通でがんす

いろんな広島を知って、ひろしま通になりましょう!
(旧ブログタイトル:通じゃのう)

JR運転取りやめ 安芸中野駅から広島駅まで歩く

2020年08月16日 | 日記
今年の7月は、西日本から東日本、
東北地方の広い範囲で大雨が続いた。

4日から7日にかけては、
九州で記録的な大雨となり、
球磨川などで氾濫(はんらん)が相次いだ
のはまだ記憶に新しい。

(令和2年7月豪雨)



西日本豪雨(平成30年7月豪雨)から
ちょうど2年目となる7月6日(月)。

広島でも雨が降り続き、
JRは夕方で運転を取りやめた。

わしが乗っとった電車は、
安芸中野駅で運転取りやめに。

そこからから広島駅まで歩いて帰った。

(安芸中野駅から広島駅までは、
JRの営業キロで換算で、
10.3キロメートル)





今日はそのときの話でがんす。



今回の話はちぃと長(なご)うなりますが、
最後までおつきあいください。





中国地方は6日、局地的に激しい雨が降った。
広島県などは、広島市と廿日市市に
今季初の土砂災害警戒情報を発表。
レベル4の避難指示、避難勧告を出す
自治体が相次いだ。

(「中国地方に激しい雨」2020年7月7日 中国新聞)






広島はこの日も雨が降り、
午後からは雨脚が強うなってきた。

JRのホームページを見ると、
運転取りやめいう情報は載っとらんかった。

今までじゃったら、そんなの気にせず
そのまま仕事を続けとった。

が、2年前の西日本豪雨の悪夢が
頭をよぎる。

不安になったので、午後3時で早退、
JR山陽本線で帰ることに。





3時42分、八本松駅発の電車が
来なかった時点で、イヤな気はしとった。

次の58分の電車が来たので、それに乗る。





↓八本松駅については、こちら↓

「八本松駅」JRおでかけネット





車内はそれなりに混んどったが、
「密」と感じるほどじゃなかった。

「塾に遅れそうだから、連絡しといて」
男の子が親に電話しているのが聞こえた。

「うーん、こんな雨の中でも
塾に行かんにゃいけんのかいの?」



外は雨が降り続いとるが、
電車はふつうどおりに走る。

これなら広島まで帰り着いてくれるかな、
と期待していた。



…が、

電車は安芸中野駅で停車。

「大雨が降ってきたので、
様子見をしています」との車内放送。

確かに、バケツをひっくり返したような
雨が降ってきた。

これが4時15分くらい。





↓安芸中野駅については、こちら↓

「安芸中野駅」JRおでかけネット





電車が止まって5分。

動く気配はない。

「こりゃもう、電車は動かんで」と、
わしは勝手に判断。

「1時間もありゃ、
広島駅まで歩いて帰れるじゃろ」
と歩いて帰ることに。



トイレに駆け込んで、カッパを着、
カバンの中の荷物にビニールをかけ、
濡れないようにする。

そして、安芸中野駅を出て広島駅を目指した。

これが4時25分くらい。

(安芸中野駅から広島駅までは、
JRの営業キロで換算で、
10.3キロメートル)





折からの大雨。

カサをさしても役に立たんので、
カサをささずに歩く。

履(は)いていたクツは
すぐ、ぐちゃぐちゃに。

カッパのフードはあるが、
風に乗った雨が顔にふきつける。

こんな大雨の中を歩く
酔狂(すいきょう。物好き)な人は
おらんじゃろ、という判断で
コロナ対策のマスクは外している。



県道274号瀬野船越線に沿って歩く。

瀬野川沿いに出ると、
役所の人らしき3人が川の様子を見ていた。

仕事とはいえ、こんな雨の中
川の様子を見て歩くのは大変じゃろうの。



川といえば、何人かの人が、
小さな川を見てまわっておられた。

それも、年配の男性ばかり。

「大雨の時は川や用水路に近づかないように」
とアナウンスがあるんじゃが、
やっぱり気になるんじゃろうの。



大雨の中でスマートフォンが鳴ると、
ビクッとする。

熊野町や府中町で避難勧告が出た
との知らせが届く。

府中町に住む、ひとり暮らしの
おふくろのことが頭をよぎる。

「こんなところを歩きよって、
府中町で何か起こったら
どう対応するんじゃ?」

後悔の念とともに、自然と足が速くなる。



大雨のとき、何がこわいって、
走ってくる車のはねる水。

運転手の方は、ちゃんと前を見て
運転されとってんじゃろうが、
水たまりを通ったときに
はね上げる水のことは気にされてとらん。

ま、こんな大雨の中、
そんなことまで気にして走れいうのが、
無理な話なんじゃが。

走ってくる車と水たまりの位置を考えながら、
立ち止まる位置を決める。

体がびちゃびちゃに濡れとっても、
やっぱり車に水をかけられるのは
いやじゃけぇの。



そんなこんなで、
安芸中野駅の次の海田市(かいたいち)駅
近くまで来る。





↓海田市駅については、こちら↓

「海田市駅」JRおでかけネット





体が濡れているので
電車に乗ると失礼じゃろ、
とそのまま歩き続ける。

雨が降り続いているので、
運転再開はまだないじゃろ
とも思いながら。



海田市駅からは、
線路を左手に見ながら歩く。

雨が小降りになってきたせいか、
カサをさして歩いている人が
増えたような気が。

皆、会社帰り、学校帰りで
買物に行くような人は見かけんかった。



「そういゃ、水分を取っとらんよのう」

大雨の中、気を張り詰めとったが、
小雨になって余裕ができたか。

自動販売機で買ったお茶を飲んで、
ちょっと休憩。



海田市駅の次は向洋(むかいなだ)駅。





↓向洋駅については、こちら↓

「向洋駅」JRおでかけネット





このあたりでは、
ほとんど雨がやんでいた。

駅を見ると、ホームに人影は見えるが、
電車が動いている様子はないので、
そのまま歩き続ける。



ふと気がつくと、会社帰りらしき車で
道路が混雑していた。

正確な時間は覚えていないが、
午後5時過ぎ。

ラッシュの時間帯である。



府中大橋東詰めで
県道84号東海田広島線に出る。

雨もやんだし、
体も少し乾いたようなので、
このあたりからバスに乗ろうと考えた。

が、さっきも書いたとおり
ラッシュの時間帯。

車が動かないし、バスも来そうにない。

バス乗り場でバスを待つ人を
横目で見ながら、そのまま歩き続ける。





県道84号に沿って歩いていたので、
向洋駅の次の天神川(てんじんがわ)駅の
様子はわからんかった。





↓天神川駅については、こちら↓

「天神川駅」JRおでかけネット





午後6時10分ころ、
ようやく広島駅にたどり着く。





↓広島駅については、こちら↓

「広島駅」JRおでかけネット





午後4時25分ころに安芸中野駅を出て、
海田市・向洋・天神川駅を通って広島駅へ。

距離にして10キロメートルあまり、
時間にして1時間40分あまり。

自分でもよう歩いたと思う。



広島駅のタクシー乗り場では、
タクシー待ちの長い列ができとった。

改札口に行ってみると、
「本日の運転は取りやめ」の貼り紙が。



翌日の中国新聞には、
「午後4時30分までにJR全線がストップ」
と書いてあった。

「全線」というのは、広島県内を走る
山陽本線・呉線・可部線・芸備線・福塩線
の5路線のこと。

この記事が正しければ、
わしが乗っていた電車は安芸中野駅で
運転を取りやめたことになる。

安芸中野駅で電車から降ろされた人は、
国道2号線まで出るか、
海田市駅まで歩いて行って、
バスかタクシーに乗って帰るか、
自宅から迎えに来てもらうしか、
帰宅する手段はなかったはず。



ただ、大雨を避けて
電車の中で待った方がえかったんか、
わしのように大雨の中を
歩いて帰った方がえかったんか。

正直、わしにもよう分からん。



ひとつだけいえるんは、3時で早退、
JR山陽本線に乗って帰らんかったら、
新幹線(東広島駅→広島駅)で帰るか、
高速バスで帰るしか手はなかった。

この日は、高速も通行止めじゃったけぇ、
高速バスという手は使えんかったが。



どっちにしても、この日
電車やバスを利用された方、
お互い大変でしたのう。

お疲れさまでがんした。



ちなみに、JR可部線で通勤する娘1号は
バスに乗って無事、帰ってきた。





以下、余談。



東日本から西日本の広い範囲で
大雨が降った6日、広島市など
中国地方各地で土砂災害や住宅被害が
続出した。
広島県では1人が死亡、
2人が心肺停止状態で発見された。

(「大雨 広島で不明多数」2018年7月7日 中国新聞)




思い起こせば、ちょうど2年前の
2018年7月6日(金)。

西日本豪雨のときも
同じような状況じゃった。



JRは、大雨のため昼過ぎで運転を取りやめ。

わしは、職場の人の車で送ってもらう
ことにして、仕事を続けた。

が、午後6時過ぎに雨脚が強くなり、
退社命令が出た。



職場の人の車で、国道2号線を通って
東広島市から広島市内に向かうも、
瀬野川(せのがわ)が氾濫(はんらん)。

安芸区中野東6丁目あたりで
道路がえぐられたため、大渋滞。

結局、職場に戻って一泊。



翌日の朝出発したものの、
行く道行く道が、ことごとく通行止め。

東広島市から広島市へは、
南東方向へ進めばええんじゃが、
進むべき道がない。

そこで、西へ進路をとり、
福富(ふくとみ)から北上、
甲立(こうたち)で国道54号線に出て
南へくだり、
ようよう広島市へたどり着いた、
いうことがあったんじゃの。





↓西日本豪雨についての関連記事は、こちら↓

東広島市から脱出せよ!

広島市への帰還!






今日は、先月の7月6日、
JR山陽本線の運転取りやめで、
安芸中野駅で広島駅まで歩いて帰った
ことについて話をさせてもろうたでがんす。



長い話に最後までおつきあいくださって、
ありがとがんした。



ほいじゃ、またの。

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たんぽぽ畑の家族~記憶の解凍【蔵出し企画】

2020年08月15日 | 広島の話題
先日、庭田杏珠・渡邉英徳共著
『AIとカラー化した写真でよみがえる
戦前・戦争』(2020年 光文社新書)
という本を読んで驚いた。

「この本には、広島テレビ新社屋完成時の
「記憶の解凍」展で見た写真が
よぉけ(=たくさん)載っとるじゃん!」









今日は、「記憶の解凍」展に紹介してあった
「たんぽぽ畑の家族」という写真について
話をしていくでがんす。





↓『AIとカラー化した写真でよみがえる 戦前・戦争』については、こちら↓

「AIとカラー化した写真でよみがえる戦前・戦争 (光文社新書) 」amazon





↓「記憶の解凍」展については、こちら↓

「広島テレビ 新社屋「記憶の解凍」展覧会」東京大学大学院 情報学環・学際情報学府





記憶の解凍とは…、



この時代の写真は、
今のようなカラーじゃのうて
白黒じゃった。

今の世の中、テレビ・ビデオ・スマホと、
右を見ても左を見ても、すべてがカラー。

カラーに慣れてしもうた今、
白黒の写真を見ると、
無機質で静止した「凍りついた」
印象を受ける。

このことが、戦争を自分ごととして考える
きっかけを奪っていないか? と問いかける。



たとえば、戦争の話を話すと、
「こわい」「聞きたくない」と
拒否してしまったり、
「この(戦争の)時代に
生れなくてよかった」と、
他人ごととして受け止めてしまいがち。



この戦争を、「他人ごと」でなく
「自分ごと」として受け止めるには
どうすればいいか?





カラー化によって、
白黒の世界で『凍りついて』いた
過去の時が『流れ』はじめ、
遠いむかしの戦争が、
いまの日常と地続きになります。
そして、たとえば当時の
世相・文化・生活のようすなど、
写し込まれたできごとにまつわる、
ゆたかな対話が生みだされます。

(渡邉英徳「記憶の解凍」 『AIとカラー化した写真でよみがえる 戦前・戦争』より)






「ゆたかな対話が生みだされ」
という言葉があった。



白黒写真をカラー化するためには、
AI(人工知能)という技術を使う。

AIは、人の肌や自然の物は得意じゃが、
衣服や乗り物などの人工の物は苦手。

そこで人間の手、というか
人の「記憶」を借りる必要がある。

写真をカラー化するにあたって、
写真を提供した人たちと対話をし、
当時の資料や時代考証を参考に、
手作業で色を補正していくそうじゃ。





前置きが長うなったが、
「たんぽぽ畑の家族」という写真について。





戦前の1935年(昭和10)ころ、
花畑で撮影された家族写真。

写真の持ち主は認知症を患い、
この写真に自分が写っているか
どうかさえ分からないという状態。

それが、カラー化された写真を囲んで
話をしていたとき、
「これはたんぽぽだった」と、
当時のことを生き生きと話し始めた。

そこから、写っている花が
たんぽぽであることが分かった。

花の色を補正することで
写真をよみがえらせ、
同時に持ち主の記憶もよみがえらせる
ことができたという。



上の写真は白黒写真をカラー化する
過程があらわされている。


左上から右上、右下へ、

1)元の白黒写真

→2)AIでカラー化した写真
(服の色がちょっとおかしい)

→3)色補正をした写真
(服の色が補正されている。
花は「シロツメクサ」の前提で白く補正)

→4)最終的な写真
(花を「たんぽぽ」として黄色く補正)





以下、余談。



1966年に放送された特撮テレビ番組
『ウルトラQ』(円谷プロ、TBS)。

この作品は白黒で制作・放送されたが、
放映45周年の2011年にカラー化され、
『総天然色ウルトラQ』として発売された。

このときも、人の「記憶」が役立った。



ヒロインの江戸川 由利子役を演じた
桜井浩子(さくらい ひろこ)さん。

当時、ほとんどの衣装が自前だった。

そのため、今でも衣装の色を覚えていて、
カラー化の色合わせで助言をした、
という話を聞いたことがあったの。





訪問日:2018年12月2日





今日は、「記憶の解凍」展に紹介してあった
「たんぽぽ畑の家族」という写真について
話をさせてもろうたでがんす。



ほいじゃ、またの。

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『婦人公論』の新聞広告が見やすかった

2020年08月14日 | 日記
わしの1日は朝、家に配達された
新聞を読むことから始まる。

寝坊して時間がないときは、
読まずに出かけることもあるがの。

新聞の記事を読むのも楽しみじゃが、
広告欄に掲載されとる雑誌の広告を
見るのも楽しみなんよ。





今日は、おとついの中国新聞に掲載された
『婦人公論 2020年8月25日号』の
新聞広告についての話でがんす。







(婦人公論 2020年8月25日号 新聞広告
2020年8月12日 中国新聞掲載)


この『婦人公論』の新聞広告を見て、
驚いた!

「おぉ、こんなに見やすい広告が
今までにあったじゃろか!?」







(婦人公論 2020年8月25日号 Web広告)


今までの『婦人公論』の新聞広告は、
こんな感じじゃった(…と記憶する)。





Web広告も、もちろん見やすいが、
掲載されている記事だけが書いてある。



たとえば、
「藤井聡太棋聖 強さの秘密」
という記事。

「藤井聡太」という文字を見て、
「…誰じゃったっけ?」
という方も必ずおられる(はず)。



これが新聞広告の方では、
記事と顔写真が一緒にしてある。

「藤井聡太」という文字から
ピンとこなくても、彼の顔写真から、
「あぁ、この人見たことあるよ。
この間、なんとかいうタイトルを
最年少で獲得した人じゃなかったっけ?」
と思い出すこともある(はず)。



そういう意味で、
新聞広告の方が断然見やすい、と
わしゃ思うんじゃがの。





今日は、中国新聞に掲載された
『婦人公論 2020年8月25日号』の
新聞広告についての話を
させてもろうたでがんす。



ほいじゃ、またの。
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地下防空壕跡 呉市(その2)【蔵出し企画】

2020年08月12日 | 見て歩き
今日は、前回に続いて、呉市に残る
地下防空壕(ぼうくうごう)跡の話
でがんす。







↓前回については、こちら↓

地下防空壕跡 呉市(その1)【蔵出し企画】







今から8年前の2012年の1月。

あの戦艦大和を建造した、
かつての呉海軍工廠
(くれかいぐんこうしょう。
現:ジャパン マリンユナイテッド呉工場
2012年当時:アイ・エイチ・アイ
マリンユナイテッド呉工場)
を見下ろせる場所を探して歩いとった。





子規句碑前(しきくひまえ)交差点を過ぎ
坂を下ったあと、
宮原9丁目アパートあたりを目指して
坂を上って行きよると…。







コンクリート造の構造物が
いきなりあらわれた!

なんじゃ、こりゃ!?







近寄ってみる。







ここから3つの方角が見えるように
のぞき穴がつけてある。

ふつうの防空壕じゃったら、
こんなものは必要ないはずじゃけぇ、
こりゃ防空監視所(ぼうくうかんししょ)
跡かもしれんの。





防空監視所いうのは、
空から攻めてきた敵を見つけるために
つくられた建物。

先に書いたとおり、ここから海側に
かつての呉海軍工廠があった。

太平洋戦争の終わりごろ、
敵の空襲から守るための施設が必要になって
つくられたもの。







ありゃ、後ろにも
同じような建物があるで。







こっちは草に覆われとるけぇ、
坂を上ってくるとき
見過ごしてしもうとったんかもしれん。







こっちは、地下防空壕の跡じゃろか?







近寄ってみる。







ここが入り口?
…にしちゃせまいようにも感じるが。





ひょっとして、この2つの建物は、
地下でつながっとるんじゃなかろか?
…とわしゃ勝手に想像しとるんじゃが。

本当のところはどうなっとるんじゃろうか?





日本が戦争に負けて75年。

理由はどうあれ、
これだけの建物が今も残されとる。

これらの建物が、
どういう理由で建てられ、使われたか、
そういうこと調べて、
後世に伝えていく必要があると
思うんじゃがの。





以下、余談。



防空壕とは、先の戦争で、
アメリカ軍の空襲から避難するため、
山や地面などを掘ってつくった穴のこと。

呉市内を歩いてみると、
今でも防空壕跡を見つけることができます。





訪問日:2012年1月9日





以下、さらに余談。











(2012年1月9日のものと比較)

先日、この場所を尋ねてみると、
後に紹介したもの(防空壕?)は、
まだ残っていた。

最初に紹介したもの(防空監視所?)は
残念ながら取り壊され、
今は駐車場になっていた。





訪問日:2020年8月9日





今日は、呉市にある
地下防空壕跡(防空監視所?)の話を
させてもろうたでがんす。



ほいじゃ、またの。

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草の想い(くさのおもい)

2020年08月02日 | 音楽
深夜23時から朝5時までの6時間、
1年365日放送されている
NHK『ラジオ深夜便』。

先日、7月18日の午前3時台
「メディアの音楽」は、映画監督の
故・大林宣彦(おおばやし のぶひこ)さん
の特集じゃった。





広島県尾道市出身の大林監督は、
今年4月10日に82歳で亡くなられました。

そして、同じ4月10日に封切り予定で、
20年ぶりに尾道市でロケをした
映画『海辺の映画館-キネマの玉手箱』は、
新型コロナウイルスの感染拡大を受けて
公開が延期。

この日の特集は、映画『海辺の映画館』が
7月31日に公開されることを受けてのもの。





この日紹介された歌のひとつに、
大林宣彦 & FRIENDSの「草の想い」
があった。



今日は、この「草の想い」について
話をしていくでがんす。





↓NHK『ラジオ深夜便』については、こちら↓

「ラジオ深夜便 - NHK」





↓映画『海辺の映画館-キネマの玉手箱』については、こちら↓

「映画「海辺の映画館ーキネマの玉手箱」公式サイト」







(大林宣彦 & FRIENDS「草の想い」NECアベニュー 1991年3月)


「草の想い」は、
今から29年前の1991年5月に公開された
映画『ふたり』のエンディングに流れる歌。

映画をご覧になった方なら、
「あぁ、あの歌ね」とわかっていただける
と思います。





この曲はもともと、
映画のメインテーマとして
音楽監督の久石 譲(ひさいし じょう)さん
が作られたもの。

その曲に、大林監督が
一晩で言葉を紡(つむ)ぎあげて
作られたのが、この歌。



昔ひとの心に 言葉ひとつ生れて
伝えてねこの声を 草の想い




歌っているのは、
先に紹介したとおり、
「大林宣彦 & FRIENDS」。

大林監督と久石さんによる、
男性ふたりのデュエットという、
異色の組み合わせ。

わしが久石さんの歌声を聞いたのは、
この時が初めてじゃった。



これは、大林監督の妻で、
プロデューサーの大林恭子さんの
提案によるもの。

「「ふたり」という映画なのだから、
「ふたり」で歌えばいいじゃない」





↓大林宣彦 & FRIENDS「草の想い」は、こちら↓

「草の想い~ふたり・愛のテーマ 大林宣彦、久石譲」YouTube







(中嶋朋子「草の想い」パイオニアLDC 1991年4月)


「草の想い」は、大林監督のほかにも、
映画で姉の北尾千津子役を演じた
中嶋朋子(なかじま ともこ)さんの
バージョンもあります。

このCDは、
今はなきタカノ橋サロンシネマで行われた
映画『ふたり』の試写会で、
抽選でいただいたものと記憶しとる。





↓中嶋朋子さん「草の想い」は、こちら↓

「◆ 草の想い 「 ふたり」 ~ 中嶋朋子」YouTube





↓サロンシネマ(現在はタカノ橋から八丁堀に移転)は、こちら↓

広島の映画館サロンシネマ、八丁座





…ここまで話をしてきて気になるのが、
当時、アイドル歌手として活躍し、
妹の実加役を演じた
石田ひかりさんが歌う「草の想い」は
ないの? ってこと。





さかのぼってみると…、

映画『ふたり』(1991年)は、
大林監督の「新・尾道三部作」の第1作。

その前の「尾道三部作」の
第2作『時をかける少女』
(1983年7月公開 東映)では、
原田知世(はらだ ともよ)さんが
エンディングで歌った
「時をかける少女」が大ヒット。



時をかける少女 愛は輝く舟
過去も未来も星座も越えるから 抱きとめて

(作詞:松任谷由実)




第3作『さびしんぼう』
(1985年4月公開 東宝)では、
映画の全編に流れた
ショパンの「別れの曲」に詞をつけた、
富田靖子(とみた やすこ)さんが歌う
「さびしんぼう」が
エンディングで使われた。



サヨナラ……
あなたに出逢えて嬉しかった
どこかでもう一度逢えるって 約束して

(作詞:売野雅勇)




…その流れでいくと、
石田ひかりさんが「草の想い」を歌っても
不思議ではない。

というか、歌って当然じゃん!



彼女がこの『ふたり』において
女優誕生の責務をきちんと果たしたので、
『ふたり』をアイドル映画になどしない
という、いわばご褒美として、
女優石田ひかりは唄わないことになった。

その結果、監督自らが”父親代わり”に
この物語の心の想いを伝える言葉を、
語り、唄うことになった。

「Blog. 映画『ふたり』(1991) 久石譲インタビュー 劇場用パンフレットより」久石譲ファンサイト 響きはじめの部屋




こういう理由で、石田ひかりさんは
「草の想い」を歌わないことになった
そうじゃ。



ぎゃくに、『北の国から』
(1981年から フジテレビ)
で蛍役を演じてきた女優の中嶋朋子さんが、
ごほうびという形で
「草の想い」を歌うことになった。

そして、「わたし、いないの」という歌も
プレゼントされ、CDにも収録されている。



そして、歌うことをしぶる大林監督に、
プロデューサーである恭子さんが
「「ふたり」で歌えば」と言ったことで、
大林宣彦 & FRIENDSの「草の想い」が
生まれた。

…というのは、先に紹介したとおりじゃ。





以下、余談。



本作がデビュー作となった
中江有里(なかえ ゆり)さんも、
「草の想い」をYouTubeに
アップされていました。

ピアノの伴奏だけで歌う
中江さんの歌声もえかったので、
是非,聞いてみてください。





↓中江有里さん「草の想い」は、こちら↓

「In memory of Nobuhiko Obayashi ~ 草の想い」YouTube





今日は、今から29年前に公開された
映画『ふたり』の主題歌
「草の想い」について、
大林宣彦 & FRIENDS、
中嶋朋子さん、
中江有里さんの
3つのバージョンについて
話をさせてもろうたでがんす。



ほいじゃ、またの。
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