MrKのぼやき

煩悩を解脱した前期高齢者男のぼやき

重視されなかった痛み

2014-08-31 00:04:17 | 健康・病気

8月のメディカル・ミステリーです。

8月25日付 Washington Post 電子版

She’s furious at the doctors who failed to diagnose the ailment she endured for years
彼女は何年も耐えてきた病気を診断できなかった医師たちに対して憤りを感じている

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彼女の突き刺すような背中の痛みは尋常ではなかった。そしてほとんど知られていないその原因も…

By Sandra G. Boodman
 フィラデルフィアの専門医がHeidi Gribble Camp さんの背中の深部の場所をやさしく指で押さえると彼女は悲鳴を上げた。しかしそれは苦痛と高揚感の両方を表したものだった。Camp さんが正しかったことの証明は大部分彼女の粘り強さによって支えられた。2006年、初めての妊娠初期の彼女の激しい腹痛の訴えは主治医に無視された。それは子宮外妊娠破裂によってほとんど死にかけるほど出血するまでそうだった。危うく命を落とすほどのその出血の直後、突然意識障害に陥り、肺や腹部に大きな血栓が発見されさらなる緊急手術を要した。
 「私は彼に言いました。『あなたはその痛みを見つけてくれました。今日は私の人生で最良の日です!』 Hospital of the University of Pennsylvania での6月18日の治療の際、そう話したことを思い起こす。8年以上も苦しめられたその突き刺すような痛みを、この低侵襲外科的治療の専門医、インターベンショナル・ラジオロジスト(血管内治療放射線科医)によって正確に指摘され再現できたという事実は最高の正当性の確証だった。Camp さんが痛みを誇張していたわけではなく、一連の医師に疑いを持たれていたことには特定できる身体的原因が存在していたことが明らかとなったのである。
 焼けつくような背部痛の最初の症状がそうであったように、何ヶ月もかかる回復を繰り返していた。しかし、Camp さんが、引退した元プロ野球選手で最近引退した夫とともに転々としていたフロリダやトロントや北バージニアの医師たちは苦痛の原因はわからないと彼女に告げた。彼女が通常の痛みを劇的に表現しているとほのめかすものもいた;暗示していたということが後になって判明した本当の原因について彼女が行っていた質問を拒絶するものもいた。
 答えの解明には、数ヶ月前の、医師である友人による偶然の関与を要した。もしそれがなかったならば Camp さんの診断はさらに遅れ、深刻な被害や突然死のリスクに彼女がさらされる可能性があった。
 「Heidi はこの病気の典型的患者です」そう言うのは彼女を治療したペンシルベニアのインターベンショナル・ラジオロジーの部長 Scott O. Trerotola 氏である。「インターベンショナル・ラジオロジスト以外の間では(それについての)認識は比較的薄いのです」何年もの間にCamp さんが受診した心臓内科医、婦人科医、救急医、あるいは整形外科医などの他の専門医はおそらくそのような事例に精通していなかったのだろうと彼は言う。これに対して、Trerotola 氏や彼のチームはこれまで150例以上の患者を治療してきた。

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夫 Shawn さんや彼らの子供たちと写真に写る Heidi Gribble Camp さんにとって、長年の苦痛を終わらせるには友人の関与が必要だった。

Bleeding out 出血

 Camp さんには常に痛みに対する強い耐性があった;大学のエリート・アスリートとしてそういったものを乗り越えることには慣れていた。以前、一部リーグでプレーしていたバージニアの James Madison University(JMU)で腕を骨折しながら自分で運転して ER に行ったこともある。
 しかし、第一学年のときに得た教訓が、その後彼女の拠り所となる試金石となった。というのも、子供のころから Camp さんは診断されていない間欠的な消耗性の腹痛に悩んでいた。彼女が JMU に入学してようやくその原因が医師によって発見され、問題のあった胆嚢が切除された;それにより痛みは消失した。「そんな経験があったことから、医学的な問題を起こしているものが何かさえ解明できればそれを解決できると思うようになったのです」と彼女は言う。
 Camp さんは別の理由からも慢性の痛みに敏感だった:母親がスキーリフトで重傷を負い何度も再建手術を要していた。Camp さんは、そんな痛みがもたらす過重な負担に苦しむ彼女を見ながら育ったので母親のような経験を繰り返したくないと思っていたのである。
 2006年、彼女の夫でピッチャーの Shawn Camp 氏が Tampa Bay Rays のテストを受けていたフロリダに転居してまもなくのこと、彼女の妊娠が発覚した。やがて彼女にひどい腹痛発作が出現したが、主治医や身内の人たちは初めて子供を持つ母親の神経過敏と片付けた。
 ある日、妊娠2ヶ月のとき彼女が痛みで身体をよじらせていたが、夫は出かけており家には彼女一人だった。歩くこともできず彼女は意識を失う前に電話まで這っていって911をダイアルした。救命士がドアを壊して入ると、バスルームに倒れている彼女を発見したが、血圧が危険なほど低かった。ただちに手術ということになった。右の卵管が破裂しており子宮外妊娠破裂と診断されたのである。
 一日後、病院のベッドで反応なく横たわっている彼女を家族が発見した。緊急蘇生が行われ、外科医らは肺に大きな血栓を認めたためヘパリンを投与した。これは血栓の形成を予防するために血液をサラサラにする薬である。
 しかし数日後、激しい腹痛と動悸を訴えたため~それらを看護師たちは妊娠途絶をめぐる不安によるものと考えていた~施行された CTで彼女の腹部に2つのソフトボールの大きさの血栓が見つかった。ヘパリンだけでは有効性が得られなかったため外科医は Günther tulip filter(ギュンター・チューリップ・フィルター)を留置した。この小さな金属製のデバイスは IVC filter(下大静脈フィルター)とも呼ばれ、ちょっと傘のような形をしている。これは両下肢から心臓に血液を戻す人体内で最大の静脈である下大静脈に留置される。このフィルターは大きな血栓を捕捉するように作られており、血栓が飛ぶと致死的となりうる肺や心臓への迷入を予防する。
 このデバイスが留置されてまもなく、「2度もほとんど死にかけていたのがウソのように起きて歩き回っていました」と Camp さんは思い起こす。
 外傷外科医は、このデバイスは一時的なデバイスとして考案されてはいるが取り除く必要はないと Camp さんに説明した;彼女の産婦人科医も同意見で、今後の妊娠で血栓に関連した問題を予防してくれるだろうと言った。

An ulcer or a cyst? 潰瘍、それとも嚢胞?

 2006年に最初の背中の痛みが起こったが、Camp さんはトレーニングをやり過ぎていたのかもしれないと考えた。しかし痛みが続くため、彼女は緊急室に治療を求めた;この問題は彼女の右側の卵巣に認められる嚢胞によるものか、あるいは術後の瘢痕組織による可能性があると医師は彼女に告げた。
 数週間後、その痛みは消失した。2007年、彼女は平穏無事な妊娠により息子を産んだ。しかし彼女がトロントに住むようになっていた2008年に痛みが再発した。今回は、医師は仙腸関節機能障害と診断したが、これは過度の運動の結果としてしばしば起こる腰背部の痛みである。間もなくその痛みは再び消失した。
 2012年、彼女の家族の近くで夏を過ごすことにしていたため北バージニアに戻った Camp さんは心臓内科医を受診した。動悸と顔が紅潮する症状があったためである。しかし特に問題となることは認められなかった。2010年に2人目の子供が生まれており、もはや子作りをやめていたためフィルターを除去すべきかどうかその心臓内科医に尋ねた。超音波検査を行ったあと、それを取り除くことはきわめてリスクが高く、またこのデバイスが問題を起こすことはないと彼は彼女に説明した。
 2013年5月、Camp さんに、激しい背中の痛みに加えて、周期的な嘔気や嘔吐の症状が始まった。それらの症状と、予期しない10ポンド(約4.5kg)の体重減少のためかかりつけの内科医を受診した。彼は彼女の症状はストレスによるものと考えた:彼女は2人の子供とともに転居を繰り返していたし、夫はしばしば遠征に出ていた。しかしそのうちその痛みは治まった。
 だが、2014年1月までに痛みがぶり返した、そしてそれはこれまでにも増して悪かった。「実際食べることができなかったので私はエンシュアを飲んでいました」と Camp さんは思い起こす。症状からの唯一の解放は加温パッドの上に横たわることで得られた。彼女は整形外科医に治療を求めた。例のフィルターの場所近くの脊椎に骨棘を認めたが、そのことを彼は不可解に思った;骨棘というものは通常摩耗によって引き起こされる骨の突出であるため若年者ではあまり一般的でないからだ。彼は彼女を別の整形外科医に紹介、そこでコルチゾンの注射を受けたが効果はなかった。
 Camp さんによると、その年の4月には2006年に最初に発見されていた彼女の右の卵巣の嚢胞がライムの実の大きさまで増大していることを彼女の婦人科医が発見したという。「本当に安堵しました」と Camp さんは思い出す。「これが痛みの原因だと思ったからです」しかしその婦人科医は異議を唱え、その位の嚢胞は無害であり通常は痛みを起こさないと言った。
 涙ながらに彼に手術をお願いしたと Camp さんは言う。「その痛みはあまりに強く死にたいとまで思っていたからです」と彼女は思い起こす。「私はこう言いました。『あなたは手術をするべきです』。しぶしぶ彼はこの嚢胞と卵巣と卵管を摘出した。しかし麻酔が切れたとき、痛みが軽減していないことに Camp さんは気付いた。「『ああ何てこと、これってどういうことなの?』と思いました」
 彼女の症状の悪化を心配した友人の強い勧めで3人目の整形外科医を受診することにした。そこでもX線写真で背中の痛みの原因と考えられるものが示された:フィルター近くの下部脊椎に骨棘が形成されていたのである。その整形外科医は、このフィルターが除去できるかどうか心臓外科医に相談するよう助言した。むずかしくリスクの高い治療であるため下大静脈フィルターは除去しないとその外科医の診療所から告げられたため Camp さんはインターネットを調べ上げたところ、全く異なる部門の専門医が求められることがわかった:すなわちインターベンショナル・ラジオロジストである。最も専門的な技術を持つ専門医の中にペンシルベニアや Stanford University Medical Center の人たちがいることを早速見つけた。彼女は Stanford に電話をかけると検討のため彼女の診療記録とCT画像を送るよう言われた。
 それから彼女は CTスキャンの予約をとるのに友人である医師で Tampa 地区の腎臓の専門医 Michael Brucculeri 氏に頼った。Tampa には学生時代に彼女一家が住んでいたことがある。Brucculeri 氏は Camp さんの病状について危機感を募らせていた。
 しかし、6月4日に行われたCTスキャンは地元の放射線科医によってフィルターが関与している徴候はなく正常と読影された。そんな説明にきわめてショックを受けた Camp さんは Brucculeri 氏に電話したという。その夜、自宅まで画像の入ったCDを持ってくるように彼は彼女に告げ、彼がそれを再検討することとなった。彼が見たものはほとんど正常とはいえなかったという:フィルターの何本かの脚が下大静脈を突き破っていた;一本は小腸の上部である十二指腸に接しており、その状況から Camp さんの嘔気が説明できる可能性がある。例の骨棘はフィルターの壊れた部品によって椎体に生ずる持続的な接触によって生じているように思われた。
 Blucculeri 氏はただちに e メールに添付した画像を何人かの同僚に送ったが、その中に地元のインターベンショナル・ラジオロジストもいた。全員が彼と同意見だったと彼は言う。壊れたフィルターが Camp さんの背部や腹部の痛みの原因となっている可能性があり、とにもかくにもそれを取り除くべきであるとそのインターベンショナル・ラジオロジストは言った。彼は、自身がトレーニングを受けたペンシルベニアに行くよう Camp さんに勧めた。
 その翌日、Brucculeri 氏は、今回のCTを正常と読影していた Tampa の放射線科医に電話した。討論のあと、その放射線科医は破損したフィルターの記載を追加して報告書を修正した。しかし、異常なしと指摘した彼のオリジナルの報告書はすでに Stanford に送付されていた。
 「すべての自動車整備士がそうであるように、すべての医師が同じように作られているわけではありません」と Brucculeri 氏は言う。「彼がなぜそれを見逃したのかはわかりません。おそらく彼は何かに気を取られていたのでしょう」

Two FDA warnings FDA の2回の警告

 下大静脈フィルターをめぐる問題は新しいわけではない。彼女のフィルターが留置されて4年後の2010年、フィルターが迷入したり破損したりした患者で 900例以上の合併症や死亡例があり、一部心臓に致命的に穿通した事例があることを受けて、米国食品医薬品局(FDA)は、もし血栓のリスクが低くなった場合にはこのデバイスを除去すべきであると通告した。通告は2014年5月にも繰り返し出された;このデバイスが留置されてからの時間が長いほど有害事象のリスクが増大することが研究者らによって確認されている。
 「もはやそれが必要でないならそのフィルターは取り出すべきです」と Trerotola 氏は言う。彼は複雑なフィルター回収治療を専門としており、その成功率は95%である。ただしデバイスが激しい痛みの原因となっている Camp さんのような例はめずらしい。
 ペンシルベニアでの6月18日の治療前の数週間、彼女は“パニック状態だった”という。「私はこう考え続けていました:『もし破片が心臓に飛んだらどうなるの?』」そこで彼女は安全策を取っていた:もしペンシルベニアの治療が失敗したら、一週間後に Stanford に飛ぶ予定にしていたのである。
 軽い鎮静下に Camp さんの頸部の静脈から行われた 20分の外来治療は成功した;そのフィルターが取り出されるやいなや彼女の痛みは消失したのである。
 Camp さんは自分の正しさが立証されたと感じている一方、怒りを感じてもいる:それは、症状を見逃した医師に対してと、痛みのひどさを疑った医師たちに対してである。もし医師である彼女の友人が関わってくれていなかったら何が起こっていただろうかと彼女は思う。「彼女は仮病を使う人物として見限られていたように思います」と Brucculeri 氏は言う。頻繁に転居していたことから彼女のケースを総体的に見てくれることのできたプライマリケア医が Camp さんにはいなかった。「つまるところ患者自身が患者の最善の支持者とならなければならないということです」

下大静脈フィルターは、
下肢の深部静脈血栓症の患者で血栓が心臓を通過して
肺動脈に流入し肺塞栓が起こるのを予防する目的で留置される。
特に抗凝固薬が使えない患者や、
凝固薬を用いていても塞栓症のリスクが高い患者で
この治療手技が選択される。
この下大静脈フィルターについて、2010年、
米国においてフィルターの移動・破損、およびそれに伴う塞栓、
下大静脈の穿孔などが報告されたことから
FDA が注意喚起を行った。
これを受けて本邦でも同年暮、
フィルターの長期留置に伴い破損等のリスクがあること、
長期留置の際は定期的なフィルターの状況の確認が
必要であること、
フィルター留置の必要性がなくなった患者に対しては
抜去を検討すべきこと、などを警告として記載するよう、
添付文書の改訂指示が出されている
フィルターが破損した場合、
心臓に達した破損部で心臓に穴があく心タンポナーデや
近接する十二指腸に穿孔を来たした重大なケースも
報告されている。
破損の頻度は10%を越えるということなので、
フィルターが留置された患者には
厳重な経過観察が重要というわけである。

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血の伯爵夫人

2014-08-26 18:19:55 | 歴史

史上最多の殺人を犯したといわれる狂気の伯爵夫人、
Elizabeth Bathory (エリーザベト・バートリ)。
没後400年なんだそうである。

8月22日付 CNN .com

On the trail of the 'Blood Countess' in Slovakia
スロバキアの “Blood Countess(血の伯爵夫人)” を追って

By John Malathronas, for CNN

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2014年8月21日は Elizabeth Bathory(エリーザベト・バートリ)の死から400周年となっている。彼女は歴史的最大の大量殺人者として自宅監禁中に Cachtice(チェイテ)城で死亡した。Bathory の生涯は Bram Stoker (ブラム・ストーカー)の1897年の小説 “Dracula(ドラキュラ)” に影響を与えたとも伝えられる。

 丘の上に不気味に現れる廃墟と化した築何百年の古い城があるスロバキアの Cachtice(チェイテ)村は容易にゴシック小説の恐怖映画の表舞台となれそうである。
 しかし、ちょうど400年前の8月21日、そのホラーはまさに現実のものとなっていて、Elizabeth Bathory(エリーザベト・バートリ、ハンガリー語ではバートリ・エルジェーベト)伯爵夫人という名前の高貴な女性で史上最も多くの女性を殺害した大量殺人者の命が消えた。
 それは Cachtice の村で人々がお祝いをするような記念日ではなく、Bathory の恐怖の時代はいまだに当地の地元の人たちにつきまとっているが、私を含めて一部の人たちにとっては奇妙な魅力が存在する。
 Trencin(トレンチーン)というスロバキアの美しい町で、友人の Martin と私は Ivan Kralik と Peter Pastier の二人のガイドの協力を得る。彼らは地元の観光局で働いている。
 彼らは車で30km離れた Cachtice の村まで我々を連れて行き、Blood Countess(血の伯爵夫人)の話を詳しく語ってくれる。
 ぞっとするようなその名前は犠牲者の血にまみれたいという彼女の性癖に由来する。
 処女の血が彼女の若々しく見える皮膚を保つと信じていたのだと伝えられている。
 Bathory の人生は映画、書物、あるいはネット上のウェブサイトの題材となってきた。そして一部では、1897年の Bram Stoker(ブラム・ストーカー)の小説 “Dracula(ドラキュラ)” に影響を与えたと考えられているが、ウィーンより西では忘れ去られているようである。
 名門でありながら謎の多かった彼女は現在のスロバキアの一地域の絶対的支配者であり、3人の召使の助けを借りて、100人から650人の少女を残虐な形で拷問し死に至らしめた。
 正確な数字は誰にもわからない。

Missing daughters 行方不明の娘たち

 彼女は、トルコとの戦争でハンガリーの国民的ヒーローとなっていた貴族の Ferenc Nadasdy(ナーダシュディ・フェレンツ)と結婚した。1604年の夫の死の前から殺人が伝えられていたが、その後彼女は完全に錯乱した状態になったとみられる。
 彼女が Cachtice に居を移したころから周辺の村から次々と少女が姿を消し始めた。
 ついには自分の趣味を満たすための少女が足りなくなると高貴な家柄の少女をもおびき寄せるようになった。その家族たちは行方不明となった娘たちを通告し始めた。

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100人以上の若い少女を殺害した女性

 1610年までには、彼女の恐ろしい行いの噂がハンガリー王の耳に届くこととなり、彼は副司令官の Palatine Georgy Thurzo(パラティン伯・トゥルゾー・ジェルジ)を調査に送り込んだ。
 1610年12月、Bathory は彼女の3人の召使とともに逮捕された。召使たちは拷問を受け火あぶりの刑に処せられた。
 彼女は裁判にはかけられなかったが、Cachtice城 に幽閉され、そこで 1614年8月21日に死亡した。

Castle restoration 城の修復

 今日、Cachtice は、高い生垣や、衛星放送受信アンテナを備え、私道には最高級の SUV 車が置いてある大きな家々がある裕福な村となっている。
 メイン広場の Elizabeth Bathory の大きな木製の像を除けば中央ヨーロッパのどこにでもある風景である。
 標識が我々にその城を教えてくれる。それはそこから2.5 km のところにある深い森に覆われた自然保護区の真ん中にある。ブナや栗の木々の下にある狭い石だらけの道をクワの茂みや野苺をくぐりながら心地よく40分歩く。
 城は廃墟となっているが、青い空をバックに映し出され、壮大で超然として見える。
 多くに待ち望まれていた2年間の修復により2014年6月に再公開された。
 1980年代に塔の一つが崩壊し、建っているのは2つの塔だけとなった。チャペルのある東側の物見やぐらと Countess Bathory が死んだ南向きの居住用の塔である。
 驚くべきことに、彼女の居住区周辺を歩くことができるのだが、それは彼女が幽閉され死亡した区域と考えられる。
 屋根は長い間失われているが、壁が天井の名残を示している。
 4メートル×5メートルの部屋に4メートルの高さの屋根があったと思われる。
 れんがで塞がれた窓のように見えるものの名残を見ると身体が震える。

Sense of shame 恥の感覚

 今日、地元の人たちはこの伯爵夫人のことをどう思っているのだろうか?

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多くの人たちが町の広場に置くことを反対した像である。

 「昔の人たちは彼女のことを恥ずかしく思っているようです。広場に Bathory の像が建てられたときいくらか反対がありました」と言うのは、城のガイドとして夏の間仕事をしている 18 才の Adam Pisca である。
 「でも若い世代は過去のことをそれほど悪く見なしません。彼女が女性たちを殺害したことは知っていますが彼女は私たちにとって重要ではないのです」
 「城の復元の前、私たちは中でバーベキューをし、テントで一晩キャンプをしたのです!」
 村に戻った私たちは14世紀の St. Ladislav 教会に足を踏み入れる。そこで Vladimir Ondas 神父が我々を案内してくれる。
 Elizabeth Bathory はここに埋葬されたが彼女の墓を知る人は誰もいない。おそらく彼女の遺体はその後 Nagyesced に移されている。そこは Bathory 家の先祖の地で現在のハンガリーにある。
 Vladimir 神父は私たちを驚かせるものを見せてくれる。
 彼は外にあるゴシック様式のチャペルを開錠した。そこには Cachtice 城にあった絵の描かれた3枚の木製の板がある。それらは同城の室内装飾で残っている唯一の品目である。
 この教会の隣に、Elizabeth Bathory や彼女の時代の人々の肖像画や彼女の衣服の複製、古い城
 しかし我々が本当に見たかったのは地元のワイン共同組合だが、これはただワインのためだけではない。
 その建物は古い Bathory 家の領主の館があった場所に立っている。
 あの伯爵夫人が拷問の時間の大部分を行ったのがこの場所である。
 今日、外壁だけが残っているが、多大な苦痛と苦悩を見てきた元の地下貯蔵室は原型を保っており、現在はワインの樽の保存に用いられている。
 この共同組合のオーナーの一人 Jozef Carada が私たちに試飲を勧めてくれる。
 いずれのワインも一様にすばらしい。

Bathoryblood

 いくつかのものには“Bathory Blood”のラベルが表示されている。
 このブランドは2010年に製造中止されたが、顧客からの要請により、彼女の死の400周年を記念する特別なワインとともに2014年に再び製造された。
 当然のことだが、それは真紅色である。

Visiting Cachtice Cachtice を訪れる

 観光客が Cachtice 城に行くためには自家用車が必要となる。
 そこそこのホテルがある一番近い町は Trencin で Cachtice の村から 30km 北にある。
 そこへ行く最善の手段は鉄道である。毎日10本の直行列車がある(Bratislava から60~80分の行程である。
 (時間はかかるが)バス便もある;行程はおよそ2時間;チケットは6ユーロ/8ドルである。Trencin の最良のホテルは四つ星のHotel Elizabeth である(Generala Milana Rastislava Stefanika 2, Trencin; 電話 +421 32 6506 111、二人部屋で132ドルからとなっている)。
 Trencin から Cachtice 城までの公共交通機関による接続はない。そこに行く最善の方法はタクシーによる(40ドル)。
 Trencin tourist office (+421 32 6504 711, kic@trencin.sk )あるいは Hotel Elizabeth のフロントが英語を話すガイドの手配をしてくれる。
 Cachtice 城は5月から10月まで公開されている(月曜から金曜は午前10時から午後5時30分、土日は午前10時から午後6時までである)
 John Malathoronas はロンドンを拠点とするトラベルライター、写真家である。“Rough Guide to Europe”を始め15の自著、共著がある。

処女を殺して血液を浴槽に満たしそこに浸かることで
自分の肌が美しく若返ったことに端を発し、
残虐極まりない行為を繰り返すようになったとか。
当時の状況を想像しただけで
身の毛もよだつ思いがするのである。
現地にはどれだけの霊がただよっていることやら…。

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期待されるエボラの“薬”

2014-08-10 22:49:21 | 健康・病気

今年の初めに
西アフリカを中心に流行が問題となっていたエボラ出血熱だが、
今のところ感染の拡大傾向に歯止めがかかる気配はない。
目下過去最悪の勢いで感染者が出ており、
8月4日までに、西アフリカのギニア、シエラレオネ、
リベリア、ナイジェリアの4国で
1,711人が感染し、932人が死亡した。
この流行に対して、
8日、世界保健機関(WHO)は「緊急事態」を宣言した。
感染者に対しては、
輸液、輸血、あるいは抗生物質の投与など対症的治療を
行う以外すべはなく有効な治療法は今のところない。
このたび
米国人の感染者2名に対して実験的治療が施されたそうだが、
果たして根本的治療の糸口は見つかるのだろうか?

8月5日付 Washington Post 電子版

Experimental Ebola drug raises interest, questions 実験的なエボラ出血熱の薬剤が関心と疑問の声を集めている

Experimentaleboladrug

ケンタッキー州 Owensboro にある Kentucky BioProcessiong 社の施設でタバコの植物が管理された環境で生育される。同社はエボラに感染した患者を治療する実験的薬剤の製造にこの施設で栽培されるタバコの葉を用いている。

By Lenny Bernstein and Brady Dennis,
 西アフリカでエボラウイルスに感染した2人の米国人宣教師の命を救うことになるかもしれない実験的なエボラの薬剤を数グラムを作り出すのに、30年近い根気強い研究と米国政府の何百万ドルという多額の金を要した。
 そこで今、こんな疑問が投げ掛けられる:もし、現在状態が好転しているように見える宣教師の Kent Brantly(ケント・ブラントリー)医師と Nancy Writebol(ナンシー・ライトボル)看護師をこの薬剤が救うことになるとしたら、リベリア、シエラレオネ、ギニア、およびナイジェリアでエボラによって死にかけている数百人に同じ薬剤を投与することができるのだろか?
 どこがそれを負担することになるのか?たとえ医学の権威者らが人々を説得して納得させることができたとしても、人間で試験されていない薬剤を海外に分配することの倫理はどうなのか? そしてどれくらい迅速にそれが行えるのか?
 「2ヶ月です」この2人のアメリカ人に投与された実験的血清を製造した San Diego の小さな会社 Mapp Biopharmaceutical 社と15年間共同研究を行ってきた Arizona State University のBiodesign Institute の Charles J. Arntzen 教授は言う。「もしかすると1ヶ月でできるかもしれません。もしすでにそれを計画したとすれば1ヶ月で10,000人分の量を生産できると思います」
 一方、、国立衛生研究所(NIH)の National Institute of Allergy and Infectious Diseases の Anthony S. Fauci 所長は、8月5日の CNN のインタビューで、より慎重だった。「この血清を作るのは容易ではありません」と彼は述べている。「ただちに使うことができる投与量は一握り以下です」
 「実際には供給の問題ということになります」と Fauci 氏は付け加えた。「さらに相当量を製造するには数ヶ月かかります」
 リベリアでこの致死的疾患に罹患した Brantly と Writebol に注射された 3つの抗体の混合薬“ZMapp(ゼットマップ)”の製造はわずか1箇所だけ米国政府に認可されている。それはケンタッキー州 Owensboro にある Kentucky BioProcessing(KBP)で、そこでは特別に改変されたタバコの植物で抗体が産生される。これらは収穫され、すりつぶして緑色の液体が採取され、精製されたあとごく少量(おそらく0.5gか1g)の ZMapp となる。この ZMapp が二人の宣教師に投与されたのである。
 KBP の Maura Payne 広報担当官は8月5日に e-メールで、「KBP は ZMapp の製造を増すために Mapp 社、政府機関、およびその他団体と密接に連携しているが、この過程には数ヶ月を要する見込みである」と述べている。U.S. Defense Threat Reduction Agency(米国防衛威嚇緩和機関)のスポークスマンによると、Mapp 社はこの薬剤の製造に同機関と3年間 1,000万ドルの契約が行われているという。
 西アフリカのエボラの大流行は4ヶ国で1,600人以上が罹患し、887人が死亡した。8月5日には Charlotte 出身の宣教師 Writebol(59)が、週末に Brantly を乗せて運んだのと同じ“救急輸送機”でアトランタにある Emory University の隔離病棟まで空輸された。
 彼女が働いていた布教団体 SIM USA から発表された声明によると「Nancy Writebol は未だ非常に衰弱しているが、ゆっくりではあるが持続的な回復を見せている」という。
 この声明は彼女の夫 David Writebol 氏の次のような言葉を引用している。「一週前には Nancy の葬儀の手配をすることを考えていました。今、希望を持てる理由があります」
 このエボラ治療薬は8月4日になってはじめて一般に発表されたが、様々な米国政府機関から資金援助や後援を受けている研究者のグループは約30年間、治療薬やワクチンに取り組んできた。カナダ政府もまた多くの研究に資金供給している。
 「これは一夜にして起こったことではありません」Galveston にある University of Texas Medical Branch の微生物学・免疫学の Tom Geisbert 教授は言う。彼はこの取り組みにほぼ25年間かかわってきた。「このたびの全ては少なくとも10年前に始まっています」
 1976年にアフリカ中部で発見されたエボラの謎に対する答えはまだまだ待ち遠しい状況にあるが、一つには、研究室でこのウイルスを扱うには多種多様な安全な手順と何層もの安全装置が求められるからだ。そのことが日々の研究過程を遅らせているのである。「何をするにしてもおよそ3倍の時間がかかります」と Geisbert 氏は言う。
 恐らくさらに重要なことに、製薬メーカーは伝統的にそのような研究に資金をつぎ込むことにほとんど関心を示してこなかったが、それは流行が散発的に起こるに過ぎず、歴史的にも少数の患者が犠牲になるだけだったからである。
 「製薬会社がこれらの対抗手段を開発するだけの財政的魅力がなかったのです」と Geisbert 氏は言う。「とのかく金の問題に尽きるのです」
 そのため政府がエボラ研究に資金援助することとなったがその取り組みにも多くの年数を要した。何年もの間、米国で稼働しているバイオセーフティーレベル 4(Biosafety Level 4, BSL-4)の施設はわずかしかなかった。これは最も危険性の高い病原体を扱うのに十分に安全の確保が成されている限られた施設である。
 しかしその情勢は2001年9月11日の多発テロ攻撃後に劇的に変化した。この事件のあと、政府は速やかに BSL-4 の研究室の相次ぐ建築に資金を供出するなど、生物テロ研究を重要視した。
 「実際、資金が生物兵器防衛につぎ込まれたのは 9/11 以降です」と Geibert 氏は言う。彼は 2000年代に入ってからの時間のほとんどを、メリーランド州にある Detrick 基地の U.S. Army Medical Research Institute of Infectious Diseases で、可能性が期待されるエボラワクチンの研究につぎこんでいる。「この5年から10年でとてつもない進歩があります。
 この進歩には ZMapp とともに、政府当局がこの秋の人間に対する初期臨床試験を急ピッチで準備してきた有望なワクチンも含まれる。しかし、エボラに対する 4~5つの有望なワクチンとエボラに対する3つの感染後治療薬は様々な開発段階にあると Geisbert 氏は言う。すべては何年間も研究され、NIH や国防省などの米国機関から多額の助成を受けてきた。「とにかく時間の問題です;現在多大な関心があるのはいうまでもありません」と彼は言う。
 西アフリカのエボラ感染者を救うためのあらゆる努力にかかるコストは検討すべき問題である;Mapp 社や他の少数企業はそのことを承知しているが、今週は質問に答えることを拒否している。しかし Arntzen 氏によると、どの政府も、特に米国にはそれができるはずであるという。
 それではこの取り組みは倫理指針に反することになるのだろうか? University of Pennsylvania の Department of Medical Ethics and Health Policy の Ezekiel Emanuel 会長によると、それはなさそうだという。
 「生か死かというときに、何ら選択できるものがないとしたら、生き残れるチャンスが高まる可能性を持つものはよい選択肢のように思われるものです」と彼は言う。「現時点でその病気がその人を悪くする以上にその人を悪くさせることはなさそうです。ただしそれが起こりえないとは言えません」
 米国内では、厳しい状況にあるいかなる患者も実験的薬剤が合法的に投与されるまでには“例外的使用(compassionate use)”として食品医薬品局(FDA)によって認められなくてはならない。FDA は受けた要求の圧倒的多数を許可する傾向にあるが、製薬会社に対して患者への未承認の薬剤の供給を強制することはできない。

西アフリカで勃発したエボラ・アウトブレイクと
同ウイルスの恐怖については、
4月18日付け拙ブログ『殺人ウイルスの恐怖』で詳述した。
あれから約4ヶ月の間にさらに感染が拡大、
もはや西アフリカだけの問題ではなくなったようである。
患者の症状が重症化してはじめて感染のリスクが高まること、
ウイルスが空中に浮遊することはないため空気感染はしないこと、
などから、
きちんと予防的措置を行っていれば大丈夫と思われたのだが…
危険な現場には慣れているはずの医療従事者への感染も
相次いでいるとのことで、さらなる感染拡大が懸念される。
致死率は50~90%ときわめて高いため、
もはやこの状況では臨床試験の有無などにこだわらず
実験的薬剤であれ
積極的な投与を決断すべきときなのかもしれない。
この“ZMapp”は免疫機能を増強し
ウイルスの細胞への感染を防御する。
サルへの投与で死亡率の低下が確認されているという。
これは遺伝子組み換えタバコの葉で作られる3種類の
モノクローナル抗体を含む血清だが、
このタバコの栽培に時間がかかるとのことで
短時間での量産化は困難とのことである。
一刻も早い“ZMapp ”有効性の実証と
それによる感染の封じ込めを願うばかりである。

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思いもよらない真犯人

2014-08-04 16:15:27 | 健康・病気

7月のメディカル・ミステリーです。

7月28日付 Washington Post 電子版

A mysterious rash on a woman’s hands and lips stumped specialists
女性の手と唇に出現した不可解な発疹は専門家たちを困惑させた

Mysteriousrash_2

頭がおかしくなりそうな赤い膨疹が彼女の両手に出現し、広がった。その原因は思ってもみないものだった。
By Sandra G. Boodman,
 最初、その発疹は Julia Omiatek さんを困らせることはなかったという。親指と中指の付け根近くの手のひらにある日突然出現した痒みを伴う赤い膨疹のことを彼女は思い起こす。それはオハイオ州 Columbus の真冬の時季である 2013 年1月のことで、その部位が赤くなり、2、3週後にひび割れたが、その症状は単に乾燥肌だろうと考えクリームを厚く塗った。
 当時35歳だった Omiatek さんにはその症状の原因を考える余裕がなかった。成人患者を相手にする作業療法士である彼女は、3歳にもならない2人の子供を育ててもいた。しかし、その2、3週後、唇が腫れ、発疹が顔に現われたため、皮膚科を受診すべき時だと彼女は考えた。
 皮膚の症状は今に始まったことではなかった;Omiatek さんにはニッケルアレルギーがあったため、彼女の母親は金属製の留め金が彼女の皮膚に触れて痛みを伴う刺激症状を引き起こさないようワンジー(onesie、赤ちゃん用のワンピース型の服)の内側に布を縫い付けなければならなかった。長年にわたって彼女はニッケルを避けるようにし、時々みられる原因不明の発疹に悩まされてきたが、湿疹を治療する処方クリームの Elidel(エリデル:アトピー性皮膚炎の外用薬)を用いると治まるようだった。
 しかし今回のこの持続する痒みを伴う発疹は彼女が何をしようと消失しなかった。11ヶ月以上にわたって彼女は4人の医師を受診、そのうち3人は、数多くの検査をすり抜けたこの頑固な発疹が何によって引き起こされているのかわからないと言った。しかし 4人目の専門医が彼女の手を見てそれを解明した。
 「発生場所が手がかりでした」と Ohio State University Wexner Medical Center の皮膚科学 Matthew Zirwas 准教授は言う。彼は原因不明の発疹の治療を専門としている。Omiatek さんのケースは同じ疾病で治療してきた約300人の他の患者の多くの症例と比べるとそれほど重症ではなかった。
 「生活を台無しにするほどの浸出液と痒みを伴ったひどい発疹で私の診察室にやってくる人は数え切れないほどいます;彼らはそのことで頭が一杯になっているのです」と彼は言う。「そして、彼らにその原因を伝えると、まさに安堵の気持ちからワッと泣き出してしまいます」
 2013年2月の皮膚科への最初の受診の際、そこの医師は彼女の手を診て、一連の質問を投げかけた。彼女に7ヶ月の子供がいることを知ると、過度に手を洗っていないかどうか尋ねた。そんなことはしていないと Omiatek さんは言い、彼の次の問いかけに少し気分を害した。「ストレスがありますか?」
 「まったく!」と答えたと彼女は言う。
 この発疹、あるいは間欠的に起こる唇の腫脹の原因はわからないとその医師は彼女に告げ、処方したクリームを使い続けるよう彼女に助言した。
 自分のニッケルアレルギーが原因かどうか(ニッケルはチョコレートやブラン〔糠〕などの食物に含まれる)彼に尋ねたところそれが原因かもしれないと彼女に告げた。Omiatek さんはニッケルを含む食物を避けるようにした;彼女の唇の腫れはいくぶん改善したが手の発疹は良くならなかった。
 一ヶ月後、彼女は個別栄養学を専門としている家庭医に相談することにした。自分に食物アレルギーがあることを徐々に確信するようになっていたと Omiatek さんは言う。果たしてそれ以外の理由で唇が腫れるだろうか。食物アレルギーであるならこの医師はきわめてお薦めだと考えた。しかし、彼女が食べるのを避けるべきものついて何ら新しい考えを彼は持っていなかった。そこでその 1ヶ月後 Omiatek さんはあるアレルギー医のところへ行った。
 そのアレルギー医は広範囲の針試験(プリックテスト)を行った。この検査では少量のアレルゲンを患者の皮膚上と直下に置いて反応を引き起こすかどうかを確認するものである。様々な木の実、果物、その他の食物に加えて、植物や花粉について検査されたと Omiatek さんは言う。既にわかっていたカビ、ニッケル、タンポポに対するアレルギーが確認された以外この検査で特に発見はなかった。このアレルギー医は、オハイオ州立大学の Contact Dermatitis Center のトップを務める Zirwas 氏を受診するよう Omiatek さんに勧めた。
 Omiatek さんによると、彼女はそのクリニックに電話したところ、患者は一週間に3回の予約をしなければならないと言われたという。最初の2回はそれぞれ約2時間を要するということだった。
 彼女の仕事のスケジュールと自宅での役目を考えた Omiatek さんは、そんな時間はないと考えた;彼女は食べた物の日記をつけていれば、彼女をイライラさせる皮膚の症状が何によって引き起こされているか特定できると確信するようになった。まさかツタウルシのトイレットペーパーが?
 しかしその8ヶ月後も Omiatek さんには依然発疹が続き原因もわからなかった。彼女が Zirwas 氏への一連の受診予約を決めたところ、シャンプー、フェイス・クリーム、日焼け止め、石鹸、洗濯洗剤、化粧品など肌に触れるすべての製品を持参するよう言われた。含有物のどれかにアレルギーがあるかどうかを決定する目的で Omiatek 氏が実施するパッチテストはそれらの製品に含まれる化学物質を基に行われる。
 瓶や容器でいっぱいになった大きなショッピングバッグを転がしながらクリニックに入ったとき Omiatek さんは二の足を踏んだ。待合室でいっぱいに詰め込まれたバッグを開きながら「『まあ、なんてこと、ばかげてる』そう考えたことを思い出します」と彼女は言う。
 Omiatek さんの手のひらを診察しただけで、症状の原因が分かったと確信できたことを覚えていると Zirwas 氏は言う。「この5年間このような独特のシナリオを多く見ていたのです」と彼は言う。
 しかし、とりあえずは確かめる必要があった。Omiatek さんが使っていた製品に含まれる少量の化学物質を彼女の背中の皮膚に塗り、小さなパッチでそれを覆い、数日間そのまま置いておいた;そのパッチの下の痒みを伴う発疹やその他の反応がアレルギーを示唆した。即時に判明する食物、動物、あるいは自然の物質に対するアレルギーと異なり、パーソナルケア製品や洗濯洗剤に含まれる化学物質に対する遅延型反応は一般に暴露から12時間、さらには1日から2日後に起こる。それはツタウルシとまさに同じである。
 Omiatek さんによると、116ヶ所のパッチが貼られて24時間後、「背中が実にひどく痒くなり始めました」と言う。
 2度目の受診の際、Zirwas 氏は彼女の背中を診察し、自身の直感を確かなものとした:Omiatek さんが示した唯一の強い反応は methyllisothiazolinone(メチルイソチアゾリノン)と呼ばれる化学物質に対するものだった。MI と略されるこの物質は数多くの美容・パーソナルケア製品中に高濃度に用いられているものだ。
 Omiatek さんの場合、手の発疹が起こる2、3週間前に使い始めていた“デリケートな”お尻拭きの新商品にこの MI が含まれていた。利き手である彼女の右手に見られた発疹のパターンは拭く製品の使い方にマッチしていた。また、MI は彼女の石鹸やシャンプーだけでなく、彼女が使っていた食器洗剤にも含まれていた。
 Omiatek さんにとってラッキーだったのは、Zirwas 氏の患者の多くが使っていたような MI を含むウェットタイプのティッシュを用いていなかったことだ。彼によると、ほとんどの患者はひどい状況が数ヶ月あって診察室を訪れるという。中にはてっきり悪い性感染症だと思っている人もいた;実際には、その発疹は彼らが用いていたティッシュに対するアレルギー反応だった。
 「ツタウルシの葉で拭いているようなものです」と Zirwas 氏は言う。「肛門の周りにひどく痒いジクジクした発疹ができるため私の診察室でただ泣き叫ぶ人も大勢います。次から次へと医者を受診していますが誰一人として原因がわからないのです」Zirwas 氏はこれまでに見てきた約300人の MI アレルギー患者のおよそ半数がティッシュを用いていたとみている。アレルギー反応の症例は、保存剤(防腐剤)を含有したお尻拭きに触れたことのある赤ちゃんや小児でも報告されており、ヨーロッパでは爆発的な発生も見られている。
 洗い流されるシャンプーや石鹸と違って、トイレのティッシュに含まれる物質は、蒸発の起こらない身体の部分において皮膚上に残ってしまう。「それは皮膚に取り込まれ、問題を長引かせることになります」と Zirwas 氏は言い、患者がその製品の使用をやめた後も発疹が完全に消失するのに数ヶ月を要するという。
 Zirwas 氏によると、製造者らはそういった問題を承知しており、製品からこの化学物質を除くことを宣言している企業もある。自社の製品は安全であると発表している Kimberly-Clark は、声明で、お尻拭きの MI フリーの生産ラインを最近導入したという。同社は今年の終わりまでにすべてのティッシュから保存剤(防腐剤)を除くことを宣言している。
 一部のパーソナルケア製品中の MI の濃度は、健康上の問題と関係しているホルムアルデヒドなど他の保存剤(防腐剤)に代わるものとして約5年前から増量されていた。「それは有用な代替物となるだろうと思われていましたが、およそ2、3年前から、それに対してアレルギーを示す人の数の驚くべき増加を見るようになりました」と Zirwas 氏は言う。
 Omiatek さんは Zirwas 氏から発疹の原因を伝えられたとき驚いたという。「私はこう言いました。『本当ですか?お尻拭きを疑ったことなど一度もありませんでした』だって、それらは赤ちゃんに使われるものですから原因からは除外されると思っていたのです」彼女は自身の子供たちに使ってきていた“sensitive baby sunscreen(敏感肌用ベビー日焼け止め)”の銘柄に対してもアレルギーがあることを知ったが、子供たちには発疹は出現しなかった。
 MI を避けることは容易であると Zirwas 氏は言う;製品のラベルに構成成分として記載されている。目下、万全の策をとっている、と Omiatek さんは言う。注意深くラベルを読み、“funky chemicals(斬新な化学物質)”を避けようとしてすべてのお尻拭きを使うことを止めているという。

メチルイソチアゾリノン(MI)は、
食品・医療用を除く、
シャンプー・化粧品・糊その他工業製品用の
防腐剤、冷却水用殺菌剤等として
2006年ころから広く用いられてきた。
現在多くの化粧品の成分として含まれている。
昨年から欧州で MI による接触性皮膚炎発症例が
急増していることから
欧州化粧品工業会(Cosmetics Europe)は
昨年12月12日にリーブオンスキン化粧品や
パーソナルケア製品中で
防腐剤 MI の使用を中止するよう
業界全体に奨励する方針を発表した。
日本では、粘膜に使用する化粧品への配合は
認められていないが、
洗い流す化粧品と粘膜にしようしない
洗い流さない化粧品には100g中0.01gまでの配合が
認められている。
しかし、MI のパッチテスト陽性患者の増加が
懸念されている現在、早急に何らかの対策が求められる。
『茶の雫石鹸』の二の舞は避けたいものである。

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