旧澤原家(さわはらけ)住宅・三ツ蔵(みつぐら)
呉市長ノ木町(くれし ながのきちょう)
国指定重要文化財
『この世界の片隅に』
「おぉ、これは『この世界の片隅に』に出てくる三ツ蔵じゃん」
「すずさんの嫁ぎ先で、呉市街の北側、山の中腹にある上長ノ木町(かみながのきちょう)から呉市街へ出かけたり帰ったりするとき、たいていこの前を通るんじゃの」
「同じような蔵が三つも並んで建っとるなんて、漫画に出てくるだけかと思うっとったら、本当にあるんじゃね」
「この蔵は代々、呉で庄屋などの要職を務めた澤原家のもので、国指定の重要文化財じゃそうな」
「それは、すごい」
「スーパーマーケット万惣(まんそう)の呉東中央店から見た、三ツ蔵」
「漫画や映画では下から見上げる形じゃけぇ、この高さから見るのは新鮮じゃね」
「澤原家から北西方向、今の万惣があるあたりに別邸があったらしい」
「別邸もあったんか、すごいね。ところで、なんでこれが重要文化財なんじゃろ?」
「旧澤原家住宅は、建設年代が明らかな建物が数多く残る、中国地方を代表する大規模商家の一つ。なかでも三つの蔵が並び立つ三ツ蔵は、他に類を見ない建物なんじゃそうな」
「建設年代が明らかって、三ツ蔵はいつごろ建てちゃったん?」
「江戸時代後期の文化6(1809)年いうけぇ、今から209年前じゃの」
「209年前かぁ、すごいねぇ」
「近くから見ると、こんな感じ」
「歴史が感じられるね。そういや前回、旧呉鎮守府司令長官官舎は、1905年の芸予地震で被害を受けて建て直したいう話(洋風木造2階建から、洋館部と和館部からなる木造平屋建てへ)があったけど、ここはどうじゃったんじゃろ?」
「1905年のは分からんが、2001年3月の芸予地震では被害を受けて、一部が破損。取り壊しも検討されたそうじゃが、倒壊の恐れが少ないことから、当面はこのままの状態で保存されるらしい」
「そりゃ、よかった」
「三ツ蔵といえば、漫画版の第34回「20年7月」で、1945年7月1日深夜から2日未明にかけて、夜間焼夷弾空襲があったんじゃが…」
「屋根を突き破って落ちてきた焼夷弾に気づいたすずさんが、必死に消火活動したときで、炎に包まれた呉市街をすずさんが見下ろすシーンが、見開きで描いてあったね」
「呉の市街地は、海側から澤原家の三ツ蔵の手前あたりまでが焼け野原になってしもうた」
「地震や戦災から免れて、三ツ蔵は今、こうやって建っとるんじゃね」
「余談じゃが、この時の被害は、死者・行方不明者1815名、負傷者455名、総被災者11万8375名、住宅の全壊は2万1296戸と、呉市がもっとも大きな被害を受けた空襲になるそうじゃ」
「三ツ蔵の横にある階段を上って…」
「左側にあるのが、新蔵(しんぐら)。この蔵は明治30年代に建てられた」
「この蔵でも120年くらいの歴史があるんじゃね」
「三ツ蔵の反対側にも蔵がある」
「これらの蔵は、白漆喰(しっくい)塗りの腰なまこ壁で作られとるんじゃの」
「主屋(しゅおく)が、やはり江戸時代後期の宝暦6(1756)年で」
「前座敷と表門は文化2(1805)年に建てられた。前座敷は、藩主の休憩所、宿所として建てられたもので、御成間もあるそうじゃ」
「お殿様が来られるんじゃけぇ、やっぱりそういうのが要るんじゃろうね。「上様の御成りぃ~」って」
「さっき、万惣があるあたりに澤原家の別邸があったいう話をしたが、呉軍港で軍艦の進水式があって皇族が臨席される時は、この別邸に泊まったりしていたということじゃ」
「今は狭い道じゃけど、かつてはお殿様や皇族が通る道でもあったんじゃね。この道は、どこへ通じとるんかね?」
「長ノ木街道いうて、ここを北へ上っていくと、筆の里・熊野(くまの)に行けるんじゃの」
呉市指定文化財 第47号
澤原家近世・近代史料
昭和57(1982)年10月1日指定
江戸時代後期に,庄屋・割庄屋を,明治以降は安芸郡長,貴族院議員,呉市長等を務めた澤原家に保管されていた古文書で,現在は呉市入船山記念館に保管されています。
これらの中で代表的なものは「文化度国郡志」で,文化・文政期(1804~1829)に浅野藩が「藝藩通志」を編さんするために,藩内各村に提出を命じた書き上げ帳をまとめたものです。
この国郡志のようにまとめられた史料は,ほとんど見つかっていませんでしたが,澤原家に保管されていた「文化度国郡志」は,安芸郡35ヶ村のうち27ヶ村の村勢(人口・戸数・石高・産業・地理・風俗等)が記されており,この国郡志を始め,澤原家近世・近代史料は,江戸時代後期から明治期にかけての呉地域の様子わかる,大変貴重な資料です。
呉市教育委員会
(案内板より)
「割庄屋って?」
「近隣の複数の庄屋をまとめる役。江戸時代は、郡役所-割庄屋-庄屋-庶民という形で統治が行われとったそうじゃ」
「安芸郡長ってあったけど、呉郡長の間違いじゃ?」
「今の呉市は江戸時代まで安芸郡の一部で、明治になって市町村制が施行されたときも、呉市じゃのうて、安芸郡和庄村、宮原村、荘山田村じゃったんじゃの」
「へぇ」
「1889年に呉鎮守府が開庁した後の1902年、和庄村、宮原村、荘山田村が合併して呉市が生まれたんじゃ」
「う~ん、知らんかった。で、明治になって安芸郡長、貴族院議員、呉市長等を務められた方は、どなた?」
「第5代当主の為綱(ためつな)氏と、その息子で第6代当主の俊雄(としお)氏。為綱氏は安芸郡長、貴族院議員を務め、呉海軍鎮守府の開設や広島市の上水道敷設に尽力。俊雄氏は第4・5代の呉市長(1911年~1917年)として呉市の基盤作りと発展に貢献されたそうじゃ」
澤原為綱翁之像
この記念碑は 昭和八年澤原為綱翁遺徳顕彰会により 二河公園の一角に建てられていた銅像の台座の一部を移転したもので 銅像は第二次世界大戦中供出された
このたび 広島呉道路建設によるスポーツ会館移転にともない 永く翁の業績を伝えるため この地「歴史の見える丘」へ建立したものである
昭和五十八年十二月
呉市長 佐々木 有
(案内板より)
「為綱さんは、銅像を建てられるほど功績があった方なんじゃね」
「戦争中の金属類回収令で銅像は供出されて、今は台座しか残っとらんが」
「歴史の見える丘って、どこにあるん?」
「かつて戦艦「大和」をはじめとする艦艇を建造し、東洋一と呼ばれた呉海軍工廠、今のジャパン マリンユナイテッド呉事業所から道路を隔てた東側(山側)にあるんじゃ」
「いわれてみりゃ、台座の後ろに造船所の巨大なクレーンが見えるね」
訪問日:2015年4月26日(歴史の見える丘)
2016年5月2日(旧澤原家住宅)
【参考文献】
『このマンガがすごい!』編集部:編『「この世界の片隅に」公式アートブック』(宝島社 2016年9月)
「呉市沢原家を訪ねて」(広島県立文書館だより 第17号 2001年1月)
「芸与地震と沢原家三ツ蔵資料」(広島県立文書館だより 第18号 2001年7月)
【参考Web】
「旧澤原家住宅(広島県呉市長ノ木町) 三ツ蔵(上蔵)」文化遺産オンライン
1300日の記録 片渕須直「第102回 ちょっとわかったある片隅のこと」WEBアニメスタイル
「今日は、国指定重要文化財の旧澤原家住宅と三ツ蔵(みつぐら)、歴史の見える丘に残る澤原為綱翁之像の台座について話をさせてもらいました」
「ほいじゃあ、またの」
呉市長ノ木町(くれし ながのきちょう)
国指定重要文化財
『この世界の片隅に』
「おぉ、これは『この世界の片隅に』に出てくる三ツ蔵じゃん」
「すずさんの嫁ぎ先で、呉市街の北側、山の中腹にある上長ノ木町(かみながのきちょう)から呉市街へ出かけたり帰ったりするとき、たいていこの前を通るんじゃの」
「同じような蔵が三つも並んで建っとるなんて、漫画に出てくるだけかと思うっとったら、本当にあるんじゃね」
「この蔵は代々、呉で庄屋などの要職を務めた澤原家のもので、国指定の重要文化財じゃそうな」
「それは、すごい」
「スーパーマーケット万惣(まんそう)の呉東中央店から見た、三ツ蔵」
「漫画や映画では下から見上げる形じゃけぇ、この高さから見るのは新鮮じゃね」
「澤原家から北西方向、今の万惣があるあたりに別邸があったらしい」
「別邸もあったんか、すごいね。ところで、なんでこれが重要文化財なんじゃろ?」
「旧澤原家住宅は、建設年代が明らかな建物が数多く残る、中国地方を代表する大規模商家の一つ。なかでも三つの蔵が並び立つ三ツ蔵は、他に類を見ない建物なんじゃそうな」
「建設年代が明らかって、三ツ蔵はいつごろ建てちゃったん?」
「江戸時代後期の文化6(1809)年いうけぇ、今から209年前じゃの」
「209年前かぁ、すごいねぇ」
「近くから見ると、こんな感じ」
「歴史が感じられるね。そういや前回、旧呉鎮守府司令長官官舎は、1905年の芸予地震で被害を受けて建て直したいう話(洋風木造2階建から、洋館部と和館部からなる木造平屋建てへ)があったけど、ここはどうじゃったんじゃろ?」
「1905年のは分からんが、2001年3月の芸予地震では被害を受けて、一部が破損。取り壊しも検討されたそうじゃが、倒壊の恐れが少ないことから、当面はこのままの状態で保存されるらしい」
「そりゃ、よかった」
「三ツ蔵といえば、漫画版の第34回「20年7月」で、1945年7月1日深夜から2日未明にかけて、夜間焼夷弾空襲があったんじゃが…」
「屋根を突き破って落ちてきた焼夷弾に気づいたすずさんが、必死に消火活動したときで、炎に包まれた呉市街をすずさんが見下ろすシーンが、見開きで描いてあったね」
「呉の市街地は、海側から澤原家の三ツ蔵の手前あたりまでが焼け野原になってしもうた」
「地震や戦災から免れて、三ツ蔵は今、こうやって建っとるんじゃね」
「余談じゃが、この時の被害は、死者・行方不明者1815名、負傷者455名、総被災者11万8375名、住宅の全壊は2万1296戸と、呉市がもっとも大きな被害を受けた空襲になるそうじゃ」
「三ツ蔵の横にある階段を上って…」
「左側にあるのが、新蔵(しんぐら)。この蔵は明治30年代に建てられた」
「この蔵でも120年くらいの歴史があるんじゃね」
「三ツ蔵の反対側にも蔵がある」
「これらの蔵は、白漆喰(しっくい)塗りの腰なまこ壁で作られとるんじゃの」
「主屋(しゅおく)が、やはり江戸時代後期の宝暦6(1756)年で」
「前座敷と表門は文化2(1805)年に建てられた。前座敷は、藩主の休憩所、宿所として建てられたもので、御成間もあるそうじゃ」
「お殿様が来られるんじゃけぇ、やっぱりそういうのが要るんじゃろうね。「上様の御成りぃ~」って」
「さっき、万惣があるあたりに澤原家の別邸があったいう話をしたが、呉軍港で軍艦の進水式があって皇族が臨席される時は、この別邸に泊まったりしていたということじゃ」
「今は狭い道じゃけど、かつてはお殿様や皇族が通る道でもあったんじゃね。この道は、どこへ通じとるんかね?」
「長ノ木街道いうて、ここを北へ上っていくと、筆の里・熊野(くまの)に行けるんじゃの」
呉市指定文化財 第47号
澤原家近世・近代史料
昭和57(1982)年10月1日指定
江戸時代後期に,庄屋・割庄屋を,明治以降は安芸郡長,貴族院議員,呉市長等を務めた澤原家に保管されていた古文書で,現在は呉市入船山記念館に保管されています。
これらの中で代表的なものは「文化度国郡志」で,文化・文政期(1804~1829)に浅野藩が「藝藩通志」を編さんするために,藩内各村に提出を命じた書き上げ帳をまとめたものです。
この国郡志のようにまとめられた史料は,ほとんど見つかっていませんでしたが,澤原家に保管されていた「文化度国郡志」は,安芸郡35ヶ村のうち27ヶ村の村勢(人口・戸数・石高・産業・地理・風俗等)が記されており,この国郡志を始め,澤原家近世・近代史料は,江戸時代後期から明治期にかけての呉地域の様子わかる,大変貴重な資料です。
呉市教育委員会
(案内板より)
「割庄屋って?」
「近隣の複数の庄屋をまとめる役。江戸時代は、郡役所-割庄屋-庄屋-庶民という形で統治が行われとったそうじゃ」
「安芸郡長ってあったけど、呉郡長の間違いじゃ?」
「今の呉市は江戸時代まで安芸郡の一部で、明治になって市町村制が施行されたときも、呉市じゃのうて、安芸郡和庄村、宮原村、荘山田村じゃったんじゃの」
「へぇ」
「1889年に呉鎮守府が開庁した後の1902年、和庄村、宮原村、荘山田村が合併して呉市が生まれたんじゃ」
「う~ん、知らんかった。で、明治になって安芸郡長、貴族院議員、呉市長等を務められた方は、どなた?」
「第5代当主の為綱(ためつな)氏と、その息子で第6代当主の俊雄(としお)氏。為綱氏は安芸郡長、貴族院議員を務め、呉海軍鎮守府の開設や広島市の上水道敷設に尽力。俊雄氏は第4・5代の呉市長(1911年~1917年)として呉市の基盤作りと発展に貢献されたそうじゃ」
澤原為綱翁之像
この記念碑は 昭和八年澤原為綱翁遺徳顕彰会により 二河公園の一角に建てられていた銅像の台座の一部を移転したもので 銅像は第二次世界大戦中供出された
このたび 広島呉道路建設によるスポーツ会館移転にともない 永く翁の業績を伝えるため この地「歴史の見える丘」へ建立したものである
昭和五十八年十二月
呉市長 佐々木 有
(案内板より)
「為綱さんは、銅像を建てられるほど功績があった方なんじゃね」
「戦争中の金属類回収令で銅像は供出されて、今は台座しか残っとらんが」
「歴史の見える丘って、どこにあるん?」
「かつて戦艦「大和」をはじめとする艦艇を建造し、東洋一と呼ばれた呉海軍工廠、今のジャパン マリンユナイテッド呉事業所から道路を隔てた東側(山側)にあるんじゃ」
「いわれてみりゃ、台座の後ろに造船所の巨大なクレーンが見えるね」
訪問日:2015年4月26日(歴史の見える丘)
2016年5月2日(旧澤原家住宅)
【参考文献】
『このマンガがすごい!』編集部:編『「この世界の片隅に」公式アートブック』(宝島社 2016年9月)
「呉市沢原家を訪ねて」(広島県立文書館だより 第17号 2001年1月)
「芸与地震と沢原家三ツ蔵資料」(広島県立文書館だより 第18号 2001年7月)
【参考Web】
「旧澤原家住宅(広島県呉市長ノ木町) 三ツ蔵(上蔵)」文化遺産オンライン
1300日の記録 片渕須直「第102回 ちょっとわかったある片隅のこと」WEBアニメスタイル
「今日は、国指定重要文化財の旧澤原家住宅と三ツ蔵(みつぐら)、歴史の見える丘に残る澤原為綱翁之像の台座について話をさせてもらいました」
「ほいじゃあ、またの」