比較して、クラインフェルター症候群の患者がゲイである割合は決して高くないことが示されている)
 心臓の欠損症もしばしばXXY症候群に合併するが、心臓医によってAdam にはそのような異常は認められていない。彼は理学療法を続けており、知能も平均を上回っていることがテストでわかっている。
 Driscoll 夫妻は彼の診断結果について Adam に話しており、『重複して印刷された説明書のように』彼が余分な染色体を持っていることも説明している。彼女がこれまで会ったことのある、成人になるまで疾患が診断されなかったが、子供のころ怠惰で、頭が悪く、精神に異常があると言われてきた人たちと同じように、Adam にはこの疾患が彼の欠点であると考えてもらいたくないと思っている。
 Adam は粘り強く、自分の困難さを乗り越える決意を持っている、と彼女は言う。これまで他の子供たちと一緒に遊ぶことを嫌がっていたこの少年は、数週間前、自分の7才の誕生日を祝う初めて行ったパーティーにクラスメート10人を招待した。
 Adam の病気がもっと早く診断されていたら、家族は数年にわたり不要な心配やフラストレーションなど持たなくて済んでいたのにと Driscoll は思っている。しかし、「彼のことをこの若さで診断してもらったことは途方もなくラッキーなことだと感じています。一方で、原因不明の病気でありながら血液検査を行えば明らかになる可能性のあるほかの子供たちのことが気になっています」と、彼女は言う。

クラインフェルター症候群(以下KS)
この症候群には軽症から重症まであって、
軽症例では、
成人になって初めて判明することもあるというのは
今回初めて知った。
男児500 人に1人というKSの頻度は
かなり高いように思う。
発見されない患者もかなり多いと思われる。
生来症状が明確となっている患者さんの苦悩は
言うまでもないことだが、
アイデンティティがある程度固まってからの宣告は
当人にとってこれまたどれほどの衝撃だろうか?

私たちは偏見を持つことなく、
KSに対する理解を深め、
サポートに努めることが重要だろう。
治療は記事中にあるように
男性ホルモン(テストステロン)の補充療法が主体となるが、
心のケアにも十分な配慮がなされるべきと思われる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

“ルー・ゲーリッグ”病の正体

2010-08-21 16:02:23 | 健康・病気

筋委縮性側索硬化症は原因不明の不治の病であり
鉄人と呼ばれたアメリカ大リーガーのルー・ゲーリッグが
この疾患で死去したことから、
『ルー・ゲーリッグ病』と呼ばれた。
しかしこのたび、
ルー・ゲーリッグが実は『ルー・ゲーリッグ病』
ではなかった可能性が研究で示された。
今回も長文だが、要点だけでも掴んでいただけたら幸いである。

8月17日付 New York Times 電子版

Study Says Brain Trauma Can Mimic A.L.S. 脳損傷はALSに似た症状を起こし得る、と研究が示す

Lougehrig1_2

1934年の非公式戦、Norfolk Tars の Ray White 投手からの速球を頭部に受け支えてもらいながら退場するヤンキースの Lou Gehrig。ボールは Gehrig の右目上に当たり、彼は気を失った。

By Alan Schwarz

 ヤンキースのスラッガー Lou Gehrig が、やがて彼の名前をつけられることになる病気で死にゆく運命にあるにもかかわらず、自分自身を “地球上で最も幸せな男である” と述べてから71年間、彼は、尋常でない不可解な運命によって倒れた、スポーツ選手の豪胆さを持った米国の第一級の象徴とされてきた。

Lougehrig2

1936年のLou Gehrig

 しかし、神経病理学の一流誌に18日に掲載されることになっている査読済み論文で、Lou Gehrig 病としてよく知られているamyotrophic lateral sclerosis(ALS:筋委縮性側索硬化症)と診断された Gehrig のようなスポーツ選手や兵士の死は、今ようやく明らかになってきたのだが、損傷(脳震盪やその他の脳外傷)によって引き起されている可能性があることが示された。
 この論文は具体的に Gehrig について論じたものではないが、インタビューの中で著者らは明確な含みがあることを認めている:すなわちLou Gehrig が Lou Gehrig 病ではなかった可能性があることを。
 ナショナル・プロフットボール・リーグ(NFL)の死亡した選手の脳損傷を中心に研究しているBoston University School of Medicine と、マサチューセッツ州 Bedford にある Veterans Affair Medical Center の医師らは、やはりALSと診断された二人の選手とボクサー一人の脊髄の所見から彼らがALSではなかったことを示唆している。彼らには震盪様の外傷に引き起こされた別の致死的疾患があったが、それらはALSと同じ様に中枢神経系を障害するものであると、医師らは語っている。
 こうした所見は、一般人に比べかなり高い率でALSと診断された運動選手や退役軍人の運動機能障害の研究に対して方針転換を促し得るものだと、この論文の初期のバージョンを見てきたALSの専門家たちは言う。重大な脳外傷の既往がある患者は将来様々なタイプの治療が考慮され、恐らくそれが治癒へ向けての新たな道につながることだろう。
 「ALSの患者のほとんどは解剖に回されません。脳や脊髄を調べる必要がないからです」と、ミネソタ州 Rochester、Mayo Clinic の神経学准教授 Brian Crum 医師は言う。「しかし、ALSに類似した疾患、Alzheimer 病に類似した疾患があり、実際に組織を見ることで否定されます。このことには注意が払われる必要があります」
 Gehrig に対する所見の妥当性はあまり明らかとはいえない。しかし、ヤンキース伝説には球場での重大な外傷について明確な記録として残された歴史があり、恐らく高校時代やコロンビア大学でフットボールチームの破壊槌となるハーフバックとして受けた外傷もある。そういったことから、脳震盪のような外傷を受けながらも誰もが知っているプレーに対するGehrig の執着(14年間にわたり2,130試合連続出場という伝説的記録を打ち立てた)が彼の疾患につながっていった可能性がある。
 「彼の病気の代表として彼が存在しています。しかし、彼はその選手としての経験の結果として異なる疾患であった可能性があるのです」、この研究の中心的な神経病理学者で New England Veterans Administration Medical Centers の神経病理研究所の所長であるAnn McKee 医師は言う。
 この論文に Gehrig の名前は登場しない:彼のケースと類似した新たな不確定な周辺症例の説明にインタビューの中で取り上げられただけである、と Boston University の Center for the Study of Traumatic Encephalopathy の共同所長として McKee 医師と研究している Robert Stern 医師は言う。彼の遺体は火葬され、今はニューヨーク州 Valhalla の Kensico Cemetery に埋葬されていることから病気の原因が明らかにされることはないだろう。
 さらに重要なこととして、今回の所見はALS様の運動疾患と、激突するスポーツや戦闘で経験される頭部外傷との間に長く疑われてきた関係をさらに固めるものとなっている、と両医師は言う。
 「実際には別の運動ニューロン疾患を持っていても存命中は臨床的にALS と誤診されています」と、Stern 医師は言う。さらに、「どういう人がリスクが高いのか、あるいはリスクが低いのか、について多くがわかってくると、科学者は概してこの疾患のより早期での診断ができるようになり、それによって有効な治療にたどりつくことができるようになるでしょう」と言う。
 米国ALS 協会によれば、現在米国では約30,000人が不治の疾患であるALSに罹っているが、これは40才~70才の男性に多く見られ、すべての随意筋に急速で進行性の萎縮を来たす。Gehrig 氏は有名人として初めてとなる患者で1939年の診断後2年で死亡した。その他にも何人かいるが、英国の自然科学者 Stephen Hawking 氏は現在68才、萎縮した身体ながら脳は完全な機能を保持し十年以上生存している。
 今回の新たな発見はALSに取り組んでいる組織にとっては効果と逆効果を併せ持つ:それは見込まれる原因や研究の筋道への手がかりともなるが、Gehrig がALSではなかった可能性も示唆されてしまう。
 「それはきわめて興味深いことです。それによりさらに面白い図式が描かれますが、この疾患がどのようにして進展するのかに関してこのことが意味することにはさらなる研究を要します」とALS 協会の主任研究員 Lucie Bruijn 医師は言う。Bruijn 医師はGehrig を“重要な資金集めのツールである”と述べているが、これはParkinson 病と同疾患にかかっている俳優 Michael J Fox の図式と類似している。
 「これが実際にどんな種類の病気であるかを人々に理解してもらうのに重要なのは名前と顔なのです」と彼女は言う。「それによって病気がより身近なものと感じられるのです」

NFL におけるALS
 アメリカン・プロ・フットボールとALSの関係は、NFLの引退者に見られる認知症や他の認知機能低下をひき起こすグラウンド上の脳損傷についての最近の発見に続くものである。McKee 医師らのグループは1960年以降ALSの診断がつけられた元NFLの選手を14人確認しているが、これは同年齢の米国男性から予測される数の約8倍であった。
 しかし、ALS類似の症例数の増加を見ることによって、脳損傷の認知能への影響と同レベルで一般国民の不安を煽るべきではない。そのことは何百人もの元プロ選手やおそらく多くの若者のスポーツに関わる何千人もの少年少女に影響を及ぼすと、この医師らは警告する。
 最近の疫学的研究では、スポーツにおける脳損傷はALSのリスクファクターとなりうることが示唆されている。例えば、2005年の論文ではイタリアのプロ・サッカー選手は通常の6倍の頻度でこの疾患にかかっていたことを発見した。米国の軍隊への従事とALSの高リスクとを関連付けた研究もある。それは恐らく戦場での爆発や爆風による損傷によるものだろう。
 Journal of Neuropathology & Experimental Neurology のウェブサイトに水曜日に掲載される予定の今回の研究では、脳損傷が運動ニューロン変性をひき起すこと、そしてその結果(少なくとも研究の対象となった3人の男性で)生じた疾患は実際にはALSでなかったことの初めての確固たる病理学的所見が示されている。それは異なる特徴、すなわち神経機能を障害する脊髄中の二つのたんぱくの特異的なパターンが見られる別の疾患である。
 McKee 医師は既に、認知障害と最終的な認知症に至る脳の進行性疾患、すなわち慢性外傷性脳症をきたし死去したNFLの12人の引退者を発見している。それらの男性のうちの2名、1970年代に Minnesota Vikings で長い間ラインバッカーを務めた Wally Hilgenberg 氏と1982年 San Francisco 49 ers のラインバッカーとしてわずかに3試合競技した Eric Scoggins 氏は主治医によってALSと診断されていた。
 McKee 医師が、ALS 様症状を呈していた元ボクサーとともに、彼らの脊髄組織を検査すると、運動ニューロン変性を招くことが知られている2つのたんぱく、tau(タウ)とTDP-43が劇的に高値であることを発見した。脳への衝撃の結果、それらは脊髄中に出現するが、それは脊髄自体の直接的損傷ではなく、恐らくそれらのたんぱくが脊髄まで下降してきているのだろうと彼女は言う。
 McKee 医師は重大な脳損傷の既往のないALS患者ではそのようなたんぱくパターンをこれまで認めたことがなかったため、彼女のチームは、この3人の運動選手はALSではなく、同じように患者の神経系を変性させる何らかの別の疾患であると確信した。ALSの症状を示した3人の男性すべてにおいて特徴的パターンを発見したことは McKee 氏の結論を下すのに十分すぎる病理学的証拠となっていると同氏はつけ加えて言う。

Lougehrig3

1939 年7月、ヤンキー・スタジアムの祝福の会での Lou Gehrig

 「もしこのモデルを実験マウスで作ることができるなら、マウスでは容易に遺伝子組み換えができ繁殖も早いので、この疾患の病因について知ることができ、その結果治療を行うことが可能になるでしょう」と、McKee 医師は言う。専門家の間でのコンセンサスは、脳損傷がこのような疾患の原因となっているのはほぼ確実だが単独の原因ではないだろうというものだ。
 それらの患者には脳震盪が促進要因として働くような恐らく高感受性につながる遺伝的要因がある。そういった関連から、今後数年のうちには、今日行われている鎌状赤血球形質のチェックと同じように、疾病になりやすくする遺伝子について検査を受けられるようになるだろうと言う医師もいる。

ゲーリッグ・ミステリー
 他の米国の運動選手よりも、恐らく彼の連続試合出場記録をついに破った選手、Cal Ripken Jr 氏以上に、Lou Gehrig 氏は、とりわけけがをおしながらの毎日のプレイへの執着の象徴となってきた。そのような名声は、彼が重大な脳震盪を受けながらも、記録に残されている今なら危険とされるやり方でプレイを続けた出来事にいくぶん関係している。
 最も顕著なできごとは1934年6月に起こった。非公式戦において、Gehrig は右目のすぐ上に投球を受け新聞の報道によると5分間気絶した。(彼はバッター用のヘルメットをかぶっていなかった;大リーグではそのような防御具は1940年代までは意義あるものとしては導入されておらず、1958年まで義務化されていなかった)。彼は試合から退場した。
 頭痛もあり、出場を控えるようにとの医師の勧告もあり、そして大きめのBabe Ruth の帽子をかぶらなければならないほど大きな瘤が頭にできていたにもかかわらず、Gehrig は翌日の Washington Senators 戦に出場し、彼の1,415試合目となる連続試合出場を継続した。「そんなちっぽけなことでは私たちドイツ人を止められないよ。最も幸運な男だよ」Jonathan Eig 氏による信憑性のある Gehrig の伝記によると Gehrig はそう記者に語ったという。
 1924年、Detroit Tigers との試合後の乱闘中 Gehrig は Ty Cobb に殴りかかって倒れコンクリートで頭部を打撲、短時間意識を失った。さらに 1930年9月、Tigers との試合で一塁を守っていた時、Gehrig はゴロが顔面を直撃し気を失った。また1935年には向かってきた走者とぶつかりまた意識を失った。
 それらは Gehrig の意識消失が顕著であったため新聞で報道された4件である。彼はその他にも知られていないもの、あるいは重要と考えられる脳震盪を、野球の試合中や、ニューヨークの Commerce High School、およびその後のColumbia University でハーフバックとして競技中に受傷していた可能性が高い。たとえば 1933年のWashington 戦でも頭部に死球を受けたがそのままプレーを続行した。
 「ヘルメットをかぶらない時代に彼がプレーしていたのは明らかであり、間違いなくフットボールのフィールドでも頭部や肩の防御はしていませんでした」と、Eig 氏は言うが、彼によるとGehrig のフットボール選手時代、新聞には頭部外傷の記録はないそうである。「野球場でけがが多かったのは彼の不器用だったことも若干関係しているかもしれない。シーズンオフに彼が行っていた地方巡業や彼のフットボールの経歴やプレースタイルを考えると、その他にもどれほど多く頭部に衝撃を受けていたかは計り知れない。
 Gehrig の外傷への対応はファンや報道関係者の間に尊敬の念を抱かせた。当時脳震盪は喫煙と似たようなところがあって、現在有害であるとされているものでも Gehrig の時代には良いものであり、魅力的であるとさえ見られていた。雑誌 Life の裏表紙を飾っていたタバコの Camel の広告には、1934年の事故を含め “Larruping Lou's(最高の Lou)” が見せてくれるけがをおしてのプレーに対して様々な称賛が載せられていた。
 「あるとき、ビーン・ボールで意識を失った翌日には5イニングで3本の3塁打と打撃が爆発」とその広告には書かれている。「Gehrig の “鉄人” 記録は彼の身体状況が素晴らしい証拠である。Louは言う、『何年もずっと私はプレーしてきている。私は自分の身体状況に注意を払ってきた。タバコ?もちろん吸うし楽しんでいるよ。私のタバコは Camel』」

最期の時、そして伝説
 変性性運動疾患の最初の徴候が Gehrig に現れたのは1938年のことで、両手の痛みから始まって、両足や両肩の筋力が徐々に低下した。1939年春、ガタガタになったGehrig のトレーニングの状況から無関心な観客でさえどこかがかなり悪い状態にあるように思われた;状態の悪かった4月を経て、5月2日、Gehrig は Yankees の Joe McCarthy 監督に、この日の Detroit 戦には出場しないと話し、14シーズンにわたった彼の連続出場は2,130試合で途絶えた。
 診断は筋萎縮性側索硬化症であり、これは当時、ポリオに類似した “小児麻痺” の一型として医師から一般に説明されていたが、実質的にはほとんどわかっていない疾患だった。その原因は不明であり、致死的とも考えられていなかった。Gehrig の野球のキャリアはほどなく終わり、2週間後の7月4日、ダブルヘッダーの試合の合間にヤンキースタジアムで彼の栄誉が称えられた。
 6万人以上のファンに向かってマイクを通して語りながら、状況を把握した Gehrig は自身を“地球上で最も幸福な男”と呼んだ。その発言はたちまち彼の謙虚な姿勢と、そしてもちろん、このスラッガーが本当はどれほど不幸であったかを象徴することになる。わずか2、3年前には映画のターザンを演ずるオーディションを受けたほど外見的に完璧だったかつてのGehrig の筋肉質の体型はたちまち失われてしまった。
 2年後にGehrig が死去するころには ALS は Lou Gehrig 病と一般に呼ばれるようになっていたが、この疾患はこの選手で知られることになっただけでなく、彼が選ばれてこの病気で死んだのだという一見恣意的とも思えるこじつけでも有名となった。
 Mayo Clinic はGehrig のカルテを保管しているが、施設の方針からそれらを一度も公開していない、とスポークスマンは言う。数年前にカルテを調べる許可を得た神経学者、フロリダ州 Jacksonville の Mayo Clinic の Jay Van Gerpen 医師も、今回の記事のためにインタビューを受けることについて同クリニックからの許可を得られなかった。
 どのようにすればGehrig の病気を特定できるかを考える時、Boston University グループの McKee 医師は、もしGehrig が火葬されず、死体防腐処理を施されていたなら、理論的に残存組織を検査できただろうと言う。彼以降、ALSになったアメリカ人数十万人以上と同じく、彼もまたALSだったかもしれない。そして患者たちは恐らくGehrig のようななんと有名で立派な男も自分たちと同じ病気だったことで幾ばくかの慰めを得ていたのである。あるいは、彼の脳損傷の既往を考えると、科学の発展とともに、脳震盪の衝撃的な代償の証拠として増加する仲間とともに存在する Wally Hilgenberg や増加する選手たちと同じであった可能性もある。
 「Lou Gehrig は彼自身の病気について可能な限りすべてを知りたいと思っていました。彼は医師たちと仲良くし、あいまいなアプローチしか持たない科学者と話をし、この病気と闘う何らかの手段を見つけるため自らが実験台となることを申し出ました」と、Eig 氏は言う。「彼は現実から目を逸らそうとはせず、これについて理解したいと思っていたのです。もし今日、彼がここにいるなら、彼はそのころと同じ好奇心と強い願望を持ち続け、自身の状況だけでなく他の人たちの状況をも救おうとしていることでしょう」

ビーン・ボールとは懐かしい響きだが、
危険球が横行していた時代に
ヘルメットなしでプレーをし、
そんな中で2,130試合連続出場をなしとげていたとは…
あらためて彼の偉業には驚嘆する。
当時に比べれば野球はずいぶん安全なスポーツになったと
言えるのだろうが、
ボクシングやラグビーなどでも十分な配慮を望みたい。
わざわざ神様は頭蓋骨で保護するように
作られたのだから、
脳という器官は
極力大切にしなければならない、と思うのである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

“hibakusha" の願い

2010-08-11 23:36:52 | 国際・政治

広島、長崎の原爆の日は終わってしまったが、
今年はこれまでになく核廃絶への熱い思いを
感じた(のは MrK だけか…)。
広島には米国代表の初めてとなる参列もあり、
広島、長崎が米国民には如何に伝えられたのか、
そして核廃絶へのメッセージを米マスメディアは
いかに捉えるのか…
非常に興味深い問題であるため
長文であるが Washington Post 紙からお伝えする。

8月8日付 Washington Post 電子版

Abolishing nukes: flicker of hope to global cause 核兵器廃絶:世界的運動へのかすかな希望の光

Abolishingnukes

Brookings Institution を通じて国防省から提供されたこの最新の写真には B-61 核爆弾が示されている。米国備蓄核兵器の要であるこの兵器の破壊力はTNT火薬170,000トン相当(これはヒロシマ原爆の11倍の爆発力)までの様々なレベルに調整可能である。核兵器廃絶へ向けての運動が世界規模で広まっているが、これはBarack Obama 大統領の支持によって勇気づけられている。しかし“現実主義者たち”は、世界中で、より大きな安定と平和がまず実現されなければならないと主張する。

By CHARLES J. HANLEY
The Associated Press

広島、日本:65年前の激烈な瞬間から恐ろしい時代が始まったこの場所で、世界が核兵器に別れを告げる日を待つように、平和の火はまだ燃え続けている。
 そんな日が近づいてきているのかもしれないと信ずる人は多い。
 「暗いトンネルの中に光を見ました」と Emiko Okada さん 73才は言う。「“Yes, I can.” とオバマ大統領は言ったのです」
 1945年のヒロシマで生き残った彼女ら “hibakusha” (被爆者)にとって、核兵器廃絶は生涯の願いとなっていた。ヒロシマが決して放棄しなかった大義は、今また世界中に高まっている運動の大義ともなっている。ワシントンや他の首都にいる政治家によって受け入れられ、冷戦主義者にも支持され、ハリウッドにより宣伝され、億万長者から資金提供を受けている。
 多くの国々の一般人もまた『核兵器ゼロ』を望んでいることが、世論調査で示されている。
 しかし、それは達成可能なのだろうか?果たして核兵器を地球上から排除できるだろうか?人はさらに強力な兵器に手を伸ばすことをやめることができるだろうか?そして、もっと近いところでは、今回初めてとなった駐日大使の参列に続いて、ヒロシマの桜の木々、慰霊碑、そして言葉では言い表わせない記憶の中をアメリカの大統領が今年中についに歩くことになるのだろうか?
 「被爆者はこう言います。『私たちはどんどん歳をとってゆき、やがて死ぬでしょう』。彼らにとって核廃絶はただちに達成されるべき夢と言っていいでしょう」と、広島生まれで核の時代を研究しているKazumi Mizumoto(水本和実、53 才)さんは言う。「私には彼らの気持ちが理解できます。しかし気持ちは十分とは言えません」
 最も強い気持ちは義務感である。それは太田川の河畔にある埋葬塚にその遺骨が収められている数えきれない犠牲者に対するものである。1945年8月6日、眼下の無防備な都市に目をくらませるオレンジ色の閃光を浴びせ、この世のものとは思えない原子による破壊力を炸裂させた爆弾を米国の爆撃機が投下、一瞬のうちに生じた多くの黒こげの死体を抱え、満ち引きした川が太田川である。
---
 この夏、米国の映画館では、ハリウッド映画 “Countdown to Zero” が、観客に認識を改め核兵器を根絶する考えを勧めている。もう一つのドキュメンタリー映画、 “Nuclear Tipping Point(核の転換点)” はDVD 5万枚が配布され、この4月には Barack Obama 大統領のために上映されたが、この中で米国の元国務長官 George P Shultz 氏は歴史における “きわめて危険な瞬間” を警告し、核兵器ゼロを訴えた。
 前者はインターネット通信販売会社 eBay の前社長 Jeff Skoll が資金提供しており、後者は Warren Buffett と Ted Turner の二人の億万長者から寄付を受けている組織、Nuclear Treat Initiative から資金を受けている。
 このような有力者による支持はこの運動の新たな影響力を増大させることになる。核の時代の惰性に取り組むにはそのようなことすべてが必要となるだろう。
 核の時代は最初はゆっくりと展開した。少なくとも14万人が死亡したヒロシマ原爆、その3日後、少なくとも8万人が死亡したナガサキ原爆の後、米国は第二次世界大戦における日本の降服を勝ちとり、1945年中には新たに3個だけ原爆を製造した。しかし、ソ連が最初の核実験を行った1949年までに、米国は235個を持つようになり、冷戦の敵対国の間で核兵器開発競争が始まった。
 いわゆる“核保有国”はその後の数十年間で拡大し、英国、フランス、中国、イスラエル、インド、パキスタン、そして恐らく北朝鮮にまで広がった。
 1986年のピーク時には、世界の核兵器の総備蓄量は70,000発以上となり、その96%は米国とソビエトの手にあったが、それらには航空爆弾やミサイルの弾頭だけでなく、核地雷、海軍の水中爆雷や砲弾も含まれ、TNT 火薬に換算すると地球上の人間一人当たり3トン分に相当する量までとなった。
 そのような年月を通じ、世界は方や1962年のキューバのミサイル危機から、公に発表されていない誤認警報や発射寸前の事態に至るまで、幾度となく壊滅的な核交換の危機的状況を経験した。
 ソ連が解体した1991年に冷戦の終結を迎えて初めて、長距離核ミサイルを削減する最初の条約とともに戦略兵器の “ビルドダウン” が始まった。しかし削減であって廃絶ではない。2007年時点では、貯蔵兵器としていまだ27,000発の原爆弾頭が保有されており、これはヒロシマ原爆150,000個以上に相当する。
 その年の1月、極めて重要な意見記事が Wall Street Journal に掲載された。これは元国務長官の Shultz 氏、Henry A Kissinger 氏、元米国国防長官のWilliam Perry 氏、そして元米国上院議員で Nuclear Threat Initiative の議長である Sam Nunn 氏による署名記事である。
 これら4人の年配の政治家は核廃絶を求めて二つの強力な提言を行った。冷戦型の核抑止力の考えは相当に時代遅れの概念であること。そして数千の武器や何トンもの兵器材料が存在しており、核テロ、事故、あるいは計算ミスなどの脅威が年々増大してきていることである。
 彼らのアピールは核廃絶論者に新たな希望を与えることになった。2008年、大統領候補者たちが核廃絶の目標を支持、さらに、ヨルダンの Noor女王や元米軍交渉委員の Richard Burt 氏が主導し、元ソ連大統領の Mikhail S Gorbachev 氏など大物の支持を受けた、新たな注目的運動 Global Zero(グローバル・ゼロ)が起こり、その勢いを増した。
 その後2009年4月、米国の新しい大統領とロシアの Dmitry Medvedev 大統領が共に “ゼロ” 目標を支持、さらにオバマ氏はチェコ共和国プラハでの歴史的演説で、米国は核兵器を使用した唯一の核保有国として行動しなくてはならないと宣言したが、これは米国の道義的責任に触れた希少な声明だった。
 今年4月までに、米国とロシアの首脳は両国の兵器を備蓄の数千発とともに、配備された弾頭を1,550へと一定レベルまで減じる新たな条約に調印している。現在この条約は米国上院の承認を待つところである。
 一方、核廃絶論者たちは自らの計画を展開してきている。
 かつての米国、ロシア、中国、およびその他の軍事や外交の指導者らからなるグローバル・ゼロの研究グループは、米国およびロシアが2018年までにそれぞれ弾頭を1,000発まで減らすよう取り決める段階的な措置を提唱している。一方、今後数年の間に、他の核武装国に対して継続中の米ロの削減量に応じてそれぞれの兵器を削減するため多国間協議へ参加するよう目論んでいる。
 また世界中の4,037都市を代表し、広島市の Tadatoshi Akiba(秋葉忠利)市長が代表を務める Mayors for Peace(平和市長会議)はさらに意欲的であり、2020年までの核廃絶を求めている。
 最もきめ細かい段階的な青写真が、日本政府とオーストラリア政府から資金提供を受けている International Commission on Nuclear Non-proliferation and Disarmament から出されている。昨年11月に発表された 300 ページの報告書は2025年までに世界の弾頭数をたかだか2,000発とする “最少化” と、それに続く不特定の期間のうちに兵器の廃絶を見越すものである。
 日本の元外務大臣である委員会の共同議長 Yoriko Kawaguchi(川口順子)氏は東京でのインタビューで、「廃絶の時期を決めるのは現実的ではないと思っています」と答えている。
 彼女は道半ばまでは頂上が見えない山登りに例え、そこでは、いかにして頂上にたどり着けばよいか最善の判断を下してゆくことこそ可能であるという。
 「簡単ではありませんが我々はそれを行わなくてはなりません。世界を変えなければならないでしょう」と、彼女は言う。「もしヒロシマに行かれれば、核兵器の残虐さがおわかりになるでしょう」
 しかし “現実主義者たち” はたちまち、米国の元国防長官の Harold Brown 氏が核兵器ゼロを “現実的に不可能” と見なしていることの方に異議を唱えている。
 彼らによれば、まず第一に、ロシア、中国、インド、パキスタン、そしてフランスは、それぞれの理由から兵器の放棄には抵抗するだろう。例えばロシアは米国の従来の軍備の絶大な優位性を懸念するのである。米国の核の傘に依存するドイツや日本のような国々は、米国に核兵器を廃棄する動きを見たならば、自らが装備する気にさせられるだろうとも主張する。
 前進できるかどうかは、明らかに、そのような国家主義的利害関係を克服する強い政治的意志やリーダーシップにかかっていると廃絶論者たちは反論する。
 「我々が学んだことの一つは、個々の利益を第一として進む限り、うまくいかないということです」と、2009年のAPのインタビューで Gorbachev 氏は述べた。もし米国とロシアが共に主導してゆけば、「次のステップが他の国々から生まれてくることでしょう」
 それでは嘘つきはどうなるのか?と、懐疑論者は問う。世界がゼロに向かうとしても、イランは核爆弾の製造を決めるのでは?
 「それは見当違いの議論です」と、Schultz 氏は昨年APに語った。もし、他のすべての国々が兵器を廃棄し、イランがそれらを保有する唯一の国家として浮かび上がれば、「それを支持する国はなくなるでしょう」と、彼は言う。
 極秘の爆弾製造計画を発見することや弾頭の撤去を検証することに関して、大気のサンプリング、衛星画像、地震監視、その他の手段を用いるなど、検証の科学は高い信頼性が得られる状態へと進歩していると支持者らは言う。さらに国連の核監視機関である International Atomic Energy Agency (IAEA)は立ち入り査察の強い権限が与えられなければならないと、彼らは言う。
 一体核のない世界を実践しようとするのは誰になるのだろうか?最高権威であるはずの安全保障理事会は、5つの常任理事国、すなわち主たる核保有国の一つが拒否権を行使すれば、しばしば無力化してしまう。
 元国連軍縮担当事務次長の Nobuyasu Abe(阿部信康)氏は、核禁止のもとで、是認できない核の “突発”ケースにおいてはこの5ヶ国は拒否権を行使しないことに同意するよう提言する。
 「もし他のどこかの国が核兵器を手に入れようとしていたなら、その時点で5ヶ国はそれに対して強い措置を施すことに同意するでしょう」と、東京で Abe 氏は言う。
 経済的あるいは政治的孤立に加えて、 “強い措置” として、残っている核のオプションに訴えるという別の強力な手段をとる可能性がある。それには突発した核の脅威に対抗するために核兵器を迅速に再構築する能力が求められる。その意味で、国家の統制の下であれ、国際的機関の統制下であれ、核兵器は消えゆくものであっても決して忘れられることはないだろう。
 最後に、最大の障壁は、世界をピリピリさせ国々に核兵器を製造させ続けてしまう地域紛争であると、“核兵器ゼロ” の推進派も、批判派も共に言う。例えば、カシミール地方をめぐるインドとパキスタン、アラブとの関係で孤立状態にあるイスラエル、米国・北朝鮮およびイランの間の敵対関係、中国・台湾間の閉塞した関係などである。
 そのような危機を緩和することが何よりも優先されるべきだと多くの人たちは言う。
 「軍備縮小は重要です、しかしより安全な世界がもっと重要なのです」と、軍縮外交のベテラン、フランスの Eric Danon 氏は言う。
 一方、核廃絶論者は、核兵器排除への確実な前進と高まる要求はそれ自身、世界をこういった議論の解決の方向に動かすのに役立つだろうと期待している。
 「必ず世界が十分に安定するとは思えません」と Kawaguchi 氏は認める。「だからこそ一歩一歩進まなければならないのです」
 彼らはまた、世界が十分に認識できているかどうかについて確信を持てないでいる。
 「恐らくヒロシマやナガサキの写真を見たことのない世代が存在します」と Queen Noor はAPに対して語った。「そのためにこれがどんなものか現実味を全く感じていないのです」
 65年しか経っていないのに、その真実が非現実的に思われてしまう可能性がある。
 1945年8月6日、午前8時15分、島病院の 600m(2,000フィート)上空で原爆が炸裂したとき、その光線はヒロシマの中心に浴びせられ、その熱は摂氏3,000度(華氏 5,400度)以上に達した。これは鉄を溶かすのに必要な熱の2倍である。
 爆風は秒速440m(時速約1,000マイル)に達し、その威力はカテゴリー5のハリケーン5個分に相当する。
 死と破壊は一瞬に訪れた。木々や、木造の家、人々は突然灰となり、全方向に2km(1.2 マイル)にわたって焼け焦げ何もない平原が残った。
 「まさに灰色の廃墟の地でした」と、Keijiro Matsushima さん 81 才は思い出す。彼は最も被害の大きかった区域外の倒壊した学校にいて生き延びた。
 その日ずっと、燃え盛るヒロシマの中心から “幽霊の行列” がゆっくりと現れた。それは燻製あるいは網焼きの豚のように火傷を負った人々で、顔面はすべて焼けただれ腫れあがっており、皮膚はほとんど剥げ落ちていて、数時間で死ぬ運命にあった。他の多くの人たちも放射線障害でその後数週間のうちに死んでいった。
 「私は世界のもっともっと多くの人たちに核兵器の恐ろしい現実について知ってもらいたいのです」と Matsushima さんは言う。彼は高校の英語の教師を退職後、教育者の核廃絶推進団体を指導している。
 Robert "Bo" Jacobs さんは平和記念公園の中でアメリカ人の訪問者を案内し、心の痛む記念碑のある空間や核兵器がなくなる時まで消されることのない平和の灯を通り過ぎる時、彼らにその現実感を持ってもらおうとしている。
 中心となる資料館では1945年のあまりの惨状に “ほとんどの人が愕然とする”、と Jacobs さんは言う。彼は広島平和研究所で研究者・著作者をしているアメリカ人である。しかし今日の核融合兵器の威力の前にはヒロシマ原爆も霞んでしまうと、彼らに説明している。
 「誰も実際にその破壊力を把握することはできないと思います」と彼は言う。
 自身の指揮下にヒロシマの数千発分の兵器を保持しながら、そのことを理解し始めている可能性のある人物、それがアメリカの大統領である。
 昨年11月、日本人のインタビュアーに対して Obama 氏は、ヒロシマとナガサキを訪問できれば光栄であると述べた。彼にはそのチャンスがある:毎年行われるアジア太平洋サミットが今年11月13、14日に日本の横浜で開催される予定だが、同時期にノーベル平和賞の受賞者が、飛行機で1時間のヒロシマに集まる。Obama 氏には両方の会合に出る資格がある。
 一方、駐日大使の John Roos 氏は金曜日に行われたヒロシマの記念式典に参加したが、これは米国の公式参加としては初めてのことであり、ワシントンがヒロシマの犠牲者たちを追悼する役割に対する心構えができていたというメッセージである。「私たちは核兵器のない世界を実現するために一緒に努力し続けなければなりません」金曜日に発表された声明で Roos 氏はこう述べた。
 被爆者にとって、オバマ氏は「“オバマジョリティ”という核廃絶運動のリーダーなのです」と、長期に日本に在住し、同市の平和公園と資料館の財団法人の理事長であるアメリカ人 Steven L Leeper 氏は言う。
 「11月は彼が驚くべき何かを行うチャンスなのです」と Leeper 氏は言う。
 しかし、Obama 氏の訪問によって米国に政治的反動をもたらす可能性があることを被爆者たちは知っている。「彼がヒロシマを訪れることを決意するのは簡単ではないでしょう」と、Okada さんは言う。
 彼らはまた、最終目標である核兵器の廃絶を達成することが容易ではないことも理解している。
 「結局、それぞれの国が自己中心的なのです。自分自身を守りたいと思っているのです」と Matsushita 氏は言う。“現実主義者のようで” ありながら、「核廃絶について心を砕いてきました」とその年老いた教師は言う。「そしてそれはきわめて困難なことだという結論に達したのです」
 静かな緑に包まれ、訪れた学童たちが走り回っている広島の平和公園は三角州の中心に広がっている。そこは65年前のあの日、半狂乱となり混乱した親たちが、建物疎開の手伝いで市の中心に連れてこられた数千人の子供たちをむなしく探し回っていた場所である。
 そしてその後、やけどを負い、体調を崩し、茫然自失となったヒロシマの生存者が火葬用の薪の上に身元のわからない遺骸を何日も積み重ねた場所である。そして太陽の表面と同じくらいの温度のあの朝の灼熱の中、12才だった Okada さんの妹がいなくなった場所だ。
 生涯の後半を迎え、今は孫もいる物静かで落ち着いたこの女性はあの日を振り返る。
 「私たちは自分たちの地球を守らなければなりません。そうすれば、私たちの子供や孫があのような目に遭うことは決してなくなるでしょう」と、彼女は言う。
 そして彼女は前を向いた。
 「多分私が生きているうちに核兵器がなくなることはないでしょう。それでも決してあきらめるわけにはいきません」と、彼女は言う。

今年の広島の記念式典に
はじめてアメリカ代表として参列したルース駐日大使は
式典後逃げるように会場を後にした。
個人の信念はどうあれ、
米国代表としてむずかしい立場に置かれていたことは
想像に難くない。
それでも米国が式典に参加したことは大きな進歩であり
こうして Washinton Post 紙にも
大きく(ご覧のように長文で)取り上げられていた
(一部日本のマスコミによると、米紙にはほとんど
報道されなかったということだったが…)。
この上さらに、今年11月、オバマ大統領が
実際にヒロシマの地を訪れるということになれば、
核廃絶に向かうきわめて大きな一歩となるだろう。
実際に原爆資料館に出かけ、
悲惨な写真や遺品を目の当たりにし、
詳細な説明文を読むと
誰しもが大きな衝撃を受ける。
それでも、実際にあったことの何分の1が
理解できるだろうかとも思う。
しかし、一度も資料を見たことのない人の理解は
さらにその何千分の一なのかもしれない。
少しでも多くの人たちが、
核兵器の脅威を見て知りさらに人に伝えることが、
今この時代には欠かせないことであり、
それが hibakusha の願いでもあると思うのだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

世の中の中高年の皆様…

2010-08-05 09:29:42 | 健康・病気

今回はあんまりミステリアスではないけれど、
恒例の Washington Post メディカル・ミステリーから

7月27日付 Washington Post 電子版

Medical Mysteries: Sudden hearing loss in one ear was no minor irritant メディカル・ミステリー:突然の片側の聴力喪失は気にする必要のない問題ではなかった

By Sandra G. Boodman
Wayne Curtis 氏は電話をかけようとして受話器を取り上げたが、主治医から心気症だと思われるかも知れないと不安に感じていた。
 その3週間前、当時48才のCurtis 氏は肉離れでバルチモアの内科医 Carles Locke 医師の元を受診していた。そして今、不動産業を営んでいる彼には新たな、一見些細に思える症状があった。彼の左耳が全く聞こえなくなっており、塞がれたように感じていたのだ。Curtis 氏は自分の症状が近くのバルチモアのダウンタウンに厚く積もる樹木花粉に関係しているのではないかと思っていた。
 長く春のアレルギーと奮闘してきた Curtis 氏はいつもならそのまま頑張りとおして、花粉の数が減った時に聴力が回復するかどうかをみようとして数週間待っていただろう。しかし、Curtis 氏がメンバーになっている新たに結成したコーラスのカルテットが初めてのコンサートを間近に控えており、ボストン・シンフォニー・オーケストラと共演したことがあるこのテノール歌手は、聴力障害が自分の歌唱に影響を及ぼしていることを心配した。
 「彼には、明日また来院するよう言われるのではなく、強い充血改善薬を処方してくれることを期待していました」と、Curtis 氏は言う。彼はLocke 医師の強硬な反応に驚かされた。
 「それは恐らく『善であるよりも幸運である方が良い』という典型例でしょう」とLocke 医師は即妙に答えた。彼の切迫感は10年以上前に彼が遭遇した忘れられない患者によって増幅されていたのだ。
* * *
 Curtis 氏の悲惨な時期は花粉の季節中続いていたので、それを乗り切るため抗ヒスタミン薬や充血改善薬を大量に内服することには彼は慣れていた。
 2009年4月の朝、彼が目覚めると左耳が全く聞こえないことに気がついたが、それは重症のアレルギーの一つの症状に過ぎないように思われた。高度が変化するとき、飛行機の乗客が耳がポンと抜ける前に経験するのと同じ感覚だった。
 「耳がポンと抜けるのを期待していたのですが、だめでした」と、Curtis 氏は言う。「しかし、痛みが全くなかったので気にしませんでした」耳を傷つけたり、格別異常なことを行ってはいないことが分かっていたので自然に治るだろうと彼は考えていた。数日が経ち、開演が近づいてきたコンサートのリハーサルの間、Curtis 氏は新たな厄介な症状に気付くようになった。問題の耳の中の大きな雑音、いわゆる“ホワイト・ノイズ”である。
 この症状に最初に気付いてから5日後、例の電話をかけた翌日、Curtis 氏はLocke 医師の診察室に座っていた。自分の症状を説明するとこの医師は熱心に聞いた。頭痛やめまいはなく、右耳の聴力は正常のようだと彼はLocke 医師に話した。Locke 医師はCurtis 氏の耳を覗きこみ、音叉を用いて彼の聴力を調べた。検査により、Curtis 氏の左の聴力はほとんど失われており、障害は内耳にありそうだということがわかった。
 その時点で、どこが悪いのかをほぼ確信していた、とLocke 医師は話す。Curtis 氏は特発性突発性感音難聴(突発性難聴)に違いないと。これは一側の突然の聴力喪失で年間10万人あたり5~20人が罹患する疾患だ。
 外耳(中耳)が障害される伝音性難聴と違って、突発性難聴は緊急的医学的疾患であり、その程度は軽症から重症まで様々である。Curtis 氏の病状は重症であり、片方の耳が永続的かつ完全に聴力を喪失していてもおかしくなかった。Curtis 氏の場合も含め、大部分の症例においてその原因は不明である。副腎皮質ステロイドによる治療が効を奏する場合がある。
 特にLocke 医師が初めて診た患者について話した後、Curtis 氏は愕然とし、拭うことのできない衝撃が残った。
 1996年に研修期間を終えてすぐ、20年前に目が覚めると片方の耳が全く聞こえなくなっていたと話す患者を Locke 医師は診察した。彼女の聴力は全く回復しておらず、Locke 医師には彼女が治療を求めているのかどうかわからなかった。しかし、Locke 医師はいい方の耳にもわずかな障害が疑われたので治療を行った。2日後、彼女は診察室に再び現れたが、そちら側の耳も聴こえなくなっており、完全に聴力を喪失していたのである。
 「明らかに実に劇的な経過でした。私たちは彼女を耳鼻咽喉科の専門医に緊急紹介することになりました」治療によって後の方の耳の聴力は回復が得られたと Lock 医師は言う。その耳鼻咽喉科医は、突発性難聴の診断や治療が遅れた結果、永続的な聴力喪失を残す患者もいるとLocke 医師に話した。しばしば患者やその主治医たちは間違ってこの障害がアレルギーあるいはカゼによる呼吸器のうっ血が原因であると思い込んでしまうことがある。
 理由は不明だが、治療が有効な期間は患者が聴力低下に気付いてから2週から4週の間である。それ以降では聴力喪失が永続的となる可能性がある、と2008年の New England Journal of Medicine の論文で Harvard の耳鼻咽喉科学教授 Steven D Rauch 氏は書いている。この疾病は男女差なく認められ、多くは43才~53才の間に発生すると Rauch 氏は報告している。
 治療を行われなくても、その多くは14日以内であるが自然に回復する患者もいる、と彼は書いている。予後は障害の重症度に依存する:軽度の聴力障害の患者は治療なしでも完全回復する可能性が最も高いが、Curtis 氏のように高度の聴力喪失のある患者では自然回復を見ることはまれである。一般に、2、3週間のプレドニゾンなどの副腎皮質ステロイドの内服を含む治療を行っても、聴力が回復しない患者がいる。
 治療が有効であることの証明はいまだ明確になされていない。昨年改訂されているが、2006年の Cochrane Review(コクラン・レビュー)で、ステロイドを用いた迅速な治療が聴力の有意な改善に関連していたということがある小さな研究で示されていたことが報告されている。この研究では改善率がプラセボ内服群の32%に対して治療患者群で61%であった。しかし別のもう一つの研究では有効性を示せていない。研究者によれば、両研究とも確固たる結論を引き出すには患者数が少なすぎるという。
 たとえそうであろうとも、ほとんどの医師たちはこの疾患に対してプレドニゾンを処方するが、それは、期待される有効性がこの薬剤の危険性を上回るからである。
 Locke 医師の診療所は、すぐにCurtis 氏が Johns Hopkins Medicine の耳鼻咽喉科で診てもらえるよう手配した。精密検査の後、Curtis 氏は Rauch 医師が主導しNational Institutes of Health が助成する多施設研究への登録に同意した。これは数週間の経口ステロイド治療と、耳へのステロイドの直接注入とを比較するものである。鼓室内治療と呼ばれる後者の方法は、障害部位へ高濃度の薬剤を投与することで、気分の変動、不眠、体重増加などステロイドによる全身的な副作用を避けることができる。この研究結果はまだ出ていない。
 Curtis 氏はこの注射を“これまで我慢しなければならなかった中で最も痛い治療の一つです。耳の中に酸が浸みこんでゆくように感じました”と言う。
 しかし、数週のうちに彼の聴力は完全に回復した。
 期限内に医師を受診して幸運に思っている、またLocke 医師が医学的な緊急事態と認識し迅速な治療を確保してくれたことに感謝していると、彼は言う。
 「聴力を失うほど重大なことなら耳痛や損傷などの苦痛を伴っているだろうと常々思っていました。今回のことはまさに藪から棒のできごとだったのです」と、Curtis 氏は言う。

突発性難聴は
歌手の浜崎あゆみが患ったということで
一時話題になり当ブログでも取り上げましたが、
これは原因不明に突然一側の耳が聞こえなくなる病気で、
中高年(40才代~60才代)に多く男女差はないようです。
日本では年間10万人あたり27.5人という
調査結果(2001年厚労省研究班)があり、
記事中にある米国の頻度よりやや高いのかも
しれません。
ストレスが誘因とも言われますが、これには根拠はなく、
原因として一般には
ウイルス感染説と内耳循環障害説が有力ですが
結論は得られていません。
再発はないと考えられていますが、
発症2週以上経過して改善しない例や、高度難聴例、
回転性めまい合併例、高齢者などでは
聴力の改善が得られない可能性が高くなるようです。
ちなみに、特発性両側性感音難聴という病気もあり、
やはり原因不明ですが、
これはまた違う病気と考えられています。
突発性難聴に対する治療としては、
ステロイドが第一選択となりますが
その作用機序は不明で、有効性も証明されていません。
その他、安静や十分な睡眠が有効のようですので、
やはりストレスが何らかの関与をしているのでしょう。
また中高年に多いようですので、老化の始まりも
一役買っているのかもしれません。
いずれにしても、中高年は無理をしてはいけません…
詳しくは難病情報センターをご参照ください。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする