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K&A

kan-haruの日記

イベント(8) 明治大学 ホームカミングデー(その2)

2006年11月05日 | イベント
リバティタワー エントランスホール

ホームカミングデー午後の部
ホームカミングデー(明治大学キャンパス航空写真)午後の行事は盛り沢山で、公開講座では北野大理工学部教授の「お節介、やせ我慢、勿体ない~母の訓え」、熊崎勝彦法科大学院客員教授の「時代と特捜検察」やパネルディスカッション「我が青春~明治魂とオリンピック~」などがあり、アトラクションでは明大が誇るマンドリン倶楽部などの現役学生音楽団体7団体の演奏会に、一日体験学習会と明大スポーツ写真展などで終日楽しめました。

午前の開会式が終了して、リバティタワー前の広場に来て見ると、明大グッズの販売や物産展の模擬店が出ており、特設会場で神田囃子保存会(東京都無形文化財)による神田囃子で、“校友のための駿台祭”を賑やかに盛り上げておりました。
神田囃子が出てきたのは、化政期[1800年頃]に作曲された清元『神田祭』の中に、神田囃子の名が出て来るが、果して、この頃からであろうか定かではありません。
今日、伝承されている『江戸の囃子』は、『五人囃子』といって(大太鼓・締め太鼓× 2・笛〔篠笛〕・鉦)を以って一組としています。


リバティタワー内エントランスホールに入ると、2階通路階段上には「明治大学グリークラブ」が勢ぞろい して、男性合唱により祭りを盛り上げておりました。2階の陽だまり広場では、ドリンクコーナーが開いており、おつまみと缶ビール、日本酒やソフトドリンクが福引あたり券か購入して飲めました。陽だまり広場は初めてで、サービスにドリンク券を頂きましたが、昼時で食事をとるため「お食事マップ」を見て、時間があまりないのため明大通りと三省堂前の靖国通りに抜ける小道にある小さな食堂で軽い昼食をとりました。

現役学生音楽団体の演奏会
午後の催しを見るためリバティタワーに戻り、1Fのリバティホールを覗くと「明治大学ビッグ・サンズ・ソサエティ・オーケストラ」によるジャズの演奏をしており、立ち聴きしてから23Fの岸本辰雄記念ホールを覗くと「明治大学交響楽団」が演奏しておりましたので、少しずつ聴きかじりのハシゴをしました。
両楽団とも素晴らしい演奏をしており、普段は母校の音楽団体の演奏会を聴く機会がないので、午後の楽しみは創設が古く歴史のある現役学生音楽団体7団体の一同に会した演奏が聴ける合同発表会の「M-Naviコンサート」を聴くことにして、開会式を行なったアカデミーホールへと向かいました。日ごろの学生諸君の練習の成果を、存分に聴かせて貰いました。

・明治大学ハーモニカ・ソサエティ
明治大学ハーモニカ・ソサエティは、ハーモニカを主体としたビッグバンドで、吹奏楽とバンドを足して2で割ったような感じです。ポップス、ロック、フュージョン、 クラシックからジャズまでどんな曲でも演奏します。部員数は、全学年合わせて70人程です。
活動は、定期演奏会の他、年に一度春に四大学(早稲田、中央、立教)ジョイントコンサートも行います。
・明治大学グリークラブ
明治大学グリークラブは1949年に明治大学交響楽団合唱部が組織した、明治大学合唱団(混声)に由来します。当時学内に男声合唱団がなかったことや、部員の増加などにより男声部独立の気運が高まり、1958年秋、日本一の男声合唱団を目指して百人近い明大生が集まり「明治大学グリークラブ」が誕生しました。現在の部員は、一部・二部の文系学部生構成のおよそ40名です。
・明治大学ギターアンサンブルAmity
明治大学ギターアンサンブルAmityは、1964年の創部で合奏用のクラシックギターを用いて、バロック音楽、ポップスや映画音楽などを演奏します。部員数は、全学年合わせて60人を超えております。活動は、定期演奏会の他、毎年6月に五大学(青山学院、東洋、法政、早稲田)の関東学生ギター連盟定期演奏会を行います。
・明治大学マンドリン倶楽部
明治大学マンドリン倶楽部は、大正12年の春6人のマンドリン・ギター愛好家によって創設され、大正13年の第1回演奏会では予科1年生の古賀政男先生がセカンドマンドリンのしんがりでした。その後、主将になられた古賀先生は、明大マンドリン倶楽部独自のカラーを創造され、以来「何でも弾いてやろう」というフロンティア精神が底流となりました。定期演奏会において古賀政男先生作曲の「影を慕ひて」等を発表し、当時の暗い社会に大反響を呼び一躍明治大学マンドリン倶楽部の名は全国的なものとなりました。
レパートリーは、クラシック、童謡・民謡歌謡曲等の日本の音楽、やラテン・フュージョン・ロック等のあらゆるジャンルと幅を持ち、常に新しい音楽を取り入れようと挑戦しています。

50年前に記念館で古賀政男先生が演奏に加わって聴いた、明治大学マンドリン倶楽部のマンドリンとギターが奏でる「影を慕ひて」は、素晴らしいの一語で今でもその感銘は深く残っております。その演奏会の時にも、童謡歌手の古賀さと子が明治大学マンドリン倶楽部の伴奏で「ねこふんじゃった」の独唱を聴いて、常に新しいジャンルに挑戦するという試みに新鮮さを感じました。そのイメージが今日まで続いており、マンドリン倶楽部の演奏を大変楽しみにしておりました。


しかし、半世紀を経過して聴いたリバティタワーでの演奏は、常に新しいジャンルに挑戦するという試みは感じられましたが、抱いていたイメージとは大きく変わっておりました。今回の演奏でも、いろいろな曲の演奏能力の高さは素晴らしいものでしたが、何故か打楽器の効果音が大きく目立ち、本来のマンドリンが織り成して醸し出す美しい音色がうずもれており、昔受けた感銘とはかけ離れた印象でこれも時代の相違かなと感じました。
ただ、先輩に聞かせるために理工学部生の指揮者のサービス精神は旺盛で、観客席まで入っての指揮振りには拍手です。

マンドリン倶楽部の演奏は、リバティタワーの他にリバティホールでも、中村美津子が古賀メロディを歌う新しいジャンル挑戦の演奏があるので、聴きに行きましたが超満員で音楽を聴く雰囲気でないため、再び「M-Naviコンサート」を聴くため戻りました。
・明治大学ビッグ・サンズ・ソサエティ・オーケストラ
明治大学ビッグ・サンズ・ソサエティ・オーケストラは、明治大学軽音楽クラブ内のジャズ・ビッグバンドとして1961年に活動を開始し、1989年にクラブから独立しました。現在の部員は、約50名で、活動は、年度のリサイタルの他、毎年8月に行われる山野楽器主催のYAMANO BIG BAND JAZZ CONTESTに参加しております。
・KLAVIER
KLAVIERは、1989年に創設の明治大学ピアノサークルで、クラシックを中心に、ポップス、ジャズや他楽器とのアンサンブルも取り入れております。現在の会員は、約50名で、活動は、毎年の定期演奏会と東京六大学ピアノ連盟の演奏活動を行っております。
ホームカミングデーへは、今回が初参加です。
・明治大学交響楽団
明治大学交響楽団は、新交響楽団(現NHK交響楽団)創立メンバーの一人である尾原勝吉によって創設され83年を迎えました。1923年の第1回以来、毎年1回の定期演奏会の他、入学・卒業式の式典演奏などの多彩な活動を行っております。現在の団員は、150名を越すオーケストラサークルです。

半世紀ぶりの学びやへのホームカミング
ホームカミングデーで半世紀ぶりにわが学びやへ招待して貰い、現在のキャンパスや施設に触れさせて頂き、さらに多数の教授や理事長などにお目にかかれ、現役学生の活動を目の当たりにして、遥か昔の学生時代を想い出しました。
午後の行事が全て終了し、アカデミーホールを降りるエスカレータから夕日に輝くニコライ堂が見えて、50年前の工学部への通学は、御茶ノ水駅の聖橋口から右にニコライ堂を見て、本郷通りを靖国通り交差点に出るちょっと手前の進行左側に校舎がありましたので(「風景・風物詩(A1) 東京百景 山の上ホテルとその周辺(その2)」参照)、とても懐かしく思いました。
節目の年に、ホームカミングデーにご招待頂き感謝しております。

毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(10月分掲載Indexへ)
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イベント(8) 明治大学 ホームカミングデー(その1)

2006年11月03日 | イベント
第9回明治大学ホームカミングデー
10月15日の日曜日は天候にも恵まれ、第9回明治大学ホームカミングデーが開催されました。
ホームカミングデーは、母校と交友の連携強化、交友同士の親睦をはかり、昨今のキャンパスの変わり様を卒業生に知って貰うため、毎年秋に開く、明治大学が主催する“校友のための駿台祭”なのです。今年のホームカミングデーは、毎年の卒業十年目ごとの交友を招待し、第九回開催にあたり、昭和31年卒(卒後50年目)、昭和41年卒、昭和51年卒、昭和61年卒、平成8年卒の約28,700名が招待校友だったが、このうち約2,200名が出席の回答を寄せたとの報告がありました。

校友のための駿台祭
今年は、数えてみると卒後50年目にあたり、母校からホームカミングデーの「招待状」が送られてきましたので、出席の通知を出して第九回明治大学ホームカミングデーに行ってきました。ホームカミングデーへの参加者は、今までの最高だそうで、大盛況の“校友のための駿台祭”に参加した模様をまとめてみました。
ホームカミングデーは、午前にアカデミーホールで開会式が行われ、午後はリバティタワーを中心に各種催しが行われました。さまざまなアトラクションや公開講演会に、校友なら誰でも参加でき楽しむことができます。

変貌する明治大学キャンパス
1881年(明治14年)1月17日、若き青年法律家であった、岸本辰雄、宮城浩蔵、矢代操によって明治法律学校として創立し、1920年(大正9年)4月1日の大学令による明治大学となりました。1923年(大正12年)9月1日の関東大震災では、壊滅的な大打撃を被ったが、教職員、学生・校友により復旧・復興に当たり、1928年(昭和3年)4月21日には記念館(大学創立30周年記念の1911年10月に落成)で復興の式典を挙行できるまでになりました。明治大学では、当初から卒業生を交友と呼んでおります。戦後、1949年(昭和24年)2月21日、新制「明治大学」として認可され、新たな出発をしました。
2001年(平成13年)11月1日には創立120周年を刻み有数の私立大学として発展しております。
卒業生数は、資料によると新制大学卒業の1950年(昭和25年)から2004年(平成16年)までの一、二部学部(短大を除く)で375,657名を数えます。

近年の駿河台の明治大学のキャンパスは大きく変貌し、記念館跡には地上23階・地下3階の「リバティタワー」が1998年9月に竣工し、白亜の旧大学院校舎跡には2004年4月に「アカデミーコモン」が完成しております。
50年前の駿河台キャンパス(「風景・風物詩(A1) 東京百景 山の上ホテルとその周辺(その2)」 50年前のわが学びや明治大学参照)は、卒業年の1956年(昭和31年)に撮影した駿河台キャンパス(再掲)で見られるように、明治通りに面して記念館と大学院校舎が明治大学のイメージであったのです。
記念館が、老朽化により1995年11月11日「さよならDay」を持って壊さた以前の地方在住の卒業生で、今日まで在京する機会の無かったホームカミングデーの参加者は、昔の古臭い教室と比較して施設の素晴らしさに驚いたと思われます。

ホームカミングデー午前の部
10時から開始の開会式に参加するため、アカデミーコモンで受付を済ますと、記念品の「懐中時計」やホームカミングデーの行事などが書かれた立派な冊子の入った手提げの紙袋を頂きました。
・福引抽選券大当たり
エントランス付近では恒例の福引抽選券を発売していましたので1枚購入してみました。福引券は、1枚千円で空クジなしの、「図書カード」、「ドリンクコーナー利用券」または「博物館特製ポストカード」がその場で貰えるというもので、売上金が「岸本辰雄記念奨学基金」に積み立てることを知り、開会式会場内で、福引券を2枚追加して購入すると、1枚が「大当たり」で今はやりの日帰り温泉の入浴券5枚を貰いました。さらに、その上本抽選で時計が当たり、図書カード2枚とともに福引抽選券ではつきについていました。

・開会式
開会式は、1,200名収容の 3階アカデミーホールで行われました。アカデミーホールは、3~6Fに座席を設けた大講堂で、平山郁夫画伯の「マルコ・ポーロ当方見聞行」の緞帳など、明治大学として初の立派な講堂を設けたものだと感心しました。

アカデミーホールの緞帳

まずは、創立以来の約5万人に及ぶ校友の物故者に対し黙祷から始まり、開会式演壇の左手には納谷学長を初めとして、各学部長と招待者の卒業年度の交友代表者(写真1)が参列し、右手には主催者の理事長を初めとする役員や校友会役員などが列席して行われました。
式次第は、望月友貴アナウンス研究会の司会で、開会の辞が井上崇通運営委員長、主催者挨拶が長吉泉理事長式辞が納谷廣美学長、祝辞が青木信樹校友会会長と続き、各卒業学年度代表(1956年卒横溝正子、1966年卒青柳勝栄、1976年卒笹田学、1986年卒山本篤、1996年卒磯田雄大の諸氏で、写真1の前列の右から2番目より順に左に向かい並んで列席)の挨拶と各学部長の挨拶がありました。

続いて、駿河台キャンパスの対面の小川町校舎跡に、今秋の12月竣工予定で建設が進められている校友会活動拠点となる「紫紺館」の紹介があり、完成すると5、6階にはレストランやバーラウンジが出来、交友、教職員、学生がゆっくりとくつろげるとのことです。


開会式の締めとして、明治大学応援団の指揮による校歌斉唱を明治大学交響楽団の伴奏で行い、森久副通運営委員長による閉会の辞で滞こうりなく終了しました。

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イベント(7) 大森駅開業130周年(その3)

2006年10月24日 | イベント
大森駅開業130周年パネル展「記された大森駅」第2回
前回に続き、大森駅開業130周年パネル展「記された大森駅」展示出品から、大森駅と周辺の模様の変遷を見てみます。
大森駅周辺 小新井たけ作(出展:新大田区百景 大田区役所)

・大町桂月の八景園から蒲田梅園にかけての南郷の梅見紀行文に見る1906年頃の大森駅近辺の風景
大町桂月(1869-1925)本名芳衛は、高知出身の詩人、歌人、随筆家、評論家で、明治29年東大国文科卒業。「文芸倶楽部」、「太陽」などに随筆を書き美文家として知られ、韻文、紀行、評論、史伝、人生訓などの多彩な著書を残しました。
全国を旅して書いた紀行文も多く、「東京遊行記」は、東京とその近郊を散策した折に、行く先々の土地の情景を記述したもので、関東大震災や太平洋戦争、そして乱開発によって失われた土地の、元の姿をよみがえらせてくれます。



東京遊行記の「梅の名所 第四 南部の梅」では、1906年(明治39年)頃の紀行記の、大森駅に接した八景園の記述があり、「梅も数十百本あり水戸の常盤公園(現階楽園)を十分の一も小さくしたるものにて、さばかりの事はなけれど、田を隔てて品川湾を見渡す眺めは、常盤公園より千波沼を見下すぐらいの比には非ず。差引勘定、たいした優劣なく、これが此園の特色にして、他の梅園にその比を見ざる所也。」と梅園を紹介しております。
また、蒲田梅園(「大森町界隈あれこれ(N32) 大森町風景 梅屋敷公園」参照)の記述では、「海岸まで電車(「大森町界隈あれこれ(P31) 京急歴史(1) 大森海岸と大森間に電車が走る(その1) 」参照)、のりかへて、蒲田梅園の前にて下る。手の入った庭なり、池めぐり、樹老いて風致瀟洒、大に見ばえのある処也、梅を賞する者は、臥龍梅以外ここを一訪せざるべからず。」と梅園を紹介しております。

臥龍梅福岡県大牟田市宇今山普光寺(うこんざんふこうじ)境内にあり、樹齢400年で全長22mの八重咲きの紅梅であり、2月下旬~3月上旬に見頃となります。

・小説「魔術」から芥川龍之介が見た1920年(大正9年)頃の大森駅周辺の風景
芥川龍之介(1892-1927)は、東京市京橋区で新原敏三長男として生まれ、母は11歳の時亡くなり叔父芥川道章に預けられる。
東京府立第三中学校(現両国高校)、第一高等学校から東京帝国大学英文科に進学。
在学中の1914年に菊池寛、久米正雄らとともに同人誌『新思潮』を刊行、処女小説「老年」を発表し、1915年代表作「羅生門」を、1916年に発表した「鼻」が漱石に絶賛される。
芥川龍之介の作品は、主に短編小説を書き、多くの傑作を残した。しかし、その一方で長編を物する事は出来なかった。35歳で服毒自殺し、障害を終える。



小説「魔術」に出てくる、「ある時雨の降る晩のことです。私を乗せた人力車は、何度も大森界隈の険しい坂を宇上がったり下りたりして、やっと竹薮に囲まれた小さな西洋館の前に梶棒を下ろしました。」という場面は、大森駅西口改札傍の山王の高台から続く馬込文士村までの起伏にとんだ高台を描写しており、文士村の知り合いの室生犀星、北原白秋や萩原朔太郎を訪れる時に、大森駅前から人力車に乗ったのではと察せられます。地図で示す様に東海道線の大森駅前には、高台がそびえ急な石段を上ると天祖神社のある山王の高台で、起伏のある台地を西に進むと現在の環七通りが谷となり、その先がまた起伏のある高台となり、文士村で有名な馬込です。

・「東京大森海岸 ぼくの戦争」(小関智弘)の1945年(昭和20年)の大森大空襲で大森殲滅の記
小関智弘(1933年大森生まれ)、高校時代から文筆活動をして、卒業後大森・蒲田の町工場で働きながら、日本の戦後の町工場を見据えてルポや小説を著し、「羽田浦地図」、「祀る町」で芥川賞候補、「錆色の町」、「地の息」で直木賞候補となりました。

私と同年生まれの小関智弘氏が書き下ろした「東京大森海岸 ぼくの戦争」は、東京大空襲の記録資料で大森に関しての資料は大変少ない中で、戦時中軍需工場が集積した大森は空襲の標的になり、機銃掃射に遭い住居も全焼の被災者となった戦中、戦後を少年の目線で振り返り、体験を語り戦争が風化しつつあると懸念して、「戦争は戦場でだけ起こるのではなく、戦争を経験した人が『自分はこうだった』と声を上げることが必要だ」との思いで執筆したとあります(「大森町界隈あれこれ(14) 鎮魂!大森町大空襲(第7回) 」参照)。

「東京大森海岸 ぼくの戦争」の記述中に、「五月二十九日のこの空襲は、横浜や鶴見を集中的に爆撃したものであった。横浜、鶴見を爆撃してもなお余った焼夷弾を、旋回して東京湾上に出てゆく帰路の置き土産として落としていったものであった。」たり、この空襲で入新井の住居が戦災に合い、あたり一面の焼野原から大森駅の駅舎が見えたことの描写が書かれております。
大森の大空襲の壊滅的被害は、それより一月半ほど前の四月十五日の晩から翌朝にかけての大森町大空襲により、26万3千人が羅災にあったのです。戦災を示す図は、大森警察署付近の戦災の焼け跡で、遠くに見える大森町のガス会社のガスタンクまで、何も残らない焼け野原です。



このガスタンクは、大森町の住人にとっては川口のキュウポラのある街と同様にシンボルでした。疎開前の小学生であった頃、住居の二階の物干しから左側の露出のガスタンクは、朝ガスが満タンで、夕方にはガス残量が少なくなる様子を見ながら暮らしていた懐かしい写真なのです。
この、被害風景が、まさに完結した『若山武義の手記(1946年記述) 「戦災日誌(大森にて)第1~11回』の記述で、若山氏など住民が戦災遭遇した跡の記録写真そのものなのです。
若山武義の手記は、大森の他に『若山武義の手記(1946年記述)第2編「戦災日誌(中野にて)第1~7回』と『若山武義の手記(1946年記述) 第3編「終戦前後(目黒にて)第1~9回』があり、空襲編は完結しております。

現在、戦争を知らない世代が8割を超えました。また、北朝鮮では核実験を実施し、きな臭い世の中となってきました。悲惨で惨めな意味の無い戦争体験は、我々で終わりとして恒久平和の世界を願うために、是非無謀な戦争を起こさないように語りついて頂きたいと思います。

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イベント(7) 大森駅開業130周年(その2)

2006年10月22日 | イベント
大森駅開業130周年パネル展「記された大森駅」第1回
10月14日に大森東急イン通路で、大森駅開業130周年パネル展「記された大森駅」が展示されました。パネル展は、東京都大森貝塚保存会の企画で、大森駅開業から今日までの姿を、小説、絵や写真などで紹介しておりました。その展示物をみて、それらの背景の時代の大森駅に関する記録から、130年の歴史を浮き彫りして大森駅と周辺の模様の変遷を浮き出してみました。

・モースの大森貝塚発掘の日記から見た1897年頃の大森駅の模様
エドワード・S・モース(Edward Sylvester Morse、1838-1925)が、1877年(明治10年6月)に来日した時に、横浜から東京に向かう汽車の窓から貝塚を発見し、大森駅の近くにあったので大森貝塚と名付けられました。この貝塚が、日本考古学の発祥の地となりました。
しかし、大森駅は大森村にあるのではなく、新井宿村にありましたが、なぜ大森駅と名付けられたのかは理由がよく分かっておりません。大森駅から700mほど東にある東海道の三原通りから谷戸にかけては、品川宿と川崎宿の中間に当たる大森村の間(あい)の宿(「大森町界隈あれこれ(N31) 大森町風景 旧東海道(三原通り) その1」参照)であり、それにより大森の名は知られておりましたので名付けた(「大森町界隈あれこれ(7) 大森町に住んで65年!(その6)」参照)というのが理由のようです。

パネル展の展示から、モースの1887年(明治10年)9月16日日曜日の日記「日本その日その日」(石川欣一訳)によると、この日に行った貝塚の発掘は、直弟子の生物学者、佐々木忠次郎と学生二人で大森駅まで汽車に乗り、築堤までの半マイルの線路を歩いて行ったと記述してあります。
ところが、モースは生物学者であったため、考古学者であれば必ず実施する発掘地点周辺部の測量をしなかったことから、モースのリポートを見ても正確な発掘地点はわからなかったのです。
現在、大森貝塚に関する石碑は、大田区側の大森駅近くと品川区側の遺跡一帯に整備された大森貝塚遺跡庭園内との2ヵ所にあります。この2ヵ所の大森貝塚については、今後記述を予定しておりますので、ここでは大森駅との係わりのみで留めておきます。

・幸徳秋水の論説記事から見た1897年頃の大森駅の模様
パネル展の展示から、ジャーナリストの幸徳秋水が、崩御された英照皇太后の京都後月輪東山陵に東海道線で葬送するお見送りの模様を、拡張高い筆運びで書いた中央新聞論説記事の「大森駅奉送記」の中に、当時の大森駅の状況が見られます。当時の大森駅の周辺は、明治の大森村編集の地図に示す通り田んぼの中にありました。
英照皇太后(えいしょう こうたいごう、旧名:九条夙子(くじょう あさこ)、1833年- 1897)は、孝明天皇の女御にして明治天皇の嫡母にあたります。1897年(明治30年)1月11日、65歳で崩御。同月30日に「英照皇太后」の追号を奉られた。御陵は京都市東山区今熊野の後月輪東山陵(のちのつきのわのひがしやまのみささぎ)で、孝明帝と同所に葬むられました。


当時の大森駅の周辺は、田んぼが広がっています。

幸徳秋水(1871-1911)は、高知県幡多郡中村町(現四万十市)の酒造業と薬種業を営む有力者の家に生まれ、本名は幸徳伝次郎と云い、思想家、社会主義者で1901年に「廿世紀之怪物帝国主義」を刊行し帝国主義を道徳見地から批判しました。また、1903年には記者をしていた「万朝報」が開戦論に転換したので退社し、「平民新聞」を創刊して非戦論を訴えつづけました。1910年「大逆事件」で逮捕され、翌年処刑されました。

・小説「暗夜行路」(志賀直哉)の中で見る1913年頃の大森駅の描写
志賀直哉(1883-1971)は、宮城県石巻市の出身で、学習院初等、中等、高等科を経て東京帝国大学英文科に入学し、国文科に転じた後中退し、1910年に武者小路実篤らと文芸雑誌「白樺」を創刊した。1949年に文化勲章を受章し、1971年に没しました。


<パネル展の説明図写真には、小説に記述の品川行きの電車が写っています。

暗夜行路」は、志賀直哉唯一の長編小説で、大正10年(1921)1月~昭和12年(1937)4月、『改造』に断続連載し、小説の場面は東京、尾道、京都、山陰の大山と移っていきます。この中の東京大森駅付近の描写場面から、1913年頃の大森駅付近の模様が見られます。
小説に出てくる、(院線電車のない頃)の注釈の意味は、後記の「1920年までの日本の鉄道管轄官庁」の記載に示す様に1913年(大正2年)頃は、まだ鉄道院管轄の院線電車では無かったという説明です。

[1920年頃までの日本の鉄道管轄官庁の概略]
日本の鉄道管轄官庁は、新橋-横浜間鉄道開業の前年の1871年に設置の工部省鉄道寮が最初で、1885年に工部省が廃止され内閣直属となり、1890年に鉄道庁となり内務省外局になった、1892年に逓信省外局とされ、1893年には内局化され逓信省鉄道局となった。
さらに、1897年に現業部門を外局として独立させ、鉄道作業局(1908年に帝国鉄道庁へと改組)となり、鉄道行政の相次ぐ所管変更や監督組織と現業組織の分離による混乱が、鉄道国有化問題化をきっかけに、1908年12月5日、鉄道局と帝国鉄道庁を統合して内閣鉄道院を設置し内閣の直属機関とすることになり、総務・運輸・建設・計理の4部と鉄道調査所が置かれた。
1913年には4部が技術部・運輸局・監督局・経理局に再編され、1918年には建設局の新設と鉄道管理局の鉄道局への再編成が行われた。だが、鉄道路線の増大によって行政事務が増加した事から、1920年に鉄道院は省に昇格する事となった。(Wikipedia調べ)

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イベント(7) 大森駅開業130周年(その1)

2006年10月20日 | イベント
1872年(明治5年)10月14日は、新橋(旧汐留貨物駅)と横浜(根岸線桜木町駅)とを結んで、日本初の鉄道が開業した日を記念した鉄道記念日です。
東海道線の敷設は、東海道の街道筋に沿って引く予定でありましたが、大森村の住民の反対に会い、村外れを通ることになりました。
大森駅は、東海道線開通の4年後の1876年(明治9年)6月12日に開設され (「大森町界隈あれこれ(7) 大森町に住んで65年!(その6)」参照)、開業130周年を迎えました。その記念行事(パンフレット参照)が、鉄道記念日の10月14日に行われましたので覗いてきました。



大森駅に係わる歴史
1877年に、上り列車で横浜から新橋へ移動中のE.S.モースが、大森駅発車直後の左車窓に大森貝塚を発見しました。大森貝塚発見発掘100周年を記念して、1977年に駅ホームに「日本考古学発祥の地」碑が建立(「大森町界隈あれこれ(P31) 京急歴史(1) 大森海岸と大森間に電車が走る(その1)」参照)されました。
1901年に開通した「京浜電気鉄道」(現京浜急行電鉄)の八幡(現大森海岸駅)と大森停車場前(現大森駅)間に支線が開業(「大森町界隈あれこれ(P31) 京急歴史(1) 大森海岸と大森間に電車が走る(その1)」参照)されましたが、1937年に廃止されました。
1913年に現在の西口にあたる、山王口改札(大田区立郷土博物館蔵)が開設(「大森町界隈あれこれ(7) 大森町に住んで65年!(その6)」参照)され、1959年に北口改札が開設されました。
1984に東口駅舎が開設され、駅ビル「大森プリモ」(現「アトレ大森」)が開業しました。

130周年記念イベント
10月14日の記念イベントは、パンフレットに記載の様に地元北睦囃子連による祭囃子、大森甚句の歌と踊り、五代目春風亭柳好の落語、細野理絵とストリングスと一緒に地元子供音楽家とのジョイントコンサートなどなど多彩な催しが行われましたが、都合で見られませんでした。
参加できませんでしたが、ビッグエベントには、大森駅開業130周年記念列車のジョイフルトレーン「宴」が品川駅を予約人気の希望者を乗せて、8時に出発し鎌倉へ向かいました。明治42年頃の大森駅を発着する汽車には、東海道方面の他に横須賀行きも走っておりました。
その他、運転シュミレータの設置(操作1操作2)、記念入場券の発売、東京都大森貝塚保存会によるパネル展「記された大森駅」などが催されておりました。

大森駅開業130周年を記念した入場券(入場券表紙入場券中側)を買い、パネル展を観賞して130年の記録を留めてみました。
また、大森駅では、130周年を記念して電車の発車ベルを地元の名曲の「大森甚句」の編曲に代りましたので、大森駅からの乗車の機会は少ないのですが新しい発車ベルを聞くことが楽しみです。

大森甚句
大森甚句は、江戸時代海苔作業の歌として、ご祝儀の席で漁師によりよく歌われてきた労働歌といわれております。
鳶凧ならよ糸目つけて コイ コイ
たぐり寄せますよ膝元によ キタコリャ ヨイショナ

六郷鳶とよ大森象(もの)は コイ コイ
のりに離れりゃよ揚りゃせぬよ キタコリャ ヨイショナ

羽田がらすによ 大森とんび コイ コイ
大師すずめのよ気の強さよ キタコリャ ヨイショナ

雪はチラチラよ話は積もる コイ コイ
我しが思いはよいつけとるよ キタコリャ ヨイショナ

大森良いとこ来てみやしゃんせ コイ コイ
海苔で黄金のよ花が咲くよ キタコリャ ヨイショナ

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イベント(6) 運動会 お茶の水小学校運動会

2006年09月26日 | イベント
9月24日は、朝から絶好の秋日和の天候に恵まれて、孫の通っているお茶の水小学校で第14回目の運動会が開催されました。今時の運動会は、どんなものかを見るために、京急大森町駅から三田駅で都営三田線に乗り換えて、9時頃神保町駅に着きました。

夏目漱石が通った学校
お茶の水小学校(「風景・風物詩(A1) 東京百景 山の上ホテルとその周辺(その3)」参照) 運動会は、平成5年4月に近隣の小川小学校、西神田小学校と夏目漱石が通った錦華小学校が統合された小学校です。
錦華小学校は、1873年(明治6年) 第4中学区第二番小学校、久松学校と称して開港し、1972年(昭和47年)に皇太子・妃殿下を迎え創立100周年記念式典挙行(記念碑)し、今年は錦華小学校通算第133回の運動会にあたります。小川小学校は、1900年(明治33年) 東京市西小川尋常小学校と称して開港し、今年は小川小学校通算第107回の運動会にあたります。また、西神田小学校は、1903年(明治36年) 東京市西小川尋常小学校と称して開港し、今年は西神田小学校通算第104回の運動会にあたり歴史ある運動会なのです。

優勝旗・優勝杯のある運動会
運動会のプログラムを見ると、歴史ある夏目漱石が通った学校の運動会だけあって、何と開会式では国旗掲揚と優勝旗・優勝杯の返還があり、昨年優勝の赤組から返還されました。
運動会は、全校児童数は少ないため、クラスは白組と赤組だけですが、プログラム22項目のうち、演技・体操や幼稚園児などの競技を除く14種目が対抗競技で、優勝を競います。
応援団の応援合戦もあり、対抗意識を盛り挙げており、対抗戦出場の選手は皆真剣に力を発揮して競技に参加しておりますので、観戦していても気持ちの良い雰囲気でした。対抗競技の得点は、競技毎に積算して得点掲示板に表示されますが、特に午後の対抗競技では終盤3競技からは得点表示を伏せて、対抗の関心を高めて、全競技が終了してから総得点の発表があります。
平成18年度運動会の競技は、710対631で白組が優勝し、優勝旗優勝杯を手にしました。

運動会競技風景


見学に見えた父兄や家族は、出場しているわが子の成績に一喜一憂するとともに、対抗競技では紅白に分かれて手に汗を握り応援して楽しんでおりました。
めざせ、ゴール!!はしって!まわって!ひっぱって!疾風怒涛まっすぐはしろうゴールはそこだ波乗りライダーTerminer on beaut'e進め、トルネード思いをたくしてゴーゴーかけっこ戦国お茶の水 夏の陣かけめぐる青春大玉送り
併設の幼稚園児の微笑ましい可愛い演技に声援を送ったり、組体操や演技種目に感心したりして、好天の長閑な運動会風景の秋の一時を過ごしてきました。
カリブのかいぞくたち元気いっぱい!太陽にとどけ!和太鼓

夏目漱石 – Wikipedia

夏目漱石と錦華小学校
お茶の水小学校の敷地のわきには夏目漱石の碑があり、錦華小学校第104回卒業生の卒業記念に建てた碑には、
“吾輩は猫である 名前はまだ無い
明治11年 夏目漱石 錦華に学ぶ“
と刻まれております。また、夏目漱石の略歴には、
“先輩 夏目漱石 略歴
慶應3年11月6日、牛込に生る。金之助と命名。市ヶ谷小學校に入學後、錦華小學校に轉ず。同校卒業後一っ橋に入り、業を卒へずして退き、二松學舎に入りて漢學を學ぶ。(大正6年「新小説」より)“
と書いてあります。
お茶の水小学校には、残念ながら漱石のエピソードや成績表などゆかりの品や資料類も戦争で焼失して残っていないのです。

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イベント(5) 歌舞伎座観劇 秀山祭九月大歌舞伎夜の部

2006年09月23日 | イベント
毎年母校では、歌舞伎観劇会の催しがあり、今年は9月10日に秀山祭九月大歌舞伎の夜の部を見てきました。観劇会は、お弁当が付いて一般料金より若干お安く鑑賞でき、イヤホンガイドの使用料も割引となります。
歌舞伎は、飛び切りのファンではないのですが、毎年定められた予定の催しですので、ほとんど毎年見ております。
歌舞伎座の座席は、抽選で決められますので、どこの席にあたるかは当日までのお楽しみです。今年の座席は、二階の西桟敷席後方の11-3と4の席が割り当てとなり、ここは花道がまったく見えないところであり、誠に残念でした。これは、抽選ですので仕方のないことで、次回は良い席が取れますようにと期待しました。

九月観劇の「秀山祭九月大歌舞伎」は、初代中村吉右衛門の生誕120年を記念して、俳名「秀山」を採ってのお祭りの興行です。



菊畑
観劇夜の部の公演は、午後四時半からの開演で、秋に相応しく最初の演題が『菊畑』(一幕)です。
菊畑は、文耕堂、長谷川千四の作で、1731年(享保16年)に大阪竹本座初演の、全五段の浄瑠璃『鬼一法眼三略巻』(外題)の三段目の通称であり、三略巻とは“六韜三略巻(りくとうさんりゃくのまき)”(虎の巻)であるとのことです。
みごとな菊が咲き乱れる、吉岡鬼一法眼(左團次)の館の庭の場面の幕開きで鬼一が花壇の菊を眺めます。鬼一は、源義朝の家臣だった吉岡三兄弟の長兄で、今は訳あって平家側に与しています。

実は三男の鬼三太(幸四郎)である奴の知恵内と、主君牛若丸(染五郎)の奴の虎蔵は、鬼一が秘蔵する兵法の虎の巻を入手するために、鬼一館の奉公人になりすまします。そして、知恵内を弟の鬼三太と悟った鬼一が、心底を窺おうと虎蔵を杖で折檻をするようにと命じる場面は、見所の一つです。そして、虎蔵と知恵内が庭に残り、今宵の内に虎の巻を奪い取ろうとの相談するところは、義太夫に合わせた作品随一の眼目となります。
虎蔵に想いを寄せる鬼一の娘皆鶴姫(芝雀)は、二人の素性を知ってしまいます。そこへ湛海(歌六)が現れ、二人の正体を清盛に注進すると言うので、牛若丸はその湛海をあっけなく切り殺します。

皆鶴姫が、知恵内に牛若丸との恋の取り持ちを頼み、菊の花を使ってかき口説く場面は、皆鶴姫の見せ場です。そして牛若丸、鬼三太に皆鶴姫が協力して密かに巻物を奪うことを打ち合わせるのだった。
美しい菊畑を背景に、若衆の虎蔵、凛々しい繻子奴の鬼三太、可憐な赤姫の皆鶴姫、そして座頭の風格の鬼一法眼。歌舞伎の典型的な役柄が揃った、濃厚な義太夫狂言です。

幕間
次の演題との幕間に、配られた幕の内弁当の夕食を取りました。桟敷席には、座席の前にテーブルが付いておりますので、お弁当を食べたり、荷物を置くのには大変重宝しました。幕間に場内の土産物店を物見しました。

籠釣瓶花街酔醒(かごつるべさとのえいざめ)
二番目の演目『籠釣瓶花街酔醒』(四幕七場)は、佐野次郎左衛門が、吉原の遊女八ツ橋は殺害したという事件は、享保年間に実際に起こった事件とされていますが、歌舞伎の題材として取り上げられた中での決定版で、作者は河竹黙阿弥の高弟・三世河竹新七です。この作品の初演は、1888年(明治21年)初代市川左団次、五代目中村歌右衛門により東京千歳座で公演されました。
序幕は、絢爛たる花魁道中の様子が見どころで、八ツ橋(福助)が花道の付け際での、下男の治六(歌昇)と吉原を訪れた下野の絹商人次郎左衛門(吉右衛門)に婉然と微笑む場面が眼目なのですが、今回の座席は花道が全く見えずに誠に残念至極でした。

二幕目は、廓に通い詰め身請け話もまとまろうとしていた次郎左衛門の変貌ぶりが、笑いを誘います。
三幕目は、八ツ橋の情夫繁山栄之丞(梅玉)の横やりが入り、突然八ツ橋から愛想づかしをされてしまう場面が見どころで、次郎左衛門の切羽詰まった気持ちを聞かせる「花魁 そりゃあんまりそでなかろうぜ」台詞は最大の見せ場です。
大詰めは、一刀のもとに八ツ橋が切られる凄惨な殺しの場面ですが、満座の中で八ツ橋から恥辱を受けた恨みを晴らそうとやって来た次郎左衛門が、村正作の妖刀・籠釣瓶を手に八ツ橋を斬り籠釣瓶の斬れ味に簡単し、殺害後の表情と名台詞「籠釣瓶はよく切れるなぁ…」は、歌舞伎の美学をみせてくれます。
秀山祭の名作には、このほか立花屋女房おきつ(東蔵)、九重(芝雀)、立花屋長兵衛(幸四郎)の豪華配役での、初代中村吉右衛門生誕120年記念の出し物でした。

鬼揃紅葉狩(おにぞろいもみじがり)
三番目の『鬼揃紅葉狩』は、萩原雪夫作の舞踊作品であり、1960年(昭和35年)の歌舞伎座で六世中村歌右衛門の更科の前、二世市川猿之助の維茂の配役で初演されたものです。
秋も盛りの信濃の国・戸隠山中に雪郎太(松江)と月郎吾(種太郎)の2人の従者を連れた余吾将軍平維茂(信二郎)が紅葉狩から館に帰ろうとするところに、四人の待女(吉之助宗之助吉弥高麗蔵)を従えた実は戸隠山の鬼女の更科の前(染五郎)がやって来たので、維茂は邪魔をしないように立ち去ろうとする。

すると、更科の前は維茂主従を呼び止め、酒宴を開いて紅葉を愛でようと誘われ、盃を傾け始めると、更科の前や待女が舞を披露する。維茂たちのうたた寝を確かめると、戸隠山に住む鬼女たちは姿を消すのである。
そこへ維茂主従を救うため、八幡神の差し向けで現れたのは、男山八幡の末社の神千秋彦(広太郎)、百秋彦(隼人)、千春女(廣松)、百春彦(玉太郎)で、維茂主従の目を覚まさせようと舞を舞い、姿を消す。
その、威徳で目を覚ました維茂主従は、山奥に入り古塚の辺りまでくると、戸隠山の鬼女とそれに従う眷族(吉之助宗之助吉弥高麗蔵)たちが現れ、維茂主従に襲いかかるが、やがて維茂たちの武勇には敵わず退治されるという、歌舞伎舞踊です。

初代吉右衛門
初代吉右衛門(家系図)は、九代目市川團十郎の芸風を継承して時代物役者として古格を伝えた第一人者でありました。さらに独自の深い解釈を加え、現在上演される多くの型を作りあげ、ことに役の心情を表現する台詞の巧さ、調子のよさは特筆されるものがあり、昭和歌舞伎を代表する名優として多くの功績を残しました。

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イベント(4) 東京都美術館 第61回日本書道美術院「教育部展」

2006年08月21日 | イベント
第61回日本書道美術院「教育部展」が、8月13日から19日まで東京都美術館で開催されました。今まで書道などの芸術には縁が薄かった家系にあって、孫が始めて書道に親しみ出品しましたので、展示会初日に見に行ってきました。

東京都美術館は、動物園正面入り口の手前右手にあり(サテライト参照)、教育部展は地下三階の第二彫塑室にて展示されてました。

東京都美術館
これまで美術館には、あまり馴染みがなかったので、この際東京都美術館についてWikipediaで調べてみました。
美術館は、美術作品を中心とした文化遺産や現代の文化的所産を収集・保存・展示し、また文化に関する教育・普及・研究を行なう施設であります。しかし、日本の東京都美術館は、1926年(大正15年)に北九州の石炭王と言われた佐藤慶太郎からの寄付により建立された東京府美術館以来、美術品のコレクションはほとんど持たず、美術界の要望もあって国展や二科展といった公募展やフランス現代美術などの企画展の貸し館事業を中心としてきました。

開設当時の建物は老朽化した上、来館者や使用団体の増加に対応できなくなったので、1975年に現在の建物が建設され、それ以降貸し館以外の自主事業として、独自の現代美術コレクションを構築・展示し、都民への教育活動もあわせて行う自主企画展覧会の開催や美術図書室の運営を行うようになりました。
1995年に東京都現代美術館(Wikipedia)が開館すると、収蔵品や図書はそちらに移管され、再び公募展への貸し館とマスコミとの共催による企画展を中心に行うようになりました。
2002年以降は東京都歴史文化財団が運営を行っております。
なお、東京都美術館はまたもや公募展数の増加や作品数の増加などで、展覧会を十分に捌く物理的能力に限界をきたしており、公募展側の要望もあって国が巨費を投じて六本木に新しい貸し会場の国立新美術館(Wikipedia)を設置運営することが決まりました。

第61回日本書道美術院「教育部展」
教育部展は、第二次世界大戦後に一番最初に誕生した書道団体の財団法人日本書道美術院が主催で、第51回全国競書大会と併催開催です。
教育部展の出品作品の規定は、小学生、中学生と高校生が対象資格であり、作品は本紙寸法がタテ100Cm、ヨコ24.5Cmの用紙に語句・書体が自由課題の書道を、タテ135Cm、ヨコ36Cmの軸表装にしたものと定められております。


第61回教育部展の展示作品


第61回教育部展の展示作品は、高校生の入賞作品が96点、中学生が131点、小学生が186点で、その他小・中・高生の全ての秀作が147点、優作が193点、佳作が220点を数えました。
教育部展の展示作品展示その1
教育部展の展示作品展示その2
教育部展の展示作品展示その3
教育部展の展示作品展示その4
教育部展の展示作品展示その5

第51回全国競書大会の作品は、入賞作品が600点を超え、展示室に入ると多量の展示品に圧倒されました。
第51回全国競書大会作品を展示場入り口より見る

小学生作品は、どれも伸び伸びした大きなひらがなと漢字混じり文字で、しかも大変上手に書かれているのには感嘆しました。中学生以上の作品では、書道に縁が薄い者にとっては、書道の達筆さには羨ましくもあり驚嘆ばかりでした。

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倉澤杏菜 ベルリン芸術大学留学記念 ピアノリサイタル

2006年07月26日 | イベント
7月20日午後7時より、カワイミュージックショップ青山2階パウゼで、ベルリン芸術大学留学を記念して、倉澤杏菜ピアノリサイタルが開かれました。
倉澤杏菜さんとは、お父さんがコンピュータ情報処理のお仕事に長く携わっておられる方で、一緒にコンソーシアムで勉強していることが縁で、ピアノリサイタルやアルス五重奏団コンサートなどを鑑賞させて頂いております。

今回のピアノリサイタルは、今春桐朋学園大学音楽学部を卒業されて、10月より国立ベルリン芸術大学に留学されることになり、それを記念してのリサイタル講演です。
カワイミュージックショップ青山の開場は午後6時30分でしたが、入場券は完売で開場まもなく席はいっぱいとなりました。
プログラムは、午後7時丁度に開演され、前半最初の演奏曲は杏菜さんの思い入れの モーツアルトのきらきら星変奏曲「ああ、ママに言うわ」による 12の変奏曲 ハ長調 K.265 から始まり、次いでショパンのポロネーズ、ノクターン、バラードと続き、素晴らしい演奏に魅了しました。

休憩時間に、お父さんとの会話では、演奏が始まりだんだんと調子が出てきていると、目を細めておられました。
後半は、高度な演奏曲でスクリャービンのピアノソナタとラフマニノフの変奏曲で、19年ものピアノ生活の成果の演奏には、大変に感銘しました。
プログラムの演奏が終了すると、アンコールの拍手の鳴り止まないなか、トルコ行進曲など数曲のアンコールで感銘のうちにピアノリサイタルの演奏は終了しましたが、その後にオマケの演出がありました。

倉澤杏菜さんは、リサイタルの翌日の21日は、実は22歳のお誕生日でした。そこで、カワイミュージックショップの粋な計らいで、ミニお誕生祝いが開かれ、杏菜さんの恩師のピアノ伴奏で誕生祝いの歌を斉唱し、ケーキのキャンドルを消す催しなどで、ベルリン芸術大学留学記念に相応しいピアノリサイタルを堪能させて頂き感動しました。


倉澤杏菜さんは、7月28日にドイツに向けて出発です。ベルリンでは、健康に留意し3年間芸術の真髄を極め、日本に戻り音楽界で貢献されることを期待しております。

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土と木とメルヘンな鉛筆画のぬくもり三彩展を鑑賞

2006年04月23日 | イベント
4月20日から23日まで、経堂のギャラリー カタカタで若き新進気鋭の陶芸家、木工製品手造家具・玩具の創作家とメルヘンチックな色鉛筆画のアート達が組んで、「ぬくもり三彩展」を開催しました。
色鉛筆画のアートは、古くからの仕事で知り合いの高橋さんのご子息の奥様で、展示会のご案内を頂きましたので22日の午後、芸術品を鑑賞してきました。

会場のある小田急線沿線の経堂方面は、何故か今まで馴染みが薄いところで初めて降りる駅で、新宿から急行電車で3駅目のかなり大きな駅です。現在駅は、改良工事を行なっているため、交番が隠れて見えず会場に向かう案内図のすずらん通りが判りにくく、一つ手前の道を進みドトールを右折して行きましたので、若干時間がかかりましたが、カタカタには5時少し前に到着しました。


「ぬくもり三彩展」の会場では、出品者と鑑賞者が意気あいあいと談笑中で、若きアート達の意気込みを感じました。


出品者と鑑賞者が意気あいあい
展示品は、完成の域に到達するには今後のさらなる精進が必要ですが、ぬくもりをテーマにした若さの創造力は発揮されており、テリトリーの異なる三彩の出品物の間には違和感が無く、まさに案内テーマが唱える通り、つちのぬくもり、木のぬくもり、自然の素材を活かした作品にかわいいイラストが花を添えるぬくもりのコラボレーション展そのものでした。

1時間とたっぷり展示品を鑑賞し、お茶をご馳走になりぬくもりを味わった後、孫のお土産に、木製のパズル国産ぶな製のお盆メルヘンな色鉛筆画を求めて帰路につきました。

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春の花とアルス五重奏団コンサート

2006年04月11日 | イベント
春の花
4月は春爛漫、春の花は桜が代表してまさに花盛りです。
今年は気象の関係で東京地方では、桜の開花が例年に比しかなり早く見られ、3月中に満開となりました。そのためか、めずらしく関東の茨城県水戸偕楽園では、桜と桃と梅が同時に観賞できたと伝えられております。
東京の桜は、これから八重桜などの遅咲きの桜が見頃となりますが、今週には京都・奈良近辺でソメイヨシノが満開を迎え、これ以後桜前線が北上し日本全国でお花見のシーズンです。


満開のしだれ桃
我が家では、何時ごろからか桜としだれ桃の木があり、しだれ桃が満開を迎えました。このしだれ桃は、1つの木に白とピンクと赤色の花が開く変わったものです。そのためか、道筋の通りすがりの方が、しだれ桃の前で立ち止まり、しばし観賞されて行かれる方が多いのです。
1本の木で3種類の花が咲く色の割合は、2本の木により異なり、また年によっても変わります。成熟した樹は平均に赤色の花が多く、そこに白色の花が混じりますが、今年は赤色が優勢のようです。若樹のほうは、白色が優勢の中にピンクが混じり、赤色の花とともに3色混合で開いて見せてくれます。

アルス五重奏団コンサート
4月8日、18時から東京調布市の調布文化会館たづくりの「くすのきホール」で、Ars(アルス) 五重奏団コンサートが開催され鑑賞してきました。アルスは、ラテン語で「芸術」と云う意味だそうです。

アルス五重奏団コンサートには、倉澤杏菜さんがピアノ演奏で出演されております。
倉澤さんとは、お父さんがコンピュータ情報処理のお仕事に長く携わっておられる方で、一緒にコンソーシアムで勉強していることで縁があります。
クラシック音楽は好きで、昨年開催の倉澤杏菜さんのピアノリサイタルにも鑑賞させて貰いました。3月には倉澤さん出演のコンサートがありましたが、入場券を入手し楽しみにしてましたが、急な来客で鑑賞できませんでした。

コンサートのプログラムは、第1部がソロと第2部の室内楽で構成され、演奏曲目と演奏者はプログラム記載の内容で、それぞれ5人がこれまでの技を磨いた若さ溢れる演奏を披露されて、聴衆がこれからの成長を期待しての熱烈なアンコールにより、樋口佳菜子さん編曲のオリジナル版のラフマニノフ/ヴァカリーズ(Rachmaninoff/Vocalise)とピアソラ リベル タンゴ(Piazzolla Liber Tango)の2曲を演奏されました。

若手音楽家の演奏は爽やかで活力があり、聴衆に大きな感銘を与ました。鑑賞者に安らぎを与え、見る者の心身を癒すことで、我が家の春の木とだぶって印象を受けました。しだれ桃も、若樹も成熟した樹も、一輪一輪の3色の花びらを精一杯咲き誇る様は、まさに今日の若き演奏者そのものです。

今後の、アルス五重奏団コンサート演奏会は、新潟、仙台と2回目の東京公演が予定されております。若き明日の演奏家は、張り切って次の公演に備えております。入場料は、千円です。是非演奏会を鑑賞して感銘を受け、声援を贈ってください。

倉澤杏菜さんのプロフィルは、2006年3月に桐朋学園大学音楽部を卒業し、10月より国立ベルリン芸術大学留学の予定。02年第5回ルービンシュタイン国際ピアノコンクールでディプロ マ並びに個人賞、ショパン賞受賞。04年第9回浜松国際ピアノアカデミー参加。

次回 土と木とメルヘンな鉛筆画のぬくもり三彩展を鑑賞 
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