9月のメディカル・ミステリーです。
The unusual headaches that upended this man’s life began with a new car
彼の人生を一変させた異常な頭痛は新しい車から始まった
By Sandra G. Boodman,
Tom Wells(トム・ウェルズ)さんと妻の Susan(スーザン)さんが2015年の10月に、Maryland にある最近改装されたばかりの映画館の座席に着いたとき、彼女は彼にそこを出るべきかどうか尋ねた。
Wells さんは10年以上、新車や塗りたてのペンキのにおいにさらされることで誘発される頭痛と闘っていた。Susan Wells さんは微かではあるが間違えようのない新しいカーペットや塗料の薬品臭に気づいたので夫にどうしたいかを尋ねたのである。
Wells さんもまたそのにおいに気づいていたが、おそらく大丈夫だろうと答えた。そこは大きな劇場なのだから、と彼は理由づけたのだ。そのため、その夫婦は席にとどまり冷戦ドラマの “Bridge of Spies(ブリッジ・オブ・スパイ)” を見続けたのである。
Wells さんが予期しなかったことは、その劇場で過ごした3時間がこれまでに彼が下した最悪の決断になってしまったということだった。「一体自分が何を考えていたのかわかりません」最近彼はそう話す。
「誰からも『ねぇ、要は気のせいでしょ』とは言われませんでした」と Tom Wells さんは言う。彼の長期にわたる頭痛は何人かの専門医によって薬品臭と関連付けられていた。彼の頭痛が何ヶ月も持続することに医師らは当惑し、原因探索の道筋が見えなくなっていた。
それから6年になるが、あの映画を見てから数時間して出現した頭痛は完全には消失していない。
「この気の毒な男性はあちらこちらの医師に診てもらっていました」彼を長く診てきた神経内科医 Nirjal K. Nikhar 氏(ニヤル・K・ニハール)氏は、Freddie Mac(連邦住宅金融抵当公庫:アメリカ政府支援の住宅投資機関)の元専務理事だったこの57歳の男性が疼痛専門医、神経外科医、頭痛専門医、および神経内科医などの様々な専門医を受診したことについて、そう話す。しかし、この18ヶ月間、新たな治療法の効果がみられているようである。
「彼の場合の二つの大きな疑問は『これがなぜ起こったのか?』、そして『それに対して何ができるか?』です」Nikhar 氏はそう語り、Wells さんの稀な疾患の様相がいまだに彼を当惑させ続けていると付け加えた。
New car smell 新車のにおい
Wells さんの症状は彼が新車を購入した2002年に始まった。Maryland 郊外の彼の自宅の近隣を運転した2、3時間後に異常な頭痛が出現したのである。それは、頭の中心が焼けるような感じがして、まるで“誰かが自分の脳をサンドペーパーで磨いているよう”だったという。
Wells さんはそれまで健康で、頭痛の既往もなく、妻の古い車を運転しているときには何ら問題がないことに気づいていた。その新車に排気ガスの漏れがあるのではないかと恐れた彼はそれを返却した。しかし、中古車に買い換えたところ同じことが起こった。
彼はアレルギー専門医を受診したが、そこから環境衛生を専門にしているバルチモアの Johns Hopkins Hospital(ジョンズ・ホプキンズ病院)の医師に紹介された。
Hopkins の専門医は Wells さんに volatile organic compounds(VOC, 揮発性有機化合物)に対して過敏性があるとみられると説明した。それは非常に様々な製品や製造工程に検出されるもので、空気中に放出されるガス状の物質である。それらの中には車の製造工程で使われ、結果として新車のにおいとして知られているものとなる。
これらのどこにでも存在する化合物は、その一部はにおいとして感知されないが、呼吸器に障害のある患者や、それらに異常に敏感な人たちでは、健康被害のリスクを高める可能性がある。VOC 曝露の影響は、化学物質の種類、曝露期間の長さ、および空気中に漂う量に関係する。
Benzene(ベンゼン)など一部の高濃度 VOCs への慢性的な曝露は神経障害や癌と関連づけられている。タバコの煙やガソリンはベンゼン曝露の発生源となっている。
Wells さんによると、その医師は彼に、塗りたてのペンキ、新しい敷物類、および新車を避けるよう努めるべきであると説明した。それらはすべて VOCs の重要な発生源である。もし彼がその努力をしなければ、頭痛は恐らくさらに重症化し遷延するだろうとその医師から告げられたことを覚えている。
その後数年間、Wells さんはそのアドバイスに従うことに心を砕き、頭痛のない状態を維持できていた。
「私はホテルに宿泊するときにはあらかじめ電話をかけ支配人と話をして最近改修されていない部屋をお願いするようにしていました」と彼は思い起こす。休暇で家族とフロリダに行ったときには、タイル張りの床になっている特定のコンドミニアムに滞在した。新車も購入しなかった。そして、レンタカーを利用するときには、店舗にある最も古い車両を所望し、彼が乗る前に消毒しないよう求めた。
2008年、この夫婦は新しいリビングルームの家具を購入した。しかしそれが届くと間もなく、激しい頭痛が始まった。Wells さんはその後、その家具が圧縮材あるいは複合材でできていることを知った。複合材はしばしば VOC である formaldehyde(ホルムアルデヒド)を含有している。そのためその家具を返品し、VOCs の含有量の低い同一材で作られた商品と取り換えてもらった。この時には彼の頭痛は数週間遷延した。
頭痛がさらに長く続いていることを心配した Wells さんは2人目の Hopkins の専門医を受診した。彼女は、彼の頭痛の原因を特定できないと話し、biofeedback(バイオフィードバック、生体自己制御法)が有効かもしれないと提案した。これは痛みとストレスを緩和させる目的で身体機能の測定に生体センサーを用いるマインドフルネス療法である。Wells さんはそれを短期間試みたが、頭痛にこの療法を用いる専門医を見つけ出すことができなかった。
そこで彼が受診したのが Nikhar 氏である。彼は MRI 検査を依頼したが正常だった。
“炎症性要素”を有していると疑われる頭痛を治療する目的で、強力な副腎皮質ステロイドである prednisone(プレドニゾン)を漸増しながら高用量を処方した。副腎皮質ステロイドは炎症を抑えることはできるが長期に高用量が投与されると重篤な副作用を起こしうる。
Wells さんによるとその薬が有効かどうかの判断は難しかったという。ある時、仕事で車庫に車を停めたところ、その床面が新たに塗り替えられていたことに彼は気づいた;すると30分以内に頭痛が始まったという。高用量のプレドニゾンを内服し、その車庫を数週間避けたにも関わらず、彼の頭痛は2ヶ月続いた。
Ill-fated movie night 不運だった映画の夜
Wells さんは、油断していたという以外に、あの映画を見続けることにした決断を説明できない。燃えるような頭痛が翌日に始まった。最初、頭痛があまりに強かったので焦点を合わせることもできず、ある晩、地元の緊急室を受診した。
「自分が何をやったのかと思っていたことを覚えています。私はひどく怖い思いをしていました」と彼は言う。
2016年の初め、Nikhar 氏は2度目の脳 MRI 検査を行った。今回は初回と異なり正常ではなかった。多発性の深部白質病変が認められたが、その意義は不明である。片頭痛、多発性硬化症、および他の疾患でそのような病変が引き起こされることがある。
「それが何を意味するのかはわかっていません」Nikhar 氏はそう述べるが、それらは50歳代の男性には予想外の所見ではあると付け加える。しかしWells さんはそれ以降数回 MRI 検査を行っているが変化はみられていない。
それからの3年間、Wells さんは絶え間なく続く頭痛の治療を受けるべく複数の専門医を受診した:神経内科医、疼痛専門医、神経外科医、そしてリウマチ専門医である。彼はたくさんの内服薬を試みた:片頭痛、うつ病、神経疼痛の治療薬に加え、筋弛緩薬、抗ヒスタミン薬、鎮痛薬、そして鎮静剤である;しかしいずれも効果がないようだった。痛みを和らげることを期待して前額部に打った十数回の注射も、数ヶ月間行った鍼治療も効果がなかった。
「誰からも『ねぇ、要は気のせいでしょ』とは言われませんでした」と Wells さんは思い起こす。彼の頭痛が何ヶ月も持続することに医師らは当惑し、原因探索の道筋が見えなくなっていた。時に、慢性頭痛は、鎮痛薬の頻回、あるいは過剰使用によって引き起こされるリバウンド反応の結果みられることもある。
Wells さんによると、彼は、問題があるかもしれないとわかっている VOCs を避けることを怠らなかったし、彼の雇用主も対応してくれていたという。オフィスがリフォームをする計画があったときには、彼は古い仕事場へと移動した。そして 2019年までに彼の痛みは弱まっていた。Wells さんは不安、不眠、およびパニック障害に使用される安定剤 benzodiazepine(ベンゾジアゼピン)が Nikhar 氏から処方され、内服を始めていたのである。
「どのようにしてそれが彼の頭痛に効果があるのかわかりません」と Nikhar 氏は言う。「おそらく彼の心を落ち着かせることで筋肉の緊張を緩めるのでしょう」しかし、この神経内科医は Wells さんの頭痛が不安の結果生じているとは考えていないという。「彼の不安は症状の結果として存在していると思います」と Nikhar 氏は言う。「不安が彼の頭痛の増長因子ではないと考えます」
依存性があることが知られている薬物であるベンゾジアゼピンを用いることは危険性を孕んでいる、とこの神経内科医は言う。「2つの要因の狭間で葛藤があるのです。患者を救いたい一方で依存を生みたくないのです」
しかし、2019年の年末までに Wells さんの頭痛はかなり悪くなった。
「私の不安はまさに徐々に大きくなりました。『これが私の人生となるのだろうか?』そう思っていました」と彼は思い起こす。
Some relief いくばくかの安堵
2020年の初め、Nikhar 氏の勧めによって Wells さんは頭痛治療を専門としている Cleveland Clinic(クリーブランド・クリニック)の神経内科医の受診予約をした。
その予約は3月下旬に取れたが、その時期はパンデミックによって旅行や非緊急の対面診療ができなくなって2週間後だった。
30分間の電話での会話による診察中、その Cleveland の医師は、Wells さんは central sensitization(中枢性感作)と呼ばれる現象を経験しているのかもしれないと提唱した。これは脳に送られた疼痛シグナルを中枢神経系が増幅している状況である。
Central sensitization の原因は明らかにされていない;疼痛に対する反応が増強されやすいといった遺伝的要素が一因となっている可能性がある。しばしば、外傷や手術など引き金となる事象が存在する。
Wells さんによると、その神経内科医は、これまでに数例の似たケースを診たことがあり、鍵となる目標はそのサイクルを断ち切ることであると彼に説明したという。
その電話のすぐ前に、Wells さんは2つめの薬の内服を始めていた。Nikhar 氏が処方した神経疼痛の治療薬として承認されている抗うつ薬である。その Cleveland の専門医は Wells さんにその薬の内服を続けるよう助言した。その薬は片頭痛の治療に用いられており、その効果を評価するために、必要に応じてさらに高用量で投与されることもある。
4ヶ月後、Wells さんの頭痛は大いに減弱した。彼はその抗うつ薬の内服を続けるとともに、痛みがひどくなった時にはベンゾジアゼピンを用いた。彼によると、これまでのところ頭痛は「非常に良く管理できている」状態にあるといい、「できるかぎり少なく内服するよう努力しています」という。そして、完全に両方の薬の内服をやめられることを望んでいると付け加える。
Nkhar 氏が「いくばくかこれまでの常識を破る」治療と呼ぶこの薬剤の組み合わせがなぜ有効なのかはわかっていない。ただ彼によると、central sensitization は「頭痛においては良く知られている」のだという。
Wells さんの唯一の症状は「長い年月に渡って、きわめて特異的で一貫性がみられている」がそのことはいささか珍しいことであると彼は付け加える。
Wells さんの異常な MRI をどう判断するか、あるいはその病変が彼の頭痛あるいは何らかの症状に関係しているのかはわからないと Nikhar 氏は言う。
「神経学においては、答えの得られていない疑問が際限なくあるのです」と彼は話す。
中枢性感作の詳細については
下記『神経治療』の論文をご参照いただきたい。
『中枢性感作の評価』
神経系における“感作”とは聞き慣れない言葉だが、
近年難治性疼痛のメカニズムにおける重要な
キーワードとなっている。
中枢性感作(central sensitization, CS)は、
痛覚過敏を誘発する中枢神経系(脳および脊髄)における
神経信号の増幅と定義されている。
末梢からの感覚入力は伝導路を伝わって大脳まで伝導されるが、
その伝導路に当たる中枢神経系において刺激が増大され、
本来よりも増幅されて伝導される状態となる。
CS は刺激に対する反応性の増大だけでなく、本来備わっている
中枢内での疼痛抑制機構(下行性疼痛抑制系)の機能低下を
引き起こし、疼痛過敏やアロディニア(通常では痛みとして
認識しない程度の接触や軽微な圧迫、寒冷などの非侵害性刺激が
痛みとして認識されてしまう感覚異常)の誘発、さらには、
うつ症状や睡眠障害などと関連する。
CS の代表的な疾患は線維筋痛症であるが、
よくみられる腰痛患者や変形性関節症においても CS の影響が
報告されている。
CS の影響が強いと痛み以外にも様々な刺激に過敏性を示すため、
臨床的には『不定愁訴』として扱われてしまう可能性がある。
CS は知覚過敏と関連するだけでなく、光、音、におい、
ストレスなどの様々な刺激に対する過敏症にも関連している
可能性がある。
CSが発現して生ずる痛覚過敏またはアロディニアの状態には
侵害受容刺激はほとんど必要ないと考えられている。
つまり、痛みは末梢組織器官の変化、または侵害刺激の
いずれも存在しなくても生じうる。
疼痛の明らかな原因が特定できないため、これらの患者は
神経症や身体化症状を有していると解釈されてきた。
これまで異なる疾患とみなされていた疼痛関連症候群の多くが
CSに共通する病因を持つ可能性が考えられるようになっている。
病態生理学的にある程度解明されている慢性の難治性片頭痛も、
中枢神経系の感作状態とりわけ持続中枢感作と言われる状況に
起因していると考えられている。
それによって疲労感、倦怠感など身体症状、めまいやしびれなどの
神経症状、うつなどの精神症状を誘発している可能性がある。
これらは結果として生活の質を大きく妨げ、登校拒否、
離職をもたらし、家庭生活を続行することが困難となり、
本人の生活のみでなく社会の生産性が大きく損なわれることになる。
最近、CS が病態に関与している包括的な疾患概念として、
中枢性感作症候群(central sensitivity syndrome, CSS)が
提唱されている。
CSS には線維筋痛症、慢性疲労症候群、化学物質過敏症、
過敏性腸症候群、顎関節症、
レストレス・レッグス(むずむず脚)症候群、
片頭痛および緊張性頭痛、非定型顔面痛、
さらには、うつ病、パニック障害などが含まれる可能性がある。
これらの多くは一見無関係にみえるが、
刺激に対する過敏性という共通点を持つ。
慢性疼痛に対して、精神的な要因のみ追求するのではなく、
中神経系における複雑な疼痛増幅のメカニズムの存在を
念頭に置いた対応が重要である。
痛みの認識には極めてやっかいなプロセスが関わっているのである。