通でがんす

いろんな広島を知って、ひろしま通になりましょう!
(旧ブログタイトル:通じゃのう)

瀬野八を走る列車たち~第20回JR貨物 広島車両所公開

2013年10月27日 | 日記


「昨日は、JR貨物広島支店広島車両所(広島市東区矢賀(やが)、JR芸備線(げいびせん)矢賀駅北側)であった『第20回JR貨物フェスティバル 広島車両所公開』に行ってきた」

「今日は何を紹介するん?」

「この間話をした、JR山陽本線の瀬野(せの)八本松(はちほんまつ)間にある急勾配区間、通称・瀬野八(せのはち)を過去に走った、今も走っている列車を紹介しようと思うんじゃ」





【EF59形式】







■主要諸元

機関車方式:直並列組合せ抵抗制御 直流、重連形
軸配置:2C+C2
運転整備重量:106.6ton
車体長さ:19,920mm
車体高さ:3,810mm
1時間定格出力:1,350kW
1時間定格速度:42.0km/h
最高運転速度:90km/h
台車種別:2軸先台車付3軸主台車
主電動機:MT17A形直流電動機
歯車比:3.67(77/21)
保安装置:EB・TE・ATS-S

EF59形式は、山陽本線瀬野~八本松間にある連続した急勾配での補助機関車を無煙化するため、当時余剰となっていたEF53形式からおよびEF56形式から改造され昭和38年誕生しました。
以後、昭和61年まで活躍しました。
展示しているEF59 21はEF56 2からの改造で、カットモデルとなっているEF59 16(EF53 17改造)と比べ丸みを帯びた車体が特徴です。




「EF59形は、瀬野八用に改造された車両なんじゃね」

「瀬野八は1962年(昭和37年)に電化されたんじゃが、その後も貨物列車の補機は蒸気機関車を使いよったそうじゃ」

「電化って、蒸気機関車から電気機関車に置き換えることじゃろ?」

「ほうじゃの。ほいで、翌1963年(昭和38年)度末、岡山-広島間の貨物列車を電気機関車に置き換えるとき、補機も電気機関車に置き換えることになったんじゃの」

「で、EF59形が登場したわけじゃね」





「運転席(?)を、よう(=よく)見てみると…」

「扇風機?」

「なんで今もあるんじゃろうか?」




【EF67形式】





■主要諸元

機関車方式:サイリスタチョッパ制御 直流、非重連形
軸配置:B0-B0-B0
運転整備重量:99.6ton
車体長さ:17,050mm
車体高さ:3,970mm
1時間定格出力:2,850kW
1時間定格速度:49.1km/h
最高運転速度:100km/h
台車種別:スイングハンガ式 2軸ボギー
主電動機:MT52形 直流直巻電動機
歯車比:4.44(71/16)
保安装置:EB・TE・ATS-SF
改造初年:昭和59年(1~3号)、平成2年(101~)

EF67形式は、山陽本線瀬野~八本松間にある連続した急勾配での補助機関車用として、昭和57年にEF67 1号が広島車両所にて改造により誕生し、瀬野機関区に配置されました。
この機関車によって、それまでEF59形式が2両必要だった補助機関車を1両とすることが可能となり、昭和59年から平成3年にかけて、8両全車が広島車両所で改造されました。
この機関車の特徴として、坂を下るときにはモーターが発電機となってブレーキをかける回生ブレーキを装備しており、省エネにも配慮がされています。




「EF67形も、瀬野八用に改造された車両なんじゃね」

「EF59形の元になったEF53形(1932年~)、EF56形(1937年~)とも戦前に作られたもので、老朽化が進んどった。そこで今回は、EF60形とEF65形から改造して作ったんじゃと」

「車体の色が分かりづらいんじゃけど、赤? オレンジ?」

「もみじ色。旧国鉄の用語では「赤11号」と呼ぶそうじゃ」

「広島県の県花・もみじにちなんで、この色?」

「…じゃそうな」





【EF210形式】





■主要諸元

機関車方式:VVVFインバータ制御 直流、非重連形
軸配置:B0-B0-B0
運転整備重量:100.8ton
車体長さ:18,200mm
車体高さ:3,980mm
1時間定格出力:3,390kW
1時間定格速度:59.5km/h
最高運転速度:110km/h
台車種別:低心皿ボルスタレス 2軸ボギー
主電動機:FMT4形 3相かご形誘導電動機
歯車比:5.13(82/16)
保安装置:EB・TE・ATS-SF・ATS-PF
改造初年:平成8年

EF65形式の置き換え、1300t牽引列車の増発用として、平成8年3月に試作車である901号が制作されました。
その後、各種性能試験の結果を基に平成10年より量産車が製造されています。
1~18号まではインバータにGTO素子を使用し、1インバータで2モーターを制御する方式でしたが、101号からは使用するインバータの素子をIPM(IGBT)に変更し、1インバータ1モーター制御となりました。
岡山機関区、新鶴見機関区、吹田機関区の3区へ配属され、主に東海道山陽本線の高速貨物列車を牽引しています。




「EF210形は、瀬野八用じゃないん?」

「300番台は、先に紹介したEF67形の後継機として製作され、301号は今年の3月から営業運転を始めたそうじゃ」

「車体の前に「EF210-3」と書いてあるね。車体の横に「桃太郎」と書いてあるのは?」

「「岡山機関区に所属する省電力大出力機」ということで、「ECO-POWER 桃太郎」という愛称がつけられたそうじゃ」





↓「第20回JR貨物フェスティバル 広島車両所公開」については、こちら↓

「広島車両所 貨物フェスティバル」Tetsudo.com(鉄道コム)





訪問日:2013年10月26日





「今日は、第20回JR貨物 広島車両所公開に展示してあった、JR山陽本線の瀬野八を過去に走った、今も走っている列車について話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」
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機関車吊上げ実演~第20回JR貨物 広島車両所公開

2013年10月26日 | 日記


「今日は、JR貨物広島支店広島車両所(広島市東区矢賀(やが)、JR芸備線(げいびせん)矢賀駅北側)であった『第20回JR貨物フェスティバル 広島車両所公開』に行ってきたんじゃ」

「むかし、子どもたちが小まい(こまい。=小さい)ころ、1回だけ行ったことがあるね」

「あのときは、JR貨物広島車両所のすぐ北側にある広島新幹線車両基地でやっとったよのう」

「そうそう。子どもたちと新幹線の座席に座って、「みんなで一緒に新幹線に乗りたいね」と話をしたんよ」

「今回の貨物と、新幹線のとは違うんかの?」

「…今、気がついたん?」

「ま、ええ。それはともかく、今日はJR貨物の広島車両所の公開に行ってきたんじゃ」

「なんかええもん(=気に入ったもの)があった?」

「いや~、機関車吊上げ実演がえかったのう。わしゃ、感動してしもうたで」

「機関車の吊上げ実演?」

「機関車をクレーンで吊り上げて、別の場所に置いてある台車のところへ移動させて、合体! させるというものじゃ」

「機関車と台車を合体させる!?」

「とりあえず、写真を見ながら説明していこうかの」







「機関車吊上げ実演はここ、第1主棟で行われた。外から見るとこんな感じで、中はこんな感じじゃ」

「おぉ~、ものすごく広いねぇ」

「車両所の建物で、こげに(=こんなに)広いものがあるとは思わんかった。ガンダム(=RX-78。全長18メートル)なら寝たまま整備できるかもしれんが、立って整備するには、屋根がちょいと低いかもしれんのう」

「どういう視点で建物を見よるん?」





「実演に使われたのは、この車両。EF210-3」





「吊上げ実演は11時開始じゃったんじゃが、5分くらい前、頭上にある2台のクレーンが動き始めたんじゃ」







「そのクレーンが、車両をつるす天秤(正式名称がわからんけぇ、こう呼ばせてもらいます)を引っかけて、車両があるところまで移動していき…」













「クレーンで車両を吊り上げると、移動してきたんじゃの」

「お、お、おぉー、大迫力じゃね」





「位置が合(お)うてなかったんか、台車を移動させよっちゃった。車両を台車の上にくるよう移動して…」







「係員の人が指差呼称をして、両手を広げる。その両手を下に下げると、車両もゆっくりと下りてくる」

「いよいよ、合体!じゃね」

「ここでちょいと説明しとくと…。まず、両手を広げる。その手を下に下げると、車両を下ろす。手を上に上げると、車両も上がる。手を肘(ひじ)のところで曲げて、指先を耳の所に持っていくと、作業を止める。…という指示を出しよっちゃったの」





「微調整をしながら、ゆっくりと下ろす。…で、ここで終わり」

「…え? 合体せんの?」

「合体させるところまでやると思うとったんじゃが、台車の上に降ろさず、車両を元の位置に戻されちゃったのう」













「車両を元の位置に戻し、天秤も元の位置に戻して、終わり」





「係員の人も、クレーンの人も、仕事終わり」

「ご苦労さまでした」





「そうそう、クレーンの下には、こう書いてあったのう」

「方向が地名で書いてあるんじゃね」

「東(=府中)西(=矢賀)南(=広島)北(=温品(ぬくしな))になるかの」





↓「第20回JR貨物フェスティバル 広島車両所公開」については、こちら↓

「広島車両所 貨物フェスティバル」Tetsudo.com(鉄道コム)





訪問日:2013年10月26日





「今日は、第20回JR貨物 広島車両所公開で行われた機関車吊上げ実演について話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」
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鉄道 三原-広島間ルート決定まで

2013年10月25日 | 日記
「昨日は、瀬野機関区の記念碑に関連して、急勾配の続く通称「瀬野八(せのはち)」と呼ばれる、瀬野(せの)八本松(はちほんまつ)間の話をしたんじゃが…」

「はーい、質問です!」

「なんじゃ?」

「どうして瀬野八を通ることになったん? たとえば、呉線のように、海沿いに鉄道を通してもえかったんじゃない?」

「えー、順番に説明していこうかの。まず、山陽鉄道という会社が、今のJR(旧:国鉄)の山陽鉄道の路線を敷いたんじゃ。で、神戸から始まって三原(現:糸崎)駅まで鉄道を通したのが、1892年(明治25年)の7月」

「日本が文明開化を初めてして25年くらいか…」

「富国強兵、殖産興業で列強諸国に追いつき追い越せでやりよった時代。山陽鉄道も、鉄道を海沿いに通すつもりでおったらしい、が、これは軍から反対されたそうじゃ」

「どういう理由で?」

「この時代、外国から日本を攻めようとしたら、海から攻めるしかないんじゃの」

「まだ、飛行機はなかったしね」

「空から攻めることができん。とすると、軍艦で日本にやってきて、海から大砲をぶっ放すしかない」

「つまり、鉄道を海沿いに走らせていると、標的になるおそれがあると…」

「危険じゃし、海軍としてもそこまで面倒を見れん、というわけで反対されたそうじゃ」

「そういや、呉(くれ)に海軍の軍港が作られたのも、周囲に島があって攻めて来づらいという理由もあったね」

「太平洋戦争の末期、米国に制空権を握られて空から攻められると、そういうことはなんの意味もなくなるんじゃがの。ま、それは後の話じゃ。とにかく、海沿いに線路を通すという選択肢はなくなってしもうた」

「で山側を通って、瀬野八を通ることになったわけじゃね」

「ところが、八本松から広島市内までのルートは、2つの案が出されとったそうじゃ。ひとつが「南方ルート」で、もうひとつが「北方ルート」というものじゃった」

「…?」

「南方ルートは今の山陽本線と同じ、西条から瀬野八・海田市(かいたいち)を経由して広島駅までのルートじゃの。これに対して北方ルートは、八本松から北に向かい、関川に沿って志和(しわ)東、志和堀を通り、トンネルを通って、今のJR芸備線(げいびせん)の志和口(しわぐち)あたりに出る」

「ふんふん」

「ここから芸備線に沿って下深川(しもふかわ)あたりまで行き、ここで太田川(おおたがわ)を渡る。今度はJR可部線(かべせん)の梅林(ばいりん)あたりに出るので、今度は芸備線に沿って己斐(こい)、西広島あたりに着くというものじゃ」

「ということは、己斐が広島駅になっとったかもしれんのじゃね?」

「この北方ルートが実現しとったらの」

「なんで実現せんかったん?」

「金と時間がネックになったんじゃ」

「金と時間?」

「北方ルートを通ると、南方ルートより10哩(マイル)、約16キロメートルほど距離が長くなるそうじゃ」

「つまり、工事費が増える」

「…もあるし、所要時間もかかるし、なにより運賃が高くなる。日本では、鉄道ができるまで、主要な交通手段は船じゃった」

「あとは、人力で歩くしかないよね」

「山陽鉄道は瀬戸内海航路と競合することになるけぇ、時間を短くしたいし、運賃も安くしたい」

「というわけで、南方ルート、今の山陽本線のルートを通ることになったんじゃね」





【参考文献】
長船友則『山陽鉄道物語』(JTBパブリッシング 2008年)






「今日は、三原-広島間の鉄道ルートが決まるまでについて話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」
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瀬野機関区記念碑

2013年10月24日 | 見て歩き
「鉄道の日(10月14日)、JR瀬野駅(せのえき)を訪ねてみた。駅の北口に、ふれあいの庭があるんじゃの」





JR西日本瀬野駅誕生記念

ふれあいの庭

寄贈 国鉄OB瀬野分会
施工協力 上野造園
1987.4.1






「向かって右側に第六期運転無事故記念碑、左側に瀬野機関区記念碑がある」



昭和廿九年 弐月建之

第六期運転無事故記念

瀬野機関区




瀬野機関区記念碑


【向かって右横】
明治二十七年六月 設置
昭和六十二年三月 廃止


【向かって左横】
瀬野機関区OB会建之


【裏側】
瀬野機関区の歴史

開設
明治27年6月10日(1894年)
山陽本線、糸崎~広島間開通、瀬野駅開業となり、同時に隣接して瀬野機関車駐泊所が設置された。

廃止
昭和62年3月15日(1987年)
山陽本線の輸送の変化、減少に伴い昭和60年3月瀬野派出所と変更され、昭和62年3月15日に廃止された。

明治27年の開設から昭和62年の廃止まで、山陽本線上り瀬野~八本松間10.6kmは当時「西の凾嶺」(にしのはこね)と呼ばれた急勾配区間で列車の最後部に後押し機関車(補助機関車)を1両又は2両連結して運転され、蒸気機関車時代から電化電気機関車まで一貫して後押し専用の機関区として活躍し、全国でも数少ない特殊な機関区であった。






「瀬野駅の北口に、瀬野機関区があったそうじゃ」







「写真で見ると、結構、広いね」

「総面積14,962平方メートル。マツダスタジアムの約1.2倍の広さがあったんじゃと」





「駅の北側にある倉庫も、その一部なんじゃろうの」

「なんで、こんなに広い場所が必要なん?」

「ここ、瀬野から八本松までは、瀬野八(せのはち)と呼ばれる、急こう配の続く交通の難所で有名。そこで補機が必要になるんじゃの」

「補機?」

「補機は、傾斜のきつい坂を上るとき、列車を後ろから押す補助機関車のことじゃ」

「あぁ、大八車で坂を上るとき、後ろから押すようなものか」

「ちなみに、列車を引っ張るのは本務機と呼ぶんじゃの」

「列車を後ろから押すなんて、そんなのがあったんじゃね」

「そんなことはない。今でも、瀬野八を走る貨物列車には補機がつけられとるんじゃ」





(以下、撮影日:2012年10月10日)

「貨物列車が走ってくる」

「先頭で引っ張るのが本務機じゃね」





「列車が通過していって…」





「貨物列車の一番後ろで押しているのが補機か」

「この補機を瀬野で取り付けて、八本松で取り外す作業をしていたそうじゃ」

「瀬野機関区は、そういう仕事をしよったんじゃね」

「山陽本線は幹線鉄道じゃけぇ、取り付け、取り外しの作業を、1日に何十回もする必要があったわけじゃ」

「それで、これくらい広い場所が必要じゃったんじゃね。ということは、ここで働く人もたくさんおられたん?」

「それについては、新聞記事があるけぇ、ここから紹介してみようかの」



八百二十二世帯、三千八百人のうち現職の鉄道職員が三百三十人、退職職員五百二十人、三十年以上の永年勤続者五十数人におよび全然鉄道と縁のないのはわずかに二世帯という文字どおりの鉄道の村

(「国鉄と共に生きる村」産経新聞 昭和31年10月14日)




「3,800人のうち330人じゃけぇ、村の人口のうち約10%弱の人が鉄道関係の仕事をしとったそうじゃ」

「文字どおり「鉄道の村」じゃね」

「ここに鉄道を通すとき、瀬野に駅を作ろうとした。ところが、山間にある瀬野に駅を作ると、ただでさえ狭い耕地がさらに狭くなる、というわけで反対運動があった。そこで、駅や機関区で働く職員を地元から雇うという条件で、駅を作ることが決まったということじゃそうな」





訪問日:2013年10月14日





【参考文献】
宮原和明・大谷和己/監修『瀬野に機関庫があった』(瀬野川流域郷土史懇話会 2012年)






「今日は、JR瀬野駅北口にある瀬野機関区記念碑について話をさせてもらいました」

「じゃ。ほいじゃあ、またの」
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広島陸軍被服支廠

2013年10月23日 | 見て歩き


「今日は、広島市南区出汐(でしお)に残る被爆建物、広島陸軍被服支廠(ひろしまりくぐんひふくししょう)の話をしようと思うんじゃ」

「被服支廠いうたら、兵隊が身に着ける軍服や靴・帽子なんかを作るところ?」

「…だけじゃのうて、肌着やふとん・毛布から、背嚢(はいのう。兵士が身の回りのものを詰めて背中に背負う袋)・飯盒(はんごう。野外での炊飯に使う携帯用調理器具)・水筒など、いろんなものを生産・修理・保管・供給するところじゃったそうな」

「意外と幅広く、こまごまとしたものまで作りよっちゃったんじゃね」

「日露戦争(にちろせんそう)も終わりに近い1905年(明治38年)4月、陸軍被服廠広島出張所として開設され、2年後の1907年(明治40年)に被服支廠に昇格したそうじゃ」

「で、今のようなレンガ造りの倉庫が建てられたんじゃね」

「今も残る10~13番庫の4棟は、1913年(大正2年)に建てられた。実はこれらの鉄筋コンクリート造りの表面にレンガを張ったもので、レンガ造りじゃないそうじゃ」

「へぇ。そうなんじゃ。で、この倉庫、大きさはどれくらいあるん?」

「長辺が94メートル、高さが17メートルもあるそうじゃ」

「ということは、この倉庫に沿って走ったら、100メートル競走ができるということじゃね」

「1930年(昭和5年)には、旧宇品線の「被服支廠前停留場」が作られたんじゃの」

「旧宇品線の沿線には、兵器支廠(へいきししょう)や糧秣支廠(りょうまつししょう)と、陸軍と関係のある施設がたくさん作られとったんじゃね」

「1939年(昭和14年)から42年(昭和17年)のころは、敷地面積が17ヘクタールもあった。今でいうと、県立皆実高校、県立広島工業高校からテレビ新広島あたりくらいになるそうじゃ」

「おぉ、すごい」

「ところが、太平洋戦争の末期には、空襲されるのを恐れて、木造の建物の多くは取り壊されとったそうじゃ」

「原爆が投下されたとき(1945年8月6日)は?」

「爆心地から約2.7キロのところにあって、屋根に大きな損傷を受けたんじゃが、建物が倒れたり、火災が発生したりということはなかった」

「ということは、救護所になったん?」

「多くの被爆者が避難してきて、ここで息を引き取った。峠三吉(とうげ さんきち)の『原爆詩集』の中の一編「倉庫の記録」に、その時の様子が描かれとるんじゃ」



その日

そこは陸軍被服廠倉庫の二階。
高い格子窓だけのうす暗いコンクリートの床。

足のふみ場もなくころがっている…


二日め

あさ、静かな、嘘のようなしずかな日。
床の群はなかばに減って…


八日め

がらんどうになった倉庫。

(峠三吉「倉庫の記録」より抜粋)




「戦後、1946年(昭和21年)4月からは広島高等師範学校(現:広島大学教育学部)、県立第一高等女學校(現:皆実高校と県立広島工業高校)の校舎として使われとったそうじゃ」





「鉄の扉が、原爆投下時の爆風で曲がってしもうとるんじゃね」

「爆風は北西方向から来たけぇ、西側の壁面の扉が変形しとるんじゃの」





「ここはツタが絡まったとるんじゃね」







(以上2枚、撮影日:2013年10月26日)

「屋根はこんな感じで…」





(撮影日:2013年5月3日)

「比治山(ひじやま)から見ると、こんな感じかの」

「あぁ。全体がL字形になっとるのがわかるね」

「手前から奥(北から南)に向かって、3棟並んどる。ほいで、見づらいかもしれんが、左側(東側)に1棟、計4棟が今も残っとるんじゃ」


(青文字部分:2013年10月27日追加)






訪問日:2013年10月14日





【参考文献】
被爆建造物調査研究会/編『ヒロシマの被爆建造物は語る―被爆50周年 未来への記録―』(広島平和記念資料館 1996年)






「今日は、広島市南区出汐に残る被爆建物、広島陸軍被服支廠について話をさせてもらいました」

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