通でがんす

いろんな広島を知って、ひろしま通になりましょう!
(旧ブログタイトル:通じゃのう)

中国軍管区司令部防空作戦室内へ

2015年08月28日 | 広島の話題
中国軍管区司令部防空作戦室

空襲警報を発令する

広島城と陸軍








広島城で行われとる

被爆70周年記念展示「広島城と陸軍」

(7月18日から9月6日まで)





その関連イベントで、

広島城内にありながら普段は入ることができん

防空作戦室内に入ることができるというので見に行ってきた。







いつもは鍵が掛けられている

北側にある出入口から入る。







出入口から奥(東側。画面右手)に向かって

情報室、通信室、指揮連絡室、そして防空作戦室と

4つの部屋がある。





見た通り、天井は低い。

ウィキペディアによると、高さ約190センチ。







通信室から指揮連絡室への出入口。

出入口の幅は約130センチ。







一番奥にある防空作戦室は、

足元が他の部屋よりも深く掘ってあるので、天井が高く感じる。

そして、広い。

他の3室を合わせたよりも広いんじゃ。





…なぜか?





この防空作戦室は、

中国軍管区司令官をはじめとする参謀たちが集まって、

空襲警報や警戒警報などを発令する部屋なんじゃの。





中で勤務する女子学徒や、

軍属(ぐんぞく。軍人でなく、軍隊に勤務する者)が立ち入ることができない、

軍人だけが立ち入ることのできた部屋。







防空作戦室内の

2本の柱の間にはテーブルが置かれ…、







広島城の堀側(南側)の壁には

中国地方と四国北部の地図が掛けられ、

地図を見ながら警報を出すかどうか話し合われたという。





地図には各地区の防空監視哨の位置を示す電球が埋め込まれとって、

電球をたどっていくと敵機がどこを目指して飛行しているかが

一目で分かったそうじゃ。







防空作戦室は

軍人だけが立ち入ることができる部屋なので、

奥(西側)には軍人専用の出入口があったんじゃの。







この建物は、

昭和19年末か20年のはじめころ作られた、

半地下式の鉄筋コンクリート製。





天井のコンクリートの厚さは75センチ、

壁の厚さは40~45センチある。

(堀側のコンクリートには、鉄筋は使われとらん)





原爆が投下されたときも、

爆心地から790メートルしか離れていなかったにもかかわらず、

崩れることはなかった。





終戦後は、戦争や原爆で家を失った人が住みつき、

広島護国神社が移転してきたとき、

神社の倉庫としても使われとったそうじゃ。





今は広島市が所有して、

公益財団法人広島市みどり生きもの協会が管理しとるとのこと。





↓中国軍管区司令部防空作戦室については、こちら↓

中国軍管区司令部 地下壕





↓広島城については、こちら↓

広島城ホームページ メイン





撮影日:2015年8月23日





【参考資料】

『被爆70周年記念展示 広島城と陸軍 資料解説書』公益財団法人 広島市文化財団 広島城(2015年)






今日は、広島城内にある中国軍管区司令部防空作戦室について話をさせてもらいました。

ほいじゃあ、またの。
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猿猴橋復元工事(その1)

2015年08月25日 | 広島の話題
猿猴橋復元工事

被爆70年事業

工事開始








広島市南区にある猿猴橋(えんこうばし)を復元する工事が

8月18日に始まったというので見に行ってみた。

これは、市の被爆70年事業の一環として行われるそうじゃ。








橋を西側から見たところ。

向かって左側(川上側)にカラーコーンが置いてあって、

柵が立てられているのが見える。







川上から見たところ。







近くへ寄ってみると、

川上側の欄干(らんかん)が取り外されていることがわかる。

作業としては、欄干の取り外しから始めてんじゃろうの。







今年の春に完成したばかりの

ワシ像のモニュメントが

工事現場の事務所、物置に囲まれとるのが残念じゃのう。





↓猿猴橋復元工事については、こちら↓

「猿猴橋復元事業について」広島市ホームページ





↓猿猴橋については、こちら↓

猿猴橋復元の会





訪問日:2015年8月23日





今日は、猿猴橋で行われている復元工事について話をさせてもらいました。

ほいじゃあ、またの。
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被爆電車653号 特別運行

2015年08月24日 | 広島の話題
被爆電車特別運行プロジェクト

653号車

広島電鉄








昨日の朝10時25分ころ、

バスに乗ろうと思うて広島駅南口に行くと、

見慣れん色の広島電鉄(以下、「広電」と略す)電車が停まっとった。







電車のそばにおられた広電社員の方に聞いてみると、

今年は被爆70年ということで、

1945年(昭和20年)、広島に原爆が投下された当時の塗装を復元した

被爆電車を走らせるというRCC(中国放送)とのコラボ企画。





6月13日から8月30日までの土日祝日、

事前に申し込みをした人を乗せて、

広島駅から原爆ドーム前を通って西広島駅(己斐)で折り返す、

というものじゃそうな。







一般に「被爆電車」として知られとるのは、

1942年(昭和17年)に大阪にあった木南(きなみ)車輌製造で製造された650形電車、

651号車から655号車の5輌。





651号車(中電前で被爆。半焼)と652号車(宇品で被爆。小破)は現役で活躍中。

653号車(江波で被爆。大破)は車庫で保管。

654号車(江波で被爆。大破)は広島市交通科学館(現:ヌマジ交通ミュージアム)で静態保存。

そして、655号車(広島駅前で被爆。全焼)は廃車。







今回は、車庫で保管中の653号車を使ってのプロジェクト。







…というわけで、出発!





↓被爆電車特別運行プロジェクトについては、こちら↓

RCC×広島電鉄被爆電車特別運行プロジェクト RCC被爆70年プロジェクト「未来へ」





↓広電の車両については、こちら↓

広電 電車 車両紹介





15時25分ころ、広島駅近くの荒神橋(こうじんばし)を歩いとると、

広島駅方面に向かって653号車が走ってくるではないか!

これも写真に撮らねば!!







…というわけで、横から見た653号車(荒神三叉路にて)と、







広島駅に向かって走っていく653号車(猿猴橋町4番交差点にて)でした。





撮影日:2015年8月23日





【謝辞】

広電650形電車の被爆場所・被害状況については、加藤一孝氏の資料を参考にさせてもらいました。






↓加藤一孝氏の著書については、こちら↓

『もう一つの語り部 被爆電車物語』南々社 (2015年)





今日は、昭和20年当時の塗装を復元した被爆電車特別運行プロジェクトについて話をさせてもらいました。

ほいじゃあ、またの。
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JR広島駅北口改良工事(その2)

2015年08月18日 | 広島の話題
JR広島駅北口(新幹線口)

ペデストリアンデッキ整備

東側通路の橋脚用穴あけ始まる






↓JR広島駅北口改良工事については、こちら↓

「広島駅北口広場」URBAN HIROSHIMA 街づくりデータベース





↓前回記事は、こちら↓

JR広島駅北口改良工事(その1)







このブログでは、「ペデストリアンデッキ」なんていう、

舌をかみそうな横文字は使いとうないんで、

「ペデストリアンデッキ」を「歩行者専用通路」と

呼ぶことにします。





また、上のイメージ図にある3つの歩行者専用通路は、

左から、東側通路、中央通路、西側通路

と呼び分けています。







東側通路から西を見る。





画面中央に新幹線口東交差点、

画面奥には先日、新幹線口交差点の上に架けられた

西側通路が見える。







その西側通路は、二葉の里から

ホテルグランヴィア広島の2階を通って

JR広島駅北口までつながっとるんじゃ。







東側通路は、JR広島駅北口と

シェラトンホテル広島とをつなぐ通路。





東側通路から下を見ると、橋脚用の穴があけてある。







フェンスに囲まれたあたりに、

中央通路の昇降口が設けられる予定じゃ。





後ろに見える建物は、西日本旅客鉄道広島支社。







西側通路の駅舎側部分の上に架かる屋根を

下から見上げる。

屋根には、電灯を取りつける支柱が取り付けられている。







西側通路の奥(画面中央奥)、

二葉の里再開発地区に新しい建物が建築中じゃったので

見に行ってみた。









手前の2階建ての建物が、

広島がん高精度放射線治療センターで、

奥の7階建ての建物が、

広島県医師会地域医療総合支援センター(仮称)

じゃそうな。





広島がん高精度放射線治療センターは、

今年の秋から運用が始まるということじゃ。





↓広島がん高精度放射線治療センターについては、こちら↓

「広島がん高精度放射線治療センター」広島県ホームページ





訪問日:2015年8月16日





今日は、JR広島駅北口改良工事について話をさせてもらいました。

ほいじゃあ、またの。
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映画『わたしの、終わらない旅』 横川シネマ

2015年08月13日 | まんが・テレビ・映画
映画『わたしの、終わらない旅』

母が残した一冊の本から

横川シネマ











「聞いてください」子どもたちのために

そして、まだ生まれていない未来の子どもたちのために



2011年3月。

福島第一原発の事故の深刻さが明らかになる中、捉えようのない不安を胸に坂田雅子は亡き母が遺した一冊の本を手に取る。

「聞いてください」

と題されたそれは、母が1977年から続けていた原発を問うミニコミ紙をまとめたものだった。

フランスの再処理工場近くに暮らす姉からの1通の手紙をきっかけに反原発運動をはじめた母は、最期まで原発のことを気にかけていた。

そして起こった福島の事故-。

(映画チラシより)






この映画を製作した坂田雅子監督のお母さんは、

「聞いてください」という反原発運動のミニコミ紙を

1977年から出し続けとられた。





きっかけは、

イギリスのガンジー島に住む長女(監督の姉)が

フランスの原発の問題について書き送ってきたことじゃった。





英仏海峡にあるガンジー島の西側には

フランスのラ・アーグ岬があり、

そこには核燃料再処理工場があるんじゃ。





この再処理工場には、

世界各国の原発から出た使用済み核燃料が運び込まれとる。

もちろん、福島の事故で国内の原発が停止する前の日本からも。





坂田監督は、ここを起点として、

アメリカが核実験場として使ったマーシャル諸島、

そして、旧ソ連のカザフスタンに残されたセミパラチンスク核実験場と、

3つの国で取材。





78分という時間の中で、

人類と原子力という問題を、

マクロな視点で描いとられる。





この映画の極めつけは、

1996年の「第2回原子力政策円卓会議」で

監督のお母さんが発言するシーン。





「原子力基本法、つまり国策を見直すべきではないでしょうか。

国策も誤まることがあります。

私たちの年代は、身をもってそれを経験しました」






↓映画『わたしの、終わらない旅』については、こちら↓

『わたしの、終わらない旅』 公式サイト


「映画『わたしの、終わらない旅』監督・坂田雅子さんインタビュー」通販生活






↓横川シネマについては、こちら↓

横川シネマ公式サイト





そして日本では、おとつい(8月11日)

鹿児島県にある川内(せんだい)原子力発電所が

原子炉を起動、再稼働させた。





鑑賞日:2015年8月12日





今日は、横川シネマで上映中(~8月21日)の映画『わたしの、終わらない旅』について話をさせてもらいました。

ほいじゃあ、またの。
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