MrKのぼやき

煩悩を解脱した前期高齢者男のぼやき

どうにもとまらない

2013-10-27 15:11:25 | 健康・病気

遅くなりましたが 10月のメディカル・ミステリーです。

10月15日付 Washington Post 電子版

Woman’s nonstop drenching sweats were a medical mystery 女性のとめどないびしょびしょの発汗はメディカルミステリーだった

Nonstopdrenchingsweats
家族写真: Janet Ruddock さんはびしょびしょになってしまう予測不可能な発汗発作に今はもう悩まされることはない。

By Sandra G. Boodman,
 Janet Ruddock さんはショックだった:彼女は初めての孫との対面を夢見ていたのだが、今やその人生に一度の経験が、それまで十年間近く彼女の生活を狂わせてきた厄介な問題によって台無しになってしまったのである。
 2010年6月、当時59才だった Ruddock さんと夫は、生まれたばかりの孫に会うためにワシントンからカナダ・ブリティッシュコロンビア州のバンクーバーまで飛行機で向かっていた。しかし、到着して間もなく、Ruddock さんの“どうにもとまらない”発汗が増悪した。
 彼女がロッキングチェアに座ったとき、汗が頭部と上半身から吹き出し、彼女のシャツを濡らし、生後4週になる乳児に滴り落ちた。
 「私はワッと泣き出しました」と Ruddock さんは思い起こす。「思い出せることは、私だけでなくこの可哀想な赤ちゃんもびしょびしょになってしまったということだけで、普通ならいつまでも記憶に留めておくはずの大切な瞬間が台無しになったのです。二度と取り戻すことはできないのです」
 その出来事は、Ruddock さんに自殺を招きかねないうつ病をもたらした。それまでの8年間、彼女は検査を受け、薬を飲み、彼女の頭部と上半身に引き起こされる予測不可能な激しい発汗で受診した多くの医師たちの困惑、そして懐疑的な態度に耐えてきた。
 その後彼女は悩みを親戚に打ち明け、精神科医への受診を始めた。偶然にもその数ヶ月後、彼女自身と酷似した経験を持ち、その経験から望んでいた道標を彼女にもたらしてくれることとなった女性のことを知るのである。
病)です」と、めずらしい、あるいはきわめて興味深い疾病に対して用いられる医学的俗語を使いながら、ワシントンの元内科医 Charles Abrams 氏は言う。「入ってくるなり『私はこれをインターネットで見つけました』と患者に言われるのは医師としてたいてい嫌なものです」と Abrams 氏は言う。彼は昨年引退するまで Ruddock さんを治療した。「しかし時に、注意を引かれることもあるのです」

‘Not what the rest of us get’ 『他の人たちが経験するものとは違う』

 カナダの外交官Frank さんを夫に持つ Ruddock さんは、2001年から時々出現していた一過性熱感(ほてり)と考えていた症状と付き合って生きて行こうとしていた。
 ある夏 Ruddock さんは、友人の別荘で座っていたとき、突然5分間汗だくになるというエピソードを経験した。「どうしたの?」彼女の友人は心配して尋ねた。夫の在外勤務でアフリカの3ヶ国で生活していたときでさえ似たような症状を経験したことがなかった Ruddock さんは、これは閉経の典型的な症状だと思うと答えた。
 「これは他の人たちが経験するものとは違うわ」Ruddock さんは友人がそのように言ったのを覚えている。「主治医は何て言ってるの?」
 そんな症状は時間とともに消失するだろうと考えた Ruddock さんは主治医に相談していなかった。症状は程度に幅があり、持続時間は数秒から5分以上にまで及んだ。しかし一年経っても、発汗は和らぐ徴候を見せず、人前で起こると段々と恥ずかしい思いをするようになった。
 彼女はオタワの昔からの主治医である開業医を受診した。当時彼女の家族がオタワに住んでいたのである。その医師はくまなく診察を行ったが、何も異常を認めなかった。Ruddock さんにはホルモン補充療法が施された。これはひどい一過性熱感の治療にしばしば用いられるものだ。最初の薬剤で効果がなかったため、2番目の薬剤の内服を始めたがこれもあまり効果がないように思われた。
 Ruddock さんは症状日記をつけていたが、気付かされるパターンは特になかった。彼女の発汗は気温、ストレス、活動性、あるいは時刻によって誘発されることはなかった。また多くの閉経女性と異なり、寝汗を経験することはなかった。軽度の症状だけの日々が続く比較的調子の良い数週間があるかと思えば、発汗があまりにひどくて、Ruddock さんによれば「まるでシャワーから出てきたところのような」ときもあったという。
 奇妙なことに、彼女の手のひら、腋、そして足の裏は乾燥したままだった。
 2003年、彼女は内分泌専門医に紹介された。Ruddock さんによると、その医師はエピソードの一つを聞いて異常であることを認めたという。その専門医は彼女に対して、おびただしい発汗をもたらし得る他の疾患、たとえばいくつかの癌、糖尿病、結核などの感染症、あるいは甲状腺機能亢進症などについて検査した。また彼女には MRI、CT、および核医学検査が行われた。

Tank tops in January  一月でもタンクトップ

 2004年までに「3人の非常に優秀な医師が何も発見できませんでした」 Ruddock さんは、産婦人科医、総合診療医、内分泌専門医を挙げてそのように言う。凍えそうに寒いオタワの冬の間も、彼女は自宅でタンクトップを着ており、それを目の当たりにする友人たちの心配もうまくかわせるようになっていた。しかし、一月のさなかに夏服を着てレストランに行くことに気恥ずかしく感じるようになっていた。
 親しい友人の幾人かは、“メルトダウン”と自身が呼んでいた彼女の症状について知っていたが、Ruddock さんは身近なグループ以外の人たちにはそのことを説明しなかった。「自分に重大な発汗異常があることを人に言いたくなかったのです」と彼女は言う。「恥ずかしいことだったからです」
 2005年になると病気の中心は彼女の不安神経症に移って行った。Ruddock さんによると、不安はたいてい発作に対する恐怖によって引き起こされたという。彼女は精神分析医を受診し、いくつかの抗うつ薬をはじめとする一連の向精神薬を試してみた。それらは過度の発汗にはほとんど効果がなかったものの、多少不安を和らげてくれたようだった。
 内分泌専門医は一連のテストを繰り返したがやはり何も発見できなかった。発汗は過多であり、それは hyperhidrosis(多汗症)の定義に合致していとその専門医は指摘した。彼女は4つのホルモン補充療法薬のいずれも効果がないと言い、Ruddock さんが大げさに言っているのではないかということをほのめかした。その真意は明らかだった:それと付き合って生きるすべを学びなさい、だった。
 「他の多くの女性のように対処することが全くできず、ただ大げさに騒ぎ立てている閉経期女性に仕立て上げられてしまった感じでした」と彼女は言う。彼女はホルモンの内服を止め、増悪するひどい症状があってもただ頑張っていこうとした。
 2009年 ワシントンに転居する前の診察で、Ruddock さんは高血圧の診断を受けた。処方された降圧薬で発汗が減ったように感じた。彼女は加えて新たな抗うつ薬の内服を始めた。
 しかし 2010年に発汗は悪化し、コロンビア特別区の別の内科医を受診した。「出かける準備を始めようとしてお化粧をしても汗で全部流れていました」と彼女は言う。時には家を出られるようになるまで2度服を着替えなくてはならないこともあった。その医師は彼女の降圧薬の用量を増やし抗うつ薬も続けるよう指示した。
 そんなとき、バンクーバーでその発作が起こり、その数日後、シアトルのホテルで“完全な神経破綻”が起こる。「人生にそれだけの価値はなく、生きていくことができないと思い込みました」と彼女は言う。
 ワシントンに戻ると夫は彼女に精神科医を受診するよう強く勧めた。Ruddock さんはまた、医師である義理の兄弟を頼って、彼女が内服している薬剤の一覧を彼に送り、それらが問題かどうかをみてもらった。他の医師たちはそれらに問題はないと話していたのである。
 彼女の内服している抗うつ薬が原因の一端かもしれないと彼は告げた:その副作用の一つに発汗増加があった。彼女がその服用を止めたところ、少し調子が良くなりかけた。
 8月下旬のある晴天の土曜日、バージニア州アレキサンドリアの Old Town にある自宅の近所を散策しようと夫が持ちかけた。しかし彼女が2度大量発汗を起こしてしまったため夫婦は自宅まで思い足取りで戻ることになった。「ここには素晴らしいひとときを過ごしている人たちがいるのに、私はそれもできず、またこれからもできないのだろうということしか心に浮かびませんでした」と彼女は思い起こす。
 その約2時間後、Ruddock さんがベッドで横になっていると、夫が部屋に入ってきて、プリントアウトした紙を彼女に渡して言った。「君はこれだ」

Unconventional solution  例外的な解決法

 妻に有効なものを何か見つけようとインターネットを頼っていた Frank Ruddock 氏はアムステルダムの医師らによる2006年の論文を見つけていた。それには重症の特発性全身性多汗症(明らかな医学的原因のないおびただしい広範囲の発汗)がある56才の女性の症例が記載されていた。彼女は oxybutynin(オキシブチニン、商品名ポラキス)を内服するとその症状が治癒していたようだった。この薬剤は尿意切迫を治療するために彼女に投与されていた。
 それまで発汗があまりにひどかったためタオルを所持しなくては外出できなかったこの女性はこの薬が始まって6ヶ月後にそのような問題がなくなった。オランダの医師たちは、この薬の抗コリン作用~神経伝達物質のアセチルコリンを遮断し乾燥作用を持つ~による可能性があると推察した。しかし、この薬はヨーロッパや米国では多汗症に治療で用いることは認められていなかった。『[その有効性を示した]事例報告がいくつか文献に存在しているに過ぎない』と彼らは記載し、多汗症患者におけるこの薬の安全性と有効性を検証する目的でプラセボ対照臨床試験が行われることを求めている。
 発汗が身体の一部に限られている症例と異なり、全身性多汗症ではホルモン剤以外にはほとんど治療法がない。発汗が腋窩、手掌、あるいは足などに限局している場合は、ボトックス注射、発汗抑制薬、さらには手術での治療が可能である。
 Ruddock さんはこの論文を読み衝撃を受けた。精神科医の勧めにより彼女は記事冒頭に登場した内科医 Abram 氏へ新たに受診を始めたところだった。彼はいくつかの検査を行っており、彼女の膨大なカルテをカナダから取り寄せて読んでいたが、彼女の発汗の治療法について新たな考えを持ちあわせていなかった。
 当初、Abrams 氏も Ruddock さんが鎮痛薬依存になっているのではないか、あるいは精神的疾患が発汗の原因となっているのではないかと疑ったという。彼女は疲弊し、時には活気を失っているように見えたが、彼女が表現するほど重症な様子は何も認めなかった。しかし「彼女の夫はしっかりしているように見えたし、彼は彼女のブラウスが汗だくになっているという事実を保証してくれました」と彼は思い起こす。
 「それは実に奇異でした。世間の目にさらされる外交官の妻としては格別そうだったでしょう」
 2010年9月の受診の際、Ruddock 夫妻は例の研究論文を彼に見せ、その薬を処方してくれるかどうか尋ねた。それを読んだ彼は同意した。(食品医薬品局[FDA]によって承認されている以外の使用目的、すなわち“off-label[FDA認可外]”で医師が薬を処方するのはよく見られることである)
 それまで Abrams 氏はその薬を排尿障害の患者に出してきた。Ruddock さんにはこれまでリンパ腫など発汗が症状の一つとなるような重大な疾患を除外する広範囲な検査が行われてきており、また、ある種の癌の発生と関連のあるホルモン剤など、より高い危険性が考えられる薬を飲んできた。
 「不利と思われることは何も見当たりませんでした」と Abrams 氏は言い、この病気は「明らかに彼女の生活を台無しにしていたのですから」と述べた。
 その結果は Abrams 氏を驚かせた:この薬を始めて5日後、Ruddock さんの発汗が止まったのである;それから3年になるが再発もない。彼女は今でもこの薬を毎日内服している。
 口腔内の乾燥と(発汗による体温低下ができないことでその危険性がある)熱中症のリスクが高まることを除けば、Ruddock さんは自分の生活を取り戻せていると言う。2011年、メキシコのビーチで孫と遊んだとき、一年前の初めての対面の時との大きな違いに驚きを感じた。
 彼女は“例外的”治療を考慮してくれた Abrams 氏の積極的姿勢のおかげだと思っている。「多くの医師は患者からもたらされた情報を認めようとしません」と彼女は言う。「ありがたいことに Abrams 先生は既成概念にとらわれることなく物事を考え行動する心構えをお持ちでした」
 この薬が効いた理由として Abrams 氏は、唯一のものではないが、一つのことを考えている。それは、Ruddock さんがその効果を信じていたということかもしれない。これは Placebo effect(プラセボ効果=偽薬効果)として医学の分野では広く知られている現象である。
 「彼女は症状と解決策を携えて私のところにやってきました。しばしばそれは患者にとって協調効果となるのです」と彼は言う。

たかが汗と考えがちだが、
多汗に悩まされる患者の精神的苦痛は予想以上に大きい。
多汗症の詳細については ↓ 参照。
http://www.oag-jp.com/takanshou/tiryou.html

多汗症には多くの種類があるが、
大きくわけて、全身性多汗症と、
手・足・腋・股など特定部位に発汗する局所性多汗症がある。
前者は特に治療が難しいとされている。
全身性多汗症の原因には様々なものがあるが、
一つには、生活習慣、食生活、睡眠リズムなどの乱れやストレスが
引き金となって起こる自律神経の不均衡が考えられている。
また肥満も原因の一つとして挙げられる。
肥満では、脂肪組織の増大によって体温調節が適正に行えず
発汗過多につながる。
その他、悪性腫瘍、糖尿病、痛風、更年期障害、甲状腺機能亢進症、
脳下垂体疾患、膠原病、関節リウマチ、水銀中毒などの疾病でも
全身性多汗症がその症状の一つとなり得る。
また薬剤の影響で発症する場合もある。
一方、原因不明に先天性に認められる場合もあり、
遺伝的の異常形質の症状として見られる症例もある。
局所性多汗症に対しては、
塩化アルミニウム液の塗布、
イオントフォレーシス(通電療法)、
ボトックス(A型ボツリヌス毒素)局所注射、
胸腔鏡下胸部交感神経節切除術などが行われるが、
全身性多汗症に対しては現在のところ根本的な治療法は確立されていない。
基礎疾患に対する治療、肥満の解消、
ストレスへの対応、生活習慣の改善が重要である。
精神的要因が自律神経系の異常に及ぼす影響も無視できず、
本記事の患者のように、何が効くのかわからない、
といったことが往々にして見られるのかも知れない。

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原発難民の葛藤

2013-10-09 19:57:33 | 社会・経済

桜田義孝文部科学副大臣が、10月5日、
高濃度の放射性物質を含む焼却灰の処理をめぐり
「人の住めなくなった福島に置けばいい」と発言。
福島の人々を傷つける心ない発言ではあるが、
実は表面上曖昧な姿勢をとり続ける政府内の本音と
言えるのかも知れない。
東京電力福島第一発電所近隣の地域の現状は
一体どうなっているのか?
日本のマスコミは正確に伝えようとしないが、
海外メディアはどう捉えているのだろうか?

10月1日付 New York Times 電子版

Japan's Nuclear Refugees, Still Stuck in Limbo 日本の原発難民、いまだ曖昧な状況に縛られる

Japansnuclearrefugees01
福島近くでは人的な難局が静かに展開されている:原子力発電所周囲の最も大きな被害を受けた地域から退去した83,000人の避難民は、災害から2年半が経った今も自宅に戻れないままである。

By MARTIN FACKLER
福島県双葉郡浪江町発:毎月、ワタベヒロコさんは、運命に対して彼女自身の小さいながらも果敢な抵抗を見せるため損壊した福島原発近くの放置された自宅に数時間戻っている。彼女は外科用マスクを着け、頸のまわりに2つの放射線測定装置をぶら下げ、しゃがみこんで雑草を抜く。
 彼女は自分の家を見捨てたのではないことを証明するために自宅の小さな庭をきれいにしておきたいと考えている。彼女とその家族はマグニチュード9.0の地震と津波が5マイル離れた原子力発電所を壊滅させた後、その自宅から退去した。必ずしも彼女の近所の人たちすべてが進んで危険を冒そうとしているわけではない。かつてはきちんとしていた家の出入口も今では胸の高さまである雑草が塞いでいる。
 「心の中では、もう二度とここに住めることはないとわかっています」ワタベさんは言う。彼女は夫とともに郡山市から車でやって来た。彼女らは一時間ほど離れたその町に災害以来住んでいる。「しかし、こうすることで私たちに目標がもたらされるのです。ここがまだ自分たちの家なのだと言えるのです」

Japansnuclearrefugees02

 毎日数百トンの汚染水が太平洋に流れ込むなど福島第一原子力発電所で今も続く環境的災害が世界のトップ記事を飾っている一方で人的な難局が静かに繰り広げられている。同発電所が日本の東北地方に放射性汚染物質を放出してから2年半が経つが、最も大きな被害を受けた地域から退去した83,000人の原発難民は今も自宅に戻れないままだ。仕方なく転居した人もいるが、政府がいつかは戻れるとの期待を持たせる中、何万人かの人たちは法的にも感情的にも曖昧な状況に留められている。
 待つにつれ、多くの人たちには辛さが増している。ほとんどの人たちは、町を除染することによって中には何代にもわたって住んできた家に人々が戻れるようにするという当局の目標を支持してきた。しかし、今、より多くの独立した専門家たちの声が警告してきたように、見込みより何十年も先ということはないまでも、かつて例を見ない除染が何年もかかるということを政府は承知している一方で、日本の他の原発を再稼働させる計画が頓挫するのを恐れてそれを認めようとしないのではないかと彼らは疑うようになっている。
 そういったことで、浪江町の人々をはじめ、立ち退きとなっている他の10の町の多くの人たちは正しい選択がほとんどできない状態に追い込まれた。彼らは窮屈な仮の住居に住み住み続け、政府からの比較的乏しい月々の補償を受けとることができる。あるいはどこか別の地に新しい生活を築こうと試みるものの、政府が敗北を認め彼らの失われた家や生活の十分な補償をしない限りにおいて、多くの人たちにとってそれはほとんど不可能に近い。
 「政府は私たちに戻るよう指示するものの、その一方でただ待ち続けるよう命じるのです」とババタモツ氏は言う。彼は、爆発が原発を揺るがし始めたとき大急ぎで退去させられた2万人のこの町の町長である。「役人たちは起こったことすべての責任をとることを避けたいと思っており、私たち一般人が犠牲を払うことになるのです」
 浪江町の住民にとって、政府の不明確な態度は何も新たに生じたものではない。彼らが退避したその日、東京の役人たちは、コンピューターモデリングに基づいて、彼らが向かっている方向が危険な可能性があることを知っていたが、パニックを生ずることを恐れて通告しなかった。町民は北に向かったが、それは目に見えない放射性汚染物質の中に直行していたのである。
 あの災害の前までは、浪江町は山地と太平洋の間に広がる静かな農業と漁業の地域だった。最近では、個々の地域でどれほど汚染されているか、さらに限られた日中だけの訪問で住民がどれだけ長く滞在できるかを示す色分けされた区域に同町は分けられている。彼らは区域に入るときに線量計を支給され、出てくるときに検査される。検問所の隣には、脱出する農民らが解放して以来、自由に徘徊している野生化した乳牛について警告する標識がある。
 検問所より先では、浪江町は残骸や雑草で雑然とした人気のない通りのゴーストタウンとなっており、これはかつて非常にきちんとしていた日本においては例を見ないものだ。伝統的な木造の農家の一部は今回の地震で残ったが、放置状態には耐えることはできない。雨が降り込むことで、古くからの木の梁を腐らせ倒壊した。瓦屋根は道路に落下している。
 埃にまみれた店のウインドウごしに地震で棚から落下した商品がまだ床に散乱しているのが見える。町役場ではカレンダーは災害が襲った2011年3月のままとなっている。
 町当局は帰町準備室として庁舎の一角の利用を再開したが、これまでの彼らの成果はポータブルトイレの設置と略奪を防止するための警備員の配備だけだった。政府は、最終的には何トンもの汚染土をかき集めるためにここに大勢の労働者を配備したいと考えている。しかし、町当局は障害にぶち当たっている:汚染土を貯蔵できる場所が49ヶ所必要なのに、町はわずかに2ヶ所しか確保できていないのである。
 先月、政府は、そのような問題により11町のうち8町で修正できないほどスケジュールの遅れが出ていることを認めた。当初は来年3月までに除染できると見込まれていたのである。また、除染が始まっている場所でも、別の問題が表面化している。土を取り除く作業では放射線レベルの低下に限られた有効性しか得られなかったのである。雨によって近隣の山々からさらなる汚染がもたらされることもこの一因となっている。
 浪江町を含めた8町の除染の完了は先延ばしとされ、新たな期限は決まっていないと現環境大臣は述べている。
 浪江町では、町役場の調査で、住民の30%が町での生活を取り戻すことを断念。30%は断念していないが、40%はいまだに迷っているということが明らかとなった。
 ワタベさんの訪問は気持ちの上で切ないだけでなく、怖いことでもある。彼女の夫が経営する自動車の販売特約店は盗難にあったという。家の庭は危険なイノシシに荒らされており、彼女が何とか追い払った。彼女は出入り口の除草は大変危険なことと考えており、通常であれば避難を余儀なくされるレベルの2.5倍の測定値を示している彼女の線量計を提示して、手伝いを申し出てくれる来訪者を断っている。
 彼女はかつて結束の強かった自分たちの地域社会を思い出す。当地ではお茶を飲みながらのゆったりとしたおしゃべりのために近所の人たちが立ち寄ってくれていた。彼女は当地で4人の子供を育て、10人の孫がよく訪れていた。今、彼らの動物のぬいぐるみや赤ちゃんのおもちゃが、販売特約店の床に残骸とともに転がっている。
 その家に同居し家業を継ごうとしていた彼女の一番下の息子は二度と戻らないと決めた。そうして彼は東京郊外に転居したが、浪江町と関係があるという評判だけで、二人の若い娘らが広島や長崎の原爆生存者と同じ種類の差別に直面することになるのではないかと心配した。
 「若い人たちはすでに浪江町をあきらめています」とワタベさんは言う。「戻りたいと思っているのは年を取った人たちだけです」
 「そして、私たちでさえまもなくあきらめなければならなくなるでしょう」夫のマサズミさんは付け加えて言う。
 彼らが戻れるチャンスは低いように思われるが、同町の山あいにある西側半分では、かつての隣人たちが近いうちに戻れる可能性はさらに低い。ワタベ家の自宅は中間レベルの放射線を示すオレンジゾーンに位置するが、西側の大部分は最も大きな被害を受けたレッドゾーンとなっている。
 中心街から、急流が音を立てる狭い山峡に向かう道路は、最近の訪問の際、放射線測定装置の測定音を除けば、のどかに思われた。山腹全体を削ってきれいにしようとすることの困難さからこの地の除染は一層難しいと以前から見られてきた。
 彼女の築300年になる農家の入り口の近くで、84才になるオガワジュンさんは、立ち退いたときに入ってきたネズミの糞を箒できれいにした。彼女はこの日、恒例となっている法事を行うために戻ってきており、地震の前に亡くなった夫の墓を磨くのである。
 ワタベ家と違って、彼女は既に転居を決めており東京郊外に息子と住んでいるが、その一方で彼女が決別しようとしている過去を大切にするために戻ってくるのである。彼女が戻るたびに、たとえ屋内に留まっていても1回ないし2回分の胸部レントゲンに匹敵する放射線量を受けるのだと彼女は言う。箒を突き出し元通りにできていないものを指し示す。階段状になった水田は草に覆われており、家の太い木の梁は近所のそれより長く持ちこたえてはいるが、それらもまた腐り始めている。
 「この辺りを一目見れば、戻れる可能性がないことがすぐにおわかりになるでしょう」と彼女は言う。

曖昧にされていることに対して私たちは
真実を強く求めようとはせず、
つい見て見ぬふりをしてしまってはいないだろうか。
一方、福島の自宅への帰還を願う被災者たちは、
その曖昧な情報ゆえに大きな苦悩を背負わされている。
国民の中で、
福島第一原子力発電所が本当にコントロールできていると
心の底から信じている人はほとんどいないはずである。
垂れ流される汚染水の問題、
遅々として進まない除染作業の問題、
これらについて政府は
真実をきちんと公表すべきではないだろうか。

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残された道は実験的治療

2013-10-02 19:39:17 | 健康・病気

人は不治の病に襲われても
残された余命を“謳歌”することができるだろうか?
ある元心臓内科医の治療体験談である。

9月24日付 Washington Post 電子版

Surgery, radiation and chemo didn’t stop the tumor, but an experimental treatment did 手術、放射線、化学療法では腫瘍を抑えることはできなかったが、実験的治療が功を奏した

Experimentaltreatmentforthebraintum
家族写真:2009年に南アルゼンチンを旅行中の Fritz Anderson 氏と彼の妻 Carmen Alicia さん。この一年以上の後、この元心臓内科医はけいれんを起こし、悪性脳腫瘍の発見につながった。

By Fritz Andersen,
 2011年2月の Old San Juan(オールド・サンファン)のあの日曜の朝は暑かった。私はワシントン郊外での40年にわたる心臓内科医の業務をちょうど引退したばかりで、妻と私はプエルト・リコで冬を過ごしていた。
 友人の夫妻がクルーズ船で到着し、私は、港の入り口の上にある450年前のスペインの砦に私は彼らを案内した。その砦の壁は熱を放射しており、市内に再び足を踏み入れた後、元気を回復させる天井のファンと休憩を求めて私たちの自宅まで歩いた。台所に座ってビールを一口飲んでいると、私は突然意識を失った。目を覚ますと多少めまいがし私は混乱していた。Arlington からやってきていた内科医の友人は私が大発作を起こしていたと教えてくれた。
 私の妻 Carmen Alicia は地元の友達と、さらに心臓内科医に電話をかけ、近くの病院に私たちを運んでもらった。そこで行われた MRI 検査で私の脳に小さな病変が見つかった。そこの神経内科医は組織診断を得るために生検が必要であると考えた。私はただちにバージニアに戻り、何人かの専門医を訪ねたところ、侵襲的な脳の生検を受ける前にさらなる検査を勧められた。そこで、私は、加熱不十分な Tenia solium(有鉤条虫)に感染した豚肉を食べることで起こる感染症 cysticercosis(嚢虫症)についての血液検査も受けた。このよく見られる寄生虫は、脳を含め身体中いたるところに嚢胞を作る。これがけいれん発作の最も多い原因となっている国々も多い。特にインドでは、けいれんを起こした子供に対しては、他の検査がまだ行われていなくてもこの疾患に対する治療がまず行われる。私の血液検査では強陽性だった。私にその経口薬の治療コースが始まった。その検査に私は安心した。
 しかし残念ながら私の病変は3ヶ月の治療で少し増大し、ブドウ大となった。今や生検術と摘出術の適応となった。
 その結果は恐ろしいものだった。私は glioblastoma multiforme(多形神経膠芽腫=グリオブラストーマ、一般に GBM と呼ばれる)でグレードⅣだった。これは最も悪性の脳腫瘍で、グレードⅡやⅢは存在しない。神経膠芽腫は、2009年にEdward M. Kennedy 上院議員(マサチューセッツ州民主党)を死に至らしめた腫瘍である。まれではあるが脳腫瘍では最もよく見られるものだ。その予後は悲惨であり、化学療法や放射線治療を行ったとしても患者は平均で診断後14ヶ月しか生存できない。5年生存率は患者のわずか5%である。
 手術は困難である。というのも脳にはゼラチン様の硬さであり、神経学的に重要な組織を容易に損傷してしまうからである。私の場合、腫瘍が左の側頭葉にあり、容易に到達できたのが幸運であり、San Juan でのけいれんから6ヶ月後、すべての感覚や機能が正常な状態で手術から目を覚ますことができた。
 私の腫瘍内科医は私の手術創が治癒した時点で、化学療法のレジメンと同時に6週間の放射線治療を行い、その後も化学療法を継続することにしていた。しかし彼は私たちの人生の謳歌を考慮に入れていなかった。Carmen Alicia と私は、ともに70才代前半だったが、私が発作を起こしたわずか6ヶ月前に結婚したばかりであり、今回の病気の2、3ヶ月前に私は“PARIS”という単語だけを120個書いた e メールを彼女に送っていた。彼女はそのヒントに気付き、手術から間もなくのある朝、私を起こし、エッフェル塔にランチをしに行こうと言った。そこで私たちは実行することにした。治療の数日の遅れが私を悪くすることはないだろうと考えたのだ。
 私たちは“ルイ14世の町”でその週を過ごし、シテ島やサント・シャペルのステンドグラスの窓を訪ね、セーヌ川のバトー・ムーシュ(遊覧船)を楽しみ、ソルボンヌに行ったり、素晴らしいパリ国立オペラでリヒャルト・シュトラウスの“サロメ”を観たりした。十代のときブエノスアイレスでこのオペラを観て、あの素晴らしい音楽の中、というより、あのソプラノこそがヘロデ王の前でサロメの7枚のヴェールすべてを脱がすことになるのではないかということにさらに興味を持っていたのだが、そのことを今回、十分に興味深く味わうことができた。私たちは若い恋人同士のように振る舞い、手をつないだりして、ジヴェルニ―にあるモネの庭を訪れ今回の旅を終えた。
 脳腫瘍を持つ患者の人生にはいいこともあれば悪いこともある。私は自分の白髪をすべて刈り落とすことにした。というのもどっちみちそれは抜け落ちることになるからだった。脳への放射線は、まず顔の型をとって作成されたプラスチック製の(オリンピックのフェンシングの面のような)仮面から始まり、それが顔の上に被せられて台に固定される。放射線治療は痛いものではないが、そのマスクによってちょっとした閉所恐怖症がもたらされたが幸運にも治療は一回あたりわずかに10分から20分の長さだった。しかし化学療法は別物だった。それによって、嘔気、気力の低下、倦怠、全身の脱力感、筋肉痛、あるいは四肢のピリピリ感が生じた。その上血小板と白血球の数が減るため毎週血液検査が必要で、細菌感染やウイルス感染を起こしやすくなった。
 私はこの腫瘍を詳細に勉強し始めたが、それに関する膨大な医学論文にほとんど圧倒された。過去40年間にグリオブラストーマについて22,000以上の科学論文が書かれていた。そこで私は、最近15年間の論文に対象を絞ったが、そのほとんどが気の滅入るものだった。私が行っていた放射線治療と化学療法は一般的に患者の生命をわずか数ヶ月間しか延長させないことは明らかだった。当時重要視されていたのは腫瘍のDNAの分子構造を変えることであり、新しい化学療法薬も見つかっている。さらにグリオブラストーマに対する可能性のある治療法としてウイルが検討されている記事をいくつか見つけたが、マウスの研究しか行われていなかった。

Why me?  なぜ私なのか?

 なぜこの腫瘍が私にできたのか?私はタバコを吸わなかったし、脳の外傷も受けていない。また家系にもそのような腫瘍の病歴を持つ者はいなかった。心臓外科医としてこれまで400近くのペースメーカーを植え込んだが、その手技の際、電離放射線(X-rays)を被ばくした。初めのころは移動式のレントゲン装置を使っていて、薄い鉛入りのガウンでいくらか防御はしていた。最近では、重い鉛入りのガウンを着用し、医師や技師は防御物やメガネを用いて自身の甲状腺や眼を防御する。さらに、天井から吊り下げられた重い数枚の放射線防御ガラスを用いている。
 調査を続けていたある時、私は、現在イスラエルで開業している Johns Hopkins で研修したことのある心臓内科医による論文に驚いた。彼は、腫瘍を発症した23人の侵襲的治療を行う放射線科医と心臓内科医のデータを集積していた。そのうち17例が脳の左側のグリオブラストーマだったのである。私はその著者に手紙を書いた。彼の論文が発表されてからも、さらに数人のそのようなケースがわかったと彼は私に告げ、彼のファイルに私も付け加えられた。
 化学療法/放射線治療サイクルの一時的な休みの間、妻と私は可能な限りプエルト・リコの Old San Juan に脱出した。そこには彼女の自宅がある。毎年1月に行われる盛大な通りでのお祭San Sebastian Festival(サン・セバスティアン祭)で私たちは歌ったり踊ったりした。一度、私の故郷の町 Buenos Aires(ブエノス・アイレス)に脱出したとき、国際タンゴフェスティバルが行われているのを知った。私たちはタンゴをうまく踊れなかったが、寄木張りの床の上の世界の最高のダンサーたちを観て驚嘆した。最終日は歩行者道路でのお祝いとなり、1,000以上のカップルが一斉に揃ってタンゴを踊るのである。私はしばしば疲れを感じたが、必要に迫られればとりあえず座り込んだ。

From mice to men マウスから人へ

 Duke University の Preston Robert Tisch Brain Cancer Center は、東海岸では私のタイプの腫瘍に対して最も多くの治療経験がある。そこで私は、今後の診察と治療を求めてそこに行った。
 そこの医師が私を検査したところ、腫瘍がすでに再び増大していることが明らかとなった。事実、私の最初の化学療法と放射線治療以降4倍の大きさとなっていた。私はいくつかの治療法や実験的プロトコールを提示されたが、そのうちの一つに、私の脳内に修飾を受けたポリオウイルスを埋め込むというものがあった(これはマウスにおけるグリオブラストーマの治療に見事に成功していた)。Duke の研究者たちは10年間この治療に取り組んでおり、10人の患者に対する治療の承認をちょうどFDA から受けたところだったが、ひと月でわずかに一例が行われただけだった。(今年5月の Duke の報道発表によると、この治療は、癌細胞にポリオウイルスを引き寄せる磁石のように働く多数の受容体が存在するという発見の利用に基づいており、それが感染し細胞を殺すのだという。この実験的治療では、癌細胞には死をもたらすが正常細胞には無害なように遺伝子操作されたタイプのウイルスを用いる。この治療は患者の腫瘍内に直接注入される。このウイルスを用いた治療はさらに、身体の免疫系に対して、感染した腫瘍細胞を攻撃するように作用する。)
 この治療について考え、動物実験を再検討し、妻や子供たちと話し合った後、私はそれを行うことに決め、この研究に登録された2番目の患者となった。もちろん心配はあった。若いころアルゼンチンで私は多くのポリオを見ていたし、神経系でのこのウイルスによる被害をよく知っていた。今、私はこのウイルスを自分の身体の中に注入しようとしているのだ。

The procedure  治療

 私はまず全身的なポリオ感染を予防するために Salk(ソーク)ポリオワクチンを投与された。3週間後の2012年5月、手術を受ける準備が整った。私たちはワシントンから Duke への旅行を楽しむことにした。私たちはリッチモンドにある高級ホテル B&B で2晩を過ごし、Virginia Museum of Fine Arts(バージニア美術館)を訪ねた。中世の歴史に関して博士号を持っている妻はそこでベルギーのブルージュの15世紀の絵を見つけ、私はアメリカ博物館で Faberge eggs(ファベルジェの卵)の最大のコレクションを見て楽しんだ。
 Duke で私は局所麻酔下に頭蓋骨が開けられ、細いカテーテルを通して直接私の脳の腫瘍内にウイルスが6時間かけて注入された。
 がん患者となって落ち込まないでいることはむずかしい。遺言状や自身の死亡通知まで書くような事態に直面し、その間ずっと、家族や友人たちの感情的な反応に付き合うことになるのである。
 私にとって、生涯を通して大好きだったクラシック音楽があの落ち込んだ日々には特に助けとなった。ベートーベンの四重奏曲作品131、シューベルトのピアノ五重奏曲“The Trout”、あるいはマーラーの交響曲には大いに救われたが、マーラーを聴き過ぎると私の中に彼の厭世観が持ち込まれてしまう。そんなときには私はモーツァルトやリストに切り替えた。
 注入から一ヶ月後、再び Duke に向かった。MRIでは予測された腫れが少し見られたが、より重要な事実は、腫瘍の増大が止まっていたことだった。以後私は2ヶ月ごとに Duke に行き、最初はブドウ大の大きさだった腫瘍が今では瘢痕となり小さなエンドウ豆大となっている。最初の生検と放射線治療から2年、実験的ポリオウイルス治療から1年が経っているが、私には再発や腫瘍の再増大の徴候は見られていない。
 Duke の医師らが本年5月に行った本研究の発表によると、これまでの成績は期待できるものだという。「(2012年5月に治療された)私たちの研究に最初に登録された患者では、その症状はウイルスの注入後急速に改善し(彼女は現在無症状である)、MRI検査でも反応が得られ、良好な健康状態にある。脳腫瘍の再発と診断されてから9ヶ月になるが学校を続けている。我々の試験に登録された患者のうち4名は今でも生存しており、1例目以外の患者でも同様に期待できる効果が観察されている。なお1名の患者は注入後6ヶ月で、腫瘍の再増大により死亡した」さらに彼らは「注目すべきこととして、有害な副作用は見られなかった。最大量の投与でも全く認められていない」と付け加えた。
 これは私も当てはまる。私は3年前のグリオブラストーマの最初の症状が出現する前と同じく体調は良い。ただ抗けいれん薬だけは続けている。この秋、妻と私はチリとアルゼンチンに旅行する予定である。もちろんチリでは pisco sour(ピスコサワー)を、アルゼンチンでは絶品の Malbec(マルベックワイン)を楽しむつもりである。私たちはこれまでのように、おそらくそれ以上に、熱く、踊り人生を楽しみ続けるだろう。時にはキッチンでのゆったりとしたボレロになってしまうかもしれないが…。
 不朽のチリの詩人であり作曲家である Violeta Parra(ビオレータ・パラ)は次のように書いている:“Gracias a la vida que me ha dado tanto.”(『人生よありがとう。こんなにたくさん私にくれて』)
 Andersen 氏は Virginia Heart Group の一員として Arlington と Fairfax で35年間心臓内科医を勤めた人物である。

グリオブラストーマは、従来の手術・放射線治療・化学療法では
根治の得られない難治な脳腫瘍である。
そもそも放射線や抗がん剤が効きにくい腫瘍であるということもあるが、
元来脳の血管壁には強い結合(血液脳関門)が存在し
抗がん剤などの血中の物質が簡単には脳内の腫瘍組織に移行しないという
解剖学的に不利な条件があるため大きな治療効果が期待できなかった。
そんな中、ポリオウイルスを用いた殺腫瘍細胞治療は
期待の持てる新しい治療法である。
ノースカロライナ州デューク癌研究所で進められているこの治療法は
まだ適切な投与量を確定する初期(第一相)試験の段階ではあるものの
有望な結果が示されている。↓
http://www.cancerit.jp/22878.html
本治療では、正常細胞には無害だが、癌細胞に対して致死作用を持つよう
遺伝子を組み換えたウイルスを用いる。
ポリオウイルスを磁石のように引き寄せる受容体が癌細胞には
多数存在するため、選択的に癌細胞を死滅させようとするものである。
また、ウイルスを直接注入することで患者の免疫系を誘発し、
ウイルスに感染した腫瘍細胞への免疫攻撃の効果にも期待できる。
同研究グループは、従来の放射線・化学療法後に再発した
グリオブラストーマ患者7人を対象としてこの治療を行った。
これらのうち2人は良好な反応が見られ、
それぞれ治療後12ヶ月、11ヶ月再発を認めなかった。
また3人はそれぞれ治療後5ヶ月、3ヶ月、2ヶ月の時点で
再発を認めていない。
一方、2人では良好な結果が得られなかった。
1人は治療2ヶ月後に腫瘍が再発、
もう1人は治療4ヶ月後に病状が悪化した。
従来の治療法ではグリオブラストーマ患者の
約半数が治療後8週間以内に再発することを考えると
この治療成績には期待が持てる。
藁にもすがりたいグリオブラストーマの患者には
大きな光明といえそうだ。
それにしてもこの著者、難治な病気に侵されながらも、
わずかの時間も“謳歌”しようとするポジティブな姿勢には
感心させられる。
とはいえ、それもお金があればこそ、の話なのだろうが…。

コメント
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