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MrKのぼやき

煩悩を解脱した前期高齢者男のぼやき

死ぬ権利

2009-03-07 16:05:04 | 悩み

そこには、『ひとは何のために生きているのか』という究極の問題がある。

ひとは、自分のために生きているのか、何かによって生かされているのか。

耐えがたい苦しみや絶望から自殺を選択しようとするひと。

しかし、どうしても自殺の実行に踏み切る覚悟ができないひと、

あるいは難病で手足の自由が利かず自殺しようにもできないひともいる。

死のみが救いであると考えるひとに対して

私たちは、どのように支援するべきなのであろうか?

健康な人間の立場で想像するには難しすぎる問題がありそうだ。

29日付 CBC Canada News より

The fight for the right to die(死ぬ権利を求める闘い)

Suerodriguez Sue Rodriguez さんは自殺幇助を禁ずる法とカナダ最高裁判所まで闘ったが、敗訴した

1992年、Sue Rodriguez さんは、死ぬ権利についての議論を、カナダにおける注目の場に引き出した。

議会の議員たちに見せられたビデオ声明で、1991 年にルー・ゲーリック病と診断されたこの Victoria の女性は幇助自殺を禁ずる法の改正を立法者たちに訴えた。

「もし自分の死に対して自分自身が同意できないとしたら、この身体は誰のものでしょう?誰が私の命を所有しているのでしょうか?」と彼女は言った。

カナダ最高裁判所は結局 Rodriguez さんの意見と反対の裁定を下したが、彼女の闘争は大衆を刺激した。Rodriguez さんは匿名の医師の手を借りて1994年に自殺した。

ほとんどの国々と同様、カナダでは自殺幇助は違法である。しかし世界では多くの地域でこういった法律を変えようとして高まりつつある運動があるようだ。

自殺幇助と安楽死 euthanasia の違いは何か?

自殺幇助とは、ある人間典型的には回復不能な疾患や慢性的な強い疼痛に苦しんでいる人が別の人間の助けを借りて意図的に自殺することをいう。

たとえば、患者が死ぬほど大量に服用するために使うつもりであることを理解しながら薬物を医師が処方する場合もあるだろう。あるいは、医師が患者の腕に静脈針を留置した後、その患者が致死的な注射を開始するスイッチを押すという場合もあるかもしれない。

自殺幇助は、患者以外の人間にの手によってできる限り苦痛のないよう患者の命を終わらせる安楽死とは異なっている。

しかし安楽死には、医師が致死的となる注射を患者に対して行う場合のように積極的な場合もあるかもしれない。

消極的な場合もある。それは、心臓の止まった患者を医師が蘇生しないようなケースである。または医師が生命維持装置をはずすような場合もある。

自殺幇助はいつ法的な問題となったのだろうか?

哲学者たちは古くから “a good death”(良い死)の概念について熟慮してきた。しかし、死ぬことをめぐる個人の選択権については1970年代になってようやく真剣な公の論議として浮上してきた。

それまでは、カナダにおいて、また他の多くの国でも、自殺未遂を有罪と見なしており、懲役刑にもなっていた。しかし連邦政府は1972年に自殺未遂を処罰の対象からはずした。

患者の自己決定権をめぐる議論は今、積極的安楽死と自殺幇助の問題に重点が置かれている。というのも、慢性的な激しい痛みを抱えながら、あるいは、多発性硬化症、AIDS、あるいはアルツハイマー病などの変性疾患や末期疾患に冒されながら生きている患者が死ぬ権利を求めて闘うようになったからである。

なぜそれが問題となるのか?

自殺幇助を合法化したい人々は、個人は自分自身の死の時期や状況を自身で決定できるべきであると信じている。自身に死を積極的にもたらすことは、延命治療を拒絶することと違いはないと主張する人もいる。

弱者のケアにかかる経済的負担を軽減するため、彼らが自殺幇助を強要されることになるかもしれないと、反対者たちは懸念している。さらに、自殺幇助が、よりよい苦痛緩和医療を提供したり新たな救済法や治療法を見つけるべきであるという圧力の軽減につながり得ることも、彼らは不安視する。

宗教的な反対者には、人間ではなく、神こそが死の時期を決定すべきであると主張するものもいる。さらに多くの医療の専門家たちは、医師が患者の死を手伝うことは倫理的に決して許されないと主張する。

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知るべきか知らざるべきか…

2008-11-26 08:00:11 | 悩み

知るべきか、知らざるべきか、それが問題だ…

たとえ悪い結果であったとしても、何も知らされないよりましである、

という研究結果が報告された。

11月22日付 New York Times 電子版

Bad News Can Be Better Than Nothing
悪い知らせは何も知らないよりましかも

悪い知らせを好む人はいない。
しかし、ある人にとっては、知らせがないことはさらに悪い。
やや神経質な人たちでは、悪い知らせによるよりも不確かであることによってより多くストレスを受けることが新しい研究で明らかにされた。

心理学者たちは悪い知らせが人の気を引き、受け取る側の注意を集める一方で、良い知らせはしばしば脳の中で軽くあしらわれるということを以前より知っている。
この現象は科学者たちによって生き抜くための精神規制と説明されてきたが、これは危険や脅威の警告に適応するための脳内の配線回路の働きによる。

しかし University of Toronto の研究者たちは、不確かさ―情報の欠如、あるいは十分に理解されていない情報―に対して人がどのように反応するかについてより多くを知りたいと考えた。
41人の若い男女は、まず彼らがどの程度神経質かを評価する目的で用意された検査を受けた。
それから一定の課題を行う間、脳の活動を測定する電極を取り付けられた。
ストレスをモニターする方法として、検査者は前帯状皮質の神経活動を追跡した。
大脳のこの部分は、葛藤、先行き不安、監視ミスなどに関わっているとされている。

続いて被験者らは、コンピュータ・モニター上に標識記号が表示された後、一秒が過ぎたと考えた時、反応するよう要求された。
反応を行った後、課題をうまくこなしたことを示すプラス記号、改善が必要であることを示すマイナス記号、または、なんら説明のないクエスチョン・マークのいずれかで、それぞれモニター上で評価を受け取る。
神経症的傾向のより強かった被験者では、負の評価に対するよりも、不確定な評価に対する反応でより強い脳の活動性を示したことが、研究者たちによって示された。

現実の世界では、社員が昇進に向けて意気込んでいるものの、その結果が知らされないような時にその類の反応性の増強が起こるかもしれない、と University of Tronto の心理学の大学院生でこの論文の主著者である Jacob B Hirsh 氏は言う。
高度に神経質な人では、昇進の機会を失することに対してはそれほど強くは反応しないでしょう、と Hirsh 氏は言う。

また神経質ではない人にとっては、逆が当てはまります、と Hirsh 氏は付け加えて言う。
そういう人たちは、不確定さに悩まされることはないが、負の評価に対して大いに狼狽するのである。

不確定さについて研究している University of Western Ontario の心理学者 Richard Sorrentino 氏は、配偶者に対して不安定な感情を抱いていて信用できるかどうか確信が持てないでいる既婚の女性を調べた同様の研究を行っている。

「もし彼女らが確かさを好むタイプであったとしたら、夫を信用すべきかどうかについて確信がない場合よりも、はなから夫を信用しない場合の方が、ずっと居心地が良いはずです」と彼は言う。
確かさを好むが、夫に対して確信の持てない妻は、しばしば、うつ病を始めとする深刻な病状に見舞われます、とも彼は言う。

「要するに、高度に神経質な人のモットーはこうなります。『知らない悪魔より知っている悪魔の方がまし』」Hirsh 氏はそう述べた。

この研究は、与えられた課題に際して、

その報酬期待に対する充足度を見ているだけのような気もするが…

ともあれ、神経質な人には、たとえ悪い知らせでもはっきりと伝える方が

精神衛生上良いってことか。

ただ、伝える内容によっても変わりそうだ。

たとえば、がんの告知ではどうだろうか。

神経質であるなしにかかわらず、

きちんと真実を伝えたために一時的な衝撃を与えたとしても、

曖昧にごまかすよりはいいのかも知れない。

神経質でない楽天家には、

曖昧に伝えておけばいい方に解釈してくれるからいい、

ってわけでもないだろう。

原則として全例告知すべきと考える医師が大部分だろうが、

それにストップをかけるのは、

本人を一番よく知っていると思っている家族にちがいない。

そもそも、本人より先に家族に真実を伝えることが間違っていると

思われるのだが…。

しかも、その家族がどこまで本人の気持ちを

理解しているといえるだろか。

「あの人は気丈に見えるけれども、

実は気の小さいところがあるから…」は、家族の勝手な判断だ。

当人にのしかかる真のストレスは、いかに身近な家族でも

遠く理解の及ばないところにあるのかも知れない。

「知りたくないことは知らされないでいる権利」もあるようだが、

「実はあなたのことで大事なお話があるのですが、

お知らせした方がいいですか?」と訊かれて、

「いえ、結構です。知りたくありません」と答える人が

果たして存在するだろうか?(そんな訊き方が悪いんでしょうけど)

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