MrKのぼやき

煩悩を解脱した前期高齢者男のぼやき

発作と生きるのも限界

2011-04-30 19:02:52 | 健康・病気

メディカル・ミステリーのコーナーです。
早速どうぞ。

4月25日付 Washington Post 電子版

Woman endured years of troubling spells before their cause was recognized 原因がわかるまで何年間もやっかいな発作をその女性は我慢していた

Yearsoftroublingspells_2

後列左から息子の Brandon、夫の Shane、娘の Brittany と――Sonja MacDonald さんは発作を恐れてどこにも行くことができなかったと言う。

By Sandra G. Boodman

 Sonja MacDonald さんとその家族が彼女の発作とともに生活した11年間は、発作が起こりそうだと彼女が感じたり、あるいは彼らが気付いたりしたときに何をすべきか心づもりができていた。
 もし自分が運転していたなら、MacDonald さんは道路の脇に車を停止させることになっていた。彼女が運転できなくなったときにはハンドルの操作法を夫は幼い子供たちに教えていた。幸いにもそんなことは一度も起こらなかったが。彼女がシャワーを浴びるときには、彼女が突然意識を失うことに備えて、誰かがいつも浴室にいた。そして、彼女が働いている老人ホームで起こったときには、MacDonald さんが自力で空いたベッドにたどりつけることに賭けていた。
 時々不安を帯びた見当識障害という奇妙な感覚の前兆で始まっていたと彼女が表現するエピソードから、ペンシルベニア州 Milton 在住のこの女性に対して医師たちは何年にも渡って様々な診断名をつけた。彼女はぼんやりと見つめることが多く、時に見えない物をつかもうとしたり、短時間意識を失ったりした。持続時間がせいぜい2分間以内のこれらのできごとは突然に起こり、疲労感や悪寒を残したが、起こったことの記憶はなかった。
 専門家たちのほとんどは、これらの発作はしばしば片頭痛に続いて起こるてんかんであるとの意見で一致していた。しかし、彼女が不思議に思ったのは、時々起こる頭痛がひどいものではないのに、片頭痛誘発てんかんがどうして起こるのだろうか?ということである。医師らはそのような疑問を無視したため、MacDonald さんは真の病気が何であれ、あきらめてそれとつきあってゆくことに決めた。
 「私は夫にこう言いました『私は別の医者のもとへは二度と行かない。たぶん私が気が向いたときに受診すれば、誰かが私を信じてくれるでしょう』」と、現在39才になる MacDonald さんは言う。
 しかし、2009年、別の神経内科医が彼女のケースを新たな目で見直し、すばやく病気が何であるかを解明した。この医師は後に知ったのだが、その答えは何年もの間 MacDonald さんのカルテの中に埋もれていたのだった。

Frozen in place その場に凍りつく

 最初のエピソードが起こったのは1998年、MacDonald さんが幼い息子を抱き上げようとしたときだった。彼女がベビーベッドに手を伸ばそうとしたとき、身体の左側の感覚がなくなり、その場に凍りついたように感じた。このエピソードは瞬間で終わったが彼女はショックを受けていた。MacDonald さんがかかりつけ医に電話したところ、一過性脳虚血発作(TIA)の可能性があると告げられた。TIA 自体は永続する障害を残さないが、後遺症をもたらす脳卒中の前触れとなる。彼女はMRIを受けたが、TIAを起こすような所見は認められなかった。
 数ヶ月後、同じようなエピソードが再び起こり、神経内科医が再度MRIを行ったところ良からぬ所見、脳の病変が疑われた。悪性の脳腫瘍かもしれないということで MacDonald さんはすぐに脳神経外科医を受診するよう勧められた。不安な数週間を過ごしたものの、結局その病変は単に血管であることが判明した。
 しかし、医師らには繰り返すエピソードを説明することはできないでいた。「発作は実際に説明しがたい奇妙な感覚で始まり襲われるように感じられました。」と彼女は思い起こす。「夫によると、私はポカンとした顔をし、時には、物をつかもうとして手を伸ばしたり、洗濯物について長々と話したりしていたそうです」言っている内容は何ら意味を成していなかった。またあるいは舌なめずりをすることもあった。MacDonald 自身には発作の記憶はなかった。脳波や様々な画像診断でも異常がなかったので主治医らは困り果てていた。「私はあきらめていました」と、MacDonald さんは言う。
 2002年ごろ、一人の神経内科医がそれらの症状はてんかん発作であり、片頭痛に誘発された可能性があると考えた。「時々頭痛はありましたがそれらが片頭痛だとは考えていませんでした」と、MacDonald さんは言う。一時はてんかん治療の主力薬だったが、より副作用の少ない新しい薬の登場で影が薄くなっていた抗てんかん薬、フェノバルビタールがその神経内科医から処方された。この薬では発作を抑制できず、気分がむしろ悪くなったのでMacDonald さんは6週間後にはこの薬を内服するのを止めたという。
 一年後、特に良くならないまま、彼女はペンシルベニアにある大きなティーチング・ホスピタルの神経内科医を受診した。彼の診断は多発性硬化症だったが、MacDonald さんが受けた腰椎穿刺の結果が正常であることがわかり、その可能性は低いと考えられた。
 2004年、新たな見解を求めて、今度はメリーランド州にある二つめのティーチング・ホスピタルまで3時間かけて車で行った。そこの神経内科医は彼女は多発性硬化症ではないと言い、原因は migraine seizure(片頭痛に誘発されるけいれん)ではないかと疑った。同診断名はこののち彼女を診察した医師らによって繰り返しつけられ、そのため彼女には頭痛薬が処方されることになる。
 「単純にどう考えるたらよいのかわかりませんでした。そして、私は医師たちと時々議論し、彼らに、薬によって逆に片頭痛が起こっていると言ったのですが、耳を傾けてくれる人はいなかったようです」と、MacDonald さんは思い出す。
 我慢することが一番であると彼女は心に決めた。その発作は頻度を増しており、睡眠中にも起こるようになった。MacDonald さんによると、刑務所の護衛官をしている夫は彼女がベッドで硬直して座っていることがあると話し、発作の証拠を記録しようとしたが、携帯電話を探し当てたりビデオカメラを取り出したりするまでに発作は終わっていたという。

An answer at last  ついに答えが…

 2009年までに、それらの発作が MacDonald さんの生活の多くを占めるようになっていた。彼女は気を失い職場から近くの緊急室に数回運ばれていたが、医師らは依然何も見つけられなかった。そして MacDonald さんは言う「どこに行くのも怖かったのです。お店にいるときに何かが起こったらどうなるんでしょう?」
 実際一度彼女が食料品店のレジの順番を待っていたときに発作があり、ひどく気恥ずかしい思いをした。運転は常に心配の種であり、もはや我慢することが有効な方策ではないことは明らかだった。仕方なく彼女は新しい医師を受診することに同意した。彼女としてはその医師がこれまでの医師より役に立ってくれるとは思えなかったのだが…。
 2009年9月、最初の予約診察のとき、ペンシルベニア州 Danville にある Geisinger Health System の神経内科部長 Frank Gilliam 氏は、病院内での持続的な監視が必要となる特殊なビデオ付き脳波検査を行いたいと、MacDonald さんと夫に伝えた。この検査は発作の映像をしっかりと捉え脳波を測定するために10 日間、ひょっとしたらもっと長い入院が必要だった。その時、彼には彼女の病気が何であるか見当はついていると、夫妻に告げた。
 MacDonald さんは10月19日に同病院に入院した。翌朝、彼女が入眠してすぐに発作が起こっていたと Gilliam 氏は彼女に伝えた。「私は唖然としてました」と彼女は言う。「それを覚えてなかったものですから」
 それから2晩の間にさらに発作が記録され、Gilliam は診断を下し、彼女を家に帰した。MacDonald さんは、かつては側頭葉てんかんと呼ばれ、今は complex partial seizures(複雑部分発作)と呼ばれているてんかんの一型だったのである。彼によるとその診断名は、6年前、彼女にフェノバルビタールが処方された時にカルテに実際に認められていたが、その薬の効果が見られず、彼女がそれを内服するのを止めたあと、どういうわけかその診断名が存続されることはなかったという。
 てんかん患者の約30%に片頭痛が見られるが、「彼女に片頭痛があったようには思いません」とてんかん専門医である Gilliam 氏は言う。彼によれば、MacDonald さんの症状は複雑部分発作の症状として “きわめて教科書的” であったという。それは前兆であり、それに続いて、うつろなまなざし、意味不明の会話、舌なめずりなどが認められる。
 オンライン医学事典 eMedicine の記載によると、複雑部分発作の患者の死亡率は、その一部に転落や他の事故によって重大な外傷を生じる人がいることから一般人のそれより2倍から3倍高いという。頭部外傷や感染がこの発作の誘因となるが、発作が生ずると意識が遠のき、一過性の意識消失をもたらすことがある。またMacDonald さんのように明らかな原因がない例もある。
 診断を受けた MacDonald さんの最初の反応は安堵だったという。「幸せだと言いたいわけではありません。ただ答えが得られたことがうれしかったのです。11年間もこれに苦しんできたのですから」
 Gilliam 氏によると、彼の患者の中には15年間も診断されないまま複雑部分発作を起こしていた例があるという。「先週も、MacDonald さんの例とちょうど同じような2人の患者を見ました」、と彼は言う。患者がエピソードを表現するのがむずかしいことに加え発作の持続時間が短いことが診断の遅れにつながっていると、Gilliam 氏は言う。そして、医師の間に、正しい診断を見つけようとする“意欲に欠ける姿勢”が見られると、彼は付け加えた。
 てんかんがあるということでさしあたり運転が禁止となった。MacDonald さんは6ヶ月間発作が起こらなくなるまで運転することはできなくなった。そして種々の強力な薬物が試されたがいずれも彼女の発作を抑えることはできなかった。薬物治療が失敗となれば発作の発生源となる脳の一部を切除する手術が一つの選択肢となるが、その治療によって脳梗塞が生じたり突然死亡したりする可能性もある。
 MacDonald さんは生活を蝕んできた発作を終わらせる可能性にかけて手術を受けたいと考えたという。2010年2月2日、彼女は開頭側頭葉切除術という10時間に及ぶ手術を受けた。発作を抑える目的で彼女の海馬の一部が脳神経外科医によって切除されたのである。
 その後はずっと MacDonald さんには発作が見られず、内服薬の量も少なくなっている。来年には完全に薬物を中止できると見られている。病気を見つけて失望と恐怖の11年間に終止符を与えてくれたことで Gilliam 氏にはずっと感謝しつづけるだろうと彼女は言う。「人生を取り戻してくれたことに対して、その人にどのようにしたら報いることができることでしょう?」

複雑部分発作はてんかんの一型である。
原因が側頭葉にある場合と前頭葉にある場合がある。
意識障害を伴わない『単純』部分発作に対して、
意識がもうろうとしたり反応性が低下した状態で
唇や舌でペチャペチャ音をさせたり、一点を凝視したり、
意味不明な言葉を発したり、
ボタンをいじる・徘徊するなど異常な行動を生じたりする
『自動症』が認められる発作を『複雑』部分発作という。
これらの発作が始まる前に
何とも言えない不安感、不快感、異臭、耳鳴り、頭痛など
さまざまな前駆症状、すなわち前兆が出現する。
前兆までは記憶があって
発作があったことを理解することもあるが、
発作中のことは全く覚えていない。
一部の患者では
攻撃性が強かったり粘着気質であったりするなどの
性格変化が認められることもある。
抗てんかん薬で発作をコントロールできない場合、
検査でてんかん発作の焦点が明らかとなれば、
そこを外科的に切除するのが最も有効な治療法となる。
記憶に関係する海馬が焦点となっていることが多く、
萎縮した海馬が認められれば記憶障害を残さず
切除が可能である。

記事のケースは発作も短く、発作間欠期の脳波所見に
異常が認められなかったため診断が遅れたものと思われる。
それにしても片頭痛で押し通すというのもどうかと
思ってしまうのである。

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幹細胞移植は『神の意志』

2011-04-24 14:04:28 | 健康・病気

一昔前までは、脊髄の完全損傷の患者が
下半身の感覚や運動を取り戻すことは
全くありえない話だった。
しかし
胚性幹細胞を神経系の前駆細胞まで分化誘導し
脊髄に注入するという比較的単純な?発想で
脊髄損傷患者の神経機能を
回復させることができるのではないかという期待は
かなり以前よりあった。
しかし、ヒトの胚細胞を用いるこの研究に対して、
キリスト教信者の多い米国においては
倫理的、宗教的観点から反対意見も多く、
なかなか前に進むことができなかった。
胚性幹細胞研究に前向きなオバマ政権下となって
いよいよ昨年から、実際に脊髄損傷の患者に対して
胚性幹細胞を用いた治療の臨床試験が始まっている。
この臨床試験を
米国人はどのように受け入れているのだろうか?

4月15日付 Washington Post 電子版

Stem cells were God’s will, says first recipient of treatment 幹細胞は神の意思――治療を受けた最初のレシピエント

Stemcells

幹細胞とT.J.Atchison 君:ヒトの胚性幹細胞を用いて治療された最初の人物は、宗教的見地からしばしば非難されている同治療が神の意志の一部であると言う。

By Rob Stein
アラバマ州 Chatom――Timothy J Atchison 君が意識を取り戻したとき、暗い田舎道の脇の車の中、血まみれで動けなくなっていた。

Stemcells3

幹細胞を用いて脊髄損傷を治療する試み:医師らはヒトの胚性幹細胞から作製された200万個の細胞を Atchison 君の脊髄損傷部位に注入。これらの細胞はオリゴデンドロサイトに成熟するが、これらが神経線維の再生を促進し、喪失した髄鞘(神経の鞘で絶縁作用がある)に置き換わって神経系の伝達能を回復させる可能性がある。

「私は大量に血を流していました」と、Atchison 君(21才)は言う。高校卒業のお祝いに買ってもらった大破したポンティアックの窓から這い出ようとしたが、痛みで動けなかったという。
「自分がこのまま出血して死んでしまうのか、それとも助かるのか、わかりませんでした」
 それから、足が奇妙に大きくなったように感じたと、Atchison 君は言う。そして、完全に感覚を失っていた。彼は胸から下が麻痺していたのである。
 「私はただただ祈り、許しを請い、私を生かせていただいていることに神に感謝しました」と Atchison君は言う。彼は少なくとも1時間閉じ込められていたが、その後レスキュー隊に助け出された。「私は言いました、『これ以後、私は、以外の何ものでもない、ただあなたのために生きてゆきます』と。私はそれ以後落ち込むことは決してありませんでした。私を頑張らせてくれたものが何かわかっています――神が私を支えてくれていたのです」
 Atchison 君がそれからわずか7日後に別の衝撃的なできごとに直面したときも、そういった運命感が 彼を後押しすることとなった。医師らは、人の胚性幹細胞から作られた実験的薬剤を彼の身体に注入する最初の患者となることを希望するよう彼に依頼した。
 「私たちはただ愕然としていました」と、Atchison 君は言う。彼は、母親、祖父同席のもと研究者たちに話を持ちかけられた。「私たちは『ちょっと待って、本当に?』って感じでした。ちょっと畏れ多く思っていました」
 友人や家族には T.J. と呼ばれている Atchison 君は4月12日の Washington Post のインタビューの時にそのできごとを話してくれた。それはこれまで慎重に守ってきた自分の身元を Post 紙に明かして以来初めて行う詳細な説明だった。Atchison 君の話は最も注目を浴びている医学的研究の一つに対する刺激的な洞察が明らかにされるもので、皮肉とみられる内容も含まれている。道徳的および宗教的見地から非難を受けている治療が、その先駆けとなった第1号の人物とその家族からは神の意志の一部と見なされているからである。
 「それは単なる幸運や偶然ではなかったのです」と、Atchison 君は言う。彼は治療から6ヶ月後、それらの細胞が効果を発揮している最初の徴候を感じている。
 「そうなるよう運命づけられていたのです」

Revolutionary power 画期的能力

 2010年9月25日の事故は University of South Alabama's College of Nursing の後期中に彼が自宅に戻ろうとしていたときに起こったが、以前から彼は、身体のほとんどすべての組織に変化しうる胚性幹細胞の画期的能力と、さらに、その細胞を得るために数日齢の胚が壊されるための悪評について聞いたことがあった。
 「私は当時、今ほどはそれについて多くのことを知りませんでした。ただ、幹細胞がほとんどすべての病気を治すために用いられることは知っていました」と、Atchison 君は言う。彼が動かしている車椅子は、自分の車や他の多くの持ち物と同じように、University of Alabama フットボールのチームカラーである深紅色だ。
 主要道路沿いにファースト・フードのレストランの数より多くの教会がある小さな町でバプテスト教会員として育った Atchison 君だが、人間に対して胚性幹細胞を用いた治療の研究を行うという米国政府が認可した初めての臨床試験の立ち上げに協力することについて何ら道徳的呵責を感じていない。彼の脊髄に埋め込まれた細胞は不妊症の診療所で廃棄された胚から得られたものだったと、彼は言う。
 「それは生命ではありません。それは中絶された胎児やそれに類するものから得られたわけではありません。捨てられようとしていたものなのです」と、彼は言う。幹細胞がどこから得られるかを彼らから説明を受け、それを知った時点で、私は OK でした」
 あの事故の直後、Mobile にある University of South Alabama Medical Center  で、損傷した脊椎、骨折した鎖骨と小指、さらにはほとんどちぎれかけていた耳介を修復するために手術や他の治療を受けている間、Atchison 君は地元のペンテコステ派の教会の牧師と親しくなった。Atchison 君が治療を受けることに同意したことを翌週に知ったとき、その牧師は、彼の地域社会がどのような反応を見せるかを測りかねていた。
 「私はこう言いました。『これは一部の人たちには受け入れられないでしょう。死の脅しに直面するかもしれません。どのような反応になるかはわかりません』」、Reynolds Holiness Church(レイノルズ・ホリネス教会)の Troy Bailey 氏は4月12日にこう述べた。
 Bailey 氏によると、彼を含めて中絶に反対している人たちが胚性幹細胞研究を非道徳的であると考えていることを考慮して彼自身のスタンスを決める必要があると実感していたという。しかし、これらの細胞が、一度も子宮に着床しておらず、そのため胎児に発達する機会のなかった胚から得られたものであることから、Bailey 氏にもこの治療は受け入れられると結論づけた。
 「私はどのような形であれ中絶に対しては断固として反対です。今回のことで私は何が適正な答えであるかを聖書的に探索し調査しました」と、彼は言う。そして「この治療が行われるためにベイビーの命が損なわれることはないと実際に考えるようになりました」
 Atchison 君の幹細胞移植が行われた10月8日の次の日曜日にBailey 氏は彼の教会区に対して自身の結論を発表し、異論がある人は彼のもとに訪れるよう信徒たちに呼びかけた。しかし、彼によると、その町の誰からも苦情は聞かれなかったという。そしてその町は、Atchison 君の母親の家の周りに取り付け道路を作り、彼の車椅子用にコンクリートの通路を整備するなどして彼とその家族を支援した。
 Bailey 氏は日曜学校の3週間分の授業に、幹細胞についてと、経口避妊薬や遺伝子的に計画されたベイビーなど関連があると考えられる問題を取り上げた。
 「いかなる種類のばかげた理由で胚の採取を促進することはもちろんしたくないところです」と、Bailey 氏は言う。「そういったことから、一部の人たちはこのような問題についてもいくらか躊躇してしまうのです」

Critics’ denunciations 批評家たちからの非難

 この臨床研究に Atchison 君が参加することが、彼の友人たち、家族、近所の人たち、そして教会仲間の間であからさまな反対意見を招かなかったとしても、この研究は、科学者、生命倫理学者、あるいはこの研究を支持する人たちの間に激しい議論を招いただけでなく、道徳的理由からこの研究に反対する批評家たちからの非難をひき起こした。
 麻痺を起こして間もない患者に細胞を注入する段階に至るまでに十分な基礎的研究や試験が行われていないことを懸念する人がいる。腫瘍や厄介な疼痛を生ずるかもしれないという最大の危険性を考慮してこれらの細胞が有害ではないかと心配する人が多い。さらに、重度の障害を受け入れようと努力している患者が、そのような外傷からわずか2週間でこういった危険を伴う決断ができるかどうかいぶかしむ者もいる。
 もしどこか悪い方向に進んだ場合には――あるいは、細胞によって患者が良くなる兆候がなんら認められない場合であっても――本研究に対する連邦政府の補助金が法廷や議会において非難を浴びるような状況にあってはこの領域にとって大きな打撃になりかねない。
 Atchison 君はそんな懸念をはねつけ、リハビリテーションのために転院したジョージア州アトランタにある Shepherd Center での治療を選択した。Shepherd Center は10人の患者の臨床試験に出資しているカリフォルニア州 Menlo Park にあるバイオテクノロジー企業 Geron 社(ジェロン社)が募集した7ヶ所のセンターの一つである。
 Shepherd に来て3日後、Atchison 君がこの臨床研究の厳密な基準に合致しているかどうかを確認するために検査を受けるよう研究者らから要請された。
 Atchison 君は一人の女性医師に向かって、彼女がクリスチャンかどうか尋ねた。「私はこう言ったのです。『もしすべてが期待されているように進み、すべて良い結果が得られたとしたら、それは神のご意志です』」と、彼は言った。
 それでも、検査と眠れない夜を過ごしたその後の数日間、Atchison 君は危険性のことを考えずにはいられなかった。損傷した脊髄の中に約 200 万個の細胞を注入するために彼の背中を切開しなければならないことをわかっていた。
 「私は大けがを経験し、さらに今回、別の問題も進行中という状況でした。しかし彼らが全力で取り組んでくれたので、すべてはとんとん拍子に始まったのです」と、彼は言う。「みなさんも起きている時は常にそのことばかり考えているということがあるでしょう――同じように私の心をよぎっていたのです。『これが失敗することが果たしてあるだろうか?うまくいかないことが起こるのではないだろうか?』と…」

Keeping a secret 秘密の保持

 この治療を受けた後、Atchison 君は Shepherd Center で3ヶ月を過ごし、入浴、料理、あるいは自分自身の世話をどのように行うかを習得した。しかし彼はこの臨床研究に参加していることを秘密にしなければならなかった。たとえ、リハビリの仲間が再び歩けるようになるかもしれない幹細胞治療の希望を声にした場合でさえもである。
 「『やあ、その~、君が思ってるより身近なことかも。なぜならそれはもうすでに始まってるからね』そう彼に教えたい気持ちでした。」と彼は言う。「でも、その治療を私が受けていることで彼が気を悪くしてほしくなかった。この治療を受けたからこそ私が歩けるようになるに違いないとは思ってほしくなかったのです」
 副作用を調べるのが主目的なため、きわめて少ない量を投与したことを医師たちは強調していたが、既にそれらの細胞が自分を治してくれているように感じている。ラットを用いた研究では、細胞を移植された不全麻痺の動物が移動能力を回復しているのである。
 胸から下の身体の感覚と運動障害が生じて数ヶ月経っているが、この数週間、Atchison 君はごくわずかな感覚が戻り始めているという。ボーリング用ボールを膝から持ち上げると軽くなったと感じることができ、足の毛を引っぱると不快感を識別できる。また彼は腹筋力が増してきている。
 「それはつい最近起こったことです。それは少しずつですが徐々に改善してきています」と彼は言い、ネズミでは治療後9ヶ月までは運動の回復が見られなかったことを指摘した。
 Geron 社は Atchison 君のケースを話題にしようとはしない。同社は本研究の患者の検査結果を機密扱いにしている。
 「知らないままですとみんなイライラしてしまいます」と James Shepherd 氏は言う。彼は Shepherd Center の創設者である。「現時点では、うまくいっているとか、彼がいくらか回復しているとかいった感触を持つには時機尚早です。しかし社会全体も、病院につながれている患者たちも、ただ気になってドアを叩いてこう言います。『何が起こっているか教えてくれ』と」
 脊髄損傷の専門家たちは、Atchison 君のような患者はいくらか感覚と自力での運動を取り戻す可能性があるが、ただ一人の被験者の結果に基づいてこの細胞が有効であったかどうかを知ることは不可能であると強調する。こういった患者らの支持者らは、この研究に色めきだつ一方、誤った期待が高まることを懸念している。
 「私は人々に次のように警告します:これらの患者が車椅子から自発的に飛び出そうとしたり、そこら中を走り回ったりするような奇跡を期待してはいけません」。Christopher and Dana Reeve Foundation の理事の一人である Daniel Heumann 氏は言う。
 Atchison 君の事故は俳優だった Christopoher Reeve 氏(映画『スーパーマン』に主演、2004年に死去)の誕生日に起こった。彼は乗馬中の事故で四肢麻痺となり、幹細胞研究を支援してきた。
 「そんなことが起こることは到底信じられません」と、Atchison 君は言う。彼は伝説的な University of Alabama のフットボールコーチ Paul William “Bear” Bryant(ポール・ウィリアム・ブライアント【 “Bear” は愛称】)の額入りポートレートを二つ壁にかけている。
 「目を覚ますたび歩きたいと思ってしまうようなつらい時期がありました。しかしそういった時は過ぎようとしています」と、高校時代ソフトボールとフットボールの選手だった Atchison 君はテレビの ESPN(スポーツ関連番組専門チャンネル)に時々目をやりながら言う。
 現在、週に数回、Atchison 氏は筋肉へ電気的刺激を与えるためにサイクリングマシンを用いて下肢の訓練をし、彼の5フィート8インチの身体を保持し直立させる装置で立位をとっている。彼は両手で操作する車の運転を習得しており、魚釣りと七面鳥の猟を始めた。8月には復学を予定している。
 「私は毎晩祈っています。再び歩くことができるように。そして治療の効果があるよう願っています。自転車に乗ることと運動を続けるつもりです。そしていつか私は再び歩くことができるようになるでしょう」と彼は言う。「幹細胞に何ができるか皆さんも見たいでしょう」
 どのようにしてオフロード・カーに乗り、特殊装備の Chevy Cruze(シボレー・クルーズ)を操作するかを見せてくれた後、Atchison 君は自宅のそばで車椅子の向きを変えた。彼が飼っている一才になるヨークシャーテリアの Lilly はドアを飛び出し少し身体を斜めにして駆け寄って彼を出迎えた。
 彼女もまた自動車事故に遭い、そして回復していた――片方の後ろ足が不自由な以外は。

期待されている治療だが、
半年でぐんぐん良くなる、というものでは
ないようである。
米国における宗教的な問題は
我々日本人には
なかなか理解の及ばないところである。
日本でも、
この胚性幹細胞と、人工多能性幹細胞(iPS細胞)の
両面で再生医療研究が進められているが、
人体での臨床研究には程遠いのが現状である。
安全性と有効性が確立されれば、
脊髄損傷だけでなく、脳卒中や認知症などへの応用も
期待できることになるだろうが、
そんな日は一体いつごろ訪れることになるのだろう?

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愛情ゆえの治療拒否

2011-04-17 11:58:32 | 健康・病気

障害のあるわが子が難病に襲われるという
絶望の淵で下した判断が罪を問われる結果を招いたとしたら、
その情状はどこまで酌量されるべきなのだろうか?

4月14日付 Time.com より

Is It Murder If a Mom Withholds Cancer Treatment From Her Child? もし母親が自分の子供のがん治療を拒否したとしたらそれは殺人になるのだろうか?

Isitmurmur

By Bonnie Rochman

 あなたが自閉症で話すことのできない発達障害のある息子をかかえ、うつ病に悩まされているシングル・マザーだと想像してみてください。もしその子ががんと診断されたなら、あなたはどうしますか?
 マサチューセッツ州在住の母親 Kristen LaBrie は処方された息子の化学療法を拒絶することを選択した。彼女の息子 Jeremy が9才で亡くなって2年、火曜日に上級裁判所の陪審は故意の殺人で有罪を宣告した。
 Jeremy が 2006 年10月、7才の時、非ホジキンリンパ腫であることを LaBrie は知った。彼女は悩むことなく化学療法を行わなかったわけではない。彼女は毒性の強い薬で彼が苦しむのを見るのに耐えられなかったので、治療を行わなかったと証言した。しかしそれによって彼の病気が白血病に進行することになったのは間違いない。
 殺人罪に加え、LaBrie 38才は、障害者に対する虐待、ならびに小児に対する事実上の傷害と認識しながら小児を危険にさらしたことで危害を及ぼしたとして有罪判決を受けた。
 正義は果たされたのだろうか?簡単にはわからない。確かに障害児には権利がある。しかし、母親にもある。そして LaBrie には十分なサポートがなされてなかったようである。健康な子供のシングルマザーでいることも十分に厳しいことである。さらに自閉症や意思疎通のできない子供という要因はずっと事態を困難にしている。これに非ホジキンリンパ腫が加わるとなるとその重荷はすさまじいものとなる。
 「これは私たちが問題視すべきケースの一つです。どんな尺度で私たちは親に責任を持たせるべきでしょうか?」Jones Hopkins University の Berman Institute of Bioethics の看護倫理学者 Cynda Rushton 氏は言う。彼女は同大学の小児病院で、小児の緩和ケアプログラムを指導している。「一方で、癌の治療を続けることが長い目でみて子供にとって果たして有益かどうか迷うようなそういった状況下にある親を想像することはできます。疾病が治療できるからといって、それが治癒し得ることを意味しないのです。彼女はこう考えていたのかもしれない。この治療を行うことで子供を傷つけてしまうのではないかと」
 ボストンの弁護士 J.W. Camey Jr 氏は、LaBrie のケースは LaBrie の主治医の役割にも注目しておくべきであり、LaBrie が治療に従おうとしなかったことが明らかになった時点でなぜすぐに彼らが関与しなかったのかを問題視すべきだったと、Boston Globe 紙に語っている。
 「自閉症で話すことのできない発達障害のある息子と向き合うことはシングル・マザーにとってあまりに過酷なこととなる可能性があります」と、Carney 氏は言う。「この上、癌の診断、さらに子供に一層苦痛を与える医療を母親が受けさせる必要性が加わることは残酷なことです」
 親は自由に治療を拒否することができるのだろうか?裁判所によれば、それは許されないことは明らかである。
 最も似たようなケースは1986年に認められている。新宗教Christian Science の信奉者である両親が霊感治療のために、腸の疾患にかかっている息子の手術を拒絶したのである。その状況において、マサチューセッツ州の最高裁判所は、宗教的信仰があろうとも、両親は重病である子供たちを治療するために標準的な治療に依存することが求められるとの判断を示した。
 色々な意味で、こちらのケースの状況はより明確なように思われる。概して、親たちは自分の子供たちの医療をめぐって、どのように治療されるかとか誰に治療されるかなど、多くの自由裁量権を有している。故意に子供に害を及ぼすことは私たちの社会では容認されないが、故意的な危害の定義は、親の個人的考え方によって変わってくるものである。
 「私たちには親から虐待を受けたり放置されたりする子供を保護する義務があります」と Rushton 氏は言う。「しかし、子供を故意に傷つける人と、特別な治療が結果として子供の利益にならないと決断する人との間には違いがあります」
 LaBrie の姉 Elizabeth O'Keefe さんは Globe 紙に対して、陪審員たちは LaBrie が戦ってきた状況の深刻さを全く理解できなかったと語っている。「私の妹があの時経験していたことを理解するのは彼らにはむずかしすぎます」と、O'Keefe さんは言う。「妹には Jeremy を傷つける意図は全くなかったと思います。私は生涯そう信じます」
 Rushton 氏も同じ考えである。「この母親は彼のために最善を尽くそうとしていたと思います」と、彼女は言う。「私たちは親として十分なことができているかどうか常に考えています。しかし、この状況でよい親であることは何を意味するのでしょうか?」

親による子供の治療拒否は
むずかしい問題である。
広い意味では宗教的な輸血拒否や手術拒否、
代替療法の選択や経済的な理由なども
含まれるだろう。
この記事にあるケースの母親が
特異な状況に追い込まれていたことは
確かかもしれない。
しかし特異な状況と決める線引きは
存在しない。
どんなにつらい状況にあっても
治療によって少しでも長く生きてほしいと
願う親もいるだろう。
しかし自分のエゴで
虐待したり育児放棄したりする親たちと
同罪にすべきでないことは明らかだ。
その苦悩は、それを抱えている人にしか
心から理解できないのかもしれない。
その意味で、
現場で説得する医療者側にのしかかる負担は
きわめて重いといえそうだ。
日本の現状では、必要と思われる治療でも
親の同意なしに進めることはむずかしい。
問題となるケースは日本でも徐々に増えており、
悪い結果となる前に、
適切な判断をし命令を下せるような
第三者機関の整備が必要だろう。

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『死の行進』の日に思う

2011-04-11 22:42:26 | 歴史

『「思い」は見えなくても
「思いやり」は誰にでも見える…』
この一ヶ月間
耳が痛いほど聞かされたフレーズである。
しかし、その「思いやり」を実践することは
「思う」以上にむずかしいことなのかもしれない。

4月7日付 Washington Post 電子版

Finding the Japanese boy who had saved his grandfather during World War II 第2次世界大戦中、自分の祖父を救ってくれた日本人の少年を探し出す

Findingthejapaneseboy

Gallery:戦争の暗い記録の中の心あたたまる行い:Tim Ruse 氏の祖父は第2次世界大戦中の過酷なバターンの死の行進を生き延びたものの、日本の捕虜収容所で餓死しかけていた。Ruse 氏は一人の日本人の少年が祖父の命を救ってくれたことを知った。70年近くが経過した今、彼はぼやけた写真を携えて、その少年を探すことが自分の使命であると感じていた。

By Caitlin Gibson
 69年前の土曜日(MrK註:1942年4月11日と思われる)ルソン島のバターン半島でアメリカ人とフィリピン人の戦争捕虜たちは銃を突きつけられて行進を開始した。1942年の春、生存者たちは、フィリピンの捕虜収容所にたどりつくまでに、数千人もの彼らの戦友たちが60マイル以上にわたって死亡してゆくのを目の当たりにした。彼らが受けた仕打ちは戦時の残虐さのシンボルとして今も語り継がれている。さて、数ヶ月前、その生存者の一人の孫が古い写真を手に北バージニアから日本に向かった。それは一人の幼い日本人の少年のぼやけた写真だった。Centreville 出身の27才の睡眠障害の専門家 Tim Ruse 氏と、彼を出迎えた日本の人たちにとって、その写真は暗い歴史の一幕から、一つの心あたたまる行動を取り出す一つの手段を提供してくれることとなった。それは、彼の祖父の命を救ってくれた子供の写真だったのだ。そして彼らは今、とにかくその人物を探し出さなければならなかったのである。
 その少年の写真は、1945年9月、米海軍の救助艇に Carl Ruse 氏が乗りこんだとき手にしていた2枚の写真のうちの1枚だった。彼は、痩せこけた体に着けていた汚れた衣服を脱ぎ捨て、その場しのぎに使っていた杖を海に投げ捨てた。彼はすべてをそこに置いてきた。その2枚の写真以外を除いて…。1枚目の写真は、日本にある捕虜収容所に着いたときの彼自身のもの――彼の頬はこけ、まなざしは険しく何かにとりつかれたようだった――そしてもう1枚が少年の写真だった。

Findingthejapaneseboy2

 この古い敗れた写真の中の少年は恐らく11才か12才くらいに見えた。彼は実際に笑っているわけではないが、眉毛は少し上がっている。帽子をかぶり、地味な色の制服と思われるボタンのついた上着を着ており、膨らんだ頬と黒い優しい目をしている。
 89才で Carl Ruse 氏は亡くなったが、その4年後の2007年、彼の孫は、手紙やメダルや戦争の記念品が入ったいくつかの箱を引き継いだ。Tim Ruse 氏は、以前高校の最上級時に授業の課題のため、日本での経験について祖父にインタビューしたことがあった。Ruse 氏はそれらの箱を詳しく調べてみて初めて、祖父の歴史を知る情熱に再び本格的に火がついたのである。Ruse 氏とその妻 Meagan は、彼らの生まれる予定の最初の息子に、Carl の名をとって命名することにしていた。
 「自分の息子のために祖父の体験談のすべてを書き残そうと考えたのです」と Ruse 氏は言う。彼は現在3人の子供の父親であり、Georgetown University Hospital の Sleep Disorders Center のリーダーをしている。
 それは何年もかかるプロジェクトとなった。手紙や写真をスキャンしたり、祖父の体験談を記述したりするのに膨大な時間を要した。
 祖父の話の中心にあったのは生涯彼の財布の中に折り畳まれて持ち歩かれていたその少年の写真だった。工場労働者の孫だったその子供は、四日市‐石原産業捕虜収容所での強制労働をさせられた最後の年に Carl が生きのびる支えとなってくれた。言葉の壁を越えて、この二人は特別な友だちとなり、少年は余裕のある時、余った食べ物をその飢えた捕虜に差し入れた。しかしCarlは少年の名前を知らなかった。
 その少年から祖父への差し入れは、配給される食料よりはるかに多かったと Ruse は考えている。
 「その少年の純真さが、祖父が帰国した時、戦争から身を引くようにさせたのだと私は思います」と Ruse は言う。非常に多くの他の生存者の心の傷になっていた敵意や憎しみなどが重荷となることなく祖父は戻ってきた、と彼は言う。
 彼はその少年を見つけなければならなかった。カリフォルニアを拠点とする米国のNPO法人『US-Japan Dialogue on POWs(捕虜:日米の対話)』の創設者 Kinue Tokudome(徳留絹枝)氏に連絡をとり、支援してもらえるかどうか尋ねた。
 たった一枚の写真からその子供を見つけ出すことは不可能だろうと Tokudome 氏は考えたが、その日本人の少年と敵国の POW(戦争捕虜)との話は美しいと感じたと、彼女は言う。彼女は Carl Ruse 氏が捕虜収容所で働いていた日本の真ん中にある名古屋地区の日本の新聞社と連絡をとった。同新聞社は9月に、Ruse 氏がその少年を探していることについて記事を載せた。
 わずか数日後、Tokudome 氏の電話が鳴った。名古屋の私立のカトリック・スクールの校長である Shigeya Kumagawa(熊川重也)神父がその記事を読み、Ruse 氏の話を日本の生徒たちに聞かせるために Ruse 氏を招待したいというのである。

Families shaped by war 戦争に翻弄された家族

 それは Ruse 氏にとって最初の海外旅行だった。彼は妻と兄の Steve とともに11月に日本に旅立った。Tokudome 氏もその旅行に途中から加わった。
 Ruse 氏は、祖父が日本を去る時に持っていた2枚の写真のコピーも持参した。
名古屋に向かう列車の中で、Kumagawa 氏は長崎の原爆によって自分の家族の多くを失ったことを Ruse 氏に話した。そして、最初の炸裂を生き延びた多くの親戚たちも、その後数日から数週のうちに放射能障害によって死んでいったということも。そんなふうにして多くの愛する人たちが死んでいったのを見て祖母が精神に異常を来たしてしまったと、平和研究の教師である Kumagawa 氏は言う。
 残酷な対立する歴史の両側で彼らそれぞれの家族が翻弄されてきた過程に折り合いをつけるのはむずかしいことだと Ruse 氏は感じた。
 長崎の惨状から遠いところで、Carl Ruse 氏や捕虜仲間たちは米軍機が名古屋を空襲し地上の家々を焼き尽くしているのを見ていた。Carl は地震で足を骨折しており、もはや働くことはできないでいた。彼は80ポンド(約36 kg)まで痩せ細っていた。彼に残された時間は残り少なくなっていた。
 「もし Harry Truman や原爆が存在しなかったら、我々は決してあそこから脱出できていなかっただろう」と、かつて Carl は自分の孫に語っていた。
 日本のメディア関係者たちは今回の旅行中、このアメリカ人一行を追跡し、一人の子供の思いやりが彼の祖父の人生を変えたいきさつについて Kumagawa 氏の学校の生徒1,500人の前で行った Ruse 氏のスピーチの一部を放送した。彼らが四日市の工場を訪れ、日本の降伏後に最初の米軍機が捕虜たちに食料を投下するのを Carl Ruse 氏が見ていた場所に立った時も、カメラは彼らの後を追いかけた。
 「祖父が立っていた場所、そして自分がなんとか助かりそうであることがわかったまさにその場所に行けたことは実に感動的でした」と、Ruse 氏は言う。

Finally, a name ついに、名前が…

 その四日市工場の従業員たちはその写真を調べ、この少年はその工場で働いていた10代前半の数人のうちの一人だと思うと言った。彼らによればその写真は恐らく戦争が始まる前に撮影されたものだという。しかし、彼らはその子の名前も知らなければどのようにして探し出せばよいかもわからなかった。
 今回の旅行が終わりに近づいていたそのとき、写真の少年が自分の兄であると思うという男性から Kumagawa 氏の学校に電話がかかってきた。
 Ruse 氏、彼の妻、そして兄がホテルの一室でその訪問者と対面したとき、フラッシュを焚くカメラはさらに増えていた。その訪問者は Takeo Nishiwakiという小柄な高齢の男性で、彼の兄が14才の頃にその工場で働いていて、そこで一人の捕虜に食物を渡していたと言うのを聞いたことがあると言った。その兄は呼吸器疾患で30才の時に死亡しているという。
 Ruse 氏の脈が速くなった。彼は、あの少年をようやく見つけ出せたのだと信じたかった。たとえ、そのことを確かめるすべはないとわかっていても。しかし、ついにFumio Nishiwaki という名前をつきとめたのである。
 Nishiwaki 氏は18才ころに撮影された兄の写真を Ruse 氏に見せた。背が高くなり幾分ほっそりとしていたが同じ少年のように見えた。
 Nishiwaki 氏は翌日帰ることになり、旅行者たちも引き揚げる準備をした。Nishiwaki氏は、今回の面会の後、兄の未亡人に電話をかけたことを、Ruse 氏に話した。ニュースでその少年の写真を見て、それが彼女の亡くなった夫であることを確信したと彼女が話していたと言う。
 Nishiwaki 氏が別れを告げたとき、もう回りにはカメラはなかった。「お墓に行って、私たちが会ったことを兄に報告してきます」と Nishiwaki 氏は Ruse 氏に言った。
 Carl Ruse 氏は、日本を去る前に米軍機から落とされた余分の食料をその少年の家族の元へ届けていた。その少年が感謝の意を表して、Carl の手のひらに自分の写真を握らせたのはその時のことである。
 60年以上が経って、その瞬間が再び戻ってきたかのようだった。Ruse 氏と Nishiwaki 氏が別れようとしたとき、Ruse 氏は、祖父が日本から持ち出した2枚の写真のコピーを取り出し、その両方をその老人に手渡したのである。

自分の食糧調達にも事欠いていたような時代に、
敵国の捕虜に自分の食べ物を差し入れていたとは…
どのような素晴らしい心を持った少年なのだろう。
昨年9月に中日新聞の夕刊に掲載された
Ruse 氏の少年探しの記事である↓
http://www.us-japandialogueonpows.org/Ruse-J.htm
(『US-Japan Dialogue on POWs』 のHPより)

残念ながらその少年は30才でこの世を去っており、
Ruse 氏は対面を果たすことができなかった。

今、この大変な時に
誰にでもできる『思いやり』を行動に移すことは
もちろんとても大切なことだろう。
しかし、簡単には真似のできないような
真の『勇気ある思いやり』を実践するには
まだまだ人間を磨かなければとても叶いそうにないと
思うのである。

コメント (3)
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日本の行く末

2011-04-05 23:09:59 | ニュース

高濃度の放射能汚染水の海への漏出が続いている。
もうすでにどれほどの放射性物質が
空へ海へと放出されているのだろうか?
正確な情報は依然定かでない。
またそれがどれほど重大なことと
政府が捉えているのかも伝わってこない。
本当に海外のエキスパートたちと
協調がなされているのだろうか?
海外のエキスパートの意見も
積極的に報道に登場させるべきではないだろうか?

そしてこれからの日本は一体どうなってゆくのだろう?

3月20日付 Newsweek より

The Impact of Disaster 大災害の影響
The political, economic, and psychological consequences of Japan's catastrophe. 日本の大惨事の政治的、経済的、心理的影響

Japansdevastation

写真:日本の惨状

By Bill Emmott
 外国人が日本に住むとき最初に覚えるフレーズの一つに 『ganbatte kudasai(頑張ってください)』がある。それほど頻繁に使われる言葉である。別れる時、アメリカ人やイギリス人が『take care(じゃあね)』とか『have a good one(お元気で)』とか言う場合にその言葉を使うのだが、意味は違っている。それをきわめて文字通りに訳すなら、それは『どうか耐えてください』という意味である。
 日本の忍耐力、ほとんど禁欲主義に近い精神的意識が、敗戦と荒廃1945年以来その最大の試練を迎えていることは明らかである。3月11日の巨大地震と津波にみられた大規模な急襲は、現代の工業化した成熟した社会で頻繁に見られるようなことではない。また被災地帯にある福島第一原子力発電所の悲惨な制御不能の事態から起こり得る核のメルトダウンや放射能汚染の恐怖にもそういった社会は慣れてはいない。
 そのため、私たちすべては、今回の災害の長期に及ぶ経済的、政治的、さらには心理的影響について結論を急ぐことには慎重でなければならない。しかし、私たちにできることは、日本だけでなく他の地域においても類似の経験として生かすこと、この問題について考える枠組みを築くこと、そして、この先、数週間、数ヶ月、さらには数年のうちに最も問題となるであろうことへの筋道を提起することである。
 自然災害から得られる最も根本的な教訓の第一は、懸念すべきことの中で経済は最も重要性の低いものであるということだ。一般的に、もし経済効果を単に国内総生産( GDP )で計るとすれば、自然災害は事業所や工場の破壊や輸送ラインの破綻によって生産高の短期的喪失を生ずるが、ほんの数ヶ月のうちに、ちょうど景気刺激策のように実際に効力を発揮してくる。
 これは2005年の米国におけるハリケーン・カトリーナの後に見られたことであり、ちょっと前に日本で起こった大規模な壊滅的地震、すなわち6,500人が死亡した1995年の神戸の震災後にも認められている。復興の支出によって、雇用の創出、所得の上昇、さらには景気の押し上げが迅速に生じてくる。支出のいくらかは保険から払われ、残りは政府支出や民間投資によってまかなわれる。
 ただ今回の日本の災害で唯一異なるのは、核の危険が放散されてしまうか、それとも確実に収束するまでは、その規模がわからないということである。確かに、原子力発電所は商業的に保険がかけられていないが、むしろ、政府や電力会社自身によって保証されており、今回のケースではさらに多くの出費が国にかかってくることになるだろう。
 結局、自然災害の影響にまつわるこの現実は、指標としての GDP の限界を私たちに思い起こさせるに違いない:GDP は生産量、経済活動に何が起こっているかを私たちに教えてくれるが、繁栄や幸福については何も教えてくれない。
 しかし、日本経済はこの20年間弱体化していたのではないか?またこの政府は借金で首が回らないのではなかったか?この復興に支出する余裕はあるのだろうか?――こういった疑問の声が、多くの日本人以外の人たちから上がることになる。
 その答えはこうである。まず、確かに、日本は1990年代半ば以降景気がよくないのは事実である。しかし、それは主として、1970年代と1980年代に我々が慣れっこになっていた過剰な好景気との比較においてである。2009年、世界的経済危機によって打撃を受けたが、昨年日本の GDP は力強く立ち直り3.9%の成長を遂げた。2000年以降の長期の実績は素晴らしいとはいえないが、低い出生率と移民の少なさのために人口が徐々に減少してきていることを考えると、一人当たりの国民所得は新聞の見出しが示唆するよりはむしろ良いといえる。
 日本の真の弱点は借金とデフレである。その公的負債総額は GDP の200パーセントに上る。政府の一部の組織が別の組織に支払うことになっている金額を差し引いても、まだ120%となっていて、約80%である米国の数字ををはるかに上回っている。しかし、これはほとんどすべてが国内的に資金調達されているため、同政府は今回の国家的危機にあってもさらなる借り入れに際して何ら重大な困難に直面するわけではない。この時期に日本国民は全体的に犠牲を払い、国民負担を分かち合う覚悟ができるであろうと考えられることから、政府は恐らく特別復興税を課することすら可能となるだろう。
 熟慮が求められる景気回復への唯一の不安はデフレ、あるいはむしろインフレと関係するものである。1997年以降ほぼ毎年、物価は下がってきており、それとともに賃金や消費を引き下げている。今回の災害と関連するリスクの一つとして、これに変化が生ずる可能性があることがある。今回の危機は品不足を生み、とにもかくにもいくらか生産能力が失われてしまった。復興への取り組みが始まると、金が継ぎ込まれることになる。世界的なエネルギー価格や食品価格も上昇するときにこういった事態になると、日本がデフレからインフレに移行するリスクがいくらか存在するのは間違いない。
 しかし前述した様に、これらの経済的な問題は実際には最も重大ではない。最も重要なことは政治的、心理的な影響である。というのも、これは人間の悲劇であり、経済的悲劇ではないからである。
 しかしそれらもまた、独断的確信を持って予測できないし、すべきでない。日本が大変回復力のある社会であり、我慢強さを持ち合わせており、常にすばらしい連帯感を発揮することを私たちは知っている。しかしまた一方で日本の政治は、事実上1990年代半ば以降、過去5年間は間違いなく、混沌としており機能不全に陥っている。加えて、1990年代半ば以降、政治家、政治全体、および大企業に対する国民の失望感が高まってきている。
 政治においては、2009年8月に、新しい政党、中道左派の民主党が歴史的勝利を収め1955年以来初めて自由民主党を権力の座から引きずり降ろした。しかし、それ以後民主党は大いに期待を裏切り、分裂ぶくみで、機能を果たせず、政権をとってからすでに二人目の総理大臣、菅直人氏に代わっている。今回の災害の直前、有能な若い外務大臣前原誠司が政治資金問題で辞職しており、野党自民党は、国会での年度予算の通過を阻止することで早期の総選挙を迫るよう画策していたところだった。
 確かにそのような政治的駆け引きは今、今回の人間の悲劇から見ると、実に次元の低い考え方と目されてしまうことだろう。現在、自民党は国の結束を支持する存在でありたいと考えているため、政府は少なくともこの先2、3年間は明確な政策課題を持つことになるだろう。すなわち、復興を成し遂げるという課題である。
 しかし、その不確定性は、よく耳にする政府の見解の中に認められる。確かに国の結束感は強力となることだろう。これまでのところ、今回の危機に際して、菅氏自身も菅政権も良好に、そしてきわめて重要なことだが、率直に対応してきているように見られている。しかし、今回の災害における原子力の状況は事態を複雑にしてきた:核の安全性についてはすでに過去20年の間に起こった事故に際して隠蔽や疑念の歴史があることから、その不信感が今増大しつつあるのも当然である。民主党政権のめざすところは、そういった不信感や、お粗末な安全対策に対して予測される非難が、福島原子力発電所の民間経営者である東京電力と、前政権の自民党に向けられるのを確定的にすることであろう。
 しかし、それは簡単ではないだろう。特に政府が、日本の他の老朽化した原子炉をどうするかという難しい決断に直面するからである。とはいえ、現在、原子力は日本の発電量の約30%を供給している。そのため、もし安全性に対する懸念から原子力発電所が閉鎖されることになれば、それによって電力不足を悪化させ、消費者の出費がさらに増えることになる。しかし、もしそれらが閉鎖されないとなれば、日本政府は原子力エネルギーに反対する国民からの反発に直面するという危険を冒すことになる。
 どんな種類のしっぺ返しが生ずるかという疑問は心理的不確定性をよく表している。日本人は冷静を保ち、進んで犠牲を払うだろう。しかし、より迅速な復興のために自分たちの生活を犠牲にすることまで考えるだろうか?それは厳しい要求となりうる。
 最後に、問題は、日本人が、1950年代と同じように企業家精神で再び活性化することで、また、世界との関係を深めることで、今災害へ反応を示せるかどうかにかかっている。あるいは、そうでなく、結果的にさらに偏狭的で内向き志向となってしまうのか。
 今回の災害は広大で衝撃的ではあるが、そのスケールは1945年のそれと直接比べるべきものではない:今回はより限局的なもので、復興の努力は、およそ5年程度のものであり、数十年に及ぶような問題ではない。しかし、時悪く、日本の人口が高齢化の波にさらされており、中国の台頭の驚異を受け、さらに最近の傾向として熱狂的なグローバリゼーションの受け入れよりむしろ世界から少しずつ分断を図る方向へと向かっているこの時期に、今回の災害は起こってしまった。
 今回のような衝撃なできごとは、日本人が国内問題に取り組まなければならないことで頭が一杯となり、日本をさらに内向きにさせてしまう可能性がある。それも理解できることではあるが、どうかそうならないように望みたい。世界は積極的で活動的な日本を望んでいるのである。

我慢強く反骨精神が旺盛…、
日本人は世界の人たちからそう見られているのか?
被災者の方々、放射能汚染で出荷停止になった
農業や漁業の関係者の皆さんは
本当に心が折れそうになっていることだろう。
何もすることのできない MrK には
心の底から『皆さん、頑張ってください』と
願うほかないのである。

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