NHK大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』の第2話は「吉原細見『嗚呼(ああ)御江戸』」。
『嗚呼御江戸』の序文を、有名人である平賀源内(ひらが げんない)に書いてもらうため、蔦屋重三郎(つたや じゅうざぶろう)は江戸の町を駆けずり回る、というお話。
吉原細見とは、江戸幕府公認の遊郭・吉原のガイドブックのこと。
『嗚呼御江戸』は、安永3年(1774年)に出された吉原細見の題名。
吉原細見についてはあちこちで話題となっているので、ここでは吉原細見のサイズについて話をしていこう。
↓NHK大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』については、こちら↓
【NHK公式】大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」
今日は、吉原細見のサイズについての話でがんす。
吉原細見のサイズは、2度、変わった。
最初は1枚摺りだったものが、横に長い横本となり、のち、縦(竪)に長い縦本となる。
当たり前であるが、江戸時代の人は着物を着て生活をしていた。
現在であれば、洋服のポケットに入るサイズで作るものが、江戸時代は、和服の着物の袖(そで)に入る大きさで作られていた。
「袖に入るほどの大きさの本」という意味の「袖珍本(しゅうちんぼん)」という言葉もあった。
1枚摺りは、折りたためば袖に入る大きさだったが、広げると、縦が約80センチ、横が約90センチもあったという。
新聞紙の見開きサイズが、縦が54.5センチ、横が81.2センチというから、それよりも一回りも大きいのだ。
吉原全体を見渡すことができる絵地図であったというから、それくらいの大きさが必要だったのだろう。
しかし、畳の上で広げるならともかく、吉原に来た人が、現地で広げて見るには大きすぎた。
こんなものを持っていては、無粋(ぶすい。野暮)な人と思われたであろう。
享保12年(1727年)から、伊勢屋という版元が、横本形式を取り入れた。
縦が約13センチ、横が約15センチというから、袖に入れやすい大きさだったのだろう。
(着物を着たことがない私には、この大きさが機能的なのかどうかは、判断できない)
しかし、サイズが小さくなったことで、地図としての機能が薄くなり、自分が今、吉原のどこにいるのかが分かりづらくなってしまった。
そこで、1枚摺りの絵図も享保後期まで売られていたという。
そこに登場したのが、縦本形式。
安永4年(1775年)の秋、重三郎が手がけた『籬(まがき)の花』という題名の細見からである。
縦が約18センチ、横が約11センチというから、現在の新書サイズ(縦が約17.3センチ、横が約10.5センチ)とほぼ同じ。
縦本形式(縦に長い)なので、道を挟んだ上下に遊女屋が書かれ、吉原の家並に沿ったものであったため、遊女屋の情報も得やすく、地図としても使うことができた。
その上、ページ数を減らすことで、彫りや印刷の手間を省き、値段を下げることもできたのだろう。
重三郎が取り入れた縦本形式が、その後も引き継がれていったのである。
【参考文献】
宮本由紀子「遊里ガイド」『國文學 解釈と教材の研究 廓のすべて』學燈社 1981年10月臨時増刊号 174ページ
監修:佐藤要人、編集:藤原千恵子『図説 浮世絵に見る江戸吉原』河出書房新社 1999年 108ページ
今日は、吉原細見のサイズについて話をさせてもろうたでがんす。
ほいじゃあ、またの。
『嗚呼御江戸』の序文を、有名人である平賀源内(ひらが げんない)に書いてもらうため、蔦屋重三郎(つたや じゅうざぶろう)は江戸の町を駆けずり回る、というお話。
吉原細見とは、江戸幕府公認の遊郭・吉原のガイドブックのこと。
『嗚呼御江戸』は、安永3年(1774年)に出された吉原細見の題名。
吉原細見についてはあちこちで話題となっているので、ここでは吉原細見のサイズについて話をしていこう。
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【NHK公式】大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」
今日は、吉原細見のサイズについての話でがんす。
吉原細見のサイズは、2度、変わった。
最初は1枚摺りだったものが、横に長い横本となり、のち、縦(竪)に長い縦本となる。
当たり前であるが、江戸時代の人は着物を着て生活をしていた。
現在であれば、洋服のポケットに入るサイズで作るものが、江戸時代は、和服の着物の袖(そで)に入る大きさで作られていた。
「袖に入るほどの大きさの本」という意味の「袖珍本(しゅうちんぼん)」という言葉もあった。
1枚摺りは、折りたためば袖に入る大きさだったが、広げると、縦が約80センチ、横が約90センチもあったという。
新聞紙の見開きサイズが、縦が54.5センチ、横が81.2センチというから、それよりも一回りも大きいのだ。
吉原全体を見渡すことができる絵地図であったというから、それくらいの大きさが必要だったのだろう。
しかし、畳の上で広げるならともかく、吉原に来た人が、現地で広げて見るには大きすぎた。
こんなものを持っていては、無粋(ぶすい。野暮)な人と思われたであろう。
享保12年(1727年)から、伊勢屋という版元が、横本形式を取り入れた。
縦が約13センチ、横が約15センチというから、袖に入れやすい大きさだったのだろう。
(着物を着たことがない私には、この大きさが機能的なのかどうかは、判断できない)
しかし、サイズが小さくなったことで、地図としての機能が薄くなり、自分が今、吉原のどこにいるのかが分かりづらくなってしまった。
そこで、1枚摺りの絵図も享保後期まで売られていたという。
そこに登場したのが、縦本形式。
安永4年(1775年)の秋、重三郎が手がけた『籬(まがき)の花』という題名の細見からである。
縦が約18センチ、横が約11センチというから、現在の新書サイズ(縦が約17.3センチ、横が約10.5センチ)とほぼ同じ。
縦本形式(縦に長い)なので、道を挟んだ上下に遊女屋が書かれ、吉原の家並に沿ったものであったため、遊女屋の情報も得やすく、地図としても使うことができた。
その上、ページ数を減らすことで、彫りや印刷の手間を省き、値段を下げることもできたのだろう。
重三郎が取り入れた縦本形式が、その後も引き継がれていったのである。
【参考文献】
宮本由紀子「遊里ガイド」『國文學 解釈と教材の研究 廓のすべて』學燈社 1981年10月臨時増刊号 174ページ
監修:佐藤要人、編集:藤原千恵子『図説 浮世絵に見る江戸吉原』河出書房新社 1999年 108ページ
今日は、吉原細見のサイズについて話をさせてもろうたでがんす。
ほいじゃあ、またの。