今月25日より、米国から約10ヶ月遅れで全国ロードショーが
始まった、スパイク・リー監督の映画、『セントアンナの奇跡』。
前評判は高いものの、映画評論やカスタマー・レビューでは
なかなか厳しい評価も。全編163分の大作だが、長すぎるとの
批判もある。
セントアンナとは、1944年8月、ナチスによる560人の
イタリアの民間人の虐殺があったトスカナ地方の地名である。
これまでアメリカ黒人社会の問題を取り上げてきたリー監督が
今回は第二次世界大戦の戦場を舞台に、
人種差別、戦争、宗教、イタリアを主題とした感動の映画を
作り上げた(少し欲張り過ぎたらしい)。
昨年9月米国公開当時の、かのA.O.Scott 氏による
例によって辛口映画批評を紹介しよう。
Hollywood War, Revised Edition ハリウッド戦争映画、改訂版
“Miracle at St. Anna(セントアンナの奇跡)” の冒頭、一人の老人がアパートの一室に座って白黒テレビの映画を見ている。その映画は “The longest day(史上最大の作戦)” 、John Wayne をはじめとした当時のほとんどすべての白人の映画スターを出演させた1962年の壮大な第二次世界大戦のドラマで、手厳しい反応を招いている。「私たちもまた母国のために闘った」と、その男性、郵便作業員で陸軍の退役軍人の Hector Negron 氏はつぶやく。
映画脚本家の James McBride の小説をもとに Spike Lee が監督したこの作品、“Miracle at St. Anna” の存在意義に、Hector (Laz Alonso) のような男たち、すなわちラテン系やアフリカ系アメリカ人兵士たちが、このようなハリウッドの戦闘映画の登場人物と同じくらい勇敢かつ懸命に戦ったという、すでに期限切れの感がある明白な主張を行うという目的が一つある。しかし長い年月が経ち、多くの映画が作られた今、事実関係を明確にすることは必ずしも単なる一つの取り組みに終わらず、歴史的重要性という自己に課した重い責任の下ではこの映画は時折よろめいてしまう。
フランスのためにナチスと戦ったアラブ兵士を追った “Days of Glory” のフランス人監督 Rachid Bouchareb と同じように、Lee は歩兵映画のしっかりした作り方にこだわり、今回のなじみの薄い顧みられることのなかったストーリーに旧式の技法を適応した。こういった “Miracle at St. Anna” に見られる映画上の伝統主義こそが、おそらく最も満足のいく特徴ともいえる。まさに本領を発揮している点は、小隊の映像である。ただハリウッドが50年代後半から60年代前半に作ったものとは正確には異なるとしたら、それは Lee 氏の主張にある。誰かが当時に戻る勇気と展望を持っているべきだった、そういった類の映画である。遅くはなったが、何もしないよりはまし、なのである。
“Miracle at St. Anna” がところどころで古臭く、説教的であることに驚くことはない。時折、人種差別について入念に用意された会話や議論に時間を割いているため戦闘のスピードが落ちる。しかし、もしそれに対してあきれてしまいそうになったなら、そういった会話―それらは自由や民主主義を主題にし、ヒトラーとその軍隊によってもたらされたそれらの理想に対する死の脅威について語っている―が、非情かつ皮肉的な第二次世界大戦映画の定番であることを思い出すべきである。そしてこの映画では、“Days of Glory” と同じように、気高い会話と主題を語るシーンが、厄介で重大な矛盾に光を当てている。その矛盾とは、すなわち、全体主義的人種憎悪主義と戦う国々は、自らも深刻な人種問題を抱えているということだ。
もし Lee 氏がこの主題のみで進めようとしていたなら、“Miracle at St. Anna” はそれほど内容の多いものにはなっていなかったであろう。むしろ、簡潔で理路整然としていたにちがいない。この映画では起こることが多すぎる―5つか6つの異なる映画が2時間半かそこらに不自然に詰め込まれており、あるものは Terence Blanchard の新鮮で悲しげな楽曲によって活気づけられるが、あるものはそれにかき消されてしまう。
1983年のニューヨークが舞台となる最初のシーンで、この映画の大部分を構成する戦時のフラッシュバックの中で解き明かされてゆく殺人ミステリーを展開される。(物事をさらに複雑にしていることに、これらのフラッシュバックの中に別のフラッシュバックが存在するのだ)。ある日、郵便局で Hector Negron は切手を買いにきた客を撃ち殺す。その理由を明らかにしたい思いから、スクープを求める若いレポーター(Joseph Gordon-Levitt) は Negron の所持品の中に彫像の壊れた断片を発見する。この物体がストーリー全体の鍵となるのか、それとも “The Maltese Falcon(マルタの鷹)” 以来最大の映画上の “red herrings(目くらまし)” の一つとなるのか。
この映画は1940年代から50年代に流行った犯罪サスペンス、フィルム・ノアールの形で始まるが、結局、感傷主義や超自然主義や注意を逸らされてしまう数々の場面であふれかえってしまい、 “Miracle at St. Annna” を構成するストーリーは人を混乱させ説得力に欠ける。しかし、幸いにも頭部が失われた彫像の件は、実際のところこの映画の二つの主たる物語の流れにはさしたる影響を持っていない。物語の主流には、イタリアのパルチザン一団の複雑な運命と、1944年のトスカナの丘の町での黒人だけで組織された陸軍第92歩兵師団の兵士集団とが関わっている。
ドイツ戦線をくぐり抜けたアメリカの兵士たちは、気性と経歴に関していえば、少なくとも古い歩兵映画の様々な人種の部隊と同じくらい多種多様である。ローマ・カトリック教徒でプエルトリコ人の Negron の他に、Sam Train (Osmar Benson Miller) が登場する。彼は身体は大きいが心優しい、縁起かつぎな南部人で、地獄のような状況にあっても一種神聖で純真な存在だ。Angelo (Matteo Sciabordi) という名のイタリア人少年との友情関係は、この映画の中ではむしろあり得なさそうな要素ではあるが、最も素晴らしいところでもある。
アメリカ軍部隊内での重大な衝突は、規律正しい理想主義者で前向きな Aubrey Stamps 軍曹 (Derek Luke) と、世をすねた運命論者の Bishop Cummings 軍曹 (Michael Ealy) との間で起こる。Cummings の金歯とぞんざいな話し方は、Stamps の持つ筋の通った正義と対照的な世慣れた引き立て役として自身の存在を特徴づけている。
Lee 氏はこれまで、アフリカ系アメリカ人同志の対立や議論に、またアフリカ系アメリカ人の中に存在するイデオロギー的、社会的多様性に長く興味を抱いてきた。映画 “Do the Right Thing” の登場人物 Mookie と Buggin’ Out のように(いや、実際には、その映画で不安定に対をなす抵抗の象徴となっている Malcolm X と Martin Luther King Jr. のように) Stamps と Cummings は人種差別の問題に対して異なる反応を示す。彼らは戦術、政治、白人の信用性などについて議論し、遭遇する女性 Renata (Valentina Cervi) からの好意を求めてライバルにもなる。
彼女は、かつてのファシスト党の支持者たちが最後まで抵抗を続けるパルチザンと食糧、避難所、あるいは親族の絆を共有するなど、政治的な対立に心を乱される大家族の一員である。 “Miracle at St. Anna” のこの部分は、復讐、裏切り、そして名誉といった主題とともに、イタリア人、そしてイタリア系アメリカ人の映画制作者たちの作品を含めた、イタリアのすべてのものに対して Lee 氏が長年にわたって感じている、しばしば両価的な強い思いを想起させるのである。
この作品は、明らかに Roberto Rossellini 監督に負うところが大きい。同監督の作品、 “Paisan” はアフリカ系アメリカ人米兵の体験を扱った1940年代の数少ない第二次世界大戦映画の一つである。 “Miracle at St. Anna” はイタリアからの資金提供により制作されたものの、Spike Lee とイタリアとの初めてのジョイント作品となったとは言い難い。この作品は、むしろ “Do the Right Thing” までさかのぼり、 “Jungle Fever” や “Sumer of Sam” につながる一連の異文化間の困難なラブ・ストーリーの最新版であるといえる。
“Miracle at St. Anna” がそれ自身の壮大さから抜け出し、しっかりした感動的な人間ドラマを語ることは、黒人兵とイタリアの村人との間に形成されるもろいつながりの中にある。それは決して奇跡などではなく、死、責務、友情、名誉である。それらは私たちが戦争映画にこれまでずっと求め続けてきたものなのである。
相変わらずの拙訳で申し訳ない。
Scott 氏の難解な文章は何度読んでも
難しすぎる。
しかしこの内容は、映画に対する称賛とは
ずいぶんかけ離れたものであるのは間違いなさそうだ。
本作品、史実をもとにと謳っているが、
ストーリーの大半はフィクションである。
死と隣り合わせの最前線においても
味方の中で人種差別が公然とあったとは
人種問題の根の深さを思い知らされるところだが、
お尻が痛くなることを覚悟してでも
劇場に足を運ぶ価値はあるのかもしれない。
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