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煩悩を解脱した前期高齢者男のぼやき

血の伯爵夫人

2014-08-26 18:19:55 | 歴史

史上最多の殺人を犯したといわれる狂気の伯爵夫人、
Elizabeth Bathory (エリーザベト・バートリ)。
没後400年なんだそうである。

8月22日付 CNN .com

On the trail of the 'Blood Countess' in Slovakia
スロバキアの “Blood Countess(血の伯爵夫人)” を追って

By John Malathronas, for CNN

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2014年8月21日は Elizabeth Bathory(エリーザベト・バートリ)の死から400周年となっている。彼女は歴史的最大の大量殺人者として自宅監禁中に Cachtice(チェイテ)城で死亡した。Bathory の生涯は Bram Stoker (ブラム・ストーカー)の1897年の小説 “Dracula(ドラキュラ)” に影響を与えたとも伝えられる。

 丘の上に不気味に現れる廃墟と化した築何百年の古い城があるスロバキアの Cachtice(チェイテ)村は容易にゴシック小説の恐怖映画の表舞台となれそうである。
 しかし、ちょうど400年前の8月21日、そのホラーはまさに現実のものとなっていて、Elizabeth Bathory(エリーザベト・バートリ、ハンガリー語ではバートリ・エルジェーベト)伯爵夫人という名前の高貴な女性で史上最も多くの女性を殺害した大量殺人者の命が消えた。
 それは Cachtice の村で人々がお祝いをするような記念日ではなく、Bathory の恐怖の時代はいまだに当地の地元の人たちにつきまとっているが、私を含めて一部の人たちにとっては奇妙な魅力が存在する。
 Trencin(トレンチーン)というスロバキアの美しい町で、友人の Martin と私は Ivan Kralik と Peter Pastier の二人のガイドの協力を得る。彼らは地元の観光局で働いている。
 彼らは車で30km離れた Cachtice の村まで我々を連れて行き、Blood Countess(血の伯爵夫人)の話を詳しく語ってくれる。
 ぞっとするようなその名前は犠牲者の血にまみれたいという彼女の性癖に由来する。
 処女の血が彼女の若々しく見える皮膚を保つと信じていたのだと伝えられている。
 Bathory の人生は映画、書物、あるいはネット上のウェブサイトの題材となってきた。そして一部では、1897年の Bram Stoker(ブラム・ストーカー)の小説 “Dracula(ドラキュラ)” に影響を与えたと考えられているが、ウィーンより西では忘れ去られているようである。
 名門でありながら謎の多かった彼女は現在のスロバキアの一地域の絶対的支配者であり、3人の召使の助けを借りて、100人から650人の少女を残虐な形で拷問し死に至らしめた。
 正確な数字は誰にもわからない。

Missing daughters 行方不明の娘たち

 彼女は、トルコとの戦争でハンガリーの国民的ヒーローとなっていた貴族の Ferenc Nadasdy(ナーダシュディ・フェレンツ)と結婚した。1604年の夫の死の前から殺人が伝えられていたが、その後彼女は完全に錯乱した状態になったとみられる。
 彼女が Cachtice に居を移したころから周辺の村から次々と少女が姿を消し始めた。
 ついには自分の趣味を満たすための少女が足りなくなると高貴な家柄の少女をもおびき寄せるようになった。その家族たちは行方不明となった娘たちを通告し始めた。

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100人以上の若い少女を殺害した女性

 1610年までには、彼女の恐ろしい行いの噂がハンガリー王の耳に届くこととなり、彼は副司令官の Palatine Georgy Thurzo(パラティン伯・トゥルゾー・ジェルジ)を調査に送り込んだ。
 1610年12月、Bathory は彼女の3人の召使とともに逮捕された。召使たちは拷問を受け火あぶりの刑に処せられた。
 彼女は裁判にはかけられなかったが、Cachtice城 に幽閉され、そこで 1614年8月21日に死亡した。

Castle restoration 城の修復

 今日、Cachtice は、高い生垣や、衛星放送受信アンテナを備え、私道には最高級の SUV 車が置いてある大きな家々がある裕福な村となっている。
 メイン広場の Elizabeth Bathory の大きな木製の像を除けば中央ヨーロッパのどこにでもある風景である。
 標識が我々にその城を教えてくれる。それはそこから2.5 km のところにある深い森に覆われた自然保護区の真ん中にある。ブナや栗の木々の下にある狭い石だらけの道をクワの茂みや野苺をくぐりながら心地よく40分歩く。
 城は廃墟となっているが、青い空をバックに映し出され、壮大で超然として見える。
 多くに待ち望まれていた2年間の修復により2014年6月に再公開された。
 1980年代に塔の一つが崩壊し、建っているのは2つの塔だけとなった。チャペルのある東側の物見やぐらと Countess Bathory が死んだ南向きの居住用の塔である。
 驚くべきことに、彼女の居住区周辺を歩くことができるのだが、それは彼女が幽閉され死亡した区域と考えられる。
 屋根は長い間失われているが、壁が天井の名残を示している。
 4メートル×5メートルの部屋に4メートルの高さの屋根があったと思われる。
 れんがで塞がれた窓のように見えるものの名残を見ると身体が震える。

Sense of shame 恥の感覚

 今日、地元の人たちはこの伯爵夫人のことをどう思っているのだろうか?

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多くの人たちが町の広場に置くことを反対した像である。

 「昔の人たちは彼女のことを恥ずかしく思っているようです。広場に Bathory の像が建てられたときいくらか反対がありました」と言うのは、城のガイドとして夏の間仕事をしている 18 才の Adam Pisca である。
 「でも若い世代は過去のことをそれほど悪く見なしません。彼女が女性たちを殺害したことは知っていますが彼女は私たちにとって重要ではないのです」
 「城の復元の前、私たちは中でバーベキューをし、テントで一晩キャンプをしたのです!」
 村に戻った私たちは14世紀の St. Ladislav 教会に足を踏み入れる。そこで Vladimir Ondas 神父が我々を案内してくれる。
 Elizabeth Bathory はここに埋葬されたが彼女の墓を知る人は誰もいない。おそらく彼女の遺体はその後 Nagyesced に移されている。そこは Bathory 家の先祖の地で現在のハンガリーにある。
 Vladimir 神父は私たちを驚かせるものを見せてくれる。
 彼は外にあるゴシック様式のチャペルを開錠した。そこには Cachtice 城にあった絵の描かれた3枚の木製の板がある。それらは同城の室内装飾で残っている唯一の品目である。
 この教会の隣に、Elizabeth Bathory や彼女の時代の人々の肖像画や彼女の衣服の複製、古い城
 しかし我々が本当に見たかったのは地元のワイン共同組合だが、これはただワインのためだけではない。
 その建物は古い Bathory 家の領主の館があった場所に立っている。
 あの伯爵夫人が拷問の時間の大部分を行ったのがこの場所である。
 今日、外壁だけが残っているが、多大な苦痛と苦悩を見てきた元の地下貯蔵室は原型を保っており、現在はワインの樽の保存に用いられている。
 この共同組合のオーナーの一人 Jozef Carada が私たちに試飲を勧めてくれる。
 いずれのワインも一様にすばらしい。

Bathoryblood

 いくつかのものには“Bathory Blood”のラベルが表示されている。
 このブランドは2010年に製造中止されたが、顧客からの要請により、彼女の死の400周年を記念する特別なワインとともに2014年に再び製造された。
 当然のことだが、それは真紅色である。

Visiting Cachtice Cachtice を訪れる

 観光客が Cachtice 城に行くためには自家用車が必要となる。
 そこそこのホテルがある一番近い町は Trencin で Cachtice の村から 30km 北にある。
 そこへ行く最善の手段は鉄道である。毎日10本の直行列車がある(Bratislava から60~80分の行程である。
 (時間はかかるが)バス便もある;行程はおよそ2時間;チケットは6ユーロ/8ドルである。Trencin の最良のホテルは四つ星のHotel Elizabeth である(Generala Milana Rastislava Stefanika 2, Trencin; 電話 +421 32 6506 111、二人部屋で132ドルからとなっている)。
 Trencin から Cachtice 城までの公共交通機関による接続はない。そこに行く最善の方法はタクシーによる(40ドル)。
 Trencin tourist office (+421 32 6504 711, kic@trencin.sk )あるいは Hotel Elizabeth のフロントが英語を話すガイドの手配をしてくれる。
 Cachtice 城は5月から10月まで公開されている(月曜から金曜は午前10時から午後5時30分、土日は午前10時から午後6時までである)
 John Malathoronas はロンドンを拠点とするトラベルライター、写真家である。“Rough Guide to Europe”を始め15の自著、共著がある。

処女を殺して血液を浴槽に満たしそこに浸かることで
自分の肌が美しく若返ったことに端を発し、
残虐極まりない行為を繰り返すようになったとか。
当時の状況を想像しただけで
身の毛もよだつ思いがするのである。
現地にはどれだけの霊がただよっていることやら…。

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