goo blog サービス終了のお知らせ 

K&A

kan-haruの日記

イベント 日生劇場 坂東玉三郎特別舞踊10月公演を見る

2011年10月19日 | イベント
kan-haru blog 2011 坂東玉三郎特別舞踊公演パンフレット   

< 総合INDEX へ

母校明大の歌舞伎観劇会2007年の秀山祭九月大歌舞伎の夜の部の観劇会では、壇浦兜軍規の「阿古屋琴責」で、坂東玉三郎の演じる琴、三味線、胡弓の独奏と唄が、運良く1階1番前の20番という齧り付きの席で観賞することができました。
年1回程度の歌舞伎鑑賞では素人ですが、三島由紀夫に見出された坂東玉三郎の類稀な美を煌めかせた美貌とその才能の演技は、女形の頂点にいて、その美しさには舞台を観る歓びと感動に胸が高鳴ります。そこで、歌舞伎ではありませんが玉三郎の美に浸りたいと、日生劇場10月公演の坂東玉三郎特別舞踊公演を、10月13日に見に行きました。

 ポスター

日生劇場
日生劇場(千代田区有楽町1-1-1)は、日本生命が東京に進出するにあたり、いわばメセナ活動の一環として劇場を作りたいということで、日生第5代社長弘世現が五島昇に相談し、浅利慶太らに紹介され、弘世の並々ならぬ尽力により生まれた日生劇場で、1963年10月20日にベルリン・ドイツ・オペラを招いてこけら落としが行われました。

 日生劇場(写真拡大)

上演は、現代劇や歌舞伎、そしてオペラやミュージカルの公演などに使用されてきました。

 ロビー(写真拡大)

劇場の外観は、花崗岩仕上げの古典外観で、客席の天井・壁は音響効果上、うねるような曲面で構成され、天井には2万枚ものアコヤ貝の貝殻を散りばめた劇場で、海の底をイメージしてデザインされたと云われています。座席は、1階、中2階、2階席で1,330人を収容します。

 劇場内(写真拡大)

アクセスは、東京メトロ日比谷駅のA13出口から徒歩1分です。観賞の座席は、1階席N列26、27番で後ろ寄りでしたが、通路際の席で舞台が見やすい劇場なので心地良く観賞できました。

 入場券

玉三郎特別舞踊
玉三郎が初めて日生劇場に出演されたのは、35年前の1976年(昭和51年)で、今回の公演は16年ぶりです。公演は、14時からの開演で、「傾城 吉原絵巻」では花魁道中を艶麗に魅せ、「藤娘」ではクドキや酔態を色っぽくみせる様子など女方舞踊の名作です。最後は「楊貴妃」で実在の美女を題材から得て幽玄の世界にいざない、平成23年度第66回文化庁芸術祭参加公演で、10月2日から26日までの上演です。

・傾城 吉原絵巻
劇場は真っ暗になり、開幕です。長唄舞踊の「傾城」は、1828年(文政11年)に江戸中村座で初演され、作詞は二世瀬川如皐、作曲は四世杵屋三郎助です。舞台が明るくなり背景の長唄連中による長唄が始まると、華やかな吉原仲之町で吉原の傾城が登場する場面、新演出によるもので金糸の豪華な鳳凰の刺繍を施したこの世のものとは思えない衣装で、華麗な花魁道中に外八文字を踏んで見せます。ここで、舞台背景は襖の絵柄に変わって吉原の座敷となり、傾城は座敷へはいっていきます。座敷に戻った傾城は、間夫に恋いする女心を艶やかに踊り、待っても現れない間夫に恨み言を言いながら純粋な恋心をしっとりと表現します。長唄が進むと、座敷から眺める秋の月の趣を語りながら間夫を待つ夜を舞います。やがて、うっすらと雪化粧の郭の情景を思いながら恋心を舞い納めます。

 楊貴妃

・藤娘
藤娘は、1826年(文政9年)に江戸中村座で初演され、大津絵から抜け出た藤娘が躍る趣向でしたが、1937年(昭和12年)に六世尾上菊五郎が歌舞伎座で踊った時は、藤の精が藤娘になって登場するように改めて上演されました。
幕開きで劇場が暗転して、置唄が始まり照明が明るくなると、舞台は近江国の大津で、上手の松の大木には藤棚の藤が絡んでいる場面で、藤柄の着物と帯を付けて、黒塗笠を被った娘姿の藤の精は、藤の枝を手にしながら踊り始めます。続いて藤の精は、移り気な男心を嘆き、女心の切なさを語り、固く契った仲でも男は裏切るので妬ましいと、恋のもどかしさを艶やかに踊ります。続いて松の大木に去り、小陰から現れるとゆったりと藤音頭を踊り始めます。次に、藤の花色を豊かになるように酒を与えると、酒に酔った藤の花が松の木に絡んで離れなくなった様子を艶めかしく踊ります。その後、藤の精も恋しい相手と一緒に酒をことほど、嬉しいことはないと一途な女心を見せます。やがて、酒に酔ってほろ酔い加減になって、恋が成就するようにと軽快な手踊りを披露します。辺りは夕暮れとなり、雁が帰って行くのを見て、藤の枝を担いで名残を惜しみながら姿を消します。

 藤娘

・楊貴妃
楊貴妃は、1991年(平成3年)に熱海のMOA美術館の能舞台で初演された新作舞踊です。白居易の長編叙事詩「長恨歌」の後半部には、楊貴妃を失った玄宗皇帝が仙術士の方士に命じて、楊貴妃を捜す物語が描かれています。この後半部を題材にして、室町時代に金春禅竹によって能の「楊貴妃」が作られました。舞踊の「楊貴妃」は、「長恨歌」の後半部と能「楊貴妃」をモチーフにしながら、玄宗皇帝から手紙を預かった方士が冥界で楊貴妃に出会う物語を、幻想的に描いています。京劇に通ずる玉三郎によって、京劇の女方の手法が取り入れられ、能、京劇、歌舞伎舞踊を融合させた、玉三郎しか演じられない、美意識に支えられた夢幻の舞踊です。
あらすじは、唐の時代の玄宗皇帝は、国事と政治を疎かにし、国内では反乱がお起きて、皇帝から寵愛を受けていた楊貴妃に原因があるとして命が奪われます。皇帝は楊貴妃への気持ちが募るばかりで、仙術使いの方士(坂東彌十郎出演)に楊貴妃の魂を捜すように命じます。皇帝からの手紙を携えた方士が蓬莱山に辿り着き、楊貴妃の魂を呼び出すと、在りし日の姿で現れる場面では、箏曲、胡弓、尺八の楽曲と唄の演奏のもとに、白い紗幕の裏に誰もが認める美しい楊貴妃が幻想的に登場します。楊貴妃が舞いながら前進すると紗幕が開き、方士と対面し皇帝からの手紙を渡すと、楊貴妃は皇帝と送った日々を懐かしみ、その想い出を踊り始めます。かって玄宗皇帝が作った寛裳羽衣の曲に合わせて、楊貴妃は2枚の扇を使い悠揚におどり、せめて夢だけは覚めないで欲しいと願う。また、皇帝と楊貴妃は七夕の夜、比翼の鳥や連理の枝に喩えて、永遠の愛を誓った。その誓いを胸に秘めて、艶やかに楊貴妃は踊ります。やがて楊貴妃は、方士と出会った証拠にと、皇帝との想い出の釵を方士に渡し、蓬莱の彼方に去って行きます。

 楊貴妃

舞踊を終え幕が閉じると、何度も何度ものカーテンコールに応えて、深く挨拶を繰り返し、緞帳が降りて玉三郎の舞踊の美の世界から、現実に引き戻されました。初めて見る舞踊公演で、歌舞伎芝居と異なり台詞の無い世界の舞踊で、筋書きを表現していく芸は素晴らしいものです。玉三郎の新構成の「傾城」花魁道中の目の覚めるような美しさは、驚きで表現できません。「藤娘」の舞台構成も、上手の松の大木から張り出した枝の構図と、前に置かれた藤棚を中心に、咲き乱れる大きな藤の花の中で、藤娘を絵として観客を魅了させて見せる芸術は素晴らしいものです。「楊貴妃」では、一転天空を現すシンプルな背景の背景幕の前での、能、京劇、歌舞伎舞踊を融合させた芸術は玉三郎だけの世界です。初めての、舞踊観賞には感激して、劇場内の喫茶店でお茶を飲んで休み、感激の興奮を納めて帰路につきました。

< 総合INDEX へ
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(10月分掲Indexへ)
・カテゴリー別Index イベント総目次 2011年版2010年版2009年版2008年版2006・2007年版
<前回 イベント ものづくりのまち大田区で初の出展企業、大学の製品化前の研究開発成果発表のフェア開催 へ
次回 イベント 東京都立産業技術研究センター本部 異業種交流会H11で10月開設の施設見学その1
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イベント ものづくりのまち大田区で初の出展企業、大学の製品化前の研究開発成果発表のフェア開催

2011年10月13日 | イベント
kan-haru blog 2011 第1回おおた研究・開発フェア会場入り口
     
< 総合INDEX へ

おおた研究・開発フェア
モノづくりのまち大田区では、初めての大学と企業が出展して、大学と企業との技術のニーズとシーズの交流を図り、最新の研究開発の成果や新製品、新技術を公表して、その技術を活用して共同研究・開発などの可能性 を確認し、将来の発展につなげる、第1回おおた研究・開発フェアが10月11、12日に大田区産業プラザPiO(大田区南蒲田1-20-20)大展示ホールで開催されましたので、11日に見に行きまあした。
主催が大田区、(公財)大田区産業振興協会で、後援は関東経済産業局、近畿経済産業局により、技術のシーズは新エネルギー(2社)、環境技術(8社)、機械(14社)、医療・ヘルスケア(6社)、ナノテク(3社)、材料技術(10社)、バイオ・植物工場(1社)、IT(2社)、その他(14社)の技術分野で、大田区企業30社、大学17校、大田区外企業14社が出展しました。

 おおた研究・開発フェア案内(左:第1回おおた研究・開発フェアポスター、右:産業技術研究センター施設公開ポスター)

・同時開催イベント
おおた研究・開発フェアとの同時開催には、おおた拡大ビジネスマッチングフェア内事業の(1)「第43回モノづくり受発注大商談会 in 大田」で平成元年以来の実績を誇る大田区の受発注商談会。(2)「2011オープンイノベーションマッチング in 大田商談会」で大手企業提示ニーズとの直接商談会。(3) 「研究開発マッチングセミナー」で講演『中小企業のトータル・リセット』~ひとつ先に進むための方法~、講師水島温夫氏元三菱総合研究所経営コンサルティング事業センター長。(4)「国際取引商談会 in 大田」で大田区の技術で製品化したい、大田区の企業と取引を開始したい外資企業などとの国際取引をテーマにした商談会です。

 フェア展示会場1(:研究・開発フェア受付、:プレゼンテーション会場、:出展者のプレゼンテーション)

また、(5)「(独)東京都立産業技術研究センター 城南支所『施設公開』」が11、12日に開催され、マイクロフォーカスX線透視装置によるミクロの世界や、電子顕微鏡での80万倍の世界などが見どころです。城南支所の施設公開は、2009年の「第14回マシンツールフェアOTA」開催時に、施設の公開(「イベント モノづくり大田区 マシンツールフェアOTA と都立産業技術研究センター施設公開(その2)」参照) が行われた際に見ておりますので、今回は見学をパスしました。

 フェア展示会場2(写真拡大)

・フェアの内容
おおた研究・開発フェア会場は、1階大展示ホールを2分して左側がフェア会場で、右側が同時開催の商談会の会場に分かれていました。会場のレイアウトは、入り口手前の若番小間から横向きの8列の小間と、会場堺の壁際に縦向きの小間を配して61小間が並び、出入り口を入った先に受け付けと、その左手に商談席があり、一番奥の左半分に講演コーナーが設けてありました。小間の割り振りは、若番号小間から技術分類の新エネルギー、環境技術、機械、医療・ヘルスケアー、ナノテク、材料技術、バイオ・植物工場、IT、その他の順に配置されており、出展者リスト(ここをクリックすると見られます)は大田区企業30社、大学17校、全国の企業14社です。


講演コーナーでは、両日に出展者プレゼンテーションが予定され、出展企業・大学によるプレゼンテーションのスケジュール(ここをクリックすると見られます)は、11日は9企業・大学が、12日は3企業によりプレゼンテーションが行われました。

 フェア展示会場3(写真拡大) 

・企業の出展技術内容例
フェア出展企業の中から、何社かの展示品の新製品、新技術成果を覗いてみました。まず、小間番号1の(株)東邦精機製作所 (大田区南蒲田1-6-21)で慶應義塾大学との共同開発の「MGC 自重補償機構デモ機」で、10kgの鉄塊をどの位置でもバランスさせ停止姿勢をとることが可能な移送装置です。現在、タイヤの移送案件に挑戦中で未来のエコ・アクチュエーターになる夢を追いかけているそうです。

 (株)東邦精機製作所東邦精機製作所「MGC 自重補償機構デモ機」

小間番号2の(株)ヤノ技研(兵庫県宝塚市売布1-25-13)の潜熱蓄熱材(PCM)で、冷房カプセルと暖房カプセルがあり、縦が280mmで横が130mm、厚さ9mmのLサイズと、縦 が170mmで横が130mmのSサイズがあり、冷やした冷房カプセルを冷蔵庫にセットすれば停電しても食材の無駄を無くします。また、暖房カプセルは湯煎して暖房に利用できます。

 (株)ヤノ技研潜熱蓄熱材(PCM) 

小間番号8の(株)マテリアルハウス(大田区仲池上 1-19-3)の光ダクトは、追尾・制御をしないで、明るさを一定に保つ新しい技術であり、部屋の隅々まで光が行渡る、全く新しい照明空間を作り出したり、またまるで木漏れ日のような安らぎの空間を演出することなどができます。

  (株)マテリアルハウスの光ダクト・ラインライトに使用のアルミ鏡面板

小間番号57の富士通(株)(川崎市中原区上小田中4-1-1)では、(1)簡易型制震技術としてラックなどの電子機器の移動を防止する免震機構の実装方法、(2) 映像監視技術として常時記録装置で、侵入者や設備監視で異常を検知すると、監視者に異常通知をして、異常発生時の映像のみを監視者側に送る技術、(3)リサイクル対応型紙綴じ技術で、紙の繊維に水の作用を利用して、綴じ針を使用せず紙を綴じますので、針の取外しを要さずそのままリサイクルできます。

 リサイクル対応型紙綴じ技術


< 総合INDEX へ
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(10月分掲Indexへ)
・カテゴリー別Index イベント総目次 2011年版2010年版2009年版2008年版2006・2007年版
<前回 イベント 都営交通100周年 荒川電車営業所で記念イベント開催と33年ぶりの「花電車」運転 その3 へ
次回 イベント 日生劇場 坂東玉三郎特別舞踊10月公演を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イベント 都営交通100周年 荒川電車営業所で記念イベント開催と33年ぶりの「花電車」運転 その3

2011年10月10日 | イベント

kan-haru blog 2011 出発式前の花電車  更新動画を追加Ⅱ版2014.8.19   

< 総合INDEX へ

花電車展示
荒川車庫前の出庫線には12時半から花電車が展示され、まずは車両から離れての撮影会が行われます。

 車両からはなれての撮影会(写真拡大)

13時になると荒川車庫内への入場が自由となり、撮影者は花電車の周囲に移動して車両の傍から撮影となります。

 花電車の周囲に近ずいての撮影会(写真拡大)

花電車の発車式のセレモニーは、13時30分に行われますが、とても混雑して見られないと判断して、都電おもいで広場の裏で開催している都電グッズ売り場に、花電車運行の記念品を買いに行きました。

 荒川の日のイベント3(:出発式が近ずく出庫線の花電車、:都電グッズ売り場)

・花電車記念グッズ
花電車の記念にとグッズ売り場では、もう人気のグッズ品は売り切れており、都電カレンダーと花電車運行記念の都電一日乗車券に、都電ボールペンを買いました。

 グッズの都電カレンダーと記念一日乗車券(:2012年都電のある風景カレンダー、:花電車運行記念一日乗車券)

記念のグッズ品を購入したところ、荒川線系統図カードに挟んだとあらん紙挟さみクリップと、カレンダーと都民の足100周年シールに、食してしまったので写真は無いが非買品の記念デザインの「うまい棒」を頂きました。また、荒川車庫前では、花電車運行の記念に配っていた花のタネも頂いてきましたので、記念のグッズは結構揃いました。

 花電車運行記念グッズ(左上:購入の記念ボールペンと配って頂いた花のタネ、左下:マスコットアランの紙はさみクリップと荒川線系統図カード、:カレンダーシールと都民の足100周年シール)

33年振りに走る花電車
10月1日に荒川線を走る都電の花電車は、都電の完全ワンマン化を記念して1978年に走って以来の33年振りの運行になります。当初は、6ないし8月に運行の計画でしたが、東日本大震災を配慮して、10月に延期されました。
花電車の運行は、1日(土)の他、10日(祝)、16、23、30日(日)の5日間に、1日に三ノ輪橋(荒川区)―早稲田(新宿区)間を2往復(運行ダイヤ参照)します。今回のバースデーケーキをイメージした花電車のキャンドル部分には、夜間になると明かりが点灯して華やかな演出が行われます。

 花電車運行ダイヤ

発車式のセレモニーを見送り、走る花電車を見るため、先ずは荒川遊園地前に行き昼食をとり、荒川線を走る各種形式の都電の撮影をしましたが、三ノ輪橋に向かう花電車の撮影は行わずに、33年ぶりに通過して走る花電車を観賞しました。

 荒川遊園地前(写真拡大)

花電車の撮影は、町屋駅前まで行き三ノ輪橋から戻り、早稲田に向かう花電車の動画撮影をして、京成電鉄経由で帰宅しました。

 町屋駅前(写真拡大)

三ノ輪発の早稲田行きの花電車が、町屋駅前通過の14時32分に駅前踏切で動画の撮影をしました。

33年振りに走る花電車.wmv


[クリックすると、町屋駅前踏切付近で通過する花電車が見られます。]

動画をご覧頂けない方は、「33年振りに走る花電車.wmv」(←をクリック)すると別画面で掲示されている動画でご覧いただけます。Ⅱ版2014.8.19

< 総合INDEX へ
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(10月分掲Indexへ)
・カテゴリー別Index イベント総目次 2011年版2010年版2009年版2008年版2006・2007年版
<前回 イベント 都営交通100周年 荒川電車営業所で記念イベント開催と33年ぶりの「花電車」運転 その2 へ
次回 イベント ものづくりのまち大田区で初の出展企業、大学の製品化前の研究開発成果発表のフェア開催

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イベント 都営交通100周年 荒川電車営業所で記念イベント開催と33年ぶりの「花電車」運転 その2

2011年10月08日 | イベント
kan-haru blog 2011 電車移動線路上の8800形車両    
< 総合INDEX へ

都電5504号車おもいで博物館
「都電おもいで広場」に展示の都電5504号車の中には、おもいでのジオラマや「荒川線風景」を描いた切り絵ギャラリーと「昔の都電風景」の写真ギャラリーなどの懐かしい都電の想い出の品々が展示されており、都電のおもいで博物館です。

 都電5504号車おもいで博物館(左上:都電5504号車、中上右上:懐かしい都電の品々、左下中下右下:おもいでのジオラマ)

「荒川線風景」の切り絵は、切り絵作家の稲葉祐吉氏が荒川線の各停車場付近の風景を描いたものです。この切り絵は、東京都交通局Webページの「荒川線切り絵館」(ここをクリック)で28の荒川線風景が見られます。

 荒川線風景切り絵ギャラリー(写真拡大)

「昔の都電風景」写真ギャラリーには、昭和40年代の懐かしい街中を走る都電の風景の写真が展示してあります。昭和時代の都電の写真は、東京都交通局Webページの「都電今昔」(ここをクリック)で、銀座四丁目を始めとして24風景の昔の写真と共に、都電が消えた現在の風景写真と見比べることができます。

 昔の都電(左上中上右上左下中下右下写真拡大)

荒川車両研修所見学
「都電おもいで広場」で、5500形と7500形の都電を見た後、都電おもいで博物館も見たので、おもいで広場の右側通路を進むと、左側に「荒川の日」グッズ売り場があり、長い行列ができていたのでパスして、通路を直進すると荒川車両研修所の見学入り口がありますので、次は車両研修所を見学しました。中に入ると都電前後尾のヘッドに付いている、行き先案内板の表示用の行き先幕が垂れ下っており、その長さがかなりの長尺であるのには驚きました。

 荒川車両検修所1(:荒川車両検修所出入口、:行き先方向幕)

車両研修所の中はかなり広く、大きな屋内競技場がすっぽりと入ります。研修所には、被研修車両の他、所狭しと都電各種形式車両のモーター、車輪、台車、パンタグラフや試験装置など、研修で使用するすべての部品や検査器具が置いてあります。

 荒川車両検修所2(左上中上右上左下中下右下写真拡大)
 
車両研修所内にも説明資料写真が示してあり、花電車の製作説明写真が展示してありました。また、研修車両車体側面に過去の花電車や、各種の都電の写真も展示されていました。

 花電車製作説明写真(写真拡大)

車両研修所の突き当りの奥を出ると広場で、入出庫電車を左右に移動するレール所になっています。その右側の奥には、都電敷設レールを加工する工場建屋があり、中ではレールを曲げてカーブを作る加工の実演していました。加工機にレールを掛けて曲げ加工をすると、いとも簡単にアメを曲げるかのように、自由にカーブのレールが造れます。

 レールの加工(:レール加工の説明、:レールのカーブ加工)

入出庫電車の移動場では、子供の観客のために工事移動車、コントローラシュミレータや吊革遊びなどが置かれていました。また、車両研修所内部には、各形式の都電の模型やジオラマなども並べてありました。そろそろ、花電車撮影の展示の時間となりましたので、車両研修所の横を回って荒川電車営業所の入り口へと移動しました。

 屋外展示場(:工事移動車、:コントローラシュミレーション、:吊皮遊び)

< 総合INDEX へ
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(10月分掲Indexへ)
・カテゴリー別Index イベント総目次 2011年版2010年版2009年版2008年版2006・2007年版
<前回 イベント 都営交通100周年 荒川電車営業所で記念イベント開催と33年ぶりの「花電車」運転 その1 へ
次回 イベント 都営交通100周年 荒川電車営業所で記念イベント開催と33年ぶりの「花電車」運転 その3
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イベント 都営交通100周年 荒川電車営業所で記念イベント開催と33年ぶりの「花電車」運転 その1

2011年10月06日 | イベント
kan-haru blog 2011 都電5500形運転席   
     
< 総合INDEX へ

10月1日は東京都交通局の「荒川線の日」で、荒川電車営業所において都営交通100周年を記念したイベントで「花電車」の撮影会及び出発式が行われましたので見てきました。

 荒川線の日2011

都営交通100年
都営交通(東京都交通局)は、1911年(明治44年)8月1日に、東京市が東京市電気局を開局し、路面電車事業と電気供給事業を開始したのが始まりで、2011年に創業100周年(「イベント 都営交通100周年記念特別展 東京の交通100年博~都電・バス・地下鉄の“いま・むかし”~その1、4」参照)を迎えました。
1942年(昭和17年)には、王子電気軌道株式会社(現在の荒川線の前身)を含む路面交通事業者8会社10事業を統合し、旧市内路面交通の公営一元化が図られました。翌1943年には都内を41系統が縦横に走り、一日約193万人が利用する市電最盛期を迎え、東京都制の施行に合わせて、東京市電気局から東京都交通局と名称が変わりました。

 都電41系統図

都電は、1955年(昭和30年)に一日約175万人の利用を記録するなど、戦後しばらく、東京における代表的な公共交通機関として活躍していましたが、自動車交通量が急速に増加し、交通渋滞に路面電車が巻き込まれ、その輸送機能が著しく低下しました。結果として、軌道事業の経営状態が極度に悪化した為、1967年(昭和42年)12月から1972年(昭和47年)11月までの間に、合計35系統の路線を撤去しました。(東京都交通局から)

 昭和46年都電系統図

・荒川線
現在の荒川線の前身は、1906年(明治39年)5月に発起人松本錬蔵他29名が東京府北豊島郡王子町を中心とする電気軌道の敷設及び営業を内務省に出願して、特許(営業免許)を得て、1910年(明治43年)4月に王子電気軌道株式会社設立しました。1911年(明治44年)8月に巣鴨車庫を竣工して、飛鳥山上(現飛鳥山)―大塚間で軌道事業を開業しました。1913年(大正2年)4月から10月にかけて三ノ輪(現三ノ輪橋)―飛鳥山下(現梶原)―栄町間が、翌々年の1915年(大正4年)4月に王子 ―飛鳥山間が開業ました。
関東大震災(1923年9月)により山谷変電所と送電線の一部、軌道側柱、電車待合所が被災したが、3日後には電車線は復旧しました。
大塚駅前 ―鬼子母神前間と、栄町 ―王子間が1925年(大正14年)11月に開業し、三ノ輪 ―王子―大塚駅前間の直通運転が開始されました。
王子柳田 ―神谷橋間[1926年(大正15年)3月]、神谷橋 ―赤羽間 [1927年(昭和2年)]と鬼子母神前 ―面影橋間[1928年(昭和3年)]が開通して、王子 ―大塚駅前― 面影橋間の直通運転が開始されました。
面影橋 ―(仮)早稲田間[1930年(昭和5年)]、(仮)早稲田 ―早稲田[1932年(昭和7年)] が開通しました。
1942年(昭和17年)電力統制と交通統制により王子電気軌道株式会社は清算して、東京市に事業譲渡して軌道事業は東京市電となり、翌年には都制施行により東京都電車となりました。27系統(三ノ輪橋~赤羽間)及び32系統(荒川車庫前~早稲田間)については路線の大部分が自動車交通の影響を受けない専用の軌道であり、低公害な交通機関である事、沿線住民をはじめ都民からの路線存続の強い要望があったことなどから、王子駅前 ―赤羽間は廃止して、1974年(昭和49年)には、都電荒川線(三ノ輪~早稲田)に呼称を変更しました。(Wikipediaから)

 荒川線路線図

「荒川線の日」記念イベント
2011年10月1日の荒川線の日は、都営交通100週年記念イベントが荒川電車営業所(都電荒川線「荒川車庫前」下車すぐ)で開催されました。

 荒川車庫都電展示スケジュール

王子駅から荒川線に乗り荒川車庫前に下車したのは、11時40分頃で花電車を見る沢山の人で荒川電車営業所は込み合っておりました。11時からは、車庫前の出庫線に都電8800形車両が展示されていました。

 荒川の日イベント1(:荒川車庫前、:都電8800形車両の展示)

イベントの2つめは、東京都交通局、南海電鉄、阪堺電車共同PRステージが行われて、都電荒川線マスコット「とあらん」、阪堺電車マスコット「ちん電くん」、南海電鉄「ラピートちゃん」が登場して、3社局合同のクイズ大会でステージを盛り上げていました。

 荒川の日イベント2(:三社局合同のクイズ大会、:3社マスコットのとあらん、ちん電くん、ラピートちゃん)

イベントの3つ目は12時30分から都営交通100周年記念「花電車」の撮影会ですが、時間が少し間があり、荒川車庫都電入出庫線路の東側にある「都電おもいで広場」に入り、かって活躍した5500形(5501号車)と7500形(7504号車)が展示してありましたので、乗車して見学しました。5500形都電は、戦後すぐの中学生時代に1系統の品川―上野間で利用した想い出深い電車で、1954年(昭和29年)に造られたもので、1967年(昭和42年)までの13年間走り続けました。

 都電おもいで広場のかって活躍した5500形都電(写真拡大)

1956年に8000形が131両造られたが、構造を徹底的に簡素化・軽量化して設計されたためすぐに老朽化が始まり、その乗り心地についても簡略化した構造の台車が原因で発生するビビリ振動の大きさ故に不評でありました。そこで1962年(昭和37年)に造られたのが7500形都電で、形式の数字が逆戻りする形となったが、これは性能を7000形に、スタイルを8000形に準ずることから、間をとって7500形と命名されました。7500形は新造当初、全車が青山車庫に配置され、6・9・10系統で使用されました。その後、各地の路線が廃止されると、荒川車庫に集結しました。(Wikipediaから)

 かっての都電7500形展示車(写真拡大)

< 総合INDEX へ
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(10月分掲Indexへ)
・カテゴリー別Index イベント総目次 2011年版2010年版2009年版2008年版2006・2007年版
<前回 イベント 歌舞伎観劇 新橋演舞場で2回目の秀山祭九月大歌舞伎夜の部 へ
次回 イベント 都営交通100周年 荒川電車営業所で記念イベント開催と33年ぶりの「花電車」運転 その2
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イベント 歌舞伎観劇 新橋演舞場で2回目の秀山祭九月大歌舞伎夜の部

2011年09月26日 | イベント
kan-haru blog 2011    
< 総合INDEX へ

秀山祭九月大歌舞伎
歌舞伎座の建替えにより、新橋演舞場で第2回目公演の秀山祭九月大歌舞伎を、9月11日に観劇しました。秀山祭夜の部の観劇は、毎年母校が開催する歌舞伎観劇会の催しで、2006年から2008年を除き毎年見ています。

 新橋演舞場(写真拡大)

観劇の座席は抽選により、1階席のほぼ中央列の右側通路横の11列37、38番で、お弁当が付いてイヤホンガイドの使用料も割引での観賞です。

 秀山祭チケット(左:11列37番席より左方の席を見る)

中村又五郎・歌昇同時襲名披露興行歌舞伎
今回の観劇会は、中村歌昇改め三代目中村又五郎襲名と種太郎改め四代目中村歌昇襲名の同時披露の大歌舞伎ですので、襲名披露祝い幕かけられています。二人の襲名の祝い幕は、今年の春黄綬褒章を受章した、歌舞伎美術家後藤芳世氏がデザインしたもので、淡い黄緑色の幕の右には祝いのしの字マークが描かれ、中央には播磨屋の大きな揚羽蝶の定紋を配置し、左側には襲名の三代目中村又五郎丈江と四代目中村歌昇丈江と書かれた同時襲名祝いにマッチした粋な引幕です。

 歌舞伎劇場の引膜(:襲名祝い膜、:三色の縦縞模様の定式幕)

秀山祭夜の部演目
夜の部は午後4時30分の開演で、4時丁度に入場し昨年とは反対側の席に座りましたので、染五郎が宙乗りでつづら抜けの場面にはちょうど良い場所でした。演目の最初は、坪内逍遥作の「沓手鳥弧城落月(ほととぎすこじょうのらくげつ)」には、豊臣秀頼役に歌昇改め又五郎、淀の方に橋之助(芝翫代役)、氏家内膳役に吉衛門、千姫役に芝雀の顔ぶれで一幕二場を演じた後、三代目中村又五郎と四代目中村歌昇の襲名披露興行の「口上」が演じられます。3番目は、「菅原伝授手習鑑 車引」が舎人梅王丸役に歌昇改め又五郎、同松王丸役に吉右衛門、同杉王丸に種太郎改め歌昇の豪華顔ぶれで歌舞伎の名作を演じ、最後に増補双級巴「石川五右衛門」が石川五右衛門役に染五郎、呉羽中納言氏定役に桂三、此下藤吉久吉役に松緑で、二幕目足利館別館奥庭の場で染五郎が宙乗りでつづら抜けの見せ場を演じます。

 秀山祭九月大歌舞演目秀山祭九月大歌舞演目

・沓手鳥弧城落月
原作は大阪夏の陣から落城までを三幕で描いていますが、今回は二幕目の錯乱に陥った淀君の場面を中心に上演されています。「二の丸乱戦の場」では、徳川家に内通した大住与左衛門が戦火の下で千姫を救出する場面で武士たちの激しい立ち回りが見どころで、「城内山里糒庫の場」では千姫の逃亡を知って狂乱となった淀君を中心に凋落する豊臣家の悲運を描いています。母の乱心に心を痛める豊臣秀頼は、最後に降伏を決意します。


・口上
人間国宝となられた吉右衛門さんが中心代役で口上の司会進行をつとめられ、吉右衛門さんの下手のすぐ隣に今回襲名の又五郎さんと歌昇さんが並び、その左右の座には芝翫さんが体調が悪く一番上手が坂田藤十郎さん、東蔵さん、芝雀さん、松緑さん、福助さん、魁春さん、歌六さん、錦之助さん、種之助さん、染五郎さん、段四郎さん、梅玉さんが座して口上をのべました。


・菅原伝授手習鑑 車引
襲名披露演目である義太夫狂言の定番もので、梅王丸と桜丸が行きあい、藤原時平の参詣を告げられて2人が深編笠をとって顔を見せる場面が最初の見どころで、吉田神社の境内と場面が変わって、時平の乗る牛車に梅王丸が勇壮に、桜丸が柔らかに打ち掛かる対照的な演技が見どころです。そこへ松王丸が現れ、2人を押し止め3人の見せる異なる見得が見せどころで、そこに時平が姿を現して2人を睨みつけて体を竦ませる超人技の表現の、各役柄は歌舞伎演出の特色です。


・石川五右衛門
豊臣秀吉モデルで此下藤吉久吉が登場し、大盗賊の五右衛門に対して、農民から出世した久吉も天下を奪った大盗賊であるという設定です。二幕目では、勅使に化けて足利邸に赴いた五右衛門と、その饗応役の久吉が幼少時代同じ盗賊中間であって、昔話に興じる二人の楽しい歌舞伎ではの場面です。その後、足利家の名刀を盗んだ五右衛門は久吉に追われ、宙に浮いた葛籠の中から五右衛門が現れ、「葛籠しょったがおかしいか」の台詞とともに「葛籠抜け」の宙乗りはこの作品の最大の見どころです。大詰めの「南禅寺山門の場」では、満開の桜を眺めながらの「絶景かな」の名台詞と、白鷹が飛んで来て五右衛門が大内義隆の落胤であることがわかり大望を抱いていると、山門がせり上がり巡礼姿の久吉が登場しする場面の仕掛けと構図は歌舞伎ならでの美の極致です。


< 総合INDEX へ
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(8月分掲Indexへ)
・カテゴリー別Index イベント総目次 2010・2011年版2009・2010年版2008年版2006・2007年版
<前回 イベント 都営交通100周年記念特別展 東京の交通100年博~都電・バス・地下鉄の“いま・むかし”~その4 へ
次回 イベント 都営交通100周年 荒川電車営業所で記念イベント開催と33年ぶりの「花電車」運転 その1
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イベント 都営交通100周年記念特別展 東京の交通100年博~都電・バス・地下鉄の“いま・むかし”~その4

2011年09月24日 | イベント
kan-haru blog 2011 昭和40年まで使用された大正末期製の京急51号形車両   
     
< 総合INDEX へ

現在、大森町界隈の中心を南北に走っている京浜急行電鉄は、1968年(昭和43年)から泉岳寺駅から開業当初は都営1号線(現都営浅草線)地下鉄と接続して、相互直通運転を行っています。かって、六郷橋と川崎大師間を軌間幅1435mmで創業した大師電鉄は、北品川までの伸延時に、東京市電の軌間幅137mmに変更して、北品川から先を市電の線路を通り高輪駅まで相互乗り入れしました。

東京市電と京浜電鉄相互乗入れ
・京浜急行の創業
京浜急行の創業以降の歩みを、「京浜急行80年の歩み」と「京急グループ110年史」から辿って見ます。
大師電気鉄道株式会社を設立して1899年(明治32年)1月に六郷橋と川崎大師間を六郷橋詰から大師道に沿って開通し、同年4月に京浜電気鉄道株式会社に社名を変更しました。

 (左)大師堤(右)仮六郷橋を行く京急電車(京浜急行80年の歩みから)

開業2年後1901年(明治34年)2月に、川崎宿から六郷川を渡って大半を京浜国道上を通って、明治9年に開業した官設鉄道大森停車場手前まで開設しました。また、翌年の1902年(明治35年)2月には、六郷橋と川崎間が営業運転を始めました。

 図1 開通時路線(青色太線)と現路線(黒色線)

大森停車場まで開設の翌年の、1902年(明治35年)6月には蒲田と穴森間の穴森線が営業開始しました。開通当初は、海老取川畔の穴森停留場まででしたが、その後かなり経て1913年(大正2年)12月に、穴森稲荷神社門前の鳥居附近に2代穴森駅が開通しました。現在は、地下に潜り国際・国内羽田空港まで伸延しています。
当時の川崎大師の参拝客は、参拝が済むと渡し船で渡り対岸の穴森神社の参詣をかねて、穴森に遊びに行く人が多かった。穴森線の開業により、ますます穴森稲荷の参拝客は増加しました。その様子の紀行文「東京遊行記」大町桂月と、「一日二日の旅 東京の近郊」田山花袋には、それぞれ京急電車と稲荷神社について当時の風景が描写されています。

 図2 穴森線開通線路

1904年(明治37年)3月には、軌間幅を東京市電と同幅の1372mmに変更の工事を行い、同5月には大森海岸から北品川間を専用軌道で営業運転を開始しました。同時に、大森海岸から学校裏間を専用軌道として開通しました。

 大森海岸ー品川間開通線路

1906年(明治39年)には、大森海岸から北品川間を複線化し、梅屋敷と学校裏間、雑色と川崎間を専用軌道となりました。また、1911年(明治44年)には、六郷川鉄橋開通しました。さらに、1923年(大正12年)には、大森山谷と六郷土手間が専用軌道になりました。

 (左)北品川停車場を発車するボギー電車と(右)完成の六郷川鉄橋(京浜急行80年の歩みから)

北品川駅の終点では国鉄との連絡が不便のため、1925年(大正14年)に国鉄品川駅前に高輪ビルディングを建設して、北品川駅から東京市電の線路を相互乗り入れして、ビルの高輪駅を京浜電鉄の終点駅としました。

 (左)北品川駅の京浜31号車と東京市電、(右)高輪停留場入口付近を行く東京市電と京浜55号電車(京浜急行80年の歩みから)

1926年(大正15年)8月には、京浜国道と立体交差のため鈴ヶ森架道橋を竣工し、1928年(昭和3年)には川崎と川崎大師間を複線専用軌道で開通しました。
1933年(昭和8年)4月には、再度軌間幅を1435mmに変更し、北品川から京浜国道を通り、新架設の八ッ山鉄橋を経て国鉄品川駅に乗り入れを開始し、高輪駅を廃止しました。東京市電の終点は品川駅となり、相互乗り入れは終焉となりました。また、1937年(昭和12年)3月には、大森海岸と大森間の営業(「大森町界隈あれこれ 京急歴史(1) 大森海岸と大森間に電車が走る(その1)」参照)を廃止しました。

 (左)大正14年9月完成の高輪ビルディング(右)昭和8年国鉄品川駅に乗り入れ(京浜急行80年の歩みから)

参考:その4記事に関連の写真として、戸板康二さんのブログ[戸板康二ノートtoita1214.exblog.jp 品川から京浜急行で旧東海道。第14回みつわ会公演「久保田万太郎作品 その二十一」を見る。]に、「八ッ山鉄橋を渡っている京浜電車」と「八ッ山鉄橋を渡り京浜国道上を行く京浜電車」の貴重な写真が掲載されていましたので、リンクさせて頂きました。
写真1 西尾克三郎『ライカ鉄道写真全集2』(プレス・アイゼンバーン、1992年11月)より、《L-297 湘南電気鉄道 8 浦賀行急行 京浜電気鉄道 品川―北品川 昭和11/1936》
写真2 西尾克三郎氏撮影の写真、《L-298 湘南電気鉄道 品川行急行 京浜電気鉄道 北品川―品川 昭和11/1936》

< 総合INDEX へ
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(8月分掲Indexへ)
・カテゴリー別Index イベント総目次 2010・2011年版2009・2010年版2008年版2006・2007年版
<前回 イベント 都営交通100周年記念特別展 東京の交通100年博~都電・バス・地下鉄の“いま・むかし”~その3 へ
次回 イベント 歌舞伎観劇 新橋演舞場で2回目の秀山祭九月大歌舞伎夜の部
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イベント 都営交通100周年記念特別展 東京の交通100年博~都電・バス・地下鉄の“いま・むかし”~その3

2011年09月20日 | イベント
kan-haru blog 2011 高架山手線千代田区内幸町周辺(国立国会図書館所蔵写真帳から)  
     
< 総合INDEX へ

関東大震災前の東京市内の鉄道
・東京市内最初の鉄道は官営鉄道で開業
日本での最初の鉄道は、政府が1869年(明治2年)11月に自国管轄方式によって新橋・横浜間の鉄道建設を決め、技術や資金を援助する国としてイギリスを選定して、土木工事は築城経験のある日本の技術が生かされましたが、六郷川橋梁だけはイギリス人の指導の下に木造で架橋されました。

 六郷蒸気車鉄道之図(六郷物語から)

軌間は、国際標準軌1,435 mmより狭い狭軌の1,067 mmが選ばれ、車両はすべてイギリスから輸入され、蒸気機関車10両はすべて軸配置1Bのタンク機関車の5社の製品を混合使用し、客車はすべて2軸で上等車(定員18人)10両、中等車(定員26人)40両、緩急車8両が輸入されましたが、開業前に中等車26両は日本人大工の手によって定員52人の下等車に改造されました。当時の客車は台車や台枠は鉄製だが壁や屋根を含む本体は木造でありました。

 新橋停車場と明治初期の列車(:新橋停車場、:明治初期の列車)国立国会図書館所蔵写真帳(写真の中の明・治大正)から

1872年(明治5年)6月12日に、品川駅が開業して官設鉄道(日本の鉄道所管官庁工部省鉄道寮)による品川駅ー横浜駅間の鉄道仮営業を開始しました。

 「東京高輪鉄道蒸気車走行之全図」一曜斎国輝(Dubsの機関車から)

同10月14日に初代新橋駅が開業し、東海道線の新橋駅―横浜駅間が本開業しました。現在の横浜駅が1915年(大正4年)に開業する前の43年間は、現桜木町駅が初代横浜駅でした。

 広重が描いた「横浜鉄道館蒸気車往返之図」(タイムスリップよこはまから)

当初東京と関西を結ぶ路線は中山道経由とされており、1883年(明治16年)に高崎駅ー大垣駅間の建設が始まりましたが、山岳地帯を通るために難所が多く工事は難航し、1886年(明治19年)に鉄道局長の井上と総理大臣の伊藤博文、陸軍の大立者山縣有朋が相談して東海道へのルートを変更することが決定し、1889年(明治22年)7月1日には東海道線の建設が急ピッチで進みに全線が開通しました。

 新橋・横浜間開通(日本の鉄道史Wikepediaから)

日本鉄道(私有鉄道)による東北・高崎線建設開設
もともと政府では鉄道は国が敷設して国が保有すべきであるという意見が強かったが、西南戦争の出費などで財政が窮乏していたこともあり、民間資本を取り入れて鉄道を敷設することになり、1881年(明治14年)8月1日に岩倉具視をはじめとする華族などが参加して私立鉄道会社「日本鉄道」の創立が決定し、同年11月11日に設立特許条約書が下付され、初代社長に吉井友実を選出して会社が設立されました。形式的には私鉄であったが、路線の建設や運営には政府及び官設鉄道が関わっており、建設路線の決定も国策的要素が優先されたり、国有地無償貸与、建設国営など実質上は「半官半民」の会社でありました。
まずは1883年(明治14年)7月28日に、東京下町の山下町を起点として第一区線の建設を進め、上野―熊谷間が開業しました。その後引き続いて、1884年(明治17年)8月20日に高崎―下前橋へと延伸していきました。

 主要線路名と主要駅名

現高崎線の開通に続いて、東京市内に目黒、渋谷、新宿、目白、板橋の各駅を新設して、1885年(明治16年)3月1日に、赤羽 ―品川間の品川線(現在の赤羽線赤羽―池袋間と山手線池袋―品川間)が開業しました。
その後、第二区線から第五区線の建設を進め、1891年(明治22年)9月1日には、現在の東北本線全線の上野―青森間が開業しました。1896年(明治27年)4月1日には、田端駅が新設されました。

 最初の山手線誕生国立国会図書館所蔵写真帳(写真の中の明治・大正)から

1905年(明治38年)4月1日には日暮里駅を開業し、同 6月10日には山手線の赤羽駅―板橋駅間に十条駅が開業しました。

 山手線の駅名説明図

・山手線の国有化
1906年(明治39年)2月7日には、甲武鉄道(現中央線)に代々木駅が開業しましたが、山手線には駅が設置されず通過しました。また、同年3月31日公布された鉄道国有法(法律第17号)によって鉄道が国有化されました。国有化により、日本鉄道から同年11月1日に鉄道長1,385.3 km、機関車数368、客車数857、貨車数6,411が142,495千円で買収されました。
1909年(明治42年)10月12日には、赤羽駅―品川駅間と池袋駅―田端駅間の線路名称を山手線と制定されました。同12月16日には、山手線の田端駅―池袋駅間、赤羽駅―品川駅間。上野駅―新宿駅―品川駅―烏森駅(現在の新橋駅)、赤羽駅―池袋駅間の電車運転が開始されました。

 山手線の伸延国立国会図書館所蔵写真帳(写真の中の明治・大正)から

1910年(明治43年)6月25日には、烏森駅―有楽町駅間が開業しました。また、9月15日には高田馬場駅が開業し、有楽町駅-呉服橋駅間が開業しました。
1911年(明治44年)10月15日には五反田駅と、1912年7月11日には鶯谷駅が開業して、1914年11月15日には新大久保駅開業しました。また、同年12月20日には東京駅が開業し、大井聯絡所を駅に変更し大井町駅を開業して、新橋駅を汐留駅と改称して、烏森駅を新橋駅としました。
1918年(大正7年)12月20日には、品川駅 ―大崎駅間が開業し、1919年1月28日には、大崎駅-恵比寿駅間が開業しました。
1919年(大正8年)3月1日には神田駅が開業し、中央本線と接続して中野駅―東京駅―品川駅―池袋駅―上野駅間で「『の』の字運転」で開始しました。

 「の」の字運転となる山手線国立国会図書館所蔵写真帳(写真の中の明治・大正)から

1921年(大正10年)7月15日には、恵比寿駅―渋谷駅間が開業し、1922年(大正11年)7月25日には、渋谷駅―原宿駅間が開業しました。
1923年(大正12年)9月1日には、関東大震災で有楽町駅・新橋駅・浜松町駅・鶯谷駅・上野駅各駅が焼失し、 早期に平常時の運転に復旧しましたが、東京駅への乗り入れは1924年1月13日以降となりました。
1924年(大正13年)12月5日には、原宿駅―新大久保駅間が開業し、同 9月11日には、新大久保駅-池袋駅間が開業し、同12月28日には、池袋駅―巣鴨駅間が開業しました。
1925年(大正14年)3月28日には、巣鴨駅-田端駅間が開業し、同4月26日には新宿駅新駅舎の落成式を挙行しました。同11月1日には神田駅―上野駅間が開業して、御徒町駅の開業により環状運転が開始されました。

 環状運転となった山手線国立国会図書館所蔵写真帳(写真の中の明治・大正)から

< 総合INDEX へ
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(8月分掲Indexへ)
・カテゴリー別Index イベント総目次 2010・2011年版2009・2010年版2008年版2006・2007年版
<前回 イベント 都営交通100周年記念特別展 東京の交通100年博~都電・バス・地下鉄の“いま・むかし”~その2 へ
次回 イベント 都営交通100周年記念特別展 東京の交通100年博~都電・バス・地下鉄の“いま・むかし”~その4
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イベント 都営交通100周年記念特別展 東京の交通100年博~都電・バス・地下鉄の“いま・むかし”~その2

2011年09月17日 | イベント
kan-haru blog 2011 0922改版 円太郎バス(日本乗合自動車協会)  

< 総合INDEX へ

大正から戦争期まで
第2章の 「震災の街を走る円太郎バス~都バスの誕生~」では、関東大震災により東京全域は大きな被害を受け、市電は運転不能となり、電車も800両近くが焼失し、東京市電気局はアメリカより自動車を緊急輸入し、乗合バス(愛称:円太郎バス)の運行を開始しました。都営バスの元祖である円太郎バスのが展示されており、大正中期から戦争期までの東京の交通を見ていきます。

・東京市電運転系統
関東大震災前年の1922年(大正11年)12月に東京市電の路面電車は、12系統を運転しており、その番号は、1系統:品川―雷門・三田出張所、2系統:青山七丁目―雷門・青山出張所、3系統:新宿―雷門・新宿出張所、4系統:柳島―大手町・本所出張所(亀沢町:後に柳島:)、5系統: 大塚駅前―土橋・大塚出張所、6系統: 巣鴨―御成門・巣鴨出張所、7系統:千住大橋―人形町・三ノ輪出張所、 8系統:青山六丁目―永代橋・日比谷出張所(後に青山南町)、9系統:飯田橋―芝口・有楽橋出張所、11系統:天現寺橋―永代橋・広尾出張所、12系統:早稲田―須崎・早稲田出張所、13系統:大塚駅前―万世橋・神明町出張所です。

 八輪ボギー客車[型大正十年式1979~1988、2009~2023]

・関東大震災
関東大震災は、1923年(大正12年)9月1日に神奈川県相模湾北西沖80kmを震源として発生したマグニチュード7.9の地震災害で、住宅被害棟数37万2千戸余り、死者・行方不明者数10万5千余の被害を受け、地震の発生時刻が昼食の時間帯と重なったことから、134件の火災が発生し、地震発生時の強風に煽られ、「陸軍本所被服廠跡地惨事」で知られる火災旋風を引き起こしながら広まり、鎮火したのは2日後の9月3日10時頃とされています。

 関東大震災の災害1 (左)銀座煉瓦街のミニチュア(江戸東京博物館)1873年Wikipedia:ここをクリックすると銀座から南を望む地震災害写真(*)が見られます。(右)仲見世Wikipedia:ここをクリックすると 浅草仲見世の地震災害写真(*)が見られます。
 *クリックにより国立科学博物館地震資料室関東大震災写真のリンク先写真が見られます。

震災予防調査会の調査を基に修正を加えて作成された東京震災録の値によると、全出火点134か所のうち即時消し止め火災が57か所で、消し残った77か所延焼火災となった。延焼は、市域全面積79.4km2のうち43.6%にあたる34.7km2に及び、日本橋区、浅草区、本所区、神田区、京橋区、深川区ではほとんどの市街地が焼失している。とくに浅草区北部、神田区西部、本所区では、軟弱地盤による地震動の増幅が木造家屋の倒潰を招き、そのことが延焼火災の同時発生という最悪の事態をさらに招いて、多くの火災による犠牲者を出すという結果となった。(内閣府防災情報広報誌防災平成19年7月号 [第40号]から)

 関東大震災の災害2 (左)帝室博物館(現東京国立博物館)Wikipedia:ここをクリックすると上野帝室博物館の地震災害写真(*)が見られます。(右)現アサヒビール吾妻橋本部ビル:ここをクリックすると元札幌ビール工場の地震災害写真(*)が見られます。
 *クリックにより国立科学博物館地震資料室関東大震災写真のリンク先写真が見られます。

関東大震災発生前の東京都心の日本鉄道の電車運転は、上野駅が1883年(明治16年)7月に仮開業し、1885年(明治18年)7月にレンガ造2階建ての本駅社が竣工して、1909年(明治42年)に上野-新宿-品川-烏森の区間で電車の運行が始まりました。
               関東大震災の災害3 (左)上野駅 落成式当日の新上野駅舎(1932年4月3日)Wikipedia:ここをクリックすると公園から見た上野驛の地震災害写真(*)が見られます。 (右)大震災前の中央線万世橋駅(大正12年)頃Wikipedia:ここをクリックすると神田須田町万世橋駅の地震災害写真(*)が見られます。
 *クリックにより国立科学博物館地震資料室関東大震災写真のリンク先写真が見られます。

そして、1914年(大正3年)に東京駅が開業して、1919年(大正8年)に神田―万世橋間が完成し、今日の循環山手線は当時では「の」の字運転でした。上野―神田間の「高架工事」は、1920年(大正9年)に開始されましたが、1923年(大正12年)9月の関東大震災により、上野レンガ駅舎が崩壊しました。なお、写真の飯田町駅は現飯田橋と水道橋の中間に位置した、当時の開業駅です。

 関東大震災の災害4 (左)飯田町駅(飯田橋散歩路から):ここをクリックすると飯田町駅の地震災害写真(*)が見られます。 (右)1925年に環状運転を開始した時の山手線Wikipedia:ここをクリックすると鉄道高架線芝区の地震災害写真(*)が見られます。
 *クリックにより国立科学博物館地震資料室関東大震災写真のリンク先写真が見られます。

東京市電は関東大震災大被害を受け、本局庁舎(東京都交通局)が全焼し、市電車庫の5ヶ所が全焼、車両777両消失、軌道・軌道橋・架線も大被害を受けました。東京市電気局は、東京都交通局が運営している電気事業を行い、1911年(明治44年)8月1日に発足し、東京鉄道株式会社から引き継いだ3箇所の火力発電所(品川、深川及び渋谷)の運営を開始して、路面電車(市電)事業と電気供給事業を開始したことになります。

 震災による市電の被害 (左)銀座通り1933年:ここをクリックすると銀座通りの市内電車の残骸(*)が見られます。 (右)浅草雷門通1958年:ここをクリックすると浅草雷門通の電車の残骸(*)が見られます。
 *クリックにより国立科学博物館地震資料室関東大震災写真のリンク先写真が見られます。

・円太郎バス
関東大震災で壊滅した市電の代替輸送として、大正13年にアメリカのフォードから貨物自動車用シャシを緊急大量輸入し、これに木製車体(客室)を新製したバスが使用されました。バスは、車体前方のガソリン機関から推進軸が床下後方に延びて後軸をウォームギアで駆動し、運転席床上には運転用足踏みペダルが三本取り付けられている。これらはフォードTT型独特の方式である。1924年(大正13年)1月18日に、中渋谷-東京駅前と巣鴨-東京駅前の最初の2路線が開業し、年末までに800両が揃い計20系統で運用されました。
明治初期に、落語家の四代目橘(たちばな)家円太郎が、東京市内を走っていた乗合馬車の御者のラッパを吹いて演じたところ、“ラッパの円太郎”といわれて大いに受け、乗合馬車が「円太郎馬車」と呼ばれた。この乗合馬車とバスが形態面で類似していたことから、新聞記者が「円太郎バス」と名づけ、広く呼ばれるようになりました。
なお、円太郎バス(フォードTT型)は、日本機械学会「機械遺産」の機械遺産 第28号として、2008年に認定されています。

 円太郎バス(左)須田町交通博物館の円太郎バス:ここをクリックすると震災後に上野駅より浅草方面に走る市電と円太郎バス(*)が見られます。 (右)東京モーターショウ2002の円太郎バス:ここをクリックすると人形町を走る市電と円太郎バス(*)が見られます。
 *クリックにより国立科学博物館地震資料室関東大震災写真のリンク先写真が見られます。

< 総合INDEX へ
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(8月分掲Indexへ)
・カテゴリー別Index イベント総目次 2010・2011年版2009・2010年版2008年版2006・2007年版
<前回 イベント 都営交通100周年記念特別展 東京の交通100年博~都電・バス・地下鉄の“いま・むかし”~その1 へ
次回 イベント 都営交通100周年記念特別展 東京の交通100年博~都電・バス・地下鉄の“いま・むかし”~その3
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イベント 都営交通100周年記念特別展 東京の交通100年博~都電・バス・地下鉄の“いま・むかし”~その1

2011年09月13日 | イベント
kan-haru blog 2011 都営交通100周年都電写真集
     
< 総合INDEX へ

都民がお世話になる都営交通が、1911年(明治44年)8月に東京鉄道株式会社から路面電車事業と電気供給事業を買収して東京市電気局として創業して100年になりました。創業当時は、一日51万人のお客様が路面電車(東京市電)を利用していました。
100周年を迎え都営交通100周年記念特別展「東京の交通100年博~都電・バス・地下鉄の“いま・むかし”~」を7月14日(木)から9月10日(土)まで開催されましたので、最終日前日の9月9日に見に行きました。

 都営交通100周年記念特別展ポスター

都営交通100周年記念特別展
特別展の開催会場は江戸東京博物館(墨田区横網1-4-1)にて開催しましたので、都営地下鉄大門から大江戸線に乗り換え両国駅下車で、1階展示室の特別展会場に行きました。

 東京大江戸博物館入り口案内

特別展の主催は、公益財団法人東京都歴史文化財団 東京都江戸東京博物館、 読売新聞社、 東京都交通局で、後援は国土交通省関東運輸局、 東京都教育委員会、 東京藝術大学で、監修が佐藤美知男(鉄道博物館客員学芸員)の他、企画協力が鉄道博物館、 鉄道友の会、 日本路面電車同好会、 株式会社ネコ・パブリッシングで、さらに協力には京成電鉄株式会社他の鉄道・バス会社等の13団体が参列の豪華メンバーです。
特別展専用当日券の観覧料金は、一般 1,300円、大学生・専門学校生 1,040円、小学生・中学生・高校生・65歳以上 650円です。

 都営交通100周年記念特別展(:江戸東京博物館大江戸線口、:東京の交通100年博特別展入場口、:屋外展示会場入り口)

・展示構成
展示構成は、第1章の「東京の市内電車~明治の交通と都電のはじまり~」では、旧東京市電ヨヘロ1形の実物大モックアップを展示するなど当時の雰囲気を感じるコーナーで、明治から大正にかけてどのように東京の交通が発展を遂げたのかを紹介しています。この都営交通100周年記念特別展では、唯一実物大モックアップの展示場のみが写真撮影可の場所であるので、大勢の人が写真を撮っていました。
 
 東京市電ヨヘロ1形電車実物大モックアップ(左上:東京市電ヨヘロ1形電車説明、中上右上左下中下右下:東京市電ヨヘロ1形電車モックアップ)
 
大正4年9月の市内電車の系統数は、「都電交通100周年都電写真集」(トップ写真参照)の付録データCDの年代別路線図の表示して見ると11路線が走っていました。また、この時代の省線電車の路線は、現在の山手線の東京駅と上野駅間は接続されてなく、中央線は万世橋が終点となっています。

 電車運転系統図(大正5年12月)

東京市が1911年に路面電車を市営化する前に走っていた市内電車は、東京電車鉄道、東京市街鉄道と東京電気鉄道の3社が運営していたが、1906年(明治39年)に3社の合併により東京鉄道が誕生しました。市営化後には、東京市電の記号は形態、改造内容、旧所属会社名をカタカナで組み合わせて記号を付与していました。
形態のカタカナ名は、ヨ:四輪単車、ホ:ボギー車です。旧所属会社名のカタカナ名は、ト:東京電車鉄道からの引き継ぎ車、シ:東京市街鉄道からの引き継ぎ車、テ:東京鉄道からの引き継ぎ車、ソ:東京電気鉄道からの引き継ぎ車です。
改造内容のカタカナ名は、ハ:張り天井に改造したもの、ヘ:前面窓付き、サ:大正3年車体新造、ロ:大正6年車体新造、六:側窓6個、八:側窓8個または通風機8個、九:通風機9個、中:車体中央部に乗降口を設置したものを示します。
例えば、ホへサは、ボギー車の前面窓付きの大正3年車体新造です。なお、モックアップ展示車のヨヘロ141号は、四輪単車の前面窓付きの大正6年車体新造の第141号車を現しています。

 ホヘサ型市内電車

< 総合INDEX へ
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(8月分掲Indexへ)
・カテゴリー別Index イベント総目次 2010・2011年版2009・2010年版2008年版2006・2007年版
<前回 イベント 太田記念美術館 江戸時代後期を代表する破天荒な作品を生み出した浮世絵師歌川国芳を見るその2 へ
次回 イベント 都営交通100周年記念特別展 東京の交通100年博~都電・バス・地下鉄の“いま・むかし”~その2
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イベント 太田記念美術館 江戸時代後期を代表する破天荒な作品を生み出した浮世絵師歌川国芳を見るその2

2011年08月31日 | イベント
kan-haru blog 2011 太田記念美術館玄関    

< 総合INDEX へ

・歌川国芳後期展 遊び心と西洋の風
歌川国芳展の出品リスト(クリックで見られます)によると、6月1~26日の前期展の「豪快なる武者と妖怪」をテーマにして勇:武者絵が35点、怪:妖怪画が40点、華:役者絵が27点の浮世絵が展示され、7月~26日の後期展の「遊び心と西洋の風」をテーマにして、遊:戯画が81点、爽:美人画が32点、憧:洋風画が39点の浮世絵が展示されました。
今年開催の歌川国芳展は、4月から大阪市立美術館の大阪展、7月から静岡市美術館の静岡展や太田記念美術館の特別展の他、12月から森アーツセンターギャラリー(六本木)で開催の予定であります。また、5月には広島の奥田元宋・小由女美術館で「浮世絵猫づくしにゃんとも猫だらけ展」開催、2月に北九州市立美術館で「浮世絵 国芳の美人画展」開催されており、日本中で歌川国芳展の花盛りで、そのため沢山のブログ投稿によりその1記載の事項以外からも、Webを検索すると数多くの国芳の浮世絵を見ることができます。

・戯画、狂画
戯画、狂画とは、戯れに書かれた絵や風刺の意図をもって書かれた絵であり、見ると思わず吹き出してしまうものや、作者の遊びに気づいてニヤリとするもの、対象への暖かい思いから微笑んでしまうものなどの絵をいいます。
後期展のテーマの国芳の浮世絵の戯画は前・後期で最も多い出品であり、江戸っ子国芳のユーモアとウィットが満載で、天保の改革という幕府の禁制をかいくぐって閉塞した社会を笑いのめそうとする、遊びの精神にあふれた奇妙奇天烈な造形表現は国芳の真骨頂を示しています。戯画は現代の漫画の原点とも言われ、国芳の戯画は現代においても我々の笑いを喚起させ、その表現の多様さや型破りな発想は、見るものにとって大変と面白く楽しく感心させられます。

国芳の浮世絵の最初の戯画を見ていく。初めに「人をばかにした人だ(1847~49図録105)」(クリックで見られます太田記念美術館から)の戯画は、国芳の代表作の一つの寄せ絵(嵌め絵)で、物を寄せ集めて別の物体に作りあげたもので、顎を突き出しておでこに貼った紙を息で飛ばす遊びの絵であるが、何と人物の首絵であるが体や手足が裸体人間を集合して組み立てられたもので、初めて見るとびっくりします。戯画の鼻、髪、顎、肩などの顔は沢山の裸の男性で構成されており、この絵の奇抜な発想はどこから生じたものでしょう。後期展示の嵌め絵には、「みかけハこハゐがとんだいゝ人だ(1847頃図録103)」、「としよりのよふな若い人だ(1847~49図録104)」、「人かたまって人になる(1847~49図録106)」がシリーズになっています。

 国芳の代表作の寄せ絵(左:みかけハこハゐがとんだいゝ人だ、右:人かたまつて人になるWikipediaから)

国芳は無類の猫好きで、常に猫を飼い、懐に猫を抱いて作画していたと伝えられる。それだけに猫の仕草に対する観察眼は鋭く、猫を擬人化した作品も多い。また、猫に限らず、狸・雀・蛸などの身近な動物を擬人化して世相を風刺したり、動物に託して江戸の庶民の生活を描写した作品も豊富で、これらは現代日本の漫画・劇画の源流の一つを見る事ができます。(Wikipediaから)
2番目の国芳の戯画の、猫の擬人画の「猫の当字 かつを(1840~44図録109)」(クリックで見られます太田記念美術館から)を見ると、浮世絵は文字の形に猫が複数匹重なりあっており、「嵌め絵」で見事に文字の形になった猫を描き分けている。「かつを」の「か」の字は茶のとらキジ模様と白、黒ぶちの猫3匹で構成し、「つ」の字は黒ぶちと白猫が3匹で構成し、「を」の字は5匹の猫で構成しています。国芳の猫の擬人画は、後期展示で12点が出品されています。後期展示には、出品されませんでしたが、参考のためWikipediaから擬人画の「猫の当字 なまず」を表示します。
生き物に向けられた優しい眼差しによって、歌川国芳は幕末の江戸市民たちの共感を得ることができたのです。

 『猫の当字 なまず』当て字絵(Wikipediaから)

・美人画、風俗画
美人画とは、女性の美しさを強調して描いた絵であり、国芳の描く美人画は、国貞や英泉のように妖艶でなく、明るく健康的でおきゃんで気さくな颯爽とした江戸美人を醸し出しています。
山海愛度図会 ヲゝいたい(1852図録194)」
勢いよく抱きついてきた猫に爪を立てられ、ヲゝいたいと身をそらす美人を描いている。この絵から、甘えてくれる愛猫が一層可愛く感じる心情が伝わってくるようである。
「山海め伝度図会 津ゞきが見たい 志州西宮白魚」
NHKの『日曜美術館』で紹介されていました。

 山海め伝度図会 津ゞきが見たい 志州西宮白魚(Wikipediaから)

・洋風画
歌川国芳展の洋風画の展示作品は、洋風表現の風景画の陰影法などが西洋絵画のオランダで1682年に刊行された「東西海陸紀行」(原書を後期展会場に展示)の積極的に模倣して描いた浮世絵は、国芳独特の才能で日本の風俗、景色へと変えて見事に表現されています。国芳の現代のグラフィックデザインにも通じる感覚は、生家は染物屋であり西洋画の学習で磨かれたものとみられています。
洋風画の「近江の国の勇婦於兼(1831~33図録230)」(クリックで見られます太田記念美術館から)は、国芳が西洋の憧れを端的に表した一作で、浮世絵風の美人と洋風風景に奔馬を取り合わせた紛れものであるが、国芳のオリジナル作品として完成させている洋画風浮世絵です。遠景中央の山並は「東西海陸紀行」のサンフインセントの港から採り入れ、美人お兼ねは「古今著聞集」で名をはせる遊女で、暴れ馬の手綱を足駄で踏んで鎮めている場面が描かれ、この浮世絵を見た江戸の人々の驚きの感情がみえるようです。
次にその1で掲載の「忠臣蔵十一段目夜討之図(1831~33図録2301」(クリックで見られます太田記念美術館から)は、「東西海陸紀行」のバタビアの領主館の構図を殆ど借用しており、原図のバタビアの街並みを江戸の町に転換する大胆な進取性には驚きです。

 「東西海陸紀行」バタビアの領主館

次に「東都三ッ股の図(1831~33図録225)」(クリックで見られます太田記念美術館から)の三ッ股は、新大橋の下流、小名木川と箱崎川が隅田川に合流するところである。右手川下に永代橋と佃島が、左手東岸に小名木川に架かる万年橋を、隅田川西岸から水平線を低くとってみた図です。画面手前では、船の保全を行っており、対岸には火の見櫓と井戸を掘るための櫓が、西洋画に触発されてわざと誇張して描かれています。
2月22日の東京新聞に、浮世絵「東都三ツ股の図」の記事がのり、要約すると「絵に描かれている隅田川に流れ込む小名木川にかかる万年橋のたもとに火の見櫓がある。そしてその横には高い塔が立っている。 まるで、建設中のスカイツリーにそっくりではないか。」という新聞に、巷では国芳の浮世絵にスカイツリーが描かれていると話題で盛りあがっています。

「二十四考童子鑑 大舜(1843~45図録238)」は、舜は中国古代の王で、父母弟にうとまれたがよく孝行を尽くし、弟を思いやった。畑仕事の時、取が草を切り、象が来て耕したと云われる。国芳は巨大な象を真正面から描き、小さい象を後ろから描き、大舜を真横から描いています。小さい象は「東西海陸紀行」の挿絵の象から採られています。

 二十四考童子鑑 大舜

< 総合INDEX へ
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(8月分掲Indexへ)
・カテゴリー別Index イベント総目次 2010・2011年版2009・2010年版2008年版2006・2007年版
<前回 イベント 太田記念美術館 江戸時代後期を代表する破天荒な作品を生み出した浮世絵師歌川国芳を見るその1 へ
次回 イベント 都営交通100周年記念特別展 東京の交通100年博~都電・バス・地下鉄の“いま・むかし”~その1
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イベント 太田記念美術館 江戸時代後期を代表する破天荒な作品を生み出した浮世絵師歌川国芳を見るその1

2011年08月28日 | イベント
kan-haru blog 2011 JR原宿駅   

< 総合INDEX へ

今年は5月に幕末の絵師狩野一信の仏画の五百羅漢図(「イベント 江戸東京博物館 幕末の絵師狩野一信が描く100幅の五百羅漢図を見るその1~3」参照)と、6月に浮世絵師東洲斎写楽の浮世絵(「イベント 東京国立博物館 江戸三座の役者28図を描いてデビューし10カ月で姿を消した東州斎写楽を見るその1、2」参照)を見る機会がありました。それに続いて6月から太田記念美術館で破天荒な浮世絵を描く歌川国芳の特別展が開催されていましたので、浮世絵には素人ですが国芳の浮世絵は型破りな武者絵・戯画で大衆を魅了したと云われ、それに関心を持ち後期展示の「遊び心と西洋の風」を7月24日に見てきました。

太田記念美術館
太田記念美術館(渋谷区神宮前1-10-10)は、昭和の初めより半世紀以上に渡り浮世絵を約12000点を蒐集した5代目太田清藏(1893~1977)が、生前にコレクションを一般に公開し、教育の発展に寄与することを願っていました。遣族はその遣志を受け、未公開であった作品の展示を行い、広く我が国の美術振興の一助とすることを決意し、1980年(昭和55年)に浮世絵専門の私設美術館を開設しました。美術館の展示環境は、和風の落着いた展示室で中央に石庭があり、左手の奥は一段高い展示室になっています。
アクセスは、JR山手線「原宿」駅の表参道口より徒歩5分で、東京メトロ千代田線、副都心線「明治神宮前」駅、5番出口より徒歩5分です。

 太田美術館(左:太田記念美術館アクセス地図、右上:太田記念美術館全景、右下:太田記念美術館入口)

・没後150年記念 破天荒の浮世絵師 歌川国芳特別展
没後150年記念 破天荒の浮世絵師 歌川国芳特別展は、主催が太田記念美術館、NHK、 NHKプロモーションで、前期(6月1~26日)と後期(7月1~28日)の2期に分けて展示テーマの構成を変えて開催しました。展示は、前期が「豪快なる武者と妖怪」をテーマにして勇:武者絵、怪:妖怪画、華:役者絵の構成で、後期が「遊び心と西洋の風」をテーマにして遊:戯画、爽:美人画、憧:洋風画の構成で展示されました。

 歌川国芳特別展パンフレットと入場券(:パンフレット、:入場券)

歌川国芳の浮世絵を見るには、図録「没後150年記念 破天荒の浮世絵師 歌川国芳」(太田記念美術館販売)の入手がお奨めです。図録にはテーマ別に6構成の浮世絵が255点が収蔵され、全作品の解説が記載されています。また、国芳浮世絵の解説記事として洋画家悳俊彦氏の「国芳の画稿」と、太田記念美術館主幹学芸員日野原健司氏の「国芳の戯画-そのアイデアの源流」などが寄稿されています。

 禄没後150年記念 破天荒の浮世絵師 歌川国芳図録表紙

また、太田記念美術館ホームページの「没後150年記念 破天荒の浮世絵師 歌川国芳」(ここをクリック)で展覧会の構成で20数点の各テーマの浮世絵が見れます。また、「没後150年 歌川国芳展」(ここをクリック)で12点の浮世絵が拡大して見られます。さらに、「歌川国芳- Wikipedia」(ここをクリック)で25点の浮世絵が拡大して見られますので、破天荒の浮世絵師歌川国芳の浮世絵に触れて下さい。
なお、森アーツセンターギャラリー(東京・六本木ヒルズ)では、2011年12月17日から、2012年2月12日まで「没後150年 歌川国芳展」が開催されますので、歌川国芳の浮世絵が見られます。

・歌川国芳
歌川国芳(1798-1861)は、父は京紺屋を営む柳屋吉左衛門の子として江戸日本橋本銀町1丁目(現在の東京都中央区日本橋本石町4丁目あたり)に生まれ、幼名は井草芳三郎で、後に孫三郎となる。国芳は幼少期から絵を学び、12歳で描いた「鍾馗提剣図」が初代歌川豊国(1769- 1825)の目に留まり15歳で入門したといわれる。合巻『御無事忠臣蔵』表紙と挿絵(1814年頃)が初作とされ、画号を一勇斎、朝桜楼、採芳舎と号す。

 歌川国芳の自画像(拡大図Wikipedia)

師の豊国没後の1827年頃に発表した大判揃物『通俗水滸伝豪傑百八人』という『水滸伝』のシリーズが評判となるり“武者絵の国芳”と称され、人気絵師の仲間入りを果たした。『東都名所』などの西洋の陰影表現を取り入れた名所絵(風景画)にも優れており、美人画や役者絵、狂画(戯画)にも多くの力作を残している。
1841年に、老中水野忠邦による天保の改革。質素倹約、風紀粛清の号令の元、浮世絵も役者絵や美人画が禁止になるなど大打撃を受ける。そこで、『源頼光公館土蜘作妖怪図』(1843年)は、表向きは平安時代の武将源頼光による土蜘蛛退治を描いたものだが、江戸幕府の理不尽な弾圧を黙っていられない国芳は、絵のいたるところに隠されている悪政に対する風刺を描いて、江戸の人々は謎を解いては溜飲を下げて喝采しました。
『宮本武蔵と巨鯨』(1848 - 1854年)は、浮世絵3枚分に描かれた大スペクタル絵画は、鯨と戦わせて武蔵の強さを伝える、度肝を抜く武者絵で国芳を称える声が満ち溢れた。
国芳は西洋の銅版画を集め、遠近法や陰影の付け方の研究に励んで、『近江の国の勇婦於兼』(1830年)で、画面左の女性は伝統的な美人画の技法で描き、対する馬はまるで西洋画のようにリアルな立体感が陰影によって描かれている。
この時代、公儀に逆らった赤穂浪士を称えることはご法度で、『赤穂浪士』(1852年)に西洋画を学んだ国芳は、実在の人物としてリアルに描いた像は、当時の人々にとって写実的な肖像画は受け容れられなかった。

 忠臣蔵十一段目夜討之図(拡大図Wikipedia)

国芳の作品は役者絵、武者絵、美人画、名所絵(風景画)から戯画、春画までさまざまなジャンルにわたり、中でも歴史・伝説・物語などに題材を採り、大判3枚つづりの大画面に巨大な鯨や骸骨、化け物などが跳梁するダイナミックな作品に本領を発揮している。反面、肉筆画の作品の種類は多彩だが、現存数が少ない。現在確認されている作品数は、二千数百点に及ぶ。華々しい武者絵の世界を築いた国芳はひとつの時代の終焉に合わせるかのように1861年に65歳の生涯を閉じた。(Wikipediaから)

< 総合INDEX へ
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(8月分掲Indexへ)
・カテゴリー別Index イベント総目次 2010・2011年版2009・2010年版2008年版2006・2007年版
<前回 イベント 練馬大根産地であった練馬での異業種交流会 日テレ紹介のあわび亭でH11メトロの暑気払い へ
次回 太田記念美術館 江戸時代後期を代表する破天荒な作品を生み出した浮世絵師歌川国芳を見るその2
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イベント 練馬大根産地であった練馬での異業種交流会 日テレ紹介のあわび亭でH11メトロの暑気払い

2011年08月24日 | イベント
kan-haru blog 2011 練馬駅 

< 総合INDEX へ

H11メトロの暑気払い
異業種交流会H11メトロは、地方独立行政法人東京都立産業技術研究センターが異業種交流事業として募集した、東京都異業種交流会グループの中の平成11年に発足したグループの一つで、毎月例会を開催しており7または8月には暑気払いを行っております。
今年は、日本テレビの2009年11月21日に放送された「ぶらり途中下車の旅 旅人八名信夫」で紹介されている、練馬の「あわび亭」でH11メトロの暑気払いを7月14日に開催しました。

・練馬あわび亭
あわび料理ということで海に近い場所なのかと思いきや、暑気払いのお店は海から離れた23区内で一番暑いところの東京の北西にある練馬です。

 練馬の地図(左:練馬区の位置、:練馬駅周辺地図)

練馬と云えばかっては練馬大根の産地で元禄の江戸時代から栽培されており有名ですが、練馬の由来は練馬区役所ホームページによると、
・関東ローム層の赤土をねったところを「ねり場」といった
・石神井川流域の低地の奥まったところに「沼」=「根沼」が多かった
・奈良時代、武蔵国に「のりぬま」という宿駅があった
・中世、豊島氏の家臣に馬術の名人がおり、馬を馴らすことを「ねる」といった
などの諸説がありますが、定説はありませんとのことです。

あわび亭(練馬区練馬1-35-1)へのアクセスは、大門から地下鉄大江戸線に乗り換え、直通で練馬駅には約35分で着きます。練馬駅の北口にでて、大通りを北に進み練馬文化センター方向に進みます。

 あわび亭へのアクセス(左:アクセス図、右:練馬文化センター横の大通り)

練馬文化センターが切れる前に公園横の路地を右に折れて、先の四つ角の左側建屋を曲がって2軒目が暑気払いあわび亭で、駅からは徒歩5分です。

 あわび亭(Googleストリュートビューから)

あわび亭の料理を先の「ぶらり途中下車の旅」のテレビを見て、さらにあわび亭ホームページを覗いてみましょう。まず、旅人の八名信夫が見たあわび亭の印象は、『練馬の住宅街にあるアワビ料理専門店で、こちらのご主人は、以前、食品を配送する仕事をしていましたが、その時出会ったアワビに惚れ込み、脱サラしてお店を始めました。季節ごとに一番美味しい産地の物を選び、今(放送当時)は三陸のアワビを使っているそうです。和洋中を織り交ぜた30種類以上のアワビ料理を頂く事が出来ます。』と紹介しています。

 コース料理1(写真拡大)

あわび亭のお品書き料理には、活きたあわび料理は刺身だけではありません。あわび亭では、様々な調理法であわび料理をご用意いたしております。煮て、焼いて...全てが『あわびづくし』です。小付・前菜・刺身・煮物・焼物のコース料理は、3,800円、4,800円、6,000円、10,000円のコースがあります。リーズナブルな料金で思う存分ご堪能くださいとあります。今回は、4,800円のコースでの暑気払いであわび料理を堪能しましたが、会の後で参加者の印象を尋ねててみると、「あわび亭はとても楽しくおいしかったです。 量がハンパなく、それを平らげる我々も 大したもんです。」と大変と満足した様です。

 コース料理2(写真拡大)

暑気払いは6時半からで、時間が近くなるとメンバーが集まってきましたので、まずはビールで乾杯して、暫くは今年の猛暑を凌いでビールで冷えるまで歓談です。料理は時間の制限がないのでゆっくりと味わうことができる嬉しいコースで、小付・前菜・刺身・煮物・焼物の伊勢海老とあわびづくしの料理を堪能し、各人思い思いに日本酒、焼酎などを注文して宴席が盛り上がりました。最後は、炊き込んだあわびご飯での仕上げです。

 あわび料理をまえにして暑気払いの歓談

東京では珍しい食事時間制限のないお店なので、ゆっくりと料理が味わえてアルコール量も比例したようです。暑気払いの記念写真も、ご飯が出てくる前に撮影するという前例のないものです。店のマスターの岩楯博さんも愛想が良く、店員さんと一緒に写真に加わって頂きました。

 暑気払い記念写真2011(クリック拡大:奥に立つ右側マスター、左側サービス店員)

食事を食べ終わると11時少し前で、あわび亭の玄関前でも写真を撮りお開きです。

 あわび亭玄関前

< 総合INDEX へ
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(8月分掲Indexへ)
・カテゴリー別Index イベント総目次 2010・2011年版2009・2010年版2008年版2006・2007年版
<前回 イベント ビジネスと物産 異業種交流機会創出のビジネスフェアと地元の銘品に感動の物産展その2 へ
次回 イベント 太田記念美術館 江戸時代後期を代表する破天荒な作品を生み出した浮世絵師歌川国芳を見るその1
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イベント ビジネスと物産 異業種交流機会創出のビジネスフェアと地元の銘品に感動の物産展その2

2011年07月03日 | イベント
kan-haru blog 2011 船清の屋形船

< 総合INDEX へ

・さわやか物産展
併合展のビジネスフェアの見物を終えたので、隣接会場の第2回さわやか物産展へと移動するとさわやか物産嬢が笑顔で出迎えてくれました。

 さわやか物産展入り口(:さわやか物産展受付、:ミスさわやか物産、:ビジネスフェアからの通路)

物産展の会場に移ると展示の51コーナーには、都内から出展の33業者と共に、地方の北海道稚内から5業者、沖縄コザ2業者、静岡沼津3業者、愛媛から2業者の食品展示物を主体としている他、関連製品の化粧品、仏具、機械彫刻、タオル製品、治療器具、やかた船などの6業者の多彩な品々の出展が見られました。

 さわやか物産展会場図(拡大図)

この物産展は、昨年からさわやか信用金庫、愛媛信用金庫、コザ信用金庫、沼津信用金庫および稚内信用金庫の協力のもとで開催され、地元の多数のお客様に買い物の楽しみを提供するイベントで、この模様は昨年に引き続き今年もNHKテレビ「昼のニュース」で放映され、地域貢献・社会的貢献活動として定着してきました。ビジネスフェアと異なり殆どがご年配のご婦人方が顧客で混雑を呈していました。

 混雑するさわやか物産展会場(写真拡大)

会場に足を入れると食品が所狭しと陳列され、地元大森・品川の出展食品といえば何といっても海苔で、守屋武夫商店他3店が出展販売しており、大谷政吉商店の若炊きあさりなどの佃煮、愛川屋蒲鉾店の練り物のさつま揚げ、丸田商店の五目シュウマイが並び、また鰹節、海産物、乾物、豆腐、天然えご、日方昆布などの本場物の海の幸・山の幸を販売している勝男武士屋が出店しています。
東京狛江の成城・城田工房ではハム、ソーセージを、地方の静岡橘水産では各種の干物やマグロテールステーキを、稚内からは稚内東部株式会社他4店から冷凍ほたて類、粒うに類、干物類、かに甲羅盛りなどの海産物を販売していました。美味しそうな匂いが漂い様々な食べ物が並び、つい購入の手が出てしまいます。
その他の食品の出店には、大江戸あられ本舗の米菓や、ケーキ、和菓子、豆菓子、パン、お茶、柑橘類、各種飲料など殆どの食品が揃っています。

 さわやか物産コーナーの展示食品(左上:愛川屋蒲鉾店のさつまあげ、中上:稚内東部店のほたて食品、右上:、左下:ホッピービバレッジのホーッピー、地ビール、中下:オリーヴドゥリックのオリーヴオイル、右下:大正10年創業の料亭秀)

イベント
さわやか物産展のイベントは、盛岡「いわてさんさの会☆加藤家」の出演による東北復興支援!「さんさ踊り」が、2階小展示ホールで午後2時~2時20分と午後3時10分~3時30分の2回開催されます。地震に見舞われた東北地方の夏祭りの中のさんさ踊りが一足早く見られました。
残念ながら、開催が午後のため見ることができませんでしたので、イベントの模様を「いわてさんさの会☆加藤家」のブログ(「ずっぱり!!☆盛岡さんさ☆日記」出前さんさ in 東京 ~6月17日~)から再現してみます。
『素晴らしいステージを用意していただき、その素晴らしさと段取りの良さに感激と恐縮をしながら「さんさ」披露をしてきました。ステージのバックにしっかりとパネルも用意していただきました。観に来て下さった方々にも、喜んでもらえてみたいで一安心。ステージ終わって、お見送りをした際に「実際に盛岡のお祭りに行きたくなったわ!」って、何人かの方に声を掛けていただきました。』と出演者が語っています。

 2階小展示ホールにて「いわてさんさの会☆加藤家」のさんさ踊り

・さんさ踊り
盛岡さんさ踊りは、1978年(昭和53年)に第1回を開催して以来、2011年で34回目を迎えます。本年も開催期間を4日間として8月1日から4日、中央通を会場に“魅せる祭り”と“参加する祭り”のコラボレーションを展開し祭りを盛り上げます。
また、最終日(8月4日)には、「和太鼓同時演奏」でギネス記録を達成した『世界一の太鼓大パレード』と、『大輪踊り』を行い、「盛岡さんさ踊り」は踊り手の数は約3万人、太鼓は1万2千個、笛は2千人で迫力満点でグランドフィナーレをかざります。
盛岡市とその周辺地域に踊り継がれてきた伝統さんさは、各地区によって振り付けや衣装が異なり、パレードは圧巻です。また、盛岡駅西口の盛岡市民文化ホー ル(マリオス)及び盛岡駅滝の広場では、伝統さんさ踊り競演会を開催しています。

 岩手盛岡さんさ踊り

・さんさ踊りの由来
藩政時代から受け継がれてきたさんさ踊りの起源は、三ツ石伝説に由来しています。
その昔、南部盛岡城下に羅刹鬼(らせつき)という鬼が現れ、悪さをしてあばれておりました。困り果てた里人たちは、三ツ石神社に悪鬼の退治を祈願しました。神様はその願いを聞き入れて悪鬼たちをとらえ、二度と悪さをしないよう誓いの証として境内の大きな三ツ石に鬼の手形を押させました(これが岩手の名の由来だと言われています)。鬼の退散を喜んだ人たちは、三ツ石のまわりをさんささんさと踊り回ったのが「さんさ踊り」の始まりだと言われています。(さんさおどり公式ホームページから)

・いわてさんさの会☆加藤家
『いわてさんさの会☆加藤家』は、岩手県の伝統芸能「さんさ踊り」のチームです。
住んでいる所も、趣味も仕事も年齢も、全部ばらばらですが、友達の友達、そのまた友達と、友達つながりで集まりました。子どもから、おじぃかちゃんおばぁちゃん、外国人…いろいろな人がいます。
なぜ、「加藤家」かというと、家や家族のようなあたたかく。さんさの太鼓の特徴であるフチをたたく‘カトカト’という音から。ドリフターズのように世代を超えて楽しく愛されるチームに・・・。などなど様々な理由があります。
いろいろな人が‘加わって’1つのチームとなり、バラバラだけど「家族のように」と思いを込めて『加藤家』ができました。
「盛岡さんさ踊り」のデビューは、『いわて青年さんさ集団・加藤家』として2000年8月に登場ました。

 2001年8月3日朝日新聞より(新聞記事拡大)
(いわてさんさの会☆加藤家ホームページから)

< 総合INDEX へ
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(7月分掲Indexへ)
・カテゴリー別Index イベント総目次 2010・2011年版2009・2010年版2008年版2006・2007年版
<前回 イベント ビジネスと物産 異業種交流機会創出のビジネスフェアと地元の銘品に感動の物産展その1 へ
次回 イベント 練馬大根産地であった練馬での異業種交流会 日テレ紹介のあわび亭でH11メトロの暑気払い
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イベント ビジネスと物産 異業種交流機会創出のビジネスフェアと地元の銘品に感動の物産展その1

2011年06月29日 | イベント
kan-haru blog 2011 ビジネスフェア会場風景

< 総合INDEX へ

大田区産業プラザPIO(大田区南蒲田1-20-20)での展示会には年に数回訪れますが、今回の「第7回ビジネスフェア」と「第2回物産展」は今年に入り2回目の見学です。1回目の見学は3月11日の、「第2回試作市場2011」と「『地図展 In おおた』~空から見た国際都市大田~」で、ほぼ見学が終わった頃地図展会場内で東日本大震災に遭遇(「イベント 展示会で東北・太平洋沿岸地震に遭遇 大田産業プラザで試作市場と地図展 その1~4」参照)しました。

「第7回ビジネスフェア」と「第2回物産展」
「第7回ビジネスフェア」と「第2回物産展」の併合展は、さわやか信用金庫の主催で、経済産業省 関東経済産業局、独立行政法人中小企業基盤整備機構 関東支部、東京商工会議所 大田支部、社団法人 東京都信用金庫協会、東京新聞、信金中央金庫の後援で6月17日午前10時 ~ 午後 4時まで開催されましたので見てきました。

 展示会パンフレット

展示会場の1階大展示ホールは、両会場を2つに分けPIO入り口の手前がビジネスフェア展示場で、奥が物産展会場です。

 ビジネスフェアと物産展会場(:大田区産業プラザPIO、:展示会場[左]ビジネスフェア・[右]物産展入口、:ミス物産展)

両会場のレイアウトは、展示コマが背中合せで分離しており、展示場の広さはビジネスフェアが2/3の66コマで、物産展が51コマの1/3の割合で両展示場間は自由に行き来ができます。

 展示会場図(展示会場拡大図)

・ビジネスフェア
併合展示の会場の手前のビジネスフェア入口には10時半頃到着して、正面受付で受付を済ませて名札をさげて、会場を時計回りに見学開始です。
ビジネスフェアの開催テーマは、中小企業の持つ商品・サービス・技術等を展示、ご紹介(販売も可)いただくとともに、ビジネスマッチングの機会創出を目指とあります。 
ビジネスフェアの展示会場は、不動産・建設関連企業ゾーン、コンサルゾーン、製造業関連企業ゾーン、IT関連企業ゾーン、流通・サービス関連企業ゾーンの業種別の5ゾーンに66コマの展示場があり、会場中央にはマッチングスペースとプレゼンテーション会場が設けられています。会場の見学者は、時間が早いせいか割合と空いていました。

 ビジネスフェア展示場(:ビジネスフェア受付場、:マッチングスペース、:プレゼンテーション会場)

展示製品を見てまず目についたのは、不動産・建設関連企業ゾーンのコーナー5番で時節柄の製品である節電対策・LED・省エネ改修工事製品です。次いで右に曲がると怪獣が陳列で目立った製造業関連企業ゾーンコーナー26の真空ポンプと蒸着技術製品があり、展示コーナーを半周した製造業コーナー16には時節商品の放射線を遮蔽および減衰させる塗料や蓄光塗料製品が見られました。

 ビジネスフェア展示コーナー1(:時節商品の節電対策・LED・省エネ商品展示、:真空ポンプ製品・真空装置設計販売、:初公開展示の放射線の遮蔽・減衰塗料)

会場奧のIT関連企業ゾーンコーナー1番には、LCDが9面のフルHDマルチスクリーン、離れていても身近に会話が出来る「どこでも窓」などのシステム製品が見られ、コンサルゾーンには大田区産業振興協会、東京商工会議所、東京都立産業技術研究センター、東京大学産学連携本部の他に8の団体、企業が出展していました。

 ビジネスフェア展示コーナー2(:マルチスクリーンとはなれて会話ができるシステム製品、:コンサルゾーンの大田区産業振興協会、:コンサルゾーンの東京商工会議所大田支部)

・イベント
第7回ビジネスフェアのイベントの基調講演は、「壁を破る発想法」の演題で、講師を佐藤満氏 元日本ゼネラルモーターズ(株)代表取締役社長により、2階小展示ホールで午前11時 ~ 午後12時30分に開催されました。

 基調講演会場

また、プレゼンテーションのイベントが午後12時40分から1階大展示ホールのプレゼンテーション会場において、株式会社環境材料エンジニアリング他8社が参加して行われました。

< 総合INDEX へ
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(6月分掲Indexへ)
・カテゴリー別Index イベント総目次 2010・2011年版2009・2010年版2008年版2006・2007年版
<前回 イベント 東京国立博物館 手塚治虫の漫画と仏像でたどる釈迦の生涯「ブッダ展」その3 へ
次回 イベント ビジネスと物産 異業種交流機会創出のビジネスフェアと地元の銘品に感動の物産展その2
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする