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kan-haruの日記

イベント 北鎌倉の梅と江戸期の古雛 北鎌倉古民家ミュージアムのお雛様と東慶寺の梅その1

2012年03月27日 | イベント
kan-haru blog 2012  おきあげ雛(江戸時代)  

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3月3日は「上巳」や「桃の節句」と言われ、平安時代の頃には紙で作った人形を、体を撫でて穢れを落として、海や川に流した「流し雛」の風習がありました。江戸時代に入ると、人形を流す行事は川が汚れるという理由から流すことが難しくなり、そのため雛人形を飾り、女の子の健やかな成長と幸せを願う現在の「雛祭り」を行う様になり、全国に広がりました。伊豆稲取地方で、江戸時代後期から伝わる雛のつるし飾りは、長女の初節句に、無病息災、良縁を祈願して、雛壇の両脇に細工を吊す風習がありました。この雛のつるし飾りは、ある時期においては庶民の雛壇飾りの代りの時代もありました。
今年は、雛祭りの行事を北鎌倉の古民家ミュージアムと陶芸館に3月22日に行き、古雛と雛のつるし飾りを見て、例年に比し寒さが続いたため東慶寺の梅が満開の時期にあたり、暖かい陽気につられ寒梅も楽しんでききました。

 北鎌倉周辺地図

北鎌倉古民家ミュージアムの古雛
古雛の展示会場の北鎌倉古民家ミュージアム(鎌倉市山ノ内392-1)での「おひなさま」展示は、鎌倉出土の日本最古のひな人形をはじめ、江戸時代のおひなさまや御所人形、数々のひな道具および源氏の白旗・平家の赤旗にちなんだ「源平つるし雛」など100点以上を展示しております。開催きかんは、2月4日から4月8日までで、月曜日が休館で、入館料は一般が500円で、中高生が300円で、小学生が200円です。

 北鎌倉古民家ミュージアム「おひなさま」パンフレット

古民家ミュージアムは、JR北鎌倉駅の下りホーム改札口を出て、線路沿いの道路を進み円覚寺前を過ぎてから、2つの踏切を通過した左側にあり、ゆっくり徒いて5分です。通りすがりの庭の梅が満開で、あたりに梅の香りがただよっていました。

 北鎌倉古民家ミュージアム附近の風景(:JR北鎌倉駅下り線改札口(右)、:円覚寺参道入り口、:北鎌倉古民家ミュージアム「おひなさま」案内板)

古民家ミュージアムの入り口は、元は鎌倉古陶美術館と呼ばれていたもので、築100年以上になる福井県などから3軒の古民家を移築して構築した、古色蒼然とした建屋の展示スペースであり、入り口上部の名称表示板には旧名称のままで残っております。

 北鎌倉古民家ミュージアム入口(写真拡大)

ミュージアムの入り口は門造りの構造で、左側のカウンターで入場料を払い、中に入ると中庭の梅が満開で、その左側に吊るし飾りの雛がある玄関の「不老門」が展示館の入り口です。

 ミュージアムの玄関と中庭(:中庭の左側不老門がミュージアムの玄関、:古民家ミュージアム内の中庭)

ミュージアムの企画展「おひなさま」は、2003年の初開催から今年で10回目を迎えます。展示品は、20年以上かけて収集してきた同館の所蔵品が展示されており、江戸期の古雛やひな道具などが見られます。展示品の中の最も古い雛人形は、1989年(鎌倉時代後期)の町屋の遺跡(雪ノ下)で日本最古のひな人形と思われる木製の小座像(市教委所蔵)が出土しましたので、その木製人形のレプリカが展示してあります。ミュージアムでは、この出土を機にひな人形の収集を開始し、全国からさまざまな情報が寄せられ所蔵品が充実したのが機会で、「おひなさま」展が開催されました。同展では、京都で1866年(慶応2年)に作られた希少価値の高い「一刀彫ひな飾り」の雛人形も展示されています。

 貴重な雛人形展示品(:出土した最古の木製雛人形レプリカ(鎌倉時代後期)、:一刀彫人形の雛飾り(慶応2年))

江戸時代に完成された御所人形は、西国大名が参勤交代の折、京の御所や公家たちに贈物をした返礼に御所人形を贈っていたもので、もともと京都御所を中心として扱われていたようです。「御所人形春駒持ち」(江戸時代)は、徳川十四代将軍家茂から大奥の局「りつ」が拝領したものと云われています。雛道具の「御伽(おとぎ)犬」は、「犬筥」、「犬張子」とも云われます。古来より犬は災厄から人間を護ってくれるとされ、犬をかたどった張子製の箱を作って、魔除けとすることが行われ、御伽犬(江戸時代)も上流の家庭では産室や幼児の枕元に置かれて魔除けとされていました。

 江戸時代のおひなさま(:「御所人形春駒町」(江戸時代)、:雛道具/御か犬(江戸時代))

衣裳を着せた座り姿の雛人形は、江戸時代中頃から次第に豪華なものとなり、雛人形は、その様式によって、元禄雛、寛永雛、享保雛、有職雛、次郎左衛門雛、古今雛などの呼び名があります。雛段は、江戸時代、宝暦・明和(1751~72)頃には2~3段でした。
有職(ゆうそく)雛は実際の公家の装束を忠実に写した雛です。江戸中期宝暦(1751~)ごろから公家衆が特に注文してつくらせたもので、一般には売り出されませんでした。男雛の装束は、衣冠雛、直衣雛、小直衣雛、狩衣雛などとよびます。女雛の髪はオスベラカシで、白小袖に小桂、紅袴など男雛と見合った装束にして一対にします。
古今(こきん)雛は江戸中期明和(1764~)ごろ、江戸の上野池端の大槌屋が十軒店の原舟月に頭をつくらせ売りだしたもので、古代の風俗と現今の好みを織り交ぜてつくった華麗な雛で、男雛は黒綾の束帯姿、女雛は、裳唐衣に宝冠をつけます。

 江戸時代の雛(:有職雛、:古今雛、:古今雛段飾りと道具一式)

段飾りのひな人形は、江戸中期(1700~1799)の安永(1772~81)の頃には4段・5段で飾る家がでてきました。江戸後期(1800~1867)になると雛段も7段・8段と賑やかに豪華となり、雛人形も15体となり、内裏雛、三人官女、五人囃子、随身、仕丁がそろい、雛道具も膳部のほか箪笥、長持、茶の湯道具、乗り物など、武家の婚礼調度を模したものが数多く飾られました。江戸時代の終わり頃には、現在の段飾りの形式が出来あがりました。

 江戸時代~明治・昭和の各時代の段飾り雛人形(左上右上左下中下右下写真拡大)

京都では、内裏雛を飾る館のことを御殿といいますが、その中に一対の雛を置く形式を「御殿飾り」と呼びました。京阪を中心に、この御殿飾りの雛飾りが登場するのは江戸時代末期のことです。御殿は御所の紫宸殿(ししんでん)になぞらえたもので、華やかな貴族文化への憧れが育んだ復古的な雛飾りといえます。江戸時代後期に誕生した御殿飾りは、明治時代に入ると京阪周辺へも広がり、豪華なものから簡素なものまで、様々な様式が生まれました。

 御殿飾り(写真拡大)

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毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(3月分掲Indexへ)
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イベント 江戸東京博物館 東京スカイツリー完成記念特別展ザ・タワー~都市と塔の物語~その3

2012年03月24日 | イベント
kan-haru blog 2012 万国博覧会での太陽の塔実物写真1970年7月撮影    

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ザ・タワー ~都市と塔のものがたり~(続)
・エピローグの展示コーナー
エピローグの「都市の塔」の東京スカイツリー(墨田区押上東京都墨田区押上)は、既存電波塔の東京タワー周辺では超高層建築物が林立し、その影となる部分に電波が届きにくくなる問題が発生し、今後の放送のワンセグやマルチメディア放送といった携帯機器向けの放送を快適に視聴できるようにすることを目的とされて、東武鉄道の本社隣接地の貨物駅跡地に建設された全高が634メートルで、塔本体屋上の高さが495mは世界一の電波塔であり、2012年2月29日に竣工しました。

 建設が進むスカイツリー2010年5月6日(:吾妻橋浅草側から見たスカイツリー、:墨田区役所附近から見たスカイツリー)

スカイツリーの建設は、東武鉄道の本社隣接地の貨物駅跡地に、2008年7月14日に着工し、ツリーに隣接する関連商業施設・オフィスビルの開発も行われ、ツリーを含めたこれらの開発街区を東京スカイツリータウンと称して、2012年5月22日に開業を予定しています。

 業平橋付近からみたスカイツリー2010年5月6日(写真拡大)

スカイツリーのタワーデザインは、3つのコンセプトを基にその1として、日本古来の建築「五重塔」の耐震構造システムを取り入れて、鉄筋コンクリート造の高さ375m直径約8mの円筒の心柱を取り付けて、地震などによる揺れを抑える心柱制震構造となっています。

 業平橋工事現場付近から見たスカイツリー2010年5月6日(中左中右写真拡大)

デザインのその2は、タワーの地面真上での水平方向の断面は正三角形であるが、高くなるほど丸みをおびた三角形と変形し、地上約320m上での断面は円となる構造が採られており、塔の構造体概観は日本の伝統美の日本刀に見られる「そり」や、寺社建築の屋根に見られる「むくり」の柔らかい曲線を採り入れています。

 妙見堂通り元大横川橋上から見たスカイツリー2010年6月15日(写真拡大)

デザインのその3は、「都市の塔」としてまちの活性化への起爆剤となるように、電波塔にはレストランやカフェ、ショップなどが設けられた高さ350mの第1展望台と、窓ガラスで覆われた空中回廊を設置した高さ450mの第2展望台が付けられます。

 桜橋付近から見たスカイツリー2010年7月1日(写真拡大)

スカイツリーの建設を振り返って見ると、2008年年末には地下50メートルに達する杭工事が終わり、2009年2月3日には3本の塔脚鉄骨の基礎工事の開始です。同年5月23日には塔脚の高さが49メートルとなり、同6月17日には塔高さが54メートルとなり地上50メートルで3本の脚の支えが連結されました。同8月20日には塔高105メートルとなり、同11月18日には塔高205メートル、年末の12月22日には高さが245メートルに達しました。
写真掲載の2010年5月6日には塔高368メートルとなり、塔の断面は遠景で第1展望台(350m)の外観が見られます。同7月1日には塔高398メートルとなり、同8月4日の写真の塔高は408メートルとなりました。
同9月11日には塔高461メートルとなり、第2展望台(450m)の工事が開始となり、同10月23日には塔本体屋上の高さ495mに達しました。年末の12月21日にはアンテナ部の工事となり塔高は514メートルに達し、第2展望台の姿が見られます。
年を越して2011年1月14日には塔高549メートルとなり、同3月29日には塔高634メートルに達しました。11、12月に入ると第1展望台の床から真下を眺めるため耐熱強化ガラスをはめ込んだり、LED照明点灯などが行われました。
2012年2月29日には、スカイツリーが完成して建設請負の大林組から、運営会社の東武タワースカイツリーに引き渡され、同3月2日に竣工式が行われました。

 押上駅付近から見たスカイツリー2010年8月4日(中左中右写真拡大)

太陽の塔 黄金の顔 常設展特集展示
特別展「ザ・タワー ~都市と塔のものがたり~」開催(記事その1~3参照)にあわせて、「太陽の塔 黄金の顔」特集展示が江戸東京博物館常設展示室の日本橋橋桁下で、東京で初公開展示されました。

 太陽の塔黄金の顔パンフレット

1970年(昭和45)に、大阪で開催された日本万国博覧会のテーマ館のシンボルとして太陽の塔が建造されました。日本を代表する芸術家の岡本太郎氏の制作によるもので、博覧会終了後も万博公園に残されました。

 万博公園の太陽の塔万博公園(独立行政法人日本万博博覧会記念機構)から

太陽の塔には、塔の頂部には金色に輝き未来を象徴する「黄金の顔」(直径11m)と、塔の正面には現在を象徴する「太陽の顔」と、塔の背面には過去を象徴するの「黒い太陽」という3つの顔を持っています。「太陽の塔」は過去・現在・未来を貫いて生成する万物のエネルギーの象徴であると同時に、生命の中心、祭りの中心を示したもので、博覧会開催期間中、テーマ館の来館者に多くの感動を与えました。
展示表示の黄金の顔は、改修のため1992年に取り外した黄金の顔(独立行政法人日本万国博覧会記念機構所蔵)を展示したものです。

 太陽の搭の3つの顔(左:黄金の顔、中:太陽の顔、右:黒い太陽)万博公園(独立行政法人日本万博博覧会記念機構)から

黄金の顔の直径は11メートルあり、顏前面を見るには常設展示室の日本橋橋上の欄干から覗くように展示されており、横顏は橋の袂から覗いて見ました。橋下におりると、黄金の顔の厚みは高く、顔が置かれている橋下からでは顔面がのぞけませんでした。

 太陽の塔の未来を象徴する黄金の顔(:展示日本橋橋上より見た黄金の顔、:日本橋袂から見た黄金の顔、:橋の階下で見た黄金の顔側面)

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イベント 江戸東京博物館 東京スカイツリー完成記念特別展ザ・タワー~都市と塔の物語~その2

2012年03月20日 | イベント
kan-haru blog 2012 さくらにマッチする東京タワー  

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ザ・タワー ~都市と塔のものがたり~(続)
・第2章展示コーナー
19世紀を迎え、科学と技術の世界の欧米では、200~300メートルの高さの建造物が計画されていました。その中でフランスのパリ市民は、革命により自らのものになったパリ市の風景を楽しむために、革命100年を祝う記念碑として、1889年(明治22年)に開催されたパリ万国博覧会の会場入り口を飾るエッフェル塔が誕生しました。
パリ万国博覧会の計画が伝わると、複数の建築家や技師の間で300メートルの塔の構想が検討され、エッフェル社のエミール・ヌギエとモーリス・ケクランの2人の技術者の高塔の検討案を元に、同社の建築家のステファン・ソーヴェストルによって装飾性が加えられた300メートルのエッフェル塔が建築コンクールに提出ました。エッフェル塔の対抗の提案としては、ジュール・ブルデの高さ66メートルの花崗岩の基壇の上に建つ、総高さ370メートルの太陽の塔が提案されたが、300メートルの鉄塔を建てることが応募条件であったため、重量や風圧の問題で採用されませんでした。
結局エッフェル案が採用され、1887年(明治20年)から300メートルのエッフェル塔の建設が開始され、工期2年2ヶ月という驚異的な短期間で建設されました。石造りの重厚な街並みの人々の中には、哲の塔に対して批判が多くありましたが、完成後のエッフェル塔は、パリ万博の最大の目玉として、大人気となり、会期中に約195万人が塔に登りました。

 今昔のエッヘル塔(左:エッヘル搭のサーチライト(ジョルジュ・ギャレン画1889年)オルセー美術館蔵、右:現在のエッヘル搭)

パリに完成したエッフェル塔は、日本にも伝わっており、文明開化以降開放された高所からの見晴らしを求める人が多く、高楼建築が盛んになり、1890年(明治23年)に浅草六区に凌雲閣(浅草十二階)の避雷針を含めて52メートルの展望塔が、東京帝国大学のウイリアム・K・バルトンの設計により開業しました。凌雲閣は、10階までが煉瓦造りで、その上の2階は木造であり東京における高層建築物の先駆けとして建築されました。8階までは世界各国の物販店で、それより上層階は展望室であり、展望室からは東京界隈はもとより、関八州の山々まで見渡すことができたので、開業時には多数の人々で賑わったが、明治末期には客足が減り、経営難に陥ちいりました。1914年にはエレベーターが設置されて一時的に来客数が増えたものの、その後も経営難に苦しみました。
1923年(大正12年)の関東大震災により凌雲閣は、8階より上の部分の自慢の展望台が崩壊してしまいました。震災から23日後、2次被害を回避するため、工兵隊により爆破されて浅草十二階は完全に無くなりました。

 凌雲閣・浅草十二階(綱島亀吉画大正10年)江戸東京博物館蔵

文明開化を迎えた大阪においても高楼の建築は盛んで、1888,9年(明治21,2年)にかけて、5階以上の高い建物が続々と姿を現し、また、1888年(明治21年)には、西関谷町に高さが約32メートルの木造五層の有宝地・眺望閣「南の五階」が営業を始め、さらに、翌1889年には、北野村に高さが約40メートルの有楽園・凌雲閣「北の九階」が登場して人気を集めました。
大阪の高楼ブームの到来は、1903年(明治36年)に開催された、530万人の入場者を集めた第5回内国勧業博覧会の会場跡地に、パリのエッフェル塔と凱旋門を模した高さ75メートルで、東洋一の高さを誇る初代通天閣が1912年(明治45年)に「新世界・ルナパーク」と共に建設されました。しかし、1927年(昭和2年)の金融恐慌により、理想的な娯楽施設の通天閣と新世界は初期の面影は消え、所有権は吉本興業に譲り渡され、第2次世界大戦の戦況悪化に伴い、鉄材の供出が囁かれている1943年(昭和18年)に、通天閣に隣接の映画館の火災により鉄骨が歪んだので、解体され軍に供出されました。

 大阪新世界・通天閣(絵葉書大正初期)江戸東京博物館蔵

・第3章展示コーナー
1945年の世界大戦により、灰燼の被害を蒙った新世界は、1947~50年(昭和22~25年) にかけて、映画館や劇場が建ち始め、以前の活気を取り戻すには塔がなければとの思いから、1955年(昭和30年)8月17日に起工して、高さが103メートルの二代目通天閣が1956年(昭和31年)10月28日に竣工しました。通天閣の5階展望台の高さは、4階床まで84m、5階床まで87.5mで、街の人々の熱意によっての通天閣の再建そのものは、「都市と塔の物語」なのです。

 二代目通天閣(左:工事中の通天閣(昭和31年)ザ・タワーから、右:現在の通天閣)

1953年(昭和28年)2月に日本で初めての国営テレビ放送がスタートして、つづいて民間の放送も開局して、テレビは浸透していきました。当時はまだ、各局が独自のバラバラの位置の電波塔から放送を発信していましたので、チャンネルを変えるたびにアンテナの位置の微調整を要するとか、航空安全の面でも危険が予測されましたので、都心から100キロ圏内の人々にテレビ放送を届けるための、1957年(昭和32年)6月29日から総合電波塔の東京タワーの建設が開始され、1958年(昭和33年)10月14日までの僅かに1年半の工期で竣工し、12月23日には完工式が開かれました。

 東京タワーと桜(増上寺附近2007年)

高さ333メートルの東京タワーには、大展望台1階(高さ145メートル)と同2階(高さ150メートル)の展望台が設けられています。およそ10年後の1967年(昭和42年)7月になってからその上にあった設備置き場を、解放してオープンした高さが250メートルの特別展望台があります。

 東京タワーからの夜景眺望(2007年8月)

エッヘル搭を抜いて世界一の高さを現実のものとした東京タワーは、人々の誇りであり東京を一望できるという眺望を得て、開業の最初の年には513万人が登り、エレベータの窓ごしに見える鉄柱に興奮したのです。東京タワーの建設当時は、都心においても高層ビルは殆ど見られず、山手線の車窓から見るタワーの鉄柱の巨大さに感激をした、そのタワーは東京を美しく彩る「都市の塔」の誕生なのです。

 赤羽橋元神明宮附近から見た東京タワー(2011年2月)

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イベント 江戸東京博物館 東京スカイツリー完成記念特別展ザ・タワー~都市と塔の物語~その1

2012年03月18日 | イベント
kan-haru blog 2012 JR両国駅ホームから見た東京スカイツリー2012年1月 

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高さ634メートルと世界一高いタワーの東京スカイツリー(墨田区押上1丁目1−13)が2012年2月29日に完成し、施工担当の大林組から東武タワースカイツリーに引き渡しされました。東京スカイツリーの開業は、準備が進められ5月22日にオープンします。それに先立ち、最寄駅の東武伊勢崎線「業平橋駅」が、3月17日に「とうきょうスカイツリー駅」に改名して、「東武スカイツリーライン」の愛称で呼ばれ、特急電車が止まるようになりました。
東京スカイツリーの完成を記念して江戸東京博物館(墨田区横網1-4-1)で、特別展『ザ・タワー ~都市と塔のものがたり~』(主催:公益財団法人 東京都歴史文化財団 東京都江戸東京博物館 、読売新聞社、NHK 、 NHK プロモーション、特別後援:東武鉄道株式会社、東武タワースカイツリー株式会社、他2社、後援:フランス大使館、他2社、協力:日本科学未来館、他5社)が1階展示室で、2012年2月21日から5月6日まで開催され、併せて特集展「太陽の塔黄金の顔」(主催:公益財団法人東京都歴史文化財団、東京都江戸東京博物館)が5階常設展示室で、5月20日まで開催されますので、3月13日に見てきました。

 ザ・タワー ~都市と塔のものがたり~パンフレット

大森町から江戸東京博物館へは、今回は都営地下鉄浅草線大門駅で同大江戸線に乗り換えて、両国駅A4出口を出て1階玄関から入りました。

 ザ・タワー展示開催の江戸東京博物館(左・中:ザ・タワー広告展示開催の、:ザ・タワー1階展示室入り口)

入場料は、特別展 当日券は一般(65歳以下)が1,300円で、大学生・専門学校生が1,040円で、その他が650円であり、前売券の場合はそれぞれ200円安くなります。特別展と常設展を合わせた当日券は一般(65歳以下)が1,520円で、大学生・専門学校生が1,210円で、その他が760円で、前売券の場合は200円安くなります。なお、3月28日は江戸東京博物館の開館記念日のため、常設展示室の観覧料が無料になります。

 ザ・タワー ~都市と塔のものがたり~ 入場券

ザ・タワー ~都市と塔のものがたり~
・プロローグ展示コーナー
ザ・タワーの展示構成は、プロローグからエピローグまでの5章だてで構成されています。プロローグの展示コーナーでは、9点の雛型や容器などと、7点の銅版画や洋装本、木版画およびはがき版錦絵が展示されています。
このコーナーでは、塔はなぜ建てられたのだろうかに迫り、西洋では古代人が、神を信仰の対象として神を天空に置き、神を祀り、祈りをささげるために古代都市に建物が造られて、高みに近ずくため空に向かって、高く、高くジックラットと呼ばれる階層状の神殿が築かれましたが、地域の勢力争いの戦いの中で破壊されました。西洋のバベルの塔は、このジックラットをモデルにしたと云われ、人間が自分たちの町に建てようとした、最初の「都市の塔」でありました。しかし、人々は共通の言語を失い、コミニュケーションがとれなくなり、塔の建築が出来ずに、散り散りに離れていき、建築が放棄されたのです。

 バベルの塔 銅版画 フランス国立図書館蔵

「塔」という言葉は、サンスクリット語の「ストゥ―パ」の音を表した「卒塔婆」からきており、東洋では釈迦の仏舎利を納め、祀るために、紀元前3世紀頃に造られたお墓です。仏教がシルクロードを経て中国に伝わった時に、ストゥ―パは楼閣建築の影響を受けて、多層塔にと変化して煉瓦によるせん塔が作られました。朝鮮半島では石塔が主流になり、日本では木造の三重塔や五重塔が建立されました。日本の飛鳥・奈良時代の多層塔は、塔上のストゥ―パをかたどった相隣との間を心柱が塔の中心を貫き、心礎に空けられた穴に仏舎利を奉安し祈りを捧げるもので、人が登ることが出来ない構造です。

 日英博覧会に出品された薬師寺東塔の模型 東京芸術大学美術館蔵

・第1章展示コーナー
日本では戦国時代の終わり頃には城が建てられ、防御用の人が登る天守閣が作られましたが、見張りの目的のものでした。戦いの時代が過ぎ去り、江戸時代の江戸を見晴らす風景は、地形を利用して遠く霊峰の富士山を眺めていました。1809年(文化6年)に鍬形けい斎が描いた、江戸一目図屏風(六曲一隻)は、高い塔の無い時代に、高所から眺めた風景を想像力により描かれたもので、墨田川の東から遠く富士を眺め、所々に火のみやぐらを配し、江戸の微細な風景を一望する景色は、200年後の我々が東京スカイツリーの展望台から一望できるものです。

 江戸一目図屏風 津山郷土博物館蔵

明治に入り、江戸が東京に変わり、建物の高さの制約が解かれ、築地ホテルや第一国立銀行などの鐘楼や時計台を備えた洋風建築が出現して錦絵に描かれるようになりました。
江戸の高さが26mの愛宕山は、見晴らしの良さで四季それぞれの眺望が楽しめ、江戸庶民の人気を集めた名所でありました。1889年(明治22年)に、愛宕山に煉瓦作りの八角の5階建ての愛宕塔が建てられ、6銭の料金で登れたと云われてましたが、1923年大正12年の関東大震災により、倒壊焼失しました。

 愛宕山ノ高塔 国立国会図書館所蔵写真帳から

1887年(明治20年)には、浅草公園内に富士山を模して木製の骨組みに漆喰で塗固めた高さが約32メートルの、富士山縦覧場が登場して頂上には望遠鏡が備え付けられ、大人5銭で登ることができ、多くの人が押しかけて大変な人気となりました。2年後の1889年(明治22年)に暴雨風のため大きく破損して、修復をしたが人気は回復せず、翌年には取り壊されました。しかし、衆目を集めた富士山縦覧場は、東京において高塔の役目を果たすことになりました。

 富士山縦覧場江戸東京博物館蔵

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イベント 東京新名所 東京ゲートブリッジを渡り東京最大級の若洲風力発電設備を見るその2

2012年03月12日 | イベント
kan-haru blog 2012 鉄腕アトムが描かれた若洲風力発電設備  

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江東区立若洲公園
東京ゲートブリッジを渡り、若洲側に着くと左側には江東区立若洲公園があり、右側には若洲海浜公園があります。区立若洲公園には、見学目的の若洲風力発電設備がありますので、ブリッジ接続道の終端の交差点でUターンして南に進み、東京ゲートブリッジ橋桁下で折り返して4分の3周した付近に風力発電設備近くの多目的広場の前に駐車場(有料)があります。
同若洲公園(江東区若洲3丁目)は、2006年より若洲海浜公園内のキャンプ場、貸し自転車、特種自転車、多目的広場の部分が東京都港湾局より江東区に移管され、区立若洲公園となったものです。

 江東区立若洲公園地図

・若洲風力発電設備
江東区若洲風力発電設備(地図まる3参照)は、区立若洲公園北端の多目的広場内の最北端にあります。多目的広場は、全面芝生の広場でレジャーシートを敷いてピクニックなどがお勧めの環境で、広場南には遊具広場があり子供が楽しめるさまざまなアスレチック遊具があります。

 若洲風力発電設備1(写真拡大)

若洲風力発電施設は、石川島播磨重工(IHI)により2004年3月に完成し、風車の最高点高さは100mに達し、単機定格出力1,950kWの国内最大級の大型風力発電設備です。

 若洲風力発電設備2(写真拡大)

若洲公園は海に面し年平均5.7m/sの風が吹いていることから、風力発電には比較的適しています。この風車で発電する電気は、電力会社に売電しており、多目的広場の外灯などの電気もこの発電した電気でまかなわれています。

 若洲風力発電設備仕様

若洲風力発電施設の目玉は、環境問題に深い関心を寄せていた漫画家手づか治虫さんの生み出した、鉄腕アトムをはじめとするおなじみのキャラクターたちが、タワーに大きく描かれていることです。

 若洲風力発電設備3(中左中右写真拡大)

風力発電施設の見学は、誰でも間近で見ることが出来ますが、メンテナンス時を除き無人の施設で、説明や内部の見学はできません。当日は天気が良く、暖かな見学日よりでしたので、14時30分頃に風速6.7m/sの風に吹かれて翼の長さ40mのブレードが廻って、430Kw発電している若洲風力発電施設の姿を動画で撮影して、動画と静止画の撮影画面を編集しました。

若洲風力発電施設見学.wmv

[クリックすると、風速6.7m/sで回転する若洲風力発電施設の風景が見られます]

・東京ゲートブリッジ
風力発電設備の見学が済むと駐車場に戻り、東京ゲートブリッジ見学のため車で、若洲公園内を海辺方向に進むと小さな駐車場があります。そこから歩いて若洲公園を南に進むと、東京ゲートブリッジ道路の陸上部アプローチ橋の橋脚柱が高くなり、歩道橋への昇降施設が見えて来て、その先は海岸縁でブリッジ(地図まる4参照)です。

 若洲公園から東京ゲートブリッジを見る1(写真拡大)

若洲公園南端から眺める、恐竜が向かい合っているような恐竜橋は、2012年の東京新名所です。今年は、5月にスカイツリーがオープンして、続いて新名所が誕生しますが、これが東日本大震災1年からの復興のきっかけになることをお祈りします。

 若洲公園から東京ゲートブリッジを見る2(写真拡大)

東京ゲートブリッジの諸元情報を記入した見学写真(静止画)を多数纏めて、YouTubeで編集しましたのでご覧ください。
東京ゲートブリッジ見学静止画.wmv

[クリックすると、東京ゲートブリッジ諸元情報を記入した見学写真の風景が見られます]

・えこっくる江東環境学習情報館
東京ゲートブリッジの見学が済み、4か所目の見学の江東区のえこっくる江東環境学習情報館へは、若洲公園から北へと車で進みます。道路には、長い鋼製骨組みのアーチをしばらく潜り、砂町南運河を渡ると新木場で、京葉線の新木場駅です。新木場で湾岸道路を左折して夢の島公園角の明治通り交差点で右折して北上し、新砂に渡り2丁目交差点を左折して、運河を越え潮見に入り三ッ目通りの手前が「えこっくる江東環境学習情報館(江東区潮見1-29-7)」(東京ゲートブリッジ・若洲風力発電設備見学地図まる5参照←ここをクリックで地図表示)です。

 えこっくる江東環境学習情報館正面(写真拡大)

えこっくる江東は、常設展示室の開館時間は、9時30分~17時で月曜日が休館で、入場料は無料です。1階展示室は、江東区の自然から地球環境問題、そして自分たちの生活とその見直しへとつながっていく流れを表した常設の展示室になっています。展示コーナーは、江東区の自然、青い地球、赤い地球、大量生産・大量消費、大量廃棄、生活の見直しで構成してあります。

 環境学習情報館常設展示室コーナー1(写真拡大)

2階展示コーナーには、企画展示コーナー、情報コーナーの他、講座等で使用する研修室と、体験学習をするためのワークショップルームがあります。また、屋上には上がれませんが、太陽光発電パネル(出力25kW)や風力発電機(出力1kW)を設置し、自然エネルギーを利用して発電しています。さらに、環境学習情報館の建物正面の壁面にも、太陽光発電パネルが取り付けられています。ここで発電した電気はえこっくる江東で使用しています。
一通り見学を終えてから、2階休憩室でドリンクを飲んで休憩を取った後に、車で京葉線新木場駅まで送って貰いそこで解散です。

 環境学習情報館常設展示室コーナー2(写真拡大)

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イベント 東京新名所 東京ゲートブリッジを渡り東京最大級の若洲風力発電設備を見るその1

2012年03月10日 | イベント
kan-haru blog 2012 若洲公園から見た東京ゲートブリッジ

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所属する情報化研究会の見学会が2月24日に行なわれましたので、参加して乗用車で新名所となった東京ゲートブリッジを渡り、江東区若洲公園にある東京の最大級の若洲風力発電設備を見学し、同公園の南端から恐竜が睨みあっている形の東京ゲートブリッジを見てから、えこっくる江東環境学習情報館を見学しました。

 東京ゲートブリッジ・若洲風力発電設備見学地図

東京ゲートブリッジを渡る
品川駅東口から東方にある港港南郵便局前(地図まる1)に13時30分に集合して、東京ゲートブリッジに向けて出発です。品川を出ると大田区の城南島までは、品川区の埋め立て地を通り南に進むと、周囲は港湾と倉庫地帯で大型トレーラーや大小トラックに囲まれ圧倒され、不景気とはいえ今さら日本の産業力の巨大さを実感します。
これから進む城南島から臨海トンネルを潜り、中央防波堤外側埋立地を結ぶ東京港臨海道路(1期事業区間)は、約3.4 kmは2002年(平成14年)に開通しました。臨海トンネルは、別の場所で作成した11函の沈埋函を現場まで船で曳航し、沈めた後に接合してトンネルとする沈埋工法が採用されました。
臨海トンネルを出て中央防波堤外側埋立地に入り、暫く進むと左手の東京港中央防波堤内側埋立地に東京臨海風力発電所の2基の風力発電設備が見えてきます。この発電設備は、2003年3月に東京都臨海部で初、また大都市近傍としては世界初の本格的風力発電所が誕生しました。

 東京臨海風力発電所(東京都環境局から)

中央防波堤外側埋立地を進むと、2月12日に開通して間もない東京港臨海道路(2期事業区間)の中央防波堤外側埋立地から江東区若洲間までの延長約4.6kmを進み、途中橋梁部が約2.6kmの東京ゲートブリッジを渡ります。東京ゲートブリッジの名称は、一般公募により付けられましたが、恐竜が向かい合っているような特異な形状をしている事から恐竜橋とも呼ばれています。

 東京ゲートブリッジ全体図(国土交通省関東地方整備局東京港湾事務局から)

東京ゲートブリッジ(地図まる2)に入ると車線数は、往復4車線で橋梁の北側にのみ歩道が付けられています。通行は、原動機付自転車(50cc以下)が車道の通行不可で、自転車は車道・歩道ともに通行不可です。歩行者は、若洲側昇降施設より入れますが、中央防波堤側へ通行する事は出来ずに、若洲側に引き返して出る必要があります。
ゲートブリッジを進み、全体図に示す地上部アプローチ橋に入ってから動画撮影を開始しました。暫く進むと、左側に将来使用予定の中央防波堤側の昇降施設と見られる、円筒状の設備が現れます。その円筒状の施設の先は歩道の終点地点で、見学当日はウイクデーですが歩道上には歩行者が多く見られ、終点まで歩い来て折り返して戻っていました。そのれより少し先は、海上部アプローチ橋で、緩やかな左方向にカーブをすると、恐竜の頭部の肩に当たるトラスとなります。

 東京ゲートブリッジを渡る1(:将来使用予定の中央防波堤側昇降施設、:中央防波堤側の歩道橋終点附近、:中央防波堤側の恐竜頭部の肩に当たる部分のトラス)

東京ゲートブリッジをさらに進むと中央防波堤側の恐竜口頭部先端のトラスとなり、若洲側の恐竜口頭部先端トラスとの中間点が、ブリッジの海上からの最高位位置で54.6mの高さですが、その手前のトラスの頭の最高位点は87.8mあります。最高位点を過ぎると、若洲側の恐竜先端部のトラスで、トラスを抜けて海上部アプローチ橋を過ぎた点までのブリッジ海上区間の距離は1,618mで、その先の陸上部アプローチ橋が終わった地点までの、東京ゲートブリッジ橋梁区間の距離は2,618mです。

 東京ゲートブリッジを渡る2(:中央防波堤側の恐竜口頭部先端のトラス、:東京ゲートブリッジ海上最高位置の付近、:若洲側の恐竜先端部のトラス)

ここから、中央防波堤側から入り東京ゲートブリッジを渡る動画を撮影画面ですが、車の進行左側にある歩道橋を歩く人の流れも見て下さい。

東京ゲートブリッジを渡る.wmv

[クリックすると、東京ゲートブリッジを中央堤防側から若洲側へ渡る風景が見られます]

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イベント 江戸東京博物館 討入り時期に絵で楽しむ忠臣蔵と辰年に因んで歴史の中の龍展その2

2012年02月04日 | イベント
kan-haru blog 2012 登龍丸と龍角散の看板 

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歴史の中の龍展
十干十二支で2012年は壬辰であり、壬は十干の9番目であり、陰陽五行で「水」性の陽に当たります。海洋や大河の水を象徴するそうです。また、「壬」の字は、「妊」の意味で、草木の内部に新しい種子が生まれた状態を表しているそうです。十二支の5番目の辰は創造上の動物の龍があてられており、方位は東南東に割り当てられ、また時刻は午前8時を中心にした7時~9時です。
その辰年に因み、江戸東京博物館の常設展では、前回記述の「絵で楽しむ忠臣蔵」と併設して「歴史の中の龍」が平成23年12月3日より平成24年1月29日まで開催されましたので、1月4日に見てきました。

 企画展パンフレット

「歴史の中の龍」展の会場は、「絵で楽しむ忠臣蔵」展と隣り合った、常設展示室5階の第2企画展示室に展示されていました。
龍は想像上の動物であり、説明展示の図で見ると他の動物と9つの類似点があるそうであり、頂は蛇、角は鹿、耳は牛、頭は駱駝、眼は兎、腹は蜃、掌は虎、爪は鷹、鱗は鯉であるそうで、その他背中は81枚の鱗があり、口の傍に髭が生え、喉の下に逆鱗があり、声は銅盤を打つ音に似ており、頷の下に珠があり、頭の上に山の形をした博山があり、気を吹いて雲を作りそれを水に変えまた火に変える動物であると称しています。

 「歴史の中の龍」展(:「歴史の中の龍」展会場、:龍とは)

龍展の展示構成は、第1章の「十二支のなかの龍」では6点が展示され、第2章の「龍の力」では19点が展示され、第3章の「粋な龍」では14点が展示された3部構成で、出品資料名は「歴史の中の龍出品リスト」(←ここをクリック)を参照してください。

十二支のなかの龍
中国から伝わった十干十二支の動物により年月日や時刻を表わしており、また方角と地名を結びつけています。第1章の「十二支のなかの龍」の展示作品には、十二支の動物を見立てた職人を描いた「十二支見立て職人づくし 歌川国芳」(9122038)には、十二禽獣の辰に扮した玉みがきの江戸職人「玉師」(上段中央)が描かれています。
また、十二支は方角と地名を結びつけており、辰は江戸から見て辰巳の方角(南東)に位置する深川に因んで、展示品の「見立十二支 辰 深川八幡富士 橋本周延・延房」(86200908)には深川八幡宮の別当永代寺の庭園の富士塚が描かれています。さらに、江戸時代の時刻は、日の出を昼の6時とし、日没を夜の6時とした不定時法を前提として製作されており、季節による変動を錘により時間を調整していました。江戸時代の時の呼び方は、真夜中の午前0時(11~1時)を子の刻とし、明け六つの6時(5~7時)が卯の刻で、辰は午前8時(7~9時)を示しています。

 十二支のなかの龍(:十二支見立て職人崩し 歌川国芳91220038、:見立十二支 辰 深川八幡富士 橋本周延・延房86200908、:和時計90363039)

龍の力
龍は、中国では「鱗虫の長」とされ、日本でも蛇や魚に近い種として考えられていました。西洋では悪魔のイメージとして捉えられていますが、東洋では空を飛び、雨や稲妻を自在に起こす霊力を持った存在として崇拝され、神や高貴な者の象徴と捉えています。
第2章の龍の力の展示品には、緊迫した場面で龍の力にあやかりたいと、願を込められて龍を意匠に用いてきた、武具や火事装束などのさまざまな物品を観ます。トップ図の登龍丸や龍角散の薬の看板は、名前に「龍」を使った薬は配合されていた生薬名に由来しているようですが、特別な力を持っているというイメージを作るために付けられたのではと思われます。
「訓蒙図彙」龍魚・蟲介の中村愓斎編・源三郎画は、1666年(寛文6年)に出された図解百科事典で、社会生活や動植物が全20巻に載せられ、巻14の魚類に龍属が納められています。江戸時代末期に葛飾北斎が描いた「北斎漫画 二・四編」には、「龍」、「応龍」、「だ龍」、「雨龍」と種類が描き分けられています。
タツノオトシゴは、ヨウジウオ科の固骨魚で、日本ではその姿から「リュノコマ」、「タツノコ」などとも呼ばれています。地域によっては干した物を、妊婦に「安産のお守り」として持たせるところもあるそうです。

 龍の力展示品1(:「訓蒙図彙」龍魚・蟲介、:北斎漫画 二・四編、:)

江戸時代後期には、女子も緋色の羅紗地に金糸で龍の刺繍をほどこした、烏帽子形の頭巾、胸当、羽織の武家火事装束を着用して邸内の防化や避難誘導にあたりました。
刺子袢纏は、防火被服として、江戸期から明治時代にかけて使用されました。構造は、木綿製の布地を細かく雑巾刺しに、二重三重に重ね合わせて作られています。絵柄を入れることが当時は「粋」とされていました。
日本の消防ポンプのあゆみは、龍吐水に始まり、放水する様子が龍が水を吐くように見えたことから名付けられたと云われています。展示の龍吐水は、江戸時代中ごろから明治10年代にかけて使用されてきました。

 龍の力展示品2(:武家火事装束女子用烏帽子形火事頭巾、:刺子袢纏 明治時代前期、:龍吐水)

粋な龍
龍の意匠は、特別の物だけでなく、日常用品にも使用されていました。江戸時代には、たばこ入れや印籠、櫛、(こうがい)など、龍の意匠は粋でお洒落な強さを感じさせるところで様々な装飾品に使われています。
赤羅紗登り龍文刺繍箱迫(江戸時代後期)は、龍文刺繍がされた女性が懐に挟み込んで使用する装身具入れです。漆塗龍模様付櫛・笄(昭和時代前期)は、櫛と笄にはセットで龍が描かれ、櫛の龍には珠を持っています。
長板中形型紙 宝づくしに龍文(昭和時代前期)は、浴衣を模様染めするための型紙で、木綿の藍染と糊防染めを組み合わせた江戸時代以来の染め技法で、紺地に白模様か、白地に藍模様で染めます。展示の型紙は、龍の顔、鳳凰、宝珠、打出の小槌などの目出度い模様が染め抜かれます。

 粋な龍展示品(:赤羅紗登り龍文刺繍箱迫 江戸時代後期、:漆塗龍模様付櫛・笄 昭和時代前期、:長板中形型紙 宝づくしに龍文)

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イベント 江戸東京博物館 討入り時期に絵で楽しむ忠臣蔵と辰年に因んで歴史の中の龍展その1

2012年01月30日 | イベント
kan-haru blog 2012 江戸東京博物館

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「江戸東京博物館常設展」
暮れにH11の忘年会(「イベント 両国ちゃんこ鍋 吉良邸跡近くで仇討ち入りに異業種交流会H11の忘年会を行うその1」参照)を行った両国の江戸東京博物館(墨田区横網1-4-1 )の常設展で、吉良邸が地元にあるゆかりで「絵で楽しむ忠臣蔵」と、辰年の新年を迎えて「歴史の中の龍」が平成23年12月3日より平成24年1月29日まで開催されましたので、1月4日に見てきました。

 常設展「絵で楽しむ忠臣蔵」、「歴史の中の龍」パンフレット

なお、常設展開催の江戸東京博物館では、この期間に重なる1月2日から2月5日まで、NHK大河ドラマ50年特別展の「平清盛」と併設開催されていましたので、併せて見てきました。

 江戸東京博物館常設展・特別展案内(:歴史の中の龍常設展案内、:絵で楽しむ忠臣蔵常設展案内、:平清盛特別展案内)

「絵で楽しむ忠臣蔵」常設展
「絵で楽しむ忠臣蔵」常設展は、上記会期の午前 9 時 30 分~午後 5 時 30 分(土曜日は午後 7 時 30 分まで)開館され、会場は常設展示室5階の第2企画展示室で、観覧料は常設観覧料で見られ、一般大人が600円で、大学生・専門学校生が480円で、高校生・65歳以上と都外の中学生が300円で、都内の中学生と一般小学生が無料です。
忠臣蔵常設展は、常設展示室5階の第2企画展示室の入口の右側会場に展示されています。

 常設展会場案内(写真拡大)

「忠臣蔵」は赤穂浪士による仇討事件をもとに創作された浄瑠璃・歌舞伎の演目「仮名手本忠臣蔵」の略称で、錦絵にも好んで描かれ、各段の象徴的なシーンを揃物にした舞台絵や、演じた歌舞伎俳優たちを描いた役者絵など、実に多くの作品が生み出されました。本展は「忠臣蔵」とともに人気を博した錦絵を中心に、当館所蔵資料を2011年12月3日から25日までの前期と、2012年1月2日から29日までの後期の2期に分けて展示されました。
展示品の構成は、第1章が「物語に魅せられて」の73点で、第2章が「ヒーローたちに憧れて」の55点で、第3章が「パロディを玩味して」の21点を出品の3部構成で、出品資料名は「絵で楽しむ忠臣蔵出品リスト」(←ここをクリック)を参照してください。

・仮名手本忠臣蔵
仮名手本忠臣蔵は展示説明版によると、1702年(元禄15年)12月14日の夜半に大石内蔵助の赤穂浪士の仇討事件を、脚色した物語の作者は2代目竹田出雲、三好松落、並木千柳による3人の合作で、大序から仇入りまでの全十一段にまとめた人形浄瑠璃が、1748年(寛延1年)8月に大阪道頓堀の竹本座で上演されたとあります。

 仮名手本忠臣蔵説明板

第1章の「物語に魅せられて」展示コーナーに展示の忠臣蔵大序から十一段目までの錦絵は、展示前期と後期で作者を分けて展示され、渓斎英泉と歌川広重の錦絵は前期に、葛飾北斎と落合芳幾の錦絵は後期に展示されました。
これらの忠臣蔵の錦絵展示の一部は、江戸東京博物館収蔵品検索Webページ(←ここをクリックでページが開きます)から見られます。作品名/資料名に仮名手本忠臣蔵と入れると85件の錦絵が表示され、そこでは江戸東京博物館収蔵の落合芳幾の資料番号91220349から91220360までの仮名手本忠臣蔵 大序から大尾までなどが見られる他、資料番号の異なる歌川国明他の錦絵や展示外の作者の錦絵も見ることができます。

 画面検索Webページ

検索Webから、後期に展示の忠臣蔵夜討の錦絵の歌川国芳の「忠臣蔵夜討の図92202253」を検索して見た図を、次に示します。

 忠臣蔵夜討の図の検索画面ページ

これらの検索錦絵はZOOMの機能があり、表示画面の「ZOOM」と示されている箇所をクリックすると、別画面が開きますので、拡大したい場所をクリックすると拡大表示ができます。忠臣蔵夜討の図の中央画面の拡大表示を、次に示します。

 忠臣蔵夜討の図の中央画面の拡大表示

第2章の「ヒーローたちに憧れて」の展示コーナーでは、歌川国芳と国貞の絵師による誠忠義士伝のヒーローたちの錦絵です。検索ページからヒーローNo.1の誠忠義士伝 大星由良之助良雄 歌川国芳92202120を開き、次に示します。

 誠忠義士伝 大星由良之助良雄 歌川国芳92202120

忠臣蔵を描いた絵師は沢山おり、展示場の説明版には歌川国貞(三代歌川豊国)、二代歌川国貞(四代歌川豊国)、三代歌川国貞(歌川豊斎)、歌川国安、歌川国芳、歌川貞秀、歌川貞房、歌川房種、歌川広重、二代歌川広重、歌川芳虎、歌川芳藤、落合芳幾などの絵師がみられます。

 忠臣蔵を描いた絵師の説明板

第3章の「パロディを玩味して」の展示コーナーから後期に出品されていた、歌川貞房の「忠臣蔵見立人形」を検索錦絵で拡大してみました。この絵には、物語に関係のある小物がちりばめてあるとのことです。
さすがに、3展示会を同時に観賞すると大変と疲労します。

 忠臣蔵見立人形 歌川貞房92202243

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イベント 両国ちゃんこ鍋 吉良邸跡近くで仇討ち入りに異業種交流会H11の忘年会を行うその2

2012年01月03日 | イベント
kan-haru blog 2012 「ちゃんこ霧島 両国店」写真から

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H11忘年会
今年のH11忘年会の幹事さんからのお知らせメールに、「忘年会の会場の手配が整いましたので案内をさせて頂きます。12月16日金曜日19時から、ちゃんこ霧島 両国本店に、4200円のコースと飲み代で予約しましたので多数の参加をお待ちしております」の案内があり、Webのアクセス案内に従い、1年半振りに両国へ出かけました。
ちゃんこ霧島は、8階のビルで店内は、カウンター席・御座敷・堀ごたつ・テーブル席の他、大小個室があり、テーブル席のフロワーに案内されました。部屋には、元大関霧島の現役時代のビデオや、関連グッズが飾られてあり、19時には全員が揃い忘年会が始まりました。

 H11の和やかな忘年会酒宴(左上中上右上左下中下右下写真拡大)

コース料理はお通しに、厚切りの刺身盛り、手羽先とじゃこ天の揚物から始まり、ちゃんこ鍋は豚骨と鳥ガラで充分ダシをとったスープで、ちゃんこ霧島固有のさっぱりとした味噌と醤油をミックスした味付けに仕上げられ、風味が豊かでおいしく頂きました。

 ちゃんこ鍋(写真拡大)

飲み物は、各人の好みによりビール、日本酒、サワー、焼酎など、思い思いに取り寄せて歓談しながらの酒宴です。焼酎のボトルを注文したら、霧島さんのラベルでした。

 注文の焼酎ボトルは霧島のラベルです(写真拡大)

2つのちゃんこ鍋が空になると、その鍋でうどんと雑炊を煮て、お新香での夜食は出汁がきいて大変な旨味です。

 ちゃんこの後はうどんと雑炊の煮込みの夜食(・右写真拡大) 

食事が済むと21時で解散となり、エレベータを降りて裏口を出ると通りの向かい側は、元大関の陸奥部屋があります。忘年会が済んで、次は2次会組と帰宅組に分かれての行動です。

・霧島
陸奥部屋公式サイト(ここをクリック)から、元大関霧島と陸奥部屋の情報さまざまを見てみました。
四股名の霧島 一博は、本名は吉永一美で、1959年(昭和34年)4月3日に鹿児島県姶良郡牧園町(現在の霧島市)で農家の長男として生まれ、幼少時から体を鍛えており、小学校3年生の時から真冬でも頭から水をかぶって登校し、5年生からは重さ3kgもある鉄下駄を履くなどしていました。中学生の時に君ヶ濱親方(元関脇・鶴ヶ嶺、後の井筒親方)から勧誘され、母親が後押して反対していた父親も折れたため、君ヶ濱部屋(後に井筒部屋)に入門しました。

 ちゃんこ霧島両国本店の裏口を出て通りの対面にある陸奥部屋(左:陸奥部屋、:陸奥部屋説明板)

 ・入門時代
1975年(昭和50年)3月場所に本名で初土俵、1976年(昭和51年)5月序二段時代の場所後霧島山にちなんで霧島へ改名しました。1982年(昭和57年)5月場所で新十両となり、1984年(昭和59年)7月場所で新入幕入りで成績は8勝、9勝がやっとで、上位になれば2桁負けして平幕を上下していた。1986年(昭和61年)11月場所は前頭7枚目で初の2桁勝利の12勝3敗で技能賞を獲得しました。しかし、1987年(昭和62年)1月場所は関脇に昇進したが3勝12敗に終わりました。
 ・大関昇進
関脇の1990年(平成2年)3月場所では、横綱・千代の富士を吊り出して勝ち、通算1000勝達成を阻み、成績は13勝2敗で優勝同点の好成績を挙げました。同場所の結びの一番の後、横綱・北勝海、大関・小錦と三力士での優勝決定巴戦が行われ、小錦には勝ったが優勝した北勝海に敗れ幕内優勝はならなかったが、3月場所後に初土俵から91場所での大関への昇進が決定しました。1991年(平成3年)1月場所では、千秋楽に北勝海を下して14勝1敗で初土俵から95場所目に幕内初優勝を果たしました。この後、夏場所から九州場所にかけては二桁勝利を重ね、62勝28敗で年間最多勝の成績を残しました。しかし、この後肘の故障や右足首の大怪我などにより戦果が上がらず、2場所連続負け越しで16場所守った大関から陥落しました。
 ・・成績
幕内時代の通算成績は518勝507敗40休で、大関時代の通算成績は139勝76敗25休です。三賞の受賞は殊勲賞が3回で、敢闘賞が1回で、技能賞が4回であり、幕内優勝回数は1回です。

 元霧島陸奥部屋公式サイトから

 ・・引退
大関時代は130kg以上あった体重も、陥落後半年が経つ頃には120kg台前半まで落ちて体力の衰えも目立ち、1996年(平成8年)3月場所限りで引退して、同部屋の弟弟子の寺尾が持つ年寄・錣山を借りて襲名しました。
その後名跡を勝ノ浦(伊勢ノ海親方所有の借株)に変更し井筒部屋の部屋付き親方として後進の指導をしていたが、1997年(平成9年)12月に陸奥親方(元前14・星岩涛)の退職により、陸奥に名跡を変更(年寄株取得)して陸奥部屋を継承しました。さらに2000年(平成12年)11月に立田川親方(元関脇・青ノ里)の停年退職により、立田川部屋を吸収して大部屋に変貌しました。2010年1月場所までは審判部に所属し、幕内の取組で勝負審判を務めました。同年2月より日本相撲協会理事を務めましたが、2011年4月に八百長問題を受けて委員に降格となりました。

 陸奥部屋陸奥部屋公式サイトから

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イベント 両国ちゃんこ鍋 吉良邸跡近くで仇討ち入りに異業種交流会H11の忘年会を行うその1

2011年12月30日 | イベント
kan-haru blog 2011 仇入り引き上げの義士団錦絵   
    
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H11メトロの忘年会
異業種交流会H11メトロは、地方独立行政法人東京都立産業技術研究センターが異業種交流事業として募集した、東京都異業種交流会グループの中の平成11年に発足したグループの一つで、毎月例会を開催しており12月には忘年会を行っております。
今年は、往年の元大関霧島の直営店のちゃんこ霧島両国本店(墨田区両国2–13–7)で、H11メトロの忘年会を、赤穂浪士の討ち入りを果した翌日の12月16日に開催しました。

 両国周辺地図

・両国の歴史
両国とは、隅田川(当時の大川)が下総国と武蔵国の国境であり、大橋(両国橋)はその両方の国に跨っていたので両国橋の名称の由来となっています。両国の名前が全国に知られているのは両国国技館によるもので、辰野金吾と葛西万司の設計により1909年に完成し1944年まで使用された旧両国国技館は、両国二丁目の回向院の旧境内にありました。旧国技館は1983年に解体されるまで日大講堂として使用され、解体後の旧国技館跡地(「小さな旅 史蹟の散歩 振袖火事や大震災の災害を受け吉良邸跡の古い歴史を持つ両国を散策する その3」参照)は現在オフィス・住宅・劇場・レストランなどからなる複合ビル施設の両国シティコアとなっています。

 現「両国シティコア」の旧国技館跡(:旧国技館跡は現在「両国シティコア」、:旧国技館跡の高札、:旧国技館跡の説明板)再掲

その後、蔵前国技館への移転を経て、1985年に新しく完成した現両国国技館は、両国駅の北側の墨田区横網に位置しています。このような背景から、両国は多くの相撲部屋やちゃんこ店が居を構える相撲の町としての顔も持っています。
1703年(元禄15年12月14日)の深夜に赤穂浪士の討ち入りで知られる吉良屋敷は本所松坂町(現在の両国2丁目から両国3丁目にかけての一帯)にありました。現在はそのごく一部が吉良邸跡(「小さな旅 史蹟の散歩 振袖火事や大震災の災害を受け吉良邸跡の古い歴史を持つ両国を散策する その3」参照)として保存されており、区立本所松坂町公園となっています。

 吉良邸跡 吉良邸跡(:吉良邸跡入り口、:赤穂義士遺跡吉良邸跡石碑、:本所松坂町公園由来説明版)再掲

両国駅(「小さな旅 史蹟の散歩 振袖火事や大震災の災害を受け吉良邸跡の古い歴史を持つ両国を散策する その1」参照)は、1894年(明治27年)に私鉄の総武鉄道が、佐倉駅と本所(錦糸町)駅間が開通し、本所から両国橋までの沿線は既に市街地になっており高架線が条件で、結局煉瓦造りの橋脚の上に鉄桁を載せた形状の高架橋を約1.5 kmに渡って建設して、日本の鉄道で最初の単線の高架区間で両国橋駅を開業する事になり、1906年(明治39年)に複線化されました。1907年(明治40年)には、総武鉄道が国有化されて国鉄となり、1931年(昭和6年)に正式に「両国駅」(墨田区横網1-3)へ改称されました。

 両国駅(写真拡大)再掲

・両国ゆかりの人物
 ・勝海舟
幕末の三舟の一人で、本所亀沢町(現在の両国4丁目)に生まれ、区立両国公園内に「勝海舟生誕之地」の石碑が残っています(「小さな旅 史蹟の散歩 振袖火事や大震災の災害を受け吉良邸跡の古い歴史を持つ両国を散策する その4」参照)。

 勝海舟生誕之地(:勝海舟生誕之地の碑、:由来碑、:勝海舟生誕の地説明板)再掲

 ・芥川龍之介
1910年代-1920年代に活躍した、日本を代表する短編作家の一人で、京橋区入船町(現在の中央区明石町)に生まれ、本所小泉町(現在の両国3丁目)に育ち、同地には「芥川龍之介生育の地」の碑が立っています。碑が立っている両国小学校は、芥川龍之介が通った学校です。(「小さな旅 史蹟の散歩 振袖火事や大震災の災害を受け吉良邸跡の古い歴史を持つ両国を散策する その4」参照)。

 芥川龍之介文学碑(:文学碑、:両国小学校を訪れた日は授業参観日でした)再掲

・ちゃんこ鍋
ちゃんこ鍋とは、主に大相撲の力士が食べる鍋料理であり、力士の食事全般を指します。なお「ちゃんこ」とは本来、力士の食事全般を指します。鍋だけがちゃんこと思われがちですが、それは誤りです。しかしながら、力士の食事は、相撲を行うための体格を身につけるために、鍋料理を食べることが多く、それが広く知れ渡ったのがちゃんこ料理であります。力士の食事は、鍋料理を食べることが多く、それが広く知れ渡ったのがちゃんこ鍋です。鍋料理としての「ちゃんこ」が確立されたのは明治時代であり、常陸山谷右エ門が所属していた頃の出羽海部屋において入門者が大量に集まり、一般的な配膳では食事に支障をきたすまでになったため、効率的な面から大きな鍋で作ったものを大勢で共に食べるようになり、これがやがて力士の常食になったと言われています。(Wikepediaから)
両国駅周辺には、数十件のちゃんこ鍋料理やがあり、食べログ(Google)両国周辺ちゃんこ鍋マップをリンクしましました.図中のAはちゃんこ巴潟、Bはちゃんこ霧島、Cはちゃんこ川崎、Dは相撲茶屋 ちゃんこ 江戸沢 東京総本店、Eはちゃんこ照国、Fは割烹かりや、Gは相撲茶屋寺尾、HはChanko Dining 安美 両国総本店、Iはちゃんこ道場 両国駅前店、J相撲茶屋横綱の各店です。

 両国ちゃんこ料理マップ合成

・ちゃんこ霧島両国本店
ちゃんこ霧島両国本店(墨田区両国2-13-7)は、元大関霧島(現、陸奥親方)のお店として知らない人がいないほどの有名店です。JR両国の駅を出て総武線ガードを潜り横綱通りを渡ったところにあり、マクドナルドのすぐ左隣の8階ビルです。

 ちゃんこ料理霧島前の横綱通り(:ちゃんこ霧島前の横綱通りの相撲銅像、:忘年会当日のちゃんこ霧島前の横綱通り)

霧島両国本店での忘年会は、午後7時からで霧島コースでちゃんこ鍋を堪能しました。

 ちゃんこ霧島両国本店(写真拡大)

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イベント 鎌倉国宝館 鎌倉ゆかりの密教尊像・名宝が一堂に集結した特別展「鎌倉×密教」

2011年12月24日 | イベント

kan-haru blog 2011 大安吉日で鶴岡八幡宮は結婚式のラッシュ  
    
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特別展「鎌倉×密教」
鶴岡八幡宮境内にある鎌倉国宝館(鎌倉市雪ノ下2-1-1) で開催の特別展「鎌倉×密教」は、10月15日から11月27日まで行われましたので、終了寸前の快晴の11月25日に見てきました。
特別展は、主催が鎌倉国宝館(鎌倉市教育委員会)で、共済が神奈川県立金沢文庫の、後援が文化庁、NHK横浜放送局により行われ、入場料は、大人が600円、小・中学生が300円です。

 特別展「鎌倉×密教」パンフレット・入場券

鎌倉国宝館へは、京急横浜駅からJR横須賀線に乗り換えて鎌倉を下車して、いつも賑やかな小町通りを経て、鶴岡八幡宮の参道を直進して舞殿の手前を右に折れ東に進み、由比若宮遙拝所と鶴亀石の脇を抜け右に曲がると、その先が鎌倉国宝館です。

 国宝館アクセス図

・鎌倉国宝館
鎌倉国宝館は、1923年(大正12年)の関東大震災による鎌倉でも多くの歴史ある社寺が倒壊し、貴重な文化財を損失したのを契機に、こうした不時の災害から由緒ある文化遺産を保護し、鎌倉を訪れる方々がこれらの文化財を容易に拝観、見学できるよう一堂に展示する施設として企画されました。開館は1928年(昭和3年)で、設立の趣旨に賛同した「鎌倉同人会」をはじめ、多数の人からの多額の寄付と、多数の文化財の寄託を受けて町立鎌倉国宝館開館が開かれました。
1950年(昭和25年)に現在の文化財保護法が制定され、翌1951年には博物館法が制定され、法に基づく勧告・承認施設となり、翌1952年には登録博物館となりました。
1983年(昭和58年)に新館(収蔵庫)を竣工し、平成3年に本館(展示場)が改修されて施設が充実し、平成8年に公開承認施設となりました。 また、平成12年には本館が国の登録有形文化財(建造物)に登録されました。

 鎌倉国宝館(左:開館当初の鎌倉国宝館、右:現在の鎌倉国宝館)鎌倉国宝館ホームページから

平成19年には新館収蔵庫の空調設備の修繕を行い、翌年には免震装置を設置、平成21年には本館彫刻展示場にも免震装置を設置し、収蔵資料の安全な保管に努めています。
1928年(昭和3年)に建設された本館建物は、設計が日本銀行小樽支店や歌舞伎座を設計した岡田信一郎で、施工は松井建設(当時松井組)により建てられ、外観が奈良の正倉院を模し、内部は鎌倉時代の寺院建築の手法が用いられた、鉄筋コンクリート造による高床式校倉風建築で、面積が833.85平方メートルあります。構造は、寄棟状屋根の中央部には小屋裏位置に採光用の越屋根を隠し、内部には虹梁大瓶束形式で採光用越屋根の棟を支える造りとし、また入り口の窓には鎌倉を詠んだ平安時代の和歌に登場する星月のマークがかたどられたヨーロッパのステンドグラス(小川三知作)がはめ込まれ、和風表現と近代的技法の調和が図られています。

 鎌倉国宝館展示会場(左:彫刻展示会場、右:ケース展示会場)鎌倉国宝館パンフレットから

・密教
密教とは、秘密仏教の略称であり、「秘密の教え」を意味するとされ、灌頂の儀式を受けた者以外には示してはならないとされた点で「秘密の教え」だとされます。また、言語では表現できない仏の悟り、それ自体を伝えるもので、凡夫の理解を超えているという点で「秘密の教え」だとも言われています。
日本に密教が初めて紹介されたのは、唐から帰国した最澄(伝教大師)によるものであったが、本格的には、唐における密教の拠点の青龍寺において修学した空海(弘法大師)が、806年に日本に帰国して紹介されてからであります。 また、空海に後れをとるまいと唐に留学し密教を学んだ円行、円仁(慈覚大師)、恵運、円珍(智証大師)、宗叡らの活躍も挙げらます。
宗派としては、空海が唐の青龍寺恵果に受法して請来し、真言密教として体系付けた真言宗(東密:東寺(教王護国寺)の密教)と、最澄によって創始され、円仁、円珍、安然らによって完成された日本天台宗(台密:天台密教)が密教に分類されています。真言宗が密教専修であるのに対し、天台宗は天台・密教・戒律・禅の四宗相承である点が異なっています。
・・曼荼羅
曼荼羅(まんだら)は仏教(特に密教)において聖域、仏の悟りの境地、世界観などを仏像、シンボル、文字、神々などを用いて視覚的・象徴的に表したものです。
両界曼荼羅は、密教の中心となる大日如来を中心とした数々の「仏」を一定の秩序にしたがって配置したものであり、「胎蔵界曼荼羅」、「金剛界曼荼羅」の2つの曼荼羅を合わせて「両界曼荼羅」と称する。胎蔵曼荼羅は「大日経」、金剛界曼荼羅は「金剛頂経」という密教経典をもとに描かれています。(Wikipediaから)

 曼荼羅(左:胎蔵曼荼羅、右:金剛界曼荼羅)

・特別展の展示品
11月25日は大安吉日で鶴岡八幡宮の参道を国宝館に向かうと、拝殿では結婚式を挙げており目出度い日に遭遇しました(トップ写真参照)。拝殿から右に進み由比若宮遙拝所と鶴亀石の脇を抜けると展示会場の国宝館です。

 鶴岡八幡境内から国宝館へ(左:由比若宮遙拝所、中:鶴亀石、右:国宝館)

展示会場の国宝館入り口を入ると彫刻展示会場であり、会場中央に正方形の展示台があり、その周囲を取り巻いた壁際にも展示棚があり、そこには展示品目録一覧(クリックすると表示)に示された密教仏像が露出の状態で展示してあります。展示品は、展示期間を前期(10月15日~11月6日)と後期(11月8日~27日)に分けて展示仏像を出品してあります。
展示仏像は、中央の展示台に五大明王像が並び、入り口手前から反時計廻りに回ると最初に大日如来が4体展示され、角には不動明王(園城寺)が置かれ、それに並んで右壁際には不動三尊、不動明王(大山寺、覚園寺)、阿閦如来坐像、聖観音に続き、角には如意輪観音と並んでいます。それに並んで奥の壁際を左に進み千手観音、十一面観音、文殊菩薩、普賢菩薩、弁財天、歓喜天、荒神と並んでいます。左壁際には愛染明王(青蓮寺、五島美術館)が2体展示されてありましたので拝観しました。

 展示仏像(左:大日如来坐像 静岡・修禅寺、中:愛染明王坐像 東京・五島美術館、右:歓喜天立像 鎌倉・巨福呂坂町内会)鎌倉国宝館パンフレットから

彫刻展示会場の隣の会場はケース展示会場で、曼荼羅や密教絵画と鎌倉の密教に関する歴史資料の名宝が多数展示してありましたので観賞しました。

 展示名宝(左:虚空蔵菩薩像[部分] 鎌倉・円覚寺、右:五秘密菩薩像 神奈川県立近代美術館)鎌倉国宝館パンフレットから

一通りの見学が済むと、12時半となっていましたので昼食をとり、舞殿に戻り大石段の横の倒木した大いちょうの木の前を通り、車祓い所の前から大船行きのバスで帰宅しました。

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イベント 火/水/油/3人展 異業種交流会員の出展画を見て伯爵邸改築レストランで趣ある昼食を楽しむその2

2011年12月06日 | イベント
kan-haru blog 2011 TEIENTIOKYOバーカウンタ  
    
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TEIENTOKYOでランチ
3人展を見てギャラリー青藍を出たのが13時少し前の昼時なので、外苑東通りに向かって戻ると右側に白壁塀の中央に古い邸宅の立派な門構えが見え、そこにはTEIENTOKYO(東京都港区六本木3-15-15)が開いている飲食処で、昼はランチを提供している案内がありましたので寄ってみました。

 TEIENTOKYO案内図

TEIENTOKYOの建物は、伯爵邸の跡で大正時代の建築で、現代でもマッチする邸門を入るとやや右側が2階建ての趣ある和風建築の佇まいで、邸宅玄関前の庭と左面の周囲には300坪ほどの広い庭があり、庭木が植えられて一歩中に入ると静寂な世界で、六本木の繁華街通りに面しているとは感じられません。

 TEIENTOKYO(Google Earth)

TEIENTOKYOは、ギャラリー青藍の通りに面した白壁塀に囲まれた旧伯爵邸の跡を改装して営業をしており、門を入るとやや右側が旧邸宅で、玄関がTEIENTOKYOの入口です。

 TEIENTOKYO入口(:白壁塀に囲まれた旧伯爵邸、:邸門はTEIENTOKYOの入り口、:TEIENTOKYOUの玄関口)

玄関を入るとお食事の部屋は、旧伯爵邸の1、2階のお部屋の間取りをそのままにして改装した部屋で、玄関を入って直ぐに料理部屋があり、その奥に庭に面したお部屋と、中央に金庫室を改装した部屋などがあり、元金庫室のお部屋を選んで昼食をとりました。金庫室は倉なので周囲には窓が無く、金屏風絵が周囲の壁面に嵌め込まれており、大型金庫は移動が困難のため前面を屏風絵で覆って目隠してそのまま残してありました。
当日のランチのメニューは、ダンジネスシーザ・サラダ、ダンジネスコールスロー・サンドとロルボナーラの3種類で、コーヒー付きで1800円ですが時間が遅く入ったのでそのうちの1種類は品切れとなっていました。ダンジネスはカニ料理で、遠い昔にサンフランシスコに行った想い出がよぎりました。

 大正時代旧伯爵邸の面影を遺すTEIENTOKYO(:TEIENTOKYO入口、:TEIENTOKYO玄関前庭、:食事を摂った1階金庫室の客室)

食事が済んでから2階のお部屋を見てもよいとのことなので、店員さんの案内で階段を上がり間取りそのままのお部屋を見学しました。2階の客室の部屋は、大正時代の伯爵邸の和室・洋室の佇まいをそのまま残し、豪華なテーブルと革製の椅子を配置してゴージャスな雰囲気がセットされています。

 TEIENTOKYOのゴージャスな2階客室(:2階の客室を見る、:椅子に座ると豪華な雰囲気に浸る、:ゴージャスな2階客室)

邸宅横の庭に出ると、元の古木を遺して日本庭園の地上に床が張られ、ベンチなど配してあり、結婚披露宴やイベントが行える様になっています。
豪華な気分でコーヒーを飲み、昼食を済ませてTEIENTOKYOを出たのは、14時半近くでした。これは、お店の配慮なのか食事とコーヒーの出てくる時間が長かったためです。このような雰囲気での食事は、時間をたっぷりとかけて楽しむのがTEIENTOKYOでの食事なのです。何時もの昼の食事とは、異なった世界のランチタイムでした。

 TEIENTOKYOの庭園(写真拡大)

2011 Xmasトイラン
TEIENTOKYOを出て外苑東通りの交差点で解散して、14時20分頃に六本木交差点で信号待ちしていると、外苑東通りを東京ミッドタウン方面から、約150台のハーレーにまたがった真っ赤なサンタ軍団たちがパレードをし、東京タワー方面に行進してあっという間に通過しました。
このオートバイのデモ行進は、第5回 2011 Xmasトイランで、11月は児童虐待防止運動強化月間であり、ハーレーサンタCLUBがオレンジリボン運動として、「児童虐待をなくそう!」をテーマにした示威運動です。ハーレーサンタCLUBは12年前から行っている児童養護施設訪問から得た経験を元に、「児童虐待防止の啓蒙活動」と「被虐待児の就活」を中心に行っているボランティア団体であり、現在全国で600人余りのライダーが登録しています。
東京では、2011年には、11月23日(祝)と12月23日(祝)にパレードが行われます。このパレードの【Xmasトイラン(TOYRUN)】とは、クリスマスの日のトイ(Toy=おもちゃ)を持ってバイクにて(ランRun=走る)乗ると言う意味だそうです。12月23日の約180台のトイランを見るには、パレードが通る主な通りは、渋谷区明治公園を13時に出発して、新宿→原宿→表参道→青山通り→赤坂→六本木→東京タワー方面に進みますので、11月23日に六本木交差点を通過したのが14時20分頃でしたので参考にして下さい。

 ハーレーに跨ったサンタさんのパレード(写真拡大)

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イベント 火/水/油/3人展 異業種交流会員の出展画を見て伯爵邸改築レストランで趣ある昼食を楽しむその1

2011年12月04日 | イベント
kan-haru blog 2011 ギャラリ青藍入口 
    
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火/水/油/3人展
異業種交流会員の渡辺氏からの、火/水/油/3人展を六本木青藍で開催の案内状を頂き、H11異業種交流研究会に集合した時に、会員の3人が11月23日(祝)12時に六本木交差点で落ち合って行くこととし、見に行きました。

 陶芸・水彩・油彩展案内状

火/水/油/3人展は、昭和、平成を駆け抜けた同世代が新たな目標を定め挑戦を始めて、“一路に徹する”エネルギーを日々の創作に・・・そんな思いの一歩で製作した、齋藤雅之氏の陶芸作品と、渡辺正博しの水彩画作品および、奥村春男氏の油彩画作品を一堂に合わせてギャラリー青藍に出展し開催した3人展です。3人展の開催期間は、2011年11月20~26日の11時~19時です。

 青藍・TEIENTOKYOアクセス図

ギャラリー青藍(東京都港区六本木3-15-9)は、Taste of Japanを基本姿勢として意識し、貸しギャラリーとしては、その基本姿勢に基づく古典から現代までの広い分野の作品を受け入れています。青藍へのアクセスは、六本木交差点から外苑東通りを東京タワー方面に進み、ドンキホーテから信号二つ目の交差点を左に曲がり、100m程行くとギャラリー青藍です。

 3人展展示風景(写真拡大)

3人展は、会場左側の壁面に油彩画が展示され、右側壁面に水彩画を展示し、周囲のテーブル一面に陶芸品が出品されていました。見学者は、昼時でしたが祭日のため多く、出展者の3人は応対に忙しいほど次から次へと訪れて来て盛況でした。

 3人展出展作品(:陶芸作品展示、:水彩画作品展示、:油彩展示作品)

出展の作品を一通り観賞して廻りました。会員の渡辺氏の水彩画には、ルーマニア・ブラン城やサクスホンなどが展示されておりました。

 水彩画作品1(写真拡大)

また、画家仲間と出かけて描いた作品の蘇州なども展示されていました。

 水彩画作品2(写真拡大)

3人展を観賞させて頂いた後に、記念に出展者3人の写真を撮らせて頂きました。異業種交流会の水彩画作者の渡辺氏は、写真左の右側の方です。3人展の作者は、何れも1944年生まれで、陶芸家の斉藤雅之氏は外資系の広告代理店からグラフ誌の編集記者を務められ、北中南米、欧州、旧ソ連、東欧などを歴訪されたそうです。水彩画家の渡辺正博氏は日本を代表するアーキテクチャーの会社の創設者です。油彩画家の奥村春男氏は広告会社「サン・アド」を設立し元日本グラフィックデザイナー協会会員で活躍されていました。

 3人展見学観賞記念撮影(:3人展出展の製作者諸氏、:作者と一緒に記念撮影、:見学記念撮影のH11メンバー)

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イベント 東京都立産業技術研究センター本部 異業種交流会H11で10月開設の施設見学その2

2011年11月18日 | イベント
kan-haru blog 2011 産技研高電圧実験室 
    
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都立産業技術研究センター本部
東京ビッグサイト「産業交流展2011」からの見学ツアーの地方独立行政法人都立産業技術研究センター本部(江東区青海2-4-10)は、これまであった産技研西が丘(北区西が丘)と駒沢(世田谷区深沢)を統合し、平成23年10月3日から、ものづくり産業の総合的な支援拠点として、青海の本部(江東区青海)で業務を開始しました。

 都産技研本部

都産技研の見学会を行った異業種交流会H11メトロは、地方独立行政法人東京都立産業技術研究センター西が丘で異業種交流事業として募集した、東京都異業種交流会グループ中の平成11年に発足したグループの一つで、毎月例会を開催しております。
都産技研の沿革の概要は、1970年(昭和45年)に東京都立工業奨励館(1921年設立)と東京都電気研究所(1924年設立)を統合し、東京都立工業技術センターが設立されました。1997年(平成9年)に東京都立アイソトープ総合研究所(1959年設立)と統合し、東京都立産業技術研究所として発足しました。2000年には、東京都立繊維工業試験場と統合しました。2006年には、城東地域中小企業振興センター、城南地域中小企業振興センター、多摩中小企業振興センターの各技術部門を統合し、地方独立行政法人東京都立産業技術研究センターとなります。2010年には多摩テクノプラザを開設し、2011年には臨海副都心青海地区に本部が開設しました。

 モノレールから見た都産技研本部(写真拡大)

・都産技研見学
東京ビッグサイトから送迎バスで都産技研まで他の見学グループと一緒に乗車して、研究センターの見学です。以前に、H11メトロでは西が丘の研究センター時の見学は行っています。バスを降りてから、産技研エントランスホールを抜けて3階に進み見学の開始です。

 都産技研の見学(:エントランスホール展示コーナー、:エントランスホール受付、:産技研セミナーホール)

3階のシステムデザインセクターでは、デザインの活用によるものづくりを総合的に支援するために新本部に開設されたもので、従来の平成18年にデザインセンターで行っていた、中小企業のものづくり製品の意匠に加え、商品企画から機能、構造、安全性についての設計支援を、さらに機能と設備の強化が図られました。
製品設計では、コンピュータを駆使した設計・解析から、材料選定やスピーディーな試作モデルの製作、試作品の評価までの総合的な支援を行っています。このセクターでは、共同研究開発室や、製品開発支援ラボなどがあります。

 3次元造型機による試作支援(写真拡大)

商品企画での支援は、「売れるデザインブランド」の確立支援が強化され、新たに設置されたデザインギャラリーを活用し、企画・マーケティングから販売促進までの支援が拡充されました。

 デザインギャラリー(写真拡大)

新本部の新規支援事業の分野では、今後の成長が期待されるメカトロニクス技術分野の支援に取り組み、ミドルウェア、モジュール部品を活用し、最先端のメカトロニクス・ロボット技術を取り入れた製品開発の支援のため、新しく導入した、産業用ロボットの実演やメカトロ分野が取り組んでいく設備を見学しました。

 メカトロニクス分野の支援設備見学(写真拡大)

見学は進み2階に降りて実証試験セクターでは、安全で信頼性の高い製品開発を支援するため、部品から製品にいたるまで、振動、衝撃、耐ノイズ、動作、温湿度、腐食劣化などの評価試験機器を集約した、環境試験機器装置を見学しました。

 環境試験装置(写真拡大)

1階に降りての高度分析開発セクターの見学では、無響室・残響室やシールド室などの音響関係の支援設備から見学しました。

 音響関係の測定・試験設備の見学(:無響室、:音響測定室、:遮断壁) 

次に製品や材料などを高度に資料分析するための、走査電子顕微鏡、X線分析装置などの高度な構造観察をする分析装置を見学しました。

 製品材料の高度分析機器装置の見学(写真拡大)

見学の最後は高電圧実験室で、都産技研の特徴的な技術支援設備で新しく高電圧試験装置を設置され、交流高電圧発生装置や雷インパルス電圧発生装置をコンピュータ制御で試験が行えます。見学では、落雷の実験を見せて頂き、落雷時の大きな発生音には見学者は驚かされました。今回の見学で、都産技研の支援設備は、新技術の進展に向けて大変と充実され、いろいろと参考になりました。
見学が終了してから、H11メトロのメンバーとはゆりかごめで新橋に戻り、駅周辺の飲み屋さんでアルコールを傾けながら、和気あいあいと反省会を行い解散しました。

 高電圧実験室の見学(写真拡大)

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イベント 東京都立産業技術研究センター本部 異業種交流会H11で10月開設の施設見学その1

2011年11月14日 | イベント
kan-haru blog 2011 国際交流展メインステージ
    
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都立産業技術研究センター本部施設見学ツアー
所属している東京都異業種交流会H11メトロの定例の見学会は、江東区青海に新本部を開設し、10月3日に業務を開始したばかりの、東京の中小企業のものづくりを支援する総合拠点の地方独立行政法人東京都立産業技術研究センター新本部施設を、同26日に見学しました。
見学ツアーは、東京ビッグサイトで「産業交流展2011」が開催中の同26~28日の間の、11時、13時、14時50分および16時40分の1日4回に、毎回の定員が24名で開催され、展示会場内の首都圏テクノネットワークゾーンに集合し、ビッグサイト前から新本部まで16時40分の回のバスで移動しました。

 東京都立産業技術研究センターパンフレット

産業交流展2011
産業交流展2011のビッグサイトには、15時40分ごろ会場エントランスに着き、東5・6ホールに進み会場を1週して見てきました。産業交流展は今年で第14回を迎え、首都圏に事業所を有する中小企業などの優れた技術や製品を一堂に展示し、販路拡大、企業間連携の実現、情報収集・交換などのビジネスチャンスを提供することを目的としています。主催は、東京都、東京商工会議所、東京都商工会議所連合会、東京都商工会連合会、東京都中小企業団体中央会、(株)東京ビッグサイト、 (公財)東京都中小企業振興公社、(地独)東京都立産業技術研究センターなどの産業交流展2011実行委員会で、後援は(社)東京工業団体連合会、(独)中小企業基盤整備機構 関東支部、東京信用保証協会、東京中小企業投資育成(株)、アジア大都市ネットワーク21で、連携の県市は埼玉県、千葉県、神奈川県、さいたま市、千葉市、横浜市、川崎市、相模原市などです。今年の産業交流展の入場者は、3日間で5万2千402人です。

 産業交流展2011ガイドブック

出展分野のゾーンは、「情報」、「環境」、「医療・福祉」、「機械・金属」の4分野を中心に、特別企画として「震災復興総合支援ゾーン」、「九都県市のきらりと光る産業技術ゾーン」、「首都圏テクノネットワークゾーン」、「アジア大都市ネットワーク21・アジアゾーン」、「海外企業・国際化支援ゾーン」の出展と、メインステージイベントには、26日は石原慎太郎 東京都知事が出席しての東京都ベンチャー技術大賞表彰式、株式会社NTTデータ経営研究所所長・社会経済学者 斎藤精一郎氏の基調講演、東亜大学医療学部准教授 中田敬司氏の震災復興セミナーが行われ、27,28日にも震災復興セミナー、経営革新セミナー、アジアビジネスセミナー、知財セミナーなどが各日3セッション行われました。その他、出展者プレゼンテーションが3日間で全34セッションが行われました。

 産業交流展2011(:産業交流展2011案内板、:産業交流展入場者受付、:産業交流展出入口)

展示会場奥の入り口を入ると東5ホールで、左奥の展示場は情報ゾーンではIT関連技術、情報通信サービス、ソフトウェア技術などの9技術分野の企業の128小間が出展展示していました。情報ゾーンの突き当りの左奥は、同時開催の東京デザインマーケットのコーナーで、東京都が実施する中小企業とプロフェッショナルデザイナーの出会いと商談の場であり、デザイナーと企業の間で多くの商談が成立し、商品化に結びついています。情報ゾーンの手前は環境ゾーンで、燃料電池などのエネルギー技術、リサイクル技術、環境改善技術などの9技術分野の企業の78小間が出展展示していました。

 産業交流展展示風景1(:情報ゾーンのコーナー、:東京デザインマーケット、:環境ゾーンのコーナー)

環境ゾーンの後ろ側は震災復興総合支援ゾーンのコーナーで55小間が出展しており、環境ゾーンの手前側の東6ホールの医療・福祉ゾーンにはバイオ関連技術、常時モニタリング型医療管理システム技術などの5技術分野の企業の58小間が出展展示し、その手前の機械・金属ゾーンにはロボット産業、バイオテクノロジー分野などの5技術分野の企業の154小間が出展展示していました。

 産業交流展展示風景2(:震災復興ゾーンの有備コナー、:医療福祉ゾーンのイイダ産業、:機械金属ゾーンの大田ブランド推進協議会)

異業種・団体ゾーンは機械・金属ゾーンの後ろ側に展示してあり12小間が展示しています。多摩・産業コミュニテイ活性化プロジェクトは機械・金属ゾーンに4コマ展示してあり、TASKプロジェクトは台東区、荒川区、足立区、墨田区および葛飾区の中小企業による集団の技術プロジェクトです。

 産業交流展展示風景3(:異業種・団体ゾーン、:多摩・産業コミュニテイ活性化プロジェクト、:TASKものづくり大賞入賞作品展示コーナー)

首都圏ネットワークゾーンには、公設研究機関や企業が出展し、豊富で優れた研究結果を展示しており、 中小企業と公設研究機関・企業との出会いの場として活用できます。このゾーンには、東京都立産業技術研究センターが出展しており、同コーナー内に同センター新本部施設見学会の受付コーナーが設置されています。

 産業交流展展示風景4(:首都圏ネットワークゾーン、:東京都立産業技術研究センター展示コーナー、:東京都立産業技術研究センター本部見学受付コーナー)

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