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MrKのぼやき

煩悩を解脱した前期高齢者男のぼやき

医師に求められる資質

2010-01-19 22:06:55 | 受験・学校

今年のセンター試験も終わり、受験生たちは
いよいよ各大学の2次試験に向けて
最後の踏ん張りといったところだろうか?
不況が長びき、雇用情勢の好転が見られない中、
資格を身につけようと、教育学部が人気だという。
またここ数年、医師不足が叫ばれており、
定員枠が増加傾向にある医学部も狙い目と
思っておられる方もいるだろう(本年度約360人増とか)。
しかし、こうした医学部の定数増によって
医師の質はどうなってゆくのだろうか?
数は増えたが質が下がったでは診てもらう国民も
不幸である。
いわゆる『地域枠』と言われる地域医療再生計画に
基づく増加枠を考えると、むしろ意欲的な学生が集まり
よい医師が生まれてくる可能性もあるだろう。
よい医師とは、医師に必要な資質とは一体何なのであろうか?

1月15日付 New York Times 電子版

Do You Have the ‘Right Stuff’ to Be a Doctor?
医師に必要な資質をお持ちですか?

Rightstufftobeadoctor

By Pauline W Chen
 つい最近、ある友人から、空いている時間のほとんどを子供病院でボランティアをしながら過ごし、医学校に受験の申し込みをしている自分の息子が自身の将来についてことのほか心配していると告白された。「彼のテストの成績は全く問題ないの」とその友人は言ったが、声に彼女の不安が手に取るように感じられた。「彼がりっぱな医師になるだろうとは思ってるけど、試験でできるほど医学校で活躍できるような人間ではないように思えるの」
 彼女のコメントを聞いて、医学校を私が受験しようとしていた時、よく友人たちと交わしていた多くの不安に満ちた会話が思い出された。繰り返し、私たちは自問していた:良い医師になるのに○×式の試験がよくできる必要が本当にあるのだろうかと。
 我々はもちろんただの普通の試験のことを取り上げていたのではなく、大きな試験、the Medical College Admission Test(MCAT:医科大学進学適性テスト)、すなわち前医学課程の習得度を評価する試験のことを言っていたのである。当時も現在と同じように米国の医学校入学審査委員会はすべての志願者に対してMCATの受験を求めていた。
 以来医学校は、推薦状や小論文もまた重視されるとして志願者を安心させるのに苦心してきた一方、MCATがチャンスを生むこともあれば潰すこともあると多くの志願者たちは信じ続けているが、それが誤りかどうかはわからない。医学校へ入る競争は依然熾烈であり、国内の医学校の18,000余の定員をめぐってきわめて優秀な42,000人が競い合っているのが現状だ。
 その種の統計データと、標準化された信頼できる人格の評価手段がないことから、MCATが今後も医学校入学資格試験として重要な役割を持つことになるのは仕方がないのである。しかし果たしてそれで入学を許された志願者たちが最良の医師になるよう運命づけられていることを保証してくれるだろうか?
 たぶんそうならないだろう。
 The Journal of Applied Psychology の最近の研究によると、学生たちが医学においてどの程度成功するかということをより的確に予測する異なる種類の試験があるという。それは人格検査である。
 約10年間、米国およびヨーロッパの産業・組織心理学者3人がベルギーの600人以上の医学生を追跡調査した。ベルギーでは前医学課程と医学課程が一つの7年間のプログラムにまとめられている。米国同様、教育の初期段階は、講義や教室内での実習によって基礎科学の知識の習得に重点が置かれている;一方、後半は臨床知識を修得し、患者ともに時間を過ごすことに専念するようになっている。
この研究の開始時に、研究者たちは標準的人格検査を施行し、学生を外向性、神経症性、開放性、同調性、誠実性の異なる5つの人格特性について評価した。その後、在学中これらの学生を追跡し、彼らの成績、能力あるいは脱落の状況について調査した。
 その結果、人格検査の結果は学生の成績と著しい相関があることがわかった。神経症性、すなわち感情的に動揺しやすい傾向は、低い学術的能力を示す安定した予測因子となっていた。一方、誠実性は医学校での好成績を予測する特に重要な因子であった。また、開放性と同調性の重要性は年を追うごとに増大したが、いずれも外向性ほどには顕著ではなかった。外向性の人たちは早期には一様に苦労するが、教室内での習得の時間が減り、患者と接する時間が増えるとともに、優秀となっていった。
 「非認知的といえる人格の分野は、医学校入学選考においては未開発の領域なのです」と、この研究の著者の一人 University of Minnesota の心理学教授 Deniz S. Ones 氏は言う。「私たちは、推薦状、小論文、構成的または非構成的インタビューなどを頼りにしながら、認知的能力について行う以上にいいかげんなやり方で取り組んでいます。私たちはこれらすべてにおいて抜け穴をふさぐ必要があるのです」
 志願者の小論文や推薦状を評価するために量的評価システムを用いようとした学校がいくつかあったが、その結果にも一貫性が見られていない。「そういったプロセスをより精緻なものにしようとする努力はなされていますが、いまだ標準化は達せられていません」と Ones 博士は言う。「誠実性を重視しようとする基準もあれば、外向性に重点を置く面接官もいます。そのような標準化されていない状態は、人格特性に基づいて誤った決定が行われているという意味において損害がもたらされていることになります。
標準化された人格評価法を用いることで、医学校の入学審査委員会にとっては、ある志願者が他の人たちと比べどのような立ち位置にあるのかについてより把握しやすくなる。「もし、ある人物が単にストレスに弱い傾向にあるというだけでなく、65パーセンタイル順位どころか95パーセンタイル順位にあるといったふうに捉えることができるとしたら、その人が医学的ストレスに対処できるかどうかを再考する必要が出てくるでしょう」と、Ones 博士は言う。
 MCAT や SAT などの標準化試験は特定の集団を不利な立場におくとして批判の声がある一方、この研究で用いられた特別な人格検査は、異なる文化や背景を越えて共通に有用であることが示されている。「この検査は異なる人種や少数民族の間でも実際上全く差がないか、あってもごくわずかの差しか示しません」と Ones 博士は言う。この信頼性ゆえ、同検査は知識に基盤を置いた従来の試験のきわめて有用な補助検査となりうる。「このシステムにおいて新たな予測ツールとして機能するでしょう」と彼女は述べた。
 人格検査が答えを出してくれるかもしれない長年の疑問の一つに、果たして勤勉さをもってすれば認知的能力の差が埋め合わされるだろうか、ということがある。「我々のデータからすると、その答えはイエスです」と、Ones 博士は言う。「もし、ある人が認知機能テストで15パーセンタイル順位でありながら、誠実さで95パーセンタイル順位であったとすると、恐らくその学生は無事に成し遂げるでしょう」こういった学生は、彼らより高い認知的能力試験の点数をとっているものの誠実性が低かったり神経症性が高くストレスを受けやすい傾向にある同級生を最終的にはしのぐことになるかもしれないという。
 人格であれ、認知的能力であれ、こういった標準化されたテストは医学校を出て初めて有用となるかもしれないし、彼らが役に立とうとする対象となる一般の人々こそが、次世代の医師として最も重要な特性が何かを決めるのである。「もし医学校にとって立派な研究者を輩出することがすべてなら、医学校に対して、人格テストの結果をそれほど重視する必要はないと言えるでしょう」と Ones 博士は言う。「しかし、より大勢の人たちのために働くという意味において大切な人材である臨床医を欲するならば、これらの結果に対して本気で気を配らなければなりません」
 最後に彼女はこう付け加えた:「友人に自分のことを尋ねてみてください。彼らはきっとあなたのことを人格に関連して表現してくれるでしょう。あなたの認知能力について語られることはまれでしょう。その人がどういう人間であるかを決定するのは人格なのですから」

ご承知の通り、日本の医師国家試験では
こういった人格評価の要素は皆無である。
また最近は医学部における人間教育も重視されるようになり
ずいぶんカリキュラムに組み込まれるようになってきたが
大学生になってからの人間教育では遅きに失していると
言わざるをえない。
そうするとやはり医学部の入試段階での選別に
頼らざるを得ないのだろうか。
しかし推薦、小論文、面接で正しく適性を評価できるだろうか?
依然、選考基準が学力最優先となっているのが現状である。
医師不足でそれどころではない日本だが、
やはり大学入学後に再選考を行うような、
あるいは他学部からの編入も多いに認めるような
そういった思い切った教育システムの改革が
よい医師の育成には必要な気がするのだがいかがだろう。
よい医師が増えること、それこそが
医療崩壊を食い止め、医療紛争を減少させる
最も近道であるように思うのだが…(甘いかな?)

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学ぶことを学ぶこと

2008-11-02 08:30:32 | 受験・学校

自分には全く関係のなかった“ハロウィーン”も無事(?)終わり、

今年も残すところあと二ヶ月を切った。

しかし見回しても明るい話題ニュースは殆どない。

外交問題、経済危機、食の安心崩壊、年金問題、医療崩壊…

教育に目を転じれば

受験戦争が続く中、落ちこぼれや不登校対策は後手に回り、

教育の格差は広がるばかり。

勝ち組のはずの一流大学のエリート学生さんたちは

大麻を吸ったり栽培したり…。

管理教育のひずみは随所に現れている。

そこで今回は、ちょっとまじめなお話を…

これからは個人の特性に合わせた教育が必要では、

と考えさせられる記事 ↓ 。

10月28日付 Washington Post 電子版

"Learning About Learning" 

『学ぶことについて学ぶこと』
―脳研究は教室内で成果を生むか―

暗い筒の中、仰向けに寝た Blair Smith さんがじっとしている間、スキャナーが磁波で彼女の脳を細かく調べていた。
単語が彼女の目の前に短時間現れる。
tack(方針)、vase(花瓶)、hope(希望)、glow(輝き)、vague(漠然とした)、cade(ビャクシン属の木)などなど。
11才の子はもしその単語に意味があると思うなら右手のボタンを押し、意味のない単語なら左手のボタンを押すように言われていた。
この検査では解答そのものより、単語に取り組む間に Blair の脳のどの領域に活動が見られるのかをスキャナーが作成してくれる地図がより重要なのである。

Learning

子供たちが文章を理解しようとする時、脳の特定の部位が活性化する。脳スキャンによって、研究者たちはその過程を測定することができる。

この研究の目的は、すぐれた読書能力のある生徒、読書に問題のある生徒、および学習能力障害と診断された生徒の間に存在する神経学的な違いを理解することである、と Baltimore にあるKennedy Krieger Institute で Education and Brain Research Program の責任者を務める Laurie E Cutting 氏は言う。
読み手が知らない単語に頭を悩ませる時、脳のどの部分が活性化するかを神経科学者が特定できるとすると、最終的には教師たちが個人に合わせて読書の指導を調整する助けになるかも知れない。

これはまだ始まったばかりだ。
多くの教育者は、授業法を構築する助けとなる科学的データを切望している。
一方で、神経科学はどのような作業がベストかについて幅広い指針を提供し始めている。
神経科学領域で最近の最も驚くべき新事実の一つは、脳の構造は以前考えられていたよりはるかに適応性があるということだ(神経可塑性 neuroplasticity と呼ばれる概念)。
これに対する理解は、脳を鍛えて算数の問題を解決したり本の内容を理解したりすることを向上させる手段を教師たちが見出す助けとなるかもしれない。

「神経科学が広範な脳梗塞患者で明らかにしてくれることが実にたくさんありますが、それらは教育にも密接な関連があり、10年20年後には我々に規範となる情報を与えてくれるでしょう」とヴァージニア大学の Curry School of Education の Robert C Pianta 学部長は言う。
「私は今こそ研究材料の豊富な5年間であると思っています」

脳研究はすでに、教師たちが複雑な病態―たとえば、注意欠陥多動性障害、失読症、失算症など―を感知し、この取り組みの支えとなる方法を展開してきている。
そもそもこれらの障害は血液検査や他の簡単な医学的診断法が役に立つようなものではない。

認知に関わる科学者たちは、これまでのいくつかの授業の計画をひっくり返すような "micro-development" 説を展開している。
子どもたちや大人たちが、分刻みに、思い出したように学び、しばしば後退することが、いくつかの研究で明らかにされている。
これは、生徒たちが理解に至るまで手探りで進むことが許されるべきであることを示している。
たとえば、電気の理論の説明を受ける前に、バッテリーと銅線を用いて電球を明るくすることを問われることによって理解するような感じだ。

脳の機能はどこまで深く神秘的で謎が続くのか。研究はすこぶるゆっくりとしたペースで展開してゆくように見える。

音声学に焦点を当てることで、読むことに難渋している子どもたちを救うという多くの教育者らの考えが、脳や行動の研究からのデータやその他の情報を解析した研究者たちによって確かめられるまで何十年もかかった、とある専門家は言う。

そんな経緯はあるが、神経科学と教育手段を結びつける動きは勢いを増してきている。
Fairfax 郡の Mantua Elementary School の Jan-Marie Fernandez 校長は、過去2年間にボストンで行われる脳科学会議に5人のスタッフを連れて行った。

「研究からわかったことで最も驚くべきことは、我々の脳が神経可塑性を持っているという事実であると思います」と Fernandez 氏は言う。
「たとえば障害を持った形で配線された脳があるとします。しかし、その配線を時間の経過とともに変えることができます」
脳の配線のつなぎ替えの話は、神経科学の世界で注目されている。
脳障害を持つ人に再び歩いたり話したりすることを教え得るという展望を供するものだ。

その会議で学んだことから、Fernandez 氏は読書が困難な生徒に対して、音素の認識、すなわち、文字を音にリンクさせる能力、に焦点を当てたプログラムを立ち上げた。
「今までのところ、実際に有用であるように思われます」と彼女は言う。

彼女がこれまで読んだ研究にヒントを得た新しい提唱には、子ども達が算数の授業の前にエアロビクス体操をするというものがある。
この試みのポイントは、算数に取り組めるよう彼らのニューロンに下準備をさせることにある。

最先端の教育施設は最近、脳の活動と教育の関連に新たな関心を示してきている。
Harvard University は mind, brain and education degree program を 2002 年に設立した。
Johns Hopkins University は今年、現在の研究成果が教育の実践にどの程度応用されているかを探索することを目的とした神経・教育計画について Maryland State Board of Education に報告した。

先月、Journal Nature に掲載された研究は、算数の授業における、初歩的な直観的な数の大きさの感覚と成績との関連について報告している。
これは算数に問題のある生徒を特定し、彼らへのよりよい指導法を構築する方向へ導くことを可能とする発見だ。
また幼稚園に入る前の授業拡大の提唱者は、柔軟な若い心への早期の教育の重要性を示す研究に注意を向けている。

前出の Curry School の Pianta 氏は、神経科学は自閉症の生徒の教育にも影響を与えてきていると言う。

「20年前なら、これらの子どもは、まあ言ってみれば、愛情を持たせる努力一辺倒に向けられた介入がなされていたかもしれません。
あるいは療法士はスキンシップを嫌う子ども達にスキンシップを薦めていたことでしょう。
しかし今、我々はこの子供の行動は彼らの脳の社会的、感情的情報を処理する能力の結果であるとの見方で、その行動を捉えています。
そういった情報処理能力を押しつぶすことのないよう、自閉症児との交流を構築してゆくことになります」と、Pianta 氏は言う。

Harvard's mind, brain and education master's degree program の責任者である Kurt Fischer 氏は、多くの教育理論が科学に基づいていると主張しているが、実際にはそうではない事実を警告する。

「我々が直面する主要な問題の一つは、実際には意味を持たない“脳科学を根拠とした教育”を謳ったものが多く存在することです。
例えば、それらの一つに、少年少女が全体的に異なった脳を持っており、全く異なった学び方をするという考えがあります。
それはエビデンスが示すものではありません。エビデンスは皆無です。
もう一つは感受期間というものが存在するという一種の凝り固まった考えです。例えば、ある一定の年齢以後は外国語を学ぶことができないというものです。
また、左脳人、右脳人という言い方を聞いたことあるでしょう。これは彼らが左半球あるいは右半球を取り除かれているのでなければ、全くのナンセンスです。
我々すべては脳全体を使っているからです」

Fischer 氏はさらに、新生児用ベッドでバッハを聞かせると赤ちゃんを賢くするという、広く支持されているが疑わしい考えを挙げる。
しかし そのような考えの流行は、教育者と大衆が教室の改革に科学的な裏づけを切望していることを示している、と Fischer 氏は指摘する。

冒頭の Kennedy Krieger のCutting 氏は若い研究対象者の Blair に彼女の脳スキャンの素敵なコピーを手渡した。

得られたデータを元に、研究チームは今度は Blair の一卵性双生児の妹にスキャンのためチューブの中に入ってもらう準備をした。
彼女らはともに全く良好に本が読めるが、彼らの調査から得られたデータは別の子供たちの助けとなることだろう。

将来は獣医になりたいという Blair は彼女の母親である Stephanie Smith さんの横に座ってはしゃいでいた。
でも脳をスキャンされるのはどんな気分だっただろうか?

「気味が悪かったけど、同時に平気でした。他の子供たちの助けになるんだからオーケーです」と彼女は言った。

例えば失読症(難読症)では、

『窓ぎわのトットちゃん』の著者、黒柳徹子さんも

読書・計算障害を持っているといわれている。

リトミック教育で有名なトモエ学園に通い、

その後音楽の道に進んだ後、女優となり、

現在テレビタレントとして多彩な能力を発揮しているのは

皆様、よくご存知の通りだ。

失読症は特に英語圏に多い学習障害の一つで、

俳優のトム・クルーズもこの障害を抱えていることは

有名である(MrK は“英語失語症”だが〔涙〕)。

このように、知的能力に問題がないにもかかわらず、

特定の学習能力に問題がある子供たちは思いのほか

多いのかもしれない。

このような子供たちを一緒くたにして教育する現代社会で

彼らに成績不良の劣等性のレッテルを貼ることは、

隠された優れた能力を殺してしまうことにもなりかねない。

この記事に出てくる検査は恐らく機能的MRIであろうが、

この検査は生徒全員に行うわけにはいかない。

単に成績の出来不出来を決めるのではない個性検査としての

簡便で確実な評価方法…その確立が今求められていると思う。

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読書感想文大作戦

2007-08-09 23:46:34 | 受験・学校

夏休みも半分過ぎた~。

そろそろ溜まってた宿題に取りかからなければ。

てな、心境ですかな。学生諸君!

で、宿題の中で何がいやだったかって、

そりゃ、やっぱ読書感想文でっしょうっ!

とにかくなんとか本を一冊は読まなきゃならないし。

そこで、MrKはまず、朝のラジオ体操に行き、

出席のハンコを押してもらうところに、巡回図書と称して

積んである数冊の本の中から

1、2冊借りることにする。(たぶんそれ以上はダメだった)

これが実にショーもない本ばかりだったりするのだが…

何といっても本屋で買うより安上がり。

万一失敗してもタダ、ってのは魅力。

そこで、できるだけ薄い本を選ぶことにする。

それらの本は学校の図書室から

持ってきたもののようだが、

当時、図書室の本って

強烈なクレゾール臭っ!

図書室の入り口には

必ずクレゾール石鹸水の金だらいが置いてあって

『利用者はまず手を洗うべし』、

って、しきたりがあったよなぁ。

(殺菌する必要があったのかね~)

で、かなり濃いクレゾールで洗ったあと

きたないタオルでちょちょっと拭くだけで、

そのまま本を開いて読んでいたっけ。

どうりで、本にクレゾールが染み込むわけですな。

ところで、クレゾールにはかなり

強いたんぱく変性作用があり、

取り扱いも厄介なので、

今ではほとんど使われなくなった。

当時は手についたクレゾールが

口から入る生徒もいただろうと

思うと恐ろしいことだ。

話は戻るが、そのクレゾール臭たっぷりの本を

何とか読み終わり、作文にとりかかる。

小学生にとって原稿用紙3枚てのは

とてつもなく長い。

よくあるパターンは、

あらすじをだらだら書いて

そのところどころに

「ここのところは僕は~と思いました」

とか「この場面は感動しました」

(今風では「マジ、チョーうける~」)

など、しょーもない感想を挿入する。

なんとかあらすじ主体で3枚を書き上げ、

つまるところ何が言いたいのかわからない

感想文ができあがるという寸法だ。

考えてみると、当時、

感想文の書き方など、

きちんと教わった記憶がない。

今になって思うのだが、

新聞や雑誌で見かける偉いお方の

書評のような書き方をすれば

良かったのだろうか。

小学生が書評のような書き方を

したらおかしいのかも知れないが、

ちゃんと教えてもらってれば

似た感じで書けてたような気もする。

とにかく、あらすじを追って感想を

書くパターンには自己嫌悪を覚えたし、

最高に苦痛だった。(宿題先延ばしの主因)

今の子供たちには、枚数を決めないで、

感想は短くてもいいから、

自分の言葉で自由な思いで表現してもらいたいと

思うのだ。

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ぼくのなつやすみ

2007-07-25 00:07:36 | 受験・学校

世の中、小中学生は

もうすっかり夏休みだろう。

MrKの小学校時代、

「なつやすみの友」とかいう

いわゆる「夏休み帳」。

夏休みも最初のうちは

気合も入っていて、

「7月中に夏休み帳を仕上げるぞっ!」

の意気高く、算数のページ、漢字・国語のページ、

理科のページ…、うーん、簡単簡単っ!

すこぶる快調に進んでゆく。

ところが…、である。

あるページにさしかかり、はたと手が止まる。

「読書感想文を書いてみよう」「工作をしよう」とか

「自由研究をしよう」なんて、やたらめんどうなことが

いとも簡単に書いてあるのだ。

すべてを順序どおりに完璧に済ませなくては

気がすまない、(几帳面な?)MrKにとって、

これらのページを後回しにして

先に進むことがどうしてもできない。

そこまで順調にきていたにもかかわらず、

そのページで足踏みしたまま8月を迎え、

結局夏休み終盤まで放置状態。

最後の2、3日で大慌てで

片付けなければならない羽目に。

お願いだから、夏休み帳は

確実にこなせる内容だけに

してほしい。

そうしたら、7月中に仕上げちゃって、

8月はゆっくりと

別個の課題である自由研究とか

読書感想文に専念できるのに…

(ってホントかい?)。

いずれにしても、長い夏休み。

学生諸君には是非とも

有意義に過ごしてもらいたいものだ。

だけど、楽しい夏休みも後半に入ると、

なんとなく追い詰められるような

気持ちになってしまう。

8月31日にはいつも

「もうあと10日くらいあったらな~」

なんて思うものだが、

PS2ゲームソフトの「ぼくのなつやすみ」での

ろくでもない8月32日よろしく、

たとえ夏休み延長が叶ったとしても

いいことなどきっとないだろう。

夏休みはもう少し短くていいと

MrKは思っているのだが、

みなさんはどうお考えだろうか…

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評価に意義あり?

2007-04-24 23:52:25 | 受験・学校

24日、全国の小中学校で一斉に

全国学力テストが43年ぶりに行われた。

「学力の現状、課題を把握して授業改善などに

役立てる」のがその目的らしい。

1960年代に行われていたそうだが、

競争が過熱し、批判の的となって

中止された。

MrK自身、経験していないので

よくわからないが、

そのころの小中学生って

きっと高得点めざして

真剣に取り組んでいたんだろうなぁ。

しかし…

今の小中学生はどうだろう?

勝手に想像してみるが、

全国試験だからといって

みんなまじめに受けるのだろうか?

一部の学校では、予想問題の収集など

テスト対策にやっきになっていたというが…

結果の公表は積極的には

行われないそうだが、

多くの費用をかけたのだから

当初の目的にかなう成果が

得られるといいですね。

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