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K&A

kan-haruの日記

風景・風物詩(A1) 東京百景 山の上ホテルとその周辺(その3)

2006年07月15日 | 風景・風物詩
駿河台から神保町へ
駿河台は台地であるので坂道が多い。ちなみに、明大通りから山の上ホテルまでの坂道は、吉郎坂という名が付いています。坂道の石の標識は、山の上ホテルとその周辺(その1)掲載写真「山の上ホテルの案内板」(再掲)の歩道左側の奥の植え込み付近にあります。

錦華坂
山の上ホテルからの帰途は、ホテル右手を散策しながら進むと錦華坂(付近地図参照)です。
錦華坂は、錦華公園の脇にある標識の説明では、次のようです。
名称は坂下に錦華小学校があるからです。この坂は大正13年(1924)8月政府による区画整理委員会の議決により新しく作られたものです。「議決要綱の三」には ”南甲賀町より袋町三番地を横断して裏猿楽町二番地先錦華小公園東側に通ずる六米道路を新設す”とあります。

お茶の水小学校
錦華坂を下り、錦華公園を周るとお茶の水小学校・幼稚園が見えます。
お茶の水小学校の前身の錦華小学校は、平成5年4月に近隣の小川小学校、西神田小学校と統合され「千代田区立お茶の水小学校」となりました。
錦華小学校の変遷は、明治6年(1873)5月、久松学校として開校。その後錦坊学校、錦華学校、錦華尋常高等小学校、錦華尋常小学校、錦華小学校と改称しました。
現在、お茶の水小学校には、孫が在学中です。さすが、お茶の水小学校は、先輩夏目漱石ゆかりの学校で、一年次には漱石の小説「坊ちゃん」、「我輩は猫である」などのさわりを暗唱して発表しております。

夏目漱石文学碑
お茶の水小学校の校庭の外に夏目漱石文学碑があります。 
・夏目漱石(186~1916)
錦華小学校第104回卒業生の卒業記念として、夏目漱石の略歴から
漱石の父、夏目直克が明治初期に第4大区(今の錦町、小川町、西神田と文京区の殆どと早稲田のあたりまで含む)の区長をしていた。また、樋口一葉の父則義と東京府で同僚だったそうだ。
漱石が錦華小学校に転校したのは明治11年。「一っ橋」は当時一ッ橋にあった府立一中、現在の東京都立日比谷高等学校である。

靖国通り裏の飲食店街
お茶の水小学校を周回し錦華通りを右折すると細い路地裏が、神保町の靖国通り裏の飲食店街である。白山通りに出る中間点の四つ角に「こんごう庵 神保町店」があり、山の上ホテルで開催した東京都異業種交流会H11メトロ暑気払い後の希望者による2次会で、はな金を過ごしました。

東京都異業種交流会H11メトロ
東京都異業種交流会とは、地方独立行政法人東京都立産業技術研究センターが異業種交流事業(異業種交流グループ)は、異なる業種・分野(たとえば、電子機器製造業、機械加工業、情報処理業)の人々が、新たなビジネスチャンスの創造、発見のために相互の経営、技術ノウハウ等を持ち寄って交流する”場”を提供しています。
”東京都異業種交流グループ”は、昭和59年に初めて募集、設立され、以来毎年1又は2グループが設立されてきました。設立年度の翌年からは、グループが自主的な運営、独自の活動を行っています。

東京都異業種交流会H11メトロ」は、平成11年に設立されたグループで、会員数が18名でWebに共有のグループサイトを設けて毎月定例活動を開いております。H11メトロ暑気払いは、毎年7月に恒例で開催しており、今年は山の上ホテル本館2階の宴会場で開催しました。
なお、H11メトロには分科会「XML応用研究会」があり、ビジネスをインターネットとコミュニケーションを活用して、経営改革に供するための研究・学習会を毎月開催しております。皆様の参加を、お待ちしております。

H11メトロ暑気払い (於山の上ホテル 平成18年7月7日 拡1拡2)

毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(6月分掲載Indexへ)
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風景・風物詩(A1) 東京百景 山の上ホテルとその周辺(その2)

2006年07月13日 | 風景・風物詩
駿河台周辺駆けめぐり(周辺地図参照再掲)
山の上ホテルを始めとして、その周辺には歴史的な建造物や学校が多く存在し、新刊・古書店街、スポーツ店、楽器店などが数多立ち並ぶ文教的色彩の濃い特色のある町並みで、その中からの駿河台周辺に絞り、スポットをあてて駆けめぐりしてみました。
明大通りは、駿河台下から御茶ノ水駅方面に向かうと緩やかな坂道となっており、御茶ノ水駅前の神田川のてっぺんを通る、駿河台と本郷を結ぶ橋が御茶ノ水橋です。
神田川は、江戸時代に本郷台地を切削して作られた人工の運河で、左岸と右岸は地続きの神田山と呼ばれていました。

御茶ノ水駅
「御茶ノ水駅」は、神田川南岸沿いにJR御茶ノ水駅があり、明大通りに面した御茶ノ水橋口と本郷通り側の聖橋口があります。また、神田川北岸にはメトロ丸の内線の御茶ノ水駅があり、両線の乗り換え通路は「御茶ノ水橋」(聖橋から見た御茶ノ水橋)を渡って利用します。
御茶ノ水駅は、JRが中央線と総武線の2線とメトロ丸の内線が、神田川上で3線が立体交差をしている珍しい構造で、鉄道ファンを引き付けるところです。しかし、鉄道ファンには残念ですが、御茶ノ水駅から目と鼻の先にあった交通博物館は、2006年5月14日をもって惜しまれおながら閉館しました。お別れの「さよなら交通博物館」には、行きたかったのですが、混雑等で行きそびれてしまいました。

お茶の水の石碑
JR御茶ノ水橋口駅前の交番脇に、「お茶の水の石碑」があり「お茶の水の由来を記した碑」があります。碑のあるこのあたりは西駿河台と呼ばれ、そのいわれの「説明版」が建っています。
・お茶の水由来石碑(石碑文抜粋)
慶長の昔、この邊(あた)り神田山の麓(ふもと)に高林寺(こうりんじ)という禅寺があった。ある時 寺の庭より良い水がわき出るので 将軍秀忠公に差し上げたところ お茶に用いられて 大変良い水だとお褒(ほ)めの言葉を戴(いただ)いた。それから毎日この水を差し上げる様になり この寺を お茶の水高林寺 と呼ばれ、この辺(あた)りをお茶の水と云うようになった。

湯島聖堂
御茶ノ水橋を本郷側に渡り、秋葉原方向に進むと道路は聖橋の下を潜る立体交差になっており、聖橋を潜る手前に石段がありそれを登ると本郷通りにでます。湯島聖堂は、本郷通りに面したこんもりとした森にあり、元禄3年(1690年)、五代将軍徳川綱吉によって建てられた「孔子廟」、「神農廟」と昌平坂学問所跡で、大正11年(1922年)に国の史跡に指定されました。
湯島聖堂の由来(抜粋)
湯島聖堂と孔子
孔子は二千五百年ほど前に中国魯の国に生まれ、その教え「儒教」は東洋の人々に大きな影響を与えました。儒学に傾倒した徳川五代将軍徳川綱吉は、この地に「湯島聖堂」を創建、孔子を祀る「大成殿」や「学舎」を建て、聖堂は創建316年を迎えています。
昌平坂学問所跡
寛政9年(1797年)幕府は学舎の敷地を拡げ、孔子の生まれた地名をとって、「昌平坂学問所」を開きました。学問所は、明治維新に至るまで70年間、官立の大学として江戸時代の文教センターの役割を果たしました。
明治維新により、聖堂は新政府の所管となり、明治4年に文部省が設置され、国立博物館(今の上野)や東京師範学校(今の筑波大)(今のお茶の水女子大)が置かれ、近代教育発祥の地となりました。
現在の湯島聖堂
もとの聖堂は、4回もの江戸の大火で焼失し、大正12年の関東大震災でも焼失し、昭和10年(1935年)に鉄筋コンクリート造りで再建したものです。ただし、入徳門は、寛永元年(1704年)に建てられたものがそのまま残っており、貴重な文化財となっております。

聖橋
湯島聖堂から、本郷通りを南に進み神田川とJR線を跨いでいる橋が「聖橋」(御茶ノ水橋から見た聖橋)です。聖橋際に由来の碑があり、聖橋南の駿河台のニコライ堂と本郷の湯島聖堂の二つの「聖」なる建物の間のかかる橋というのが「聖橋」の名の由来で、公募により決まったとのことだそうです。聖橋の建設は、建築家・山田守(1894-1966)が昭和2年(1927年)に落成したものです。

ニコライ堂
ニコライ堂は、正式名称を「日本 ハリストス正教会東京復活大聖堂」というロシア正教の教会の建物で、明治24年(1891年)落成した。1992年に石造りで大聖堂の修復が開始され、9年をかけて完成し、日本の国の重要文化財として始めての石造の文化財となりました。日本ハリストス正教会は、1861年に聖ニコライ大主教が函館のロシア領事館付の司祭として日本に来たときが始まりです。

50年前のわが学びや明治大学
明大キャンパスの変遷
前回日記で記述の様に、昭和31年(1956年)に卒業した明大工学部(写真再掲)は、周辺地図(再掲)に記載の様に本郷通りの駿河台東地区に孤立してありました。工学部時代には駿河台西のキャンパス群とは離れていたため、11号館にあった「電気磁気」実験室での実験の時や、明大記念館の地下にあった体育館での体育実技の時くらいしか縁がありませんでした。
昭和31年撮影の駿河台キャンパスの展望写真と、同一場所の現在の駿河台キャンパスを比べて見ると、明大記念会館跡にリバティタワーが建ち、明大通りに面していた白亜の大学院校舎跡には、通りよりバックした位置にアカデミーコモンが建てられ、キャンパスが時代と共にまったく大きく変化しております。
なお、明大工学部は、生田校舎に移転して1989年には理工学部が設置されました。

昭和31年撮影の駿河台キャンパス

明治大学記念館
明治大学記念館は、明治大学創立30周年記念の1911年10月に落成したものです。
80有余年の永き学びやの役目を果たした記念館は、老朽化により1995年11月11日「さよならDay」を持って壊されました。
この記念館の跡には、1998年9月の創立120周年記念館リバティタワーが建てられました。建物頂上部に緑のドームをつくり、低層部にも旧建物のイメージ像を残しました。また、23階中央に位置する岸本辰雄記念ホールには、旧記念館の記念遺品であるステンドグラスとエンジェル及び玄関外灯が再現されており、歴史を物語る品々が展示されています。
また、2004年1月にはアカデミーコモンが竣工しました。アカデミーコモンには、大学史展示室があり、古賀政男の使用したギターが展示されています。
元工学部が建っていた附近
工学部への通学路は、御茶ノ水駅の聖橋口から右にニコライ堂を見て、本郷通りを靖国通り交差点に出るちょっと手前の進行左側にありました。当時は、現在の様に高いビルが林立しておりませんでしたので、ビルの陰に隠れることも無く本郷通りからは青銅の丸屋根がどこからも良く眺められました。
当時の本郷通りは、明大通りの様な華やかな商店街はなく、自動車も殆ど走っておらず大通りにもかかわらず、いつも閑散としておりました。50年経過した工学部校舎跡地の目標がうる覚えですが、跡地と思われるところに建てられているビルを撮影してみました。
明大キャンパスの遥かなる青春時代
工学部通学時代は、やっと戦後の復興期で資材や資源もまだ乏しい時代でしたので、時たま校舎が停電に遭い授業が行えなく休講となりました。そのまま家に帰るのも何か中途半端な気持ちとなり、当時の大衆娯楽である映画館にと足が進みました。
また、「電気磁気」実験のパートナーの同組であったメンバー6名とは、息が合いよく行動を共にしました。卒業後も、登山やスキーに出かけたりして、今では遥かなる青春時代が懐かしく想い出されます。
50年後の現在も毎年秋に一泊の旅行を伴にしておりますが、全員が健在ではないのが残念です。

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風景・風物詩(A1) 東京百景 山の上ホテルとその周辺(その1)

2006年07月11日 | 風景・風物詩
7月7日に東京都異業種交流会H11メトロ(後述 その3)の恒例の暑気払いは、御茶ノ水の山の上ホテルの本館2階の宴会場で開催しました。
Kan-haru日記新登場のカテゴリー「風景・風物詩」の東京百景としてトップを飾るには、この「山の上ホテル」は絵になり、とても素晴しく大変相応しいホテルです。今回は、山の上ホテルの雰囲気などに触れて見ます。


ホテルの所在地は、JR御茶ノ水駅から駿河台下の靖国通りに交わる明大通りの中程にある、明大のリバティタワーとアカデミーコモンの高層校舎に挟まれた所(周辺地図参照)にあります。明大通りから山の上ホテルへは、山の上ホテルの案内板のある坂道を登りつめて、周囲では最も高所の奥まった丘の上に立地した佇まいで、高層23階のリバティタワーアカデミーコモンに隣接していても、静かな環境には変わりなく、こじんまりしたホテルのあちこちに、素敵なアートや調度品がみつかるのも、時間がゆっくりと過ぎている昭和の時代にタイムスリップしたような居心地のよさを肌で感じます。

山の上ホテルの本館は、坂道を上り詰めた突き当たりにあり、道を挟んだ右手前に別館が建っております。米軍に接収されていた時の愛称「ヒルトップ」が、山の上ホテルの名前の由来で、建物にも掲示されてます。
本館1階にある「てんぷらと和食の山の上」は、創業時から「天麩羅屋」を引きついており気心の知れた人とカウンターに並んで、揚げたてのてんぷらをいただくのは通には乙なものです。
土曜日の昼下がりは、「コーヒーパーラー ヒルトップ」に三々五々年配のご婦人方が集まり、絵柄が違うコーヒーカップでコーヒーを味あいながら、落ち着いた雰囲気の中で昔の想い出話しにひと時を過ごすのに席が占められます。

私が明大工学部に通っていた頃は昭和27年(1952年)で、当時はまだ山の上ホテルは存在していませんでした。工学部は、周辺地図に示す様に駿河台からは秋葉原寄りの本郷通りに面した靖国通りの近くにありましたので、通学路はJR御茶ノ水駅の聖橋口からニコライ堂を見ながらの登校であり、しかも、当時の学生にとってはホテルには無縁な境遇でした。しかし、山の上ホテルは地形学的に見て、明治大学とは隣組の関係です。工学部出身のため文化人とは縁が遠いのですが、かって文化人が愛した山の上ホテルのバー「 ノンノン」や「モンモン」で、洋酒を楽しむ至福の時間が作れればいいなぁーと夢を見ております。

山の上ホテルの生い立ち
「山の上ホテル」の基になる建屋建築は、ホテルの資料によると、昭和12年(1937年)に建築家ウイリアム・メレル・ヴォーリス(米国人)氏の設計で、財団法人日本生活協会により、佐藤新興生活館「生活改善のための活動」の女性を対象にした欧米のマナーを啓蒙する施設として作られた、日本建築学会の重要建築に指定されております。
戦後建物は、米軍に接収され「ヒルトップ」の愛称で呼ばれて、陸軍婦人部隊の宿舎として使用されていました。
山の上ホテルの開業
昭和29年(1954年)、故吉田俊男社長により山の上ホテルが開業し、池波正太郎、山口瞳、三島由紀夫、松本清張、遠藤周作…そのほか、ここで筆をとった文学者や文化人たちに愛されてきたことでよく知られています。
「山の上ホテル」の魅力はよく、いぶし銀のような、と形容されます。作家たちが飽くことなく利用し続けてきた理由も、出版社が近かったという以上に、そのあたりにあったのでしょう。
山の上ホテル別館
昭和45年(1970年)に、本館の向かい側に別館を建築して、館内、客室に酸素とマイナスイオンを補給して、五感で「軽井沢の空気」を味わうことができる雰囲気にしてあります。
山の上ホテル本館改築
昭和45年(1970年)に、創業時からあった天麩羅屋の小屋を本館に移動されました。
現在、ロビーの周りにある煉瓦と並行してその上にある陶器の飾りは改築前のままにして、輸入桜を使用のロビーには、お得意様であった池波正太郎氏や山口瞳氏の絵が飾られております。

山の上ホテル物語 常盤新平著から
・東京の眞中にかういう静かな夜があるとは思わなかった。設備も清潔を極め、サービスもまだ素人っぽい処が実にいい。ねがわくは、ここが有名になりすぎたり、はやりすぎたりしませんやうに。三島由紀夫
・毎年、旧盆のころに夫人とともに一週間ほど山の上ホテルで休息をとっていた山口瞳にとって、このホテルが「一番」であった。〈一番だというのは一番上等だという意味ではない。一番好きだと言ったほうがいいかもしれない〉
・池波正太郎はことのほか山の上ホテルを「気持ちのよい宿」としてその晩年にしばしば利用し、ここでエッセーを書き、画を描き、神田神保町界隈を散策した。また、いかにもこの作家らしく、宿泊費用の預金通帳をホテルにあずけておいた。その通帳からホテルが引き落とすのである。

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