通でがんす

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(旧ブログタイトル:通じゃのう)

「カ・レッツォーニコ」様式のシャンデリア~ヴェネツィア展 広島県立美術館(その2)

2012年10月16日 | 広島の話題
「県立美術館で開催されている『世界遺産 ヴェネツィア展 魅惑の芸術-千年の都』を紹介するこのシリーズ」

「2回目の今日は、「カ・レッツォーニコ」様式のシャンデリアじゃ」


非常に特徴的な様式で制作されており、その起源は18世紀にヴェネツィアのレッツォニコ宮殿(カ・レッツォーニコ)のために制作された作品にさかのぼる。
この種のシャンデリアはすべて手作業で制作され、特殊な制作過程を必要とする。
本作を飾る多数の花は、合計500もの色ガラスの小片から制作されている。

「カ・レッツォーニコ」様式のシャンデリア 説明文より









「展示品の中で、これだけ写真撮影が可能になっとるんよね」

「ライトが少ない上に、フラッシュ撮影禁止と書いてある。アップの写真が撮れんで困ったぞ」

「まぁ、まぁ。自分の目で見て楽しみゃええじゃん。このシャンデリア、500個の色ガラスで作られとるんじゃね」

「すごい鮮やかな色をしとるのう」

「やわらかい曲線は、飴細工のようじゃね」

「カ・レッツォーニコ(Ca' Rezzonico レッツォニコ宮殿)は、「ヴェネチュア18世紀博物館」として一般公開されとるそうじゃ」

「今回の展示品のうち、12品がカ・レッツォーニコ所蔵のものなんよね」





「ヴェネツィアには、「ヴェネツィアン・グラス(Venetian glass)」と呼ばれるガラス工芸品があるんじゃのう」

「正しくは、「Vetro di Murano(ヴェートロ・ディ・ムラーノ)」と言うんよ。「ガラス」のことをイタリア語で「vetro」と言うんじゃけどね」

「「ムラーノ」というのは?」

「ヴェネツィアの北東にある島の名前なんよ」

「ムラーノ島のガラスか…。そういわれてみりゃ、展示してあるガラス製品は「ムラーノ製」と書いてあるよのう」

「じゃろ?」

「なんで、「ヴェネツィア」じゃのうて「ムラーノ島」のガラスなんじゃ?」


元々原材料や燃料を自国で産出できない土地柄であるヴェネツィア共和国は、ヴェネツィアン・グラスの技術が原材料の豊富な国々に漏れコピー製品が作られることを恐れたため強力な保護政策を取った。
1291年には全てのグラス工房のムラーノ島への強制移住を決定。
グラス職人やその家族・販売者を島に住まわせ、島外に逃げる者は厳しく罰し功績を挙げたものには手厚い褒章を与えるという法令を発令した。
この政策には、火事を防ぐためという名目もあった。

(「ヴェネツィアン・グラス」)



「自分たちの持つ技術が国外へ流出するのを恐れて、13世紀のおわりころ、グラス工房をムラーノ島に強制的に移した、というわけなんよ」

「ヴェネツィアはラグーナ(潟)の上に作られた街じゃけぇ、ガラスの材料や、燃料となる薪(まき)なんかないよのう」

「無色透明なクリスタルガラスを完成させたのも、ムラーノ島のグラス職人(マエストロ)たちなんじゃね」

「逃げる者を罰したというけど、ヴェルサイユ宮殿の「鏡の間」なんかは、その逃げだした職人たちによって作られたといわれとるんじゃ」

「こうして、ヴェネツィア(ムラーノ島)の技術が世界に広まっていったんよね」





↓ヴェネツィア展についての関連記事は、こちら↓

記念オペラコンサート「Viva Venezia!」~ヴェネツィア展 広島県立美術館(その1)

ヴェネツィア展 10月6日から広島県立美術館






「今日は、広島県立美術館で開催されている『ヴェネツィア展』の「カ・レッツォーニコ」様式のシャンデリアについて話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」
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映画『用心棒』 広島市映像文化ライブラリー

2012年10月15日 | まんが・テレビ・映画
「おとつい(2012年10月13日(土))は、黒澤明(くろさわ あきら)監督の『用心棒』(1961年)を観に、広島市映像文化ライブラリーへ行ってきたんよ」

「『用心棒』といえば、ケビン・コスナーとホイットニー・ヒューストンが共演した、『ボディガード』(1992年)じゃね」

「おぉ。映画の中で、人気歌手・レイチェル(ホイットニー)と彼女のボディガード・フランク(ケビン)が、この映画を観るシーンがあったのう」

「「ボディガード=護衛=用心棒」じゃもん」

「『ボディガード』というタイトル自体、『用心棒』がアメリカ公開された時の英語タイトルじゃったんよ。クリント・イーストウッドの出世作となった『荒野の用心棒』(セルジオ・レオーネ監督 1964年)はこの映画の盗作といわれて、のちに裁判沙汰になったこともあるんじゃ」

「ホイットニー・ヒューストンは、今年の2月に亡くなられたね」

「いやー、わしとホイットニーが同じ歳(1963年生まれ)とは知らんかったのう」

「『ボディガード』でも使われた『I will always love you』も大流行したね」


映画内で警護対象のレイチェル・マロンとして出演しているホイットニーが歌うこの曲が印象的に使用されており、1992年11月のシングル・アルバム発売以降、ビルボード・ミュージック・アワードのTop Hot 100 Single of the Year をはじめ、グラミー賞、アメリカン・ミュージック・アワード、ワールド・ミュージック・アワード、MTVムービー・アワードなどの賞を総なめにし、1993年1月にはアメリカ国内売り上げが400万枚(プラチナ4回相当)、イギリス国内売り上げが130万枚(プラチナ2回相当)に達したり、日本でも180万枚を記録し、サウンドトラックが全世界で4200万枚を売り上げるなど、一大ヒットを記録した。
また、全米シングルチャートで14週連続1位と言う記録も樹立している。

(「オールウェイズ・ラヴ・ユー」ウィキペディア)



「ご冥福をお祈りします」





「わしが『用心棒』という映画を知ったのは、石ノ森章太郎(いしのもり しょうたろう)の『マンガ家入門』(秋田書店 1965年)という本でなんじゃ」

「「映画が面白かった」と書いてあったん?」

「この本は、『マンガ家入門』というタイトルから分かるとおり、漫画家を志す人たちに向けて書かれた本なんじゃの」

「小さいころのお父さんは、これを読んで、漫画を描いていたと…」

「この本の「第2部 テクニック編」で、自分の作品『龍神沼』(1961年)を手本に、このコマにはどういう意図があって、どういう表現を使っているか、というのを解説されとってんじゃ」


この「龍神沼」については、自著「マンガ家入門」の中でストーリーマンガを描くテキスト用として作者自らが詳しく解説を書いており、マンガ家を目指し「マンガ家入門」を愛読した人にとっては忘れられない作品であろう。
それを読むと、計算され無駄のないコマ割りに、映画的な構図や演出を駆使して、微妙で繊細な心理描写を描き出していることがよく分かる。
石ノ森作品中、最も完成度の高い作品のひとつである。

(福田淳一「解説」 石ノ森章太郎『龍神沼』メディアファクトリー 1999年3月)



「そういや、『用心棒』、『龍神沼』とも1961年(昭和36年)の作品じゃね」

「『用心棒』が4月25日に東宝系で公開されて、『龍神沼』は『少女クラブ』の夏休み臨時増刊号に掲載された読み切り作品なんよ。ということは、『龍神沼』は『用心棒』を観た直後くらいに描かれた作品じゃないんかの」





「この映画には、藤田進(ふじた すすむ)が出演されとってんじゃ」

「主役の三船敏郎(みふね としろう)でも、仲代達矢(なかだい たつや)でものうて、藤田進?」

「藤田進といえば、『ウルトラセブン』(円谷プロ、TBS 1967年~68年)では地球防衛軍のヤマオカ長官役、『帰ってきたウルトラマン』(円谷プロ、TBS 1971年~72年)では、地球防衛庁の長官にして岸田隊員(演:西田健(にしだ けん)の叔父にあたる岸田長官役をされとった方じゃ」

「お父さんのことじゃけぇ、そんなことじゃと思うたよ…」

「跡目相続をめぐって、馬目の清兵衛と新田の丑寅の2人の親分が対立しとる宿場町に、桑畑三十郎という浪人者がふらりとやってくるんよ。一計を案じた三十郎は、丑寅の親分のところへ売り込みに行き、五十両で雇われることになるんじゃ」

「藤田進は、どんな役で出演されとってん?」

「同じく丑寅の親分に雇われとる用心棒・本間先生役なんよ」

「1人の親分に、用心棒が2人?」

「ほうなんよ。先に雇われた本間先生が、丑寅の親分と三十郎の前で「自分は1両2分(ぶ)しかもらっていない」とすねるシーンもあるんじゃがの」

「そりゃ、仕方がない。でも、いざとなったら、この本間先生も大活躍をするんじゃろ?」

「ところがどっこい。いざ出入りの時に、この本間先生はさっさと逃げ出すんじゃ」

「えぇ!?」

「それを見ていた三十郎に、ニヤッと笑って手を振りながら」

「ふつうの映画なら、「貴様、どこへ行く?」「いや、拙者は…」と、やりとりがありそうなもんじゃけどね」

「それが、悪びれた様子もなく、言い訳もせずに逃げていくんじゃの。「拙者は、これにてごめん」という感じで」

「うーん、そういう用心棒もおってんじゃね」





↓黒澤明については、こちら↓

AKIRA KUROSAWA THE MASTERWORKS





↓石ノ森章太郎については、こちら↓

石ノ森萬画館





↓広島市映像文化ライブラリーについては、こちら↓


広島市映像文化ライブラリー





「今日は、広島市映像文化ライブラリーで上映された映画『用心棒』について話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」
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宮島言葉のいろいろ その35 「きんさい」

2012年10月14日 | 広島弁
「宮島の町屋通りに飾ってある「宮島言葉のいろいろ」を紹介するこのシリーズ」

「第35回目の今日は「きんさい」じゃ」




きんさい…来なさい・おいで
(撮影日:2012年1月4日)




「「きんさい」とは、「来なさい・おいで」という意味じゃね」

「その26で「しんさい(=しなさい)」を紹介したんじゃが、「きんさい」いうのは、
来る+しんさい=きんさい(=来なさい・おいで)
なんじゃの」


「「きんさい」といえば、ゴールデンウィークに行われるひろしまフラワーフェスティバルで、「きんさいYOSAKOI」があるじゃん」

「「きんさいYOSAKOI」は、10年前の2002年(平成14年)から、5月5日に行われとるよのう」

「娘が通うとる中学校でも、3年生が運動会でYOSAKOIを踊っとるよ」



YOSAKOI(よさこい)は、高知県のよさこい祭りから端を発した、踊りを主体とする日本の祭の一形態である。
1990年代に北海道札幌市のYOSAKOIソーラン祭りが成功したことにより、そのノウハウをもとに2000年代にかけて各地に広がった。

(「YOSAKOI」ウィキペディア)




「県北の三次市(みよしし)には、「三次きんさい祭り」というのもあるんじゃ」

「どっちもお祭りじゃけぇ、「祭りを見にきんさい」「祭りに参加しにきんさい」という意味なんじゃろうね」

「三次には、「三次きんさいスタジアム」という野球場があるのう」

「三次きんさいスタジアム?」

「みよし運動公園野球場の愛称なんじゃ」

「「きんさい」といえば、小林克也(こばやし かつや)さんのバンド、ザ・ナンバー・ワン・バンド『うわさのカム・トゥ・ハワイ』じゃね」



♪きんさいきんさい、ハワイにきんさい、わしらはみんな広島じゃけん!



「なんで「ハワイにきんさい」かというと、「広島県=移民県」でもあるんよね」

「『広島県大百科事典 上巻』(中国新聞社 1982年)によると、1899年(明治32年)から1932年(昭和7年)までの34年間で、広島県から海外へ移民した人は約93,000人になるんじゃの。ちなみに、全国では約552,000人になるんじゃ」

「計算すると、約17パーセントになるね」

「つまり、移民のうち6人に1人は広島県民ということになるんじゃ」

「2位は?」

「2位が熊本県で約61,000人(約11パーセント)じゃけぇ、広島県の移民の数はやっぱり多いよのう」





【今日の宮島言葉】

きんさい

意味/来なさい・おいで

例文/「ちょっとこっちへきんさい(=ちょっとこっちへ来なさい)」

参考文献:
廿日市市商工会議所『宮島本 改訂版 宮島検定テキスト』2008年






↓きんさいYOSAKOIについては、こちら↓

「きんさいYOSAKOI」2012ひろしまフラワーフェスティバル





↓三次きんさい祭りについては、こちら↓

第37回 三次きんさい祭り 2012年 7月 28日(土) 開催





↓三次きんさいスタジアムについては、こちら↓

「みよし運動公園野球場「三次きんさいスタジアム」」広島県三次市ホームページ





↓『うわさのカム・トゥ・ハワイ』については、こちら↓

「うわさのカム・トゥ・ハワイ」YouTube





↓移民についての関連記事は、こちら↓

「北広島市」という、広島から多くの人が移住した市があるのはどこ?





↓みよし運動公園野球場についての関連記事は、こちら↓

元プロ野球選手と地元チームとの親善試合(ドリーム・ゲーム)が行なわれるのは、どこ?





↓宮島言葉のいろいろについての関連記事は、こちら↓

宮島言葉のいろいろ その34 「くじゅーくる」

宮島言葉のいろいろ その33 「けェー/けん」

宮島言葉のいろいろ その32 「こさげる」






「今日は、「宮島言葉のいろいろ」で「きんさい(来なさい・おいで)」について話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」
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生きつづけるロマンポルノ 日活創立100周年記念 シネツイン本通り

2012年10月13日 | まんが・テレビ・映画
「今日からシネツイン本通りで、「生きつづけるロマンポルノ 日活創立100周年記念」が始まるんじゃ」


世界中で再評価の気運高まる、
日活ロマンポルノ全上映作品が決定!
創立100周年を記念し、ニュープリントで甦る!

今年9月に日本最古の映画会社である日活が創立100周年を迎えます。
その節目に、日活の長い歴史のなかで最もセンセーショナルで社会に衝撃を与えた作品群である“日活ロマンポルノ”の特集上映を行う運びとなりました。
1971年に製作を開始した“日活ロマンポルノ”は、88年までの17年間、様々な女性の美しさを描き、日本映画史とたくさんの観客の記憶に残る作品を産み出しました。
伝統のスタジオシステムと一流のスタッフに支えられた若手クリエイターたちが一定の製作条件のもと自由に映画を作ることができる場として、神代辰巳、田中登、小沼勝、曾根中生、村川透、根岸吉太郎、池田敏春、金子修介をはじめとする多くの名監督を輩出するとともに、その作品の完成度の高さから現在でも国内外で高い評価を得ています。

今回の「生きつづけるロマンポルノ」特集上映では、リアルタイムで作品に接し、批評し続けてきた蓮實重彦氏、山田宏一氏、山根貞男氏を選者に迎え、“今、観るべき”日活ロマンポルノを厳選。
みずみずしいエネルギーに満ちた傑作が揃いました。

(「生きつづけるロマンポルノ」公式HP)



「生きつづけるロマンポルノ」のポスターに貼ってあるメッセージ
(シネツイン本通り)




「わしがロマンポルノを見始めたのは、20歳を過ぎたころじゃのう」

「ロマンポルノとか成人映画というと、やっぱり引いてしまうよね」

「今のAV(アダルトビデオ)は「セックスのための映像」なんよ。それに対して、ロマンポルノは「セックスシーンが、ふつうの映画より多い映画」と考えてもらゃあええんじゃがのう」

「ロマンポルノ、未成年のころは観てみたいと思いよった?」

「そりゃ、思いよったわい。ところがの…」



(『マル秘若妻のもだえ 後ろから横から』という成人映画を上映している映画館の前で、2人の高校生が小さな声で立ち話をしている)

青空・先輩(演;新田”ヨロシク”イチロー)「見てこうぜ!」

青空・後輩(演;さくま”プリプリ”あきら)「えっ!?」

先輩「見てこうよ!」

後輩「いやですよ」

先輩「大丈夫だよ!」

後輩「年バレたらまずいですよ!」

先輩「平気だって! わかんないよ」

後輩「えぇっ…。無理ですよ」

先輩「なんで?」

後輩「中にね、よくお巡りさんがいるらしいんですよ」

(「もういくつ寝ると18才未満(伊勢佐木町ブルース)」の冒頭のコントより
『スペクトラム5~スペクトラム・ブラスバンド・クラブ』1991年)



『スペクトラム5~スペクトラム・ブラスバンド・クラブ』amazon.co.jp




「成人映画やストリップ劇場には、お巡りさんや学校の先生が、学生が来ていないかどうか見回りをしていたという噂があっての…」

「バレたら困ると…。で、お父さんはロマンポルノを何本くらい観たん?」

「新東宝映画のピンク映画も含めると、最低でも20本は観とるじゃろうの。「タカノ橋日劇」(今の「サロンシネマ2」)や、的場にある「的場有楽座」「的場シネマ」でお世話になったもんじゃ」





「お父さんはロマンポルノのことを、「セックスシーンが、ふつうの映画より多い映画」というたけど、実際にはどんな内容なんかね?」



「3日で撮ってくれればなにを撮ってくれてもいいよ。濡れ場さえあれば」って。
ここがキモなんだよ。
フィルムをどーんと渡されて、そのフィルムがなくなったら終わりなんだよね。

(押井守「勝つために戦え!〈監督ゼッキョー篇〉」徳間書店 2010年)




「つまり、
一定の期間内に、(=短期間)
余分なフィルムを使わずに、(=低予算)
濡れ場(セックスシーン)のある映画を作ればOK
ということなんじゃの」

「押井守(おしい まもる)って、アニメ『うる星やつら』の監督をされた方?」

「ほうじゃの。新東宝映画のプロデューサーから「ポルノを撮ってみないか」と誘われたのは、映画『トーキング・ヘッド』(1992年)のころじゃそうな」

「そういえば、日活って、石原裕次郎や小林旭なんかがおった映画会社よね」

「ほうじゃの。うちのお袋は裕次郎よりも赤木圭一郎が好きじゃったんじゃがの」

「アクション映画で売った日活が、なんでポルノ映画なんか撮るようになったんかね?」

「戦後、1950年代は映画黄金期じゃったんじゃが、1960年代、家庭にテレビの普及して映画産業が斜陽化したんじゃの。そんな中、日活は1969年(昭和44年)に撮影所を、翌70年(昭和45年)には本社ビルを明け渡しすという状況じゃったんじゃ」



この様な暗黒時代の映画界でとにかく会社を生き残らせ社員を食わせるために、日活はメジャー映画会社の一角でありながらポルノ主体の路線へと舵を切ったのである。
その様な厳しい状況下では、日活に籍を置いていたキャリアの浅い若手の映画人たちの多くも退社したところで行き場も無く、本位も不本意も無くロマンポルノに活路を求めて足を踏み入れていくしか選択肢が無い状況であった。

(「日活ロマンポルノ」ウィキペディア)




「ロマンポルノが始まったのには、こういう時代背景があったんじゃね」

「ところが、ロマンポルノにはプラスの面もあったんじゃ」

「どんな?」

「さっきの押井守の話にも出てきたように、3日で撮って、濡れ場があれば、「なにを撮ってくれてもいいよ」というスタンスじゃったんよ」

「ということは、「短期間」「低予算」「濡れ場」をクリアすれば、あとは好きに映画を撮ってもええよ、ということなんじゃね」

「ロマンポルノ出身で今でも活躍されている監督の1人が、現在上映中の『天地明察』を監督した滝田洋二郎(たきた ようじろう)」

「『おくりびと』(2008年)でアカデミー賞を受賞された方じゃね」

「『はみ出しスクール水着』(1986年)などの作品を監督されとるんじゃ。ほかにも、ロマンポルノ出身の監督がおられますので紹介しときます。上の段がロマンポルノ作品、下の段が一般映画の作品になっとります」



金子修介(かねこ しゅうすけ)
『宇能鴻一郎の濡れて打つ』(1984年)
『ガメラ 大怪獣空中決戦』(1995年)


相米慎二(そうまい しんじ)
『ラブホテル』(1985年)
『セーラー服と機関銃』(1981年)


中原俊(なかはら しゅん)
『イヴちゃんの花びら』(1984年)
『12人の優しい日本人』(1991年)


那須博之(なす ひろゆき)
『セーラー服 百合族』(1983年)
『ビー・バップ・ハイスクール』(1985年)


森田芳光(もりた よしみつ)
『(本)噂のストリッパー』(1982年)
『家族ゲーム』(1983年)

(以上、五十音順)




「「ここから輩出した多くの才能が、1980年代から90年代の日本映画の中枢を担ったといっても過言ではない」という言葉があるが、それも言い過ぎではないくらいじゃの」





↓生きつづけるロマンポルノについては、こちら↓

「生きつづけるロマンポルノ」公式HP トップページ





↓シネツイン本通りについては、こちら↓

広島の映画館サロンシネマ、シネツイン、八丁座の広島地場劇場運営会社【序破急】





↓押井守については、こちら↓

ガブリエルの憂鬱 ~押井守公式サイト~





「今日からシネツイン本通りで封切られる、「生きつづけるロマンポルノ 日活創立100周年記念」について話をさせてもらいました」

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完全復元伊能図全国巡回フロア展in呉

2012年10月12日 | 広島の話題
「今日から3日間、「完全復元伊能図全国巡回フロア展in呉」が呉市体育館で行われるそうじゃ」

「これは市制施行110周年記念事業の一環として行われとるんじゃね」


江戸時代に日本全国を実測し、正確な日本地図を作った伊能忠敬。
その伊能図の原寸大複製図が呉にやってきます。
この機会に、伊能図の素晴らしさを実感してください。

■日時
10月12日(金)~14日(日)  9:00~17:00

■場所
市体育館

■内容
伊能大図・中図・小図の展示、測量体験、測量機材の展示など
※入場無料。靴下を着用。

(「完全復元伊能図全国巡回フロア展in呉」呉市)






「伊能忠敬(いのう ただたか)は全国各地を歩いて測量されとってんじゃけぇ、広島にももちろん来られとってんよね?」

「第5次測量(1805年~06年)で広島に来られとってんよ。その時の様子が、絵として残されとるんじゃ」

「ほんま?」


文化3年(1806年)2月30日~3月2日にかけて,伊能忠敬が御手洗柴屋種次宅に宿泊し,大崎下島の海岸線の測量を行っています。
この図はその様子を描いた絵図です。

伊能忠敬が全国測量図を作成した様子を描いた実写図は,全国で2点に過ぎないといわれています。
もう一つの実写図(「浦島測量之図」,呉市入船山記念館寄託,呉市指定有形文化財)では,伊能忠敬自身の姿を特定することができず,本絵図が唯一その姿を描いている点で貴重なものです。

(「伊能忠敬御手洗測量之図 呉市の文化財」呉市)



「ちょっと待ってよ。伊能忠敬が測量する様子を描いた絵は、全国で2点しかない。その2点とも呉に残っとる、というわけじゃね」

「さっき紹介した「伊能忠敬御手洗測量之図」と、次に紹介する「絵巻物「浦島測量之図」だけじゃそうな」


「浦島測量之図」は,幕府の命令によって測量した伊能忠敬(いのうただたか)が,文化3年(1806年)呉地方を測量したときの様子を描いたものです。

忠敬は,文化3年3月9日から19日まで,呉地方の測量を実施し,この間,川尻村・瀬戸島(音戸町)・宮原村呉町に宿泊し測量の足場としました。

絵巻物は,海辺で忠敬が測量している様子を描いた「浦島測量之図」から始まり,星を見上げて度数を測っている忠敬を描いた「夜中測量之図」,測量器械類の図と説明の書いたものがあります。
最後には,測量隊一行の人名,尾道から広島までの日程表,広島藩から差出した御船手人名が書かれています。

(「絵巻物「浦島測量之図」 呉市の文化財」呉市)



「2つとも、呉市の文化財に指定されとるんじゃね」








昨年開催された、完全復元伊能図全国巡回フロア展in広島国際学院大学の様子
(2011年11月4日~6日)






↓呉市体育館については、こちら↓

「呉市体育館」呉市





↓伊能忠敬御手洗測量の図については、こちら↓

「御手洗観光 伊能忠敬が測量の為に滞在した町屋」呉観光





↓地図についての関連記事は、こちら↓

坤輿萬国全図~映画『天地明察』の小道具を展示 八丁座(その1)






「今日は、今日から3日間、呉市体育館で行われる「完全復元伊能図全国巡回フロア展in呉」について話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」
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