通でがんす

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(旧ブログタイトル:通じゃのう)

旧澤原家住宅(三ツ蔵)~呉市ぶらり(その15)

2018年06月30日 | 広島の話題
旧澤原家(さわはらけ)住宅・三ツ蔵(みつぐら)

呉市長ノ木町(くれし ながのきちょう)

国指定重要文化財

『この世界の片隅に』












「おぉ、これは『この世界の片隅に』に出てくる三ツ蔵じゃん」

「すずさんの嫁ぎ先で、呉市街の北側、山の中腹にある上長ノ木町(かみながのきちょう)から呉市街へ出かけたり帰ったりするとき、たいていこの前を通るんじゃの」

「同じような蔵が三つも並んで建っとるなんて、漫画に出てくるだけかと思うっとったら、本当にあるんじゃね」

「この蔵は代々、呉で庄屋などの要職を務めた澤原家のもので、国指定の重要文化財じゃそうな」

「それは、すごい」







「スーパーマーケット万惣(まんそう)の呉東中央店から見た、三ツ蔵」

「漫画や映画では下から見上げる形じゃけぇ、この高さから見るのは新鮮じゃね」

「澤原家から北西方向、今の万惣があるあたりに別邸があったらしい」

「別邸もあったんか、すごいね。ところで、なんでこれが重要文化財なんじゃろ?」

「旧澤原家住宅は、建設年代が明らかな建物が数多く残る、中国地方を代表する大規模商家の一つ。なかでも三つの蔵が並び立つ三ツ蔵は、他に類を見ない建物なんじゃそうな」

「建設年代が明らかって、三ツ蔵はいつごろ建てちゃったん?」

「江戸時代後期の文化6(1809)年いうけぇ、今から209年前じゃの」

「209年前かぁ、すごいねぇ」







「近くから見ると、こんな感じ」

「歴史が感じられるね。そういや前回、旧呉鎮守府司令長官官舎は、1905年の芸予地震で被害を受けて建て直したいう話(洋風木造2階建から、洋館部と和館部からなる木造平屋建てへ)があったけど、ここはどうじゃったんじゃろ?」

「1905年のは分からんが、2001年3月の芸予地震では被害を受けて、一部が破損。取り壊しも検討されたそうじゃが、倒壊の恐れが少ないことから、当面はこのままの状態で保存されるらしい」

「そりゃ、よかった」

「三ツ蔵といえば、漫画版の第34回「20年7月」で、1945年7月1日深夜から2日未明にかけて、夜間焼夷弾空襲があったんじゃが…」

「屋根を突き破って落ちてきた焼夷弾に気づいたすずさんが、必死に消火活動したときで、炎に包まれた呉市街をすずさんが見下ろすシーンが、見開きで描いてあったね」

「呉の市街地は、海側から澤原家の三ツ蔵の手前あたりまでが焼け野原になってしもうた」

「地震や戦災から免れて、三ツ蔵は今、こうやって建っとるんじゃね」

「余談じゃが、この時の被害は、死者・行方不明者1815名、負傷者455名、総被災者11万8375名、住宅の全壊は2万1296戸と、呉市がもっとも大きな被害を受けた空襲になるそうじゃ」







「三ツ蔵の横にある階段を上って…」







「左側にあるのが、新蔵(しんぐら)。この蔵は明治30年代に建てられた」

「この蔵でも120年くらいの歴史があるんじゃね」







「三ツ蔵の反対側にも蔵がある」







「これらの蔵は、白漆喰(しっくい)塗りの腰なまこ壁で作られとるんじゃの」







「主屋(しゅおく)が、やはり江戸時代後期の宝暦6(1756)年で」







「前座敷と表門は文化2(1805)年に建てられた。前座敷は、藩主の休憩所、宿所として建てられたもので、御成間もあるそうじゃ」

「お殿様が来られるんじゃけぇ、やっぱりそういうのが要るんじゃろうね。「上様の御成りぃ~」って」

「さっき、万惣があるあたりに澤原家の別邸があったいう話をしたが、呉軍港で軍艦の進水式があって皇族が臨席される時は、この別邸に泊まったりしていたということじゃ」

「今は狭い道じゃけど、かつてはお殿様や皇族が通る道でもあったんじゃね。この道は、どこへ通じとるんかね?」

「長ノ木街道いうて、ここを北へ上っていくと、筆の里・熊野(くまの)に行けるんじゃの」





呉市指定文化財 第47号
澤原家近世・近代史料
昭和57(1982)年10月1日指定

江戸時代後期に,庄屋・割庄屋を,明治以降は安芸郡長,貴族院議員,呉市長等を務めた澤原家に保管されていた古文書で,現在は呉市入船山記念館に保管されています。
これらの中で代表的なものは「文化度国郡志」で,文化・文政期(1804~1829)に浅野藩が「藝藩通志」を編さんするために,藩内各村に提出を命じた書き上げ帳をまとめたものです。
この国郡志のようにまとめられた史料は,ほとんど見つかっていませんでしたが,澤原家に保管されていた「文化度国郡志」は,安芸郡35ヶ村のうち27ヶ村の村勢(人口・戸数・石高・産業・地理・風俗等)が記されており,この国郡志を始め,澤原家近世・近代史料は,江戸時代後期から明治期にかけての呉地域の様子わかる,大変貴重な資料です。

呉市教育委員会

(案内板より)




「割庄屋って?」

「近隣の複数の庄屋をまとめる役。江戸時代は、郡役所-割庄屋-庄屋-庶民という形で統治が行われとったそうじゃ」

「安芸郡長ってあったけど、呉郡長の間違いじゃ?」

「今の呉市は江戸時代まで安芸郡の一部で、明治になって市町村制が施行されたときも、呉市じゃのうて、安芸郡和庄村、宮原村、荘山田村じゃったんじゃの」

「へぇ」

「1889年に呉鎮守府が開庁した後の1902年、和庄村、宮原村、荘山田村が合併して呉市が生まれたんじゃ」

「う~ん、知らんかった。で、明治になって安芸郡長、貴族院議員、呉市長等を務められた方は、どなた?」

「第5代当主の為綱(ためつな)氏と、その息子で第6代当主の俊雄(としお)氏。為綱氏は安芸郡長、貴族院議員を務め、呉海軍鎮守府の開設や広島市の上水道敷設に尽力。俊雄氏は第4・5代の呉市長(1911年~1917年)として呉市の基盤作りと発展に貢献されたそうじゃ」











澤原為綱翁之像

この記念碑は 昭和八年澤原為綱翁遺徳顕彰会により 二河公園の一角に建てられていた銅像の台座の一部を移転したもので 銅像は第二次世界大戦中供出された
このたび 広島呉道路建設によるスポーツ会館移転にともない 永く翁の業績を伝えるため この地「歴史の見える丘」へ建立したものである

昭和五十八年十二月

呉市長 佐々木 有

(案内板より)




「為綱さんは、銅像を建てられるほど功績があった方なんじゃね」

「戦争中の金属類回収令で銅像は供出されて、今は台座しか残っとらんが」

「歴史の見える丘って、どこにあるん?」

「かつて戦艦「大和」をはじめとする艦艇を建造し、東洋一と呼ばれた呉海軍工廠、今のジャパン マリンユナイテッド呉事業所から道路を隔てた東側(山側)にあるんじゃ」

「いわれてみりゃ、台座の後ろに造船所の巨大なクレーンが見えるね」





訪問日:2015年4月26日(歴史の見える丘)

2016年5月2日(旧澤原家住宅)






【参考文献】

『このマンガがすごい!』編集部:編『「この世界の片隅に」公式アートブック』(宝島社 2016年9月)

「呉市沢原家を訪ねて」(広島県立文書館だより 第17号 2001年1月)

「芸与地震と沢原家三ツ蔵資料」(広島県立文書館だより 第18号 2001年7月)






【参考Web】

「旧澤原家住宅(広島県呉市長ノ木町) 三ツ蔵(上蔵)」文化遺産オンライン

1300日の記録 片渕須直「第102回 ちょっとわかったある片隅のこと」WEBアニメスタイル






「今日は、国指定重要文化財の旧澤原家住宅と三ツ蔵(みつぐら)、歴史の見える丘に残る澤原為綱翁之像の台座について話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」
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金唐紙~旧呉鎮守府司令長官官舎

2018年06月20日 | 広島の話題
金唐紙(きんからかみ)

旧呉鎮守府司令長官官舎(きゅう くれちんじゅふ しれいちょうかん かんしゃ)

入船山(いりふねやま)記念館








「前回は、入船山記念館の旧呉鎮守府司令長官官舎について話をした」

「木造平屋建てで、公的な場である洋館と、私的な居住空間である和館が一緒になった建物じゃったね」

「今回は、官舎の洋館の壁に使われとって、平成になって、明治時代のものを復元した金唐紙を紹介していこう」





↓入船山記念館については、こちら↓

入船山記念館





「長官官舎に使われとる金唐紙は、次の5種類があるそうじゃ」







入船の森(食堂の壁)

「「入船の森」の名前のとおり、ここ入船山記念館の長官官舎でしか見られん金唐紙じゃそうな」







草花と昆虫(客室の壁)

「咲きみだれる草花の中に、14種類の昆虫が描かれとるんじゃね」







花幾何模様(食堂の天井)

「天井にあって、うまく写真が撮れんかったけぇ、食堂の写真で勘弁してください」







花と流水文様(応接室の壁)

「流水文様に菊花文様が浮かんどるんじゃね」







フラワーロード(廊下の腰壁)

「これは廊下だけじゃのうて、玄関、広間にもあるそうじゃ」





「金唐紙については前回、「版木になる棒を手すきの和紙に押し当てて凹凸(おうとつ)をつけ、それに着色したもの」って説明があったけど、もう少し詳しゅう話して」

「もともと、ヨーロッパの宮殿や寺院などの壁や天井に使われとった装飾用の革、金唐革(きんからかわ)いうのがあって、これが17世紀半ばの江戸時代、日本に伝えられた」

「金唐革いうのは、紙じゃのうて革に型を押し付けて作ったってこと?」

「ほうじゃの。型押しをして金属で箔押しした舶来品の革、金唐革は日本では珍重され、煙草(たばこ)入れや、薬籠(やくろう。携帯用の薬入れ)の装飾品として使われたそうじゃ」

「ほう」

「この高価な革をのちに、日本の和紙に加工して作れないかという試みが行われた」

「手先が器用な日本人のことじゃけぇ、それをやってのけた!」

「1873年、ウィーン万国博覧会に、東京の日本橋にあった竹屋商店が、紙で作った金唐紙「金唐革壁紙」を出品。これが日本の壁紙製造の始まりと言われ、以後、注文に応じてヨーロッパへ輸出するようになったということじゃ」

「すごいね!!」

「ところがその後、新技術の登場や需要の減少によって、1962年、金唐紙の最後の製造所が閉鎖された」

「技術って、一度途絶えてしまうと、復活させるのが難しいよね」

「1983年、旧日本郵船(株)小樽支店の金唐紙を修復することになった時、和紙や箔の扱いを熟知した上田 尚さんに依頼。上田さんは2年の試行錯誤の末に、金唐紙の技術をよみがえらせたそうじゃ」

「その技術で、呉の長官官舎の金唐紙も復元されたと」

「1966年、呉市に譲渡された長官官舎は、英連邦占領軍によって建物を白いペンキで塗られとった」

「長官官舎は戦後、進駐してきた英連邦占領軍の司令官官舎として使われとったんよね」

「建物の老朽化による修復作業を行うため調査をしたところ、壁紙として使われとったのが金唐紙であることが分かり、上田さんに復元を依頼。建築当時の姿をよみがえらせることができたそうじゃ」

「それで今、こうやって金唐紙を目にすることができるというわけじゃね」

「現在、金唐紙が使われた壁紙を見ることができる施設は…、


旧岩崎邸庭園


孫文記念館(移情閣) 日本語


「旧林家住宅」信州岡谷観光サイト 旅たびおかや



…などがある」

「へぇ」

「その中でも、呉の長官官舎で金唐紙が使われた面積は約250平方メートルと、日本でも最大級のものじゃそうな」





訪問日:2015年4月26日





【参考文献】

『入船山の金唐紙』入船山記念館 2016年3月





【参考展示】

『金唐紙の復原 よみがえる「明治の技」』入船山記念館






「今日は、旧呉鎮守府司令長官官舎に使われていて、平成になって復元された金唐紙(きんからかみ)について話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」
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旧呉鎮守府司令長官官舎~呉市ぶらり(その14)

2018年06月18日 | 見て歩き
旧呉鎮守府司令長官官舎(きゅう くれちんじゅふ しれいちょうかん かんしゃ)

入船山(いりふねやま)記念館






「前回は、入船山記念館の火薬庫前にある要塞地帯標について話をした」

「要塞地帯標は、要塞という軍の施設と民有地との境に立てられた標識じゃったね」

「今回は、入船山記念館にある旧呉鎮守府司令長官官舎を紹介していこう」





↓入船山記念館については、こちら↓

入船山記念館







旧呉鎮守府司令長官官舎 国重要文化財 (平成10年(1998年)指定)

明治22年(1889年)洋風木造2階建の軍政会議所兼水交社(すいこうしゃ)が建てられ、明治25年(1892年)からは長官官舎(初代~6代)として使用されましたが、明治38年(1905年)の芸予地震で崩壊したため、同年、その資材を利用して現在の建物が建てられました。

その後は、昭和20年(1945年)まで長官官舎(7代~32代)として使用され、戦後は昭和31年(1956年)まで進駐していた占領軍の司令官官舎として約10年間使用されました。

その後、呉市に引き継がれ、昭和41年(1966年)に「入船山」は呉市の史跡となり、昭和42年(1967年)から一般公開されました。

財団法人文化財建造物保存技術協会のご協力により明治38年(1905年)当時の資料が発見されたことを受け、平成3年(1991年)から平成7年(1995年)にかけて調査、解体、修復事業を行い、明治38年(1905年)の建築当初の姿に復原したものです。

この建物は木造平屋建てで洋館部と和館部からなっています。
洋館部は英国風ハーフティンバー様式を取り入れ、屋根は天然スレートの魚鱗葺(ぎょりんぶ)きになっています。

(説明板より)






「時代の順に話をしていくと…。1889年、軍政会議所兼水交社の建物として建てられた」

「水交社って?」

「旧海軍将校の親睦団体というか、社交倶楽部のようなものじゃったそうな」

「ふうん」

「1890年、呉鎮守府が開庁。1892年からは長官官舎として使われる。1905年、芸予地震で被害を受けたため、建築家の桜井 小太郎(さくらい こたろう)の設計によって、その資材を再利用して現在の建物が建てられた」

「最初は洋風木造の2階建じゃったのが、今の「2代目」は、洋館と和館の木造平屋建てになったというわけじゃね」

「1945年から1956年までの戦後約10年間は、進駐してきた英連邦占領軍の司令官官舎として使われたそうじゃ」







「ハーフティンバー様式って?」

「ハーフティンバーいうのは、柱や梁(はり)など木の構造材が外から見えるようにして、その間を漆喰(しっくい)やレンガで埋めて壁にした、西洋の木造建築様式じゃそうな」

「確かに、ヨーロッパの映画に出てきそうな感じの建物じゃね」







「玄関扉のガラスには、錨(いかり)と桜がデザインしてあった」







国産天然スレート

洋館部の屋根には、日本瓦ではなく「天然スレート」が並べられています。
天然スレートは自然石の粘板岩を加工して作ります。
薄くはがした板状の石を長方形に整え、両角を丸くして屋根に敷き詰めると魚鱗葺きになります。

明治初期の洋風建築には輸入品が使われました。
国産スレートの使用は、政府派遣の屋根職人、篠崎源次郎が明治21年(1888年)にドイツから帰国して、スレート葺きの技術を日本に伝えたことから始まりました。
この時、良質の硯(すずり)の原材料として昔から知られた宮城県石巻市雄勝(おがつ)町産の「玄昌石(げんしょうせき)」が代表的な国産天然スレートとなりました。

その後、国産天然スレートは明治・大正の代表的な洋館などの屋根や壁に使用され、建築当時の姿に復元された東京駅などに見ることができます。

(説明板より)



「確かに、魚鱗、魚の鱗(うろこ)のように見えるね」







「今は、和館から出入りするようになっとるんじゃ」







「出入り口の土間(どま)と…」







「天井の梁」







「和館から洋館へ。洋館の客間と…」






「食堂」

「立派というか、お金がかかっとりそうじゃね」

「旧海軍の将校だけじゃのうて、海外からの訪問客をもてなすところでもあるけぇの」

「壁の模様が面白そうなね」

「これは金唐紙(きんからかみ)いうて、版木になる棒を手すきの和紙に押し当てて凹凸(おうとつ)をつけ、それに着色したものじゃ」

「金唐紙かぁ、初めて聞いたよ」

「戦後、この建物を使うとった英連邦占領軍は、金唐紙の上から白いペンキを塗って使うとったんじゃと」

「この壁の良さが分からんかったんかねぇ。いいながら、うちもこの金唐紙の良さが全然わかってないんじゃけど…」

「平成になって、この壁を明治時代の姿に復元したんじゃそうな。金唐紙については、次回やる予定じゃ」







「板の貼り方が面白かったので写真に撮ってみた」







「公的な場である洋館から、私的な居住空間である和館へ」

「ふすまを開け放つと開放的になるところが、日本建築のええところじゃね」

「洋館みたいなところへ1日中おると、息が詰まってしまいそうなで」

「そういうときは畳の上でゴロンと横になるんがええんよ」







「欄間(らんま)には、鳳凰(ほうおう)の透かし彫りもあった」










「和館のまわりを一周するように、縁側(えんがわ)が設けてあるじゃの」

「こんなところで1日、日向ぼっこしてみたいねぇ」

「ガラスも、中央が透明でその周りがすりガラスいう、最近では見られんようになった木製のガラス戸が、ええ味出しとるよのう」







「これは?」

「向かって右が洋館で、左が和館」

「天井の高さが全然違うね」

「中におっても、洋館は天井が高く感じるんじゃが、和館は日本人のサイズに合うような天井の高さで、落ち着くんじゃの」





↓旧呉鎮守府司令長官官舎については、こちら↓

「旧呉鎮守府司令長官官舎(呉市入船山記念館)」広島の建築 arch-hiroshima

「日本遺産を巡る <4> 旧呉鎮守府司令長官官舎 呉市幸町 「迎賓館」暮らしは質素”」中国新聞 2016年8月22日






訪問日:2015年4月26日





「今日は、入船山記念館の旧呉鎮守府司令長官官舎について話をさせてもらいました」

「次回は、洋館の壁にあった金唐紙について話をする予定じゃ。ほいじゃあ、またの」
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要塞地帯標~呉市ぶらり(その13)

2018年06月14日 | 見て歩き
要塞地帯標

入船山(いりふねやま)記念館






「前回は、入船山記念館に移築された高烏台(たかがらすだい)火薬庫について話をした」

「戦争末期、海軍の鎮守府や工廠を守るため、呉市を取り囲むように砲台が据え付けてあったんじゃね」

「今回は、入船山記念館にある要塞地帯標を紹介していこう」







「高烏台火薬庫は、入船山記念館を入ってすぐ右手側にあるんじゃが、その階段下にあるのが要塞地帯標じゃ」

「要塞地帯標って、ここから先は要塞地帯じゃけぇ立ち入り禁止です、っていう目印のようなもん?」

「そのとおり。要塞という軍事施設と民有地との境に立てられた標識で、戦前まで呉に立てられとったものを戦後、ここに移してきたそうじゃ」







FZ 呉要塞第二區







呉要塞第三區地帯標






「『この世界の片隅に』で、呉湾に停泊しとる艦船をスケッチしとったすずさんが、間諜(かんちょう。スパイ)行為をしとるいうて憲兵に捕まる話があったよね(第12回 19年7月)」

「これは、1899年(明治32年)に作られた「要塞地帯法」という法律の第七条に違反する行為になるんじゃ」



何人ト雖要塞司令官ノ許可ヲ得ルニ非サレハ要塞地帯内水陸ノ形状又ハ施設物ノ状況ニ付撮影、模写、模造若ハ録取又ハ其ノ複写若ハ複製ヲ為スコトヲ得ス



「…???」

「簡単に言うと、どういう人であろと、要塞地帯内の川や海・山の様子や施設の状況を、許可なく写真に撮ったり、絵に描いたりしてはならない、という意味じゃ」

「そうか。すずさんは、「あれが利根、こっちが日向と…」って、艦船の名前をいいながら絵を描いたとったもんね」

「手元に、あき書房が発行した『呉 海軍の街』いう、昔の地図を復刻したものがある。その中の1枚で、大正五年発行の「呉市街地図」には、「呉鎮守府許可済」「要塞司令部許可済」と、わざわざ朱肉の色で印刷してあるんじゃの」

「そういや、明治末期から大正・昭和前期にかけて、盛んに発行された絵はがきに写った山の形も、手が加えとったりしたんじゃろ?」

「例えば呉でいうと、呉を象徴する山・灰ヶ峰(はいがみね)が写真の背景に写っていたときには、消しが入って、本来の山の形が分からんようにしてあったりするんじゃの」

「う~ん、そこまでするか」

「1935年(昭和10年)、呉市で「国防と産業大博覧会」が行われたんじゃが…」

「あ~、遊女のリンさんが、仲介役のおばあさんに遊郭に連れられていく前、あいすくりいむを食べさせてもろうたのが、そのときの会場じゃったね(第41回 りんどうの秘密 (20年10月))」

「このとき発行された観光案内書の末尾に、風景写真に対する要塞地帯の考え方が分かる注意書きが載っとるけぇ、最後にこれを紹介しとこう」



呉軍港一帯では写真撮影は勿論(もちろん)その描写等は国法で固く厳禁されて居ります。若(も)し撮影せんと思ふ方は予(あらかじ)め鎮守府の許可を得なければなりませぬ。この事をよく注意せ(ママ)ないと飛んでもない大迷惑を蒙(こうむ)ることがありますからカメラマンは大いに注意をしてください。





↓入船山記念館については、こちら↓

入船山記念館





↓要塞地帯法の原文については、こちら↓

「要塞地帯法」中野文庫





↓あき書房については、こちら↓

あき書房のウェブサイトへようこそ!





訪問日:2010年12月26日、2015年4月26日





【参考展示】

『広島の歴史的風景 文書館収蔵の絵はがきから』広島県立文書館 2012年7月






「今日は、入船山記念館にある要塞地帯標について話をさせてもらいました」

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高烏砲台火薬庫~呉市ぶらり(その12)

2018年06月12日 | 見て歩き
高烏砲台の火薬庫

入船山(いりふねやま)記念館






「前回は、呉市南部にあって音戸の瀬戸(おんどのせと)を望む高烏台(たかがらすだい)にある砲台跡について話をした」

「戦争末期、海軍の鎮守府や工廠を守るため、呉市を取り囲むように砲台が据え付けてあったんじゃね」

「今回は、国登録有形文化財の、高烏台砲台にあった火薬庫を紹介していこう」











「入船山記念館を入ってすぐ右手側にあるのが、高烏砲台の火薬庫」

「なんでここにあるん?」

「1967年、高烏砲台跡からここ入船山記念館に移築されたそうじゃ」











「中に入ってみると…」

「この火薬庫の厚みも、半端ないねぇ」







「火薬庫の中は、呉市出身画家の絵画が展示してあった」

「この火薬庫の天井も木造じゃね」

「屋根には瓦が葺いてあったのう」













「あと、機関砲の薬莢(やっきょう)や銃弾も展示してあった」





↓高烏砲台火薬庫については、こちら↓

「呉市入船山記念館旧高烏砲台火薬庫」呉市の文化財





↓入船山記念館については、こちら↓

入船山記念館





訪問日:2010年12月26日、2015年4月26日





「今日は、入船山記念館にある高烏砲台火薬庫について話をさせてもらいました」

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