通でがんす

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(旧ブログタイトル:通じゃのう)

吉原細見(よしわらさいけん)

2025年01月12日 | 江戸時代
NHK大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』の第2話は「吉原細見『嗚呼(ああ)御江戸』」。

『嗚呼御江戸』の序文を、有名人である平賀源内(ひらが げんない)に書いてもらうため、蔦屋重三郎(つたや じゅうざぶろう)は江戸の町を駆けずり回る、というお話。

吉原細見とは、江戸幕府公認の遊郭・吉原のガイドブックのこと。
『嗚呼御江戸』は、安永3年(1774年)に出された吉原細見の題名。

吉原細見についてはあちこちで話題となっているので、ここでは吉原細見のサイズについて話をしていこう。



↓NHK大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』については、こちら↓

【NHK公式】大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」





今日は、吉原細見のサイズについての話でがんす。





吉原細見のサイズは、2度、変わった。
最初は1枚摺りだったものが、横に長い横本となり、のち、縦(竪)に長い縦本となる。

当たり前であるが、江戸時代の人は着物を着て生活をしていた。
現在であれば、洋服のポケットに入るサイズで作るものが、江戸時代は、和服の着物の袖(そで)に入る大きさで作られていた。
「袖に入るほどの大きさの本」という意味の「袖珍本(しゅうちんぼん)」という言葉もあった。

1枚摺りは、折りたためば袖に入る大きさだったが、広げると、縦が約80センチ、横が約90センチもあったという。
新聞紙の見開きサイズが、縦が54.5センチ、横が81.2センチというから、それよりも一回りも大きいのだ。
吉原全体を見渡すことができる絵地図であったというから、それくらいの大きさが必要だったのだろう。
しかし、畳の上で広げるならともかく、吉原に来た人が、現地で広げて見るには大きすぎた。
こんなものを持っていては、無粋(ぶすい。野暮)な人と思われたであろう。

享保12年(1727年)から、伊勢屋という版元が、横本形式を取り入れた。
縦が約13センチ、横が約15センチというから、袖に入れやすい大きさだったのだろう。
(着物を着たことがない私には、この大きさが機能的なのかどうかは、判断できない)
しかし、サイズが小さくなったことで、地図としての機能が薄くなり、自分が今、吉原のどこにいるのかが分かりづらくなってしまった。
そこで、1枚摺りの絵図も享保後期まで売られていたという。

そこに登場したのが、縦本形式。
安永4年(1775年)の秋、重三郎が手がけた『籬(まがき)の花』という題名の細見からである。
縦が約18センチ、横が約11センチというから、現在の新書サイズ(縦が約17.3センチ、横が約10.5センチ)とほぼ同じ。
縦本形式(縦に長い)なので、道を挟んだ上下に遊女屋が書かれ、吉原の家並に沿ったものであったため、遊女屋の情報も得やすく、地図としても使うことができた。
その上、ページ数を減らすことで、彫りや印刷の手間を省き、値段を下げることもできたのだろう。
重三郎が取り入れた縦本形式が、その後も引き継がれていったのである。





【参考文献】

宮本由紀子「遊里ガイド」『國文學 解釈と教材の研究 廓のすべて』學燈社 1981年10月臨時増刊号 174ページ

監修:佐藤要人、編集:藤原千恵子『図説 浮世絵に見る江戸吉原』河出書房新社 1999年 108ページ






今日は、吉原細見のサイズについて話をさせてもろうたでがんす。


ほいじゃあ、またの。
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付け足し言葉

2025年01月05日 | 日記
皆さんは、「おっと合点(がってん)承知の助」という言葉をご存知ですか?
人からなにか言われたとき、「分かりました」ではなく、「合点、承知」と返すことで、言葉に力が込められ、理解できたとお互いが確認できる。
また、「承知の助」とすることで、人の名前のようにもしている。
これを「付け足し言葉」といい、「地口(じくち)」「無駄口」ともいう。





今日は、付け足し言葉についての話でがんす。





付け足し言葉は、人に向かって調子よく言う言葉で、会話の中で潤滑油のような働きをする。
また、声に出すことで、自分が元気づけられる。

…という意味のことを、齋藤孝(さいとう たかし)さんが書かれていた。
子どものころによく使っていた言葉だが、大人になって改めて意識した、会話の中でこそ生きてくる言葉だ。

今さら紹介するまでもないが、齋藤さんは、『声に出して読みたい日本語』などの著作があり、NHK Eテレの『にほんごであそぼ』で監修を担当されている方である。





以下、余談。


私が、子どものころによく使っていた付け足し言葉を紹介していこう。(五十音順)


●あたりき車力(しゃりき)の車曳き(くるまひき)

人が言ったことに対して、「そんなの当たり前だ」と返すときに使う。
車力とは、大八車などを引(=曳)いて荷物を運ぶ人のこと。
「車力」とくるので、「車曳き」とつながる。


●当たり前田のクラッカー

「あたりき車力の車曳き」と同じ使い方。
この言葉は、1960年代のテレビ番組『てなもんや三度笠(さんどがさ)』で、主演の藤田まことさんが、スポンサーを紹介する時に使われた。
スポンサーの前田製菓が販売しているクラッカーなので、「前田のクラッカー」。


●ありがとうさん

人になにかしてもらって「ありがとう」と言うときに使う。
「ありがとう=アリが10匹」のアリを13匹として、「ありがとうさん(=13匹)」なのか、「ありがとう+父さん」なのか、不明。


●驚き 桃の木 山椒(さんしょ)の木

「驚いた!」を大げさに言うときに使う。
「驚き」の「き」に「木」をかけた語呂(ごろ)合わせ。
映画『男はつらいよ』では、主役の寅さんが啖呵売(たんかばい)で、「驚き桃の木山椒の木。ブリキにタヌキに蓄音機」と使っていた。
また、アニメ『ヤットデタマン』では、その登場シーンでも使われていた。


●結構毛だらけ 猫灰だらけ

これも、映画『男はつらいよ』で、寅さんがよく使っていた。

♪猫はコタツで丸くなる
と歌にあるとおり、猫は暖かい(温かい)ところで丸くなる。
そのむかし、家の中にかまどがあったころ、火を落とした後のかまどは暖かいので、猫がそこにもぐりこんでいた。
かまどの灰が猫の体につくので、「猫灰だらけ」となる。


●すいませんねん 亀は万年

人にあやまるときの「すいません」を「千年」にひっかけて、「すいませんねん」という。
さらに「鶴は千年 亀は万年」もひっかけて、「すいませんねん 亀は万年」という。


●そうはイカのキンタマ

物事が思い通りにいかないときに使う。
なぜ、イカのキンタマなのかは、不明。


●何か用か 九日十日

「何か用?」と聞くところを、「何か(なにか)=七日(なのか)」「用か(ようか)=八日」と置き換える。
七日、八日とくるので、九日(ここのか)十日(とおか)と続けたもの。


●もうしませんえん

悪さをしたときに謝る言葉「もうしません」に、お金の「千円」をひっかけて、「もうしませんえん」という。
漫画『おぼっちゃまくん』より先に使っていた。


●もちのろん

「これ、知ってる?」と聞かれたときに使う。
「もちのろんろん」と、「ろん」を続けるのもあり。


以上、付け足し言葉についていろいろと書いてきたが、書いただけ、読んだだけでは、おもしろくもなんともない。
「声に出して読みたい日本語」ではないが、実際に口に出して、会話で使ってこそ、生きてくる言葉なのだ。
あなたも、今日から使ってみましょう!





今日は、付け足し言葉について話をさせてもろうたでがんす。


ほいじゃあ、またの。
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前代未聞!ラッシュフィルム上映会

2025年01月01日 | まんが・テレビ・映画
新年早々、うれしい話題をひとつ。

1982年夏に公開された、劇場版『THE IDEON 接触篇』『THE IDEON 発動篇』の2作品が、YouTubeサンライズ公式チャンネルで無料配信さることになった。
配信期間が、2025年1月3日(金)20:00から5日(日)23:59までと短いので、お見逃しのないように!



↓サンライズ公式チャンネルについては、こちら↓

YouTubeサンライズ公式チャンネル



公開当時に行われたイベントのひとつが、ラッシュフィルム上映会だった。





今日は、前代未聞!ラッシュフィルム上映会についての話でがんす。





劇場版『THE IDEON』は、テレビ版『伝説巨人イデオン』の映画化作品。
『機動戦士ガンダム』劇場版のヒットによって映画化が決まったこともあり、ガンダムと同じ松竹系の映画館で公開された。

ガンダムの場合、本放送終了直後に再放送が始まったり、本放送終了後に商品化され、のちに「ガンプラ」と呼ばれるプラモデルの売れ行きが好調だったりと、映画化を期待する動きがあった。
ところが、イデオンにはその盛り上がりに欠けていた。

個人的には、アニメ雑誌や一部のアニメファンだけで盛り上がっている、という感覚じゃったかの。

そのイデオンを、どんな形で宣伝すれば観に来てもらえるか?

そのひとつとして考えられたのが、ラッシュフィルム上映会。
7月10日の公開前、6月の日曜の早朝に3回ほど、上映する映画館で行われた。
ラッシュフィルムとは、作品をフィルムにまとめたもので、音(効果音や音声)は入っていない。
つまり、公開前の映画館で、絵としては完成しているが、音は入っていない作品を上映するというもの。
しかも、無料(タダ)で。
最初の10分くらいを観せておいて、「ここから先が見たかったらお金を払ってくださいね」なんてケチなことを言わず、エンドマークまで観せてくれたのだ。
なんて太っ腹な!

ネタバレなんて、関係ない。
テレビでは残念ながら完結できなかった物語を、映画で最後まで描ききりました。
観たい人は、ぜひ観に来てください。
観てくれたあなたなら、この作品の凄さがきっとわかるはずです。

ラッシュフィルム上映会は、映画の宣伝としては前代未聞、空前絶後だった。
また、イデオンという物語でなければ成立しなかった宣伝方法だったと思う。





以下、余談。


遅くなったが、イデオンについて説明しておこう。

テレビ版が打ち切りとなった『宇宙戦艦ヤマト』(1974年から1975年)が、1977年夏に劇場版として公開され、大ヒット。
アニメブームを巻き起こしたのはご存じのとおり。

「打倒!ヤマト」を合い言葉に製作された『機動戦士ガンダム』(1979年から1980年)も、テレビ版は打ち切りに。
しかし、1981年から1982年にかけて劇場版が公開され、大ヒットを記録したこともご存じのとおり。

ガンダムの後、富野喜幸(とみの よしゆき。現:富野由悠季)監督が手がけた『伝説巨人イデオン』(1980年から1981年)も、テレビ版が打ち切りとなる。
それでもスタッフたちは、完結した作品が日の目を見ることを目指して、細々とではあるが、作業を続けた。

なぜか?

ヤマトもガンダムも、放送打ち切りとはいえ、大団円を迎えることができた。
ところが、イデオンは作品として完結していなかった。
最終話(39話)のラストの2分で、決戦の最中に無限エネルギーのイデが発動。
「そのときであった、イデが発動したのは」
のナレーションの説明だけで、地球人とバッフ・クランのどちらも全滅して、エンドマーク。
その唐突な幕切れは、アニメ雑誌を通して事前に情報があったとはいえ、観ている視聴者も唖然(あぜん)とするしかなかった。

打ち切りによって、テレビ版でカットされた40話から43話までの、4話分のストーリーがある。
それを形にし、イデオンという物語を完結するために作られたのが、劇場版の『発動篇』。
もちろん、それだけではイデオンの物語が分からないので、テレビ版の総集編である『接触篇』も作られた。
ガンダム同様、2回に分けての公開も考えられたが、『接触篇』の興行成績が悪いと『発動篇』が公開できなくなる恐れがある。
『発動篇』を観てもらいたいがために作った劇場版なので、それだけはなんとしても避けたい。
というわけで、『接触篇』と『発動篇』の「同時公開(ダブルリリース)」での上映になった。



↓『THE IDEON 接触篇』については、こちら↓

「伝説巨神イデオン 接触篇」サンライズ



↓『THE IDEON 発動篇』については、こちら↓

「伝説巨神イデオン 発動篇」サンライズ



以下、さらに余談。


劇場版『THE IDEON』は、今の八丁座がある、当時の松竹東洋座で観せてもろうた。
当時の映画館は、今みたいに完全入れ替え制じゃのうて、好きなときに入って好きなときに出ることができたんじゃの。
ほいじゃけぇ、わしゃは1日に3回、観た。
『接触篇』と『発動篇』の2本で、上映時間が約3時間。
3時間×3回=9時間
映画館で、朝から晩まで、イデオン漬けになることができた。

ストーリーはもちろん、湖川友謙(こがわ とものり)さんが描くキャラクターと、その動きがえかったの。
(打ち切りのため、湖川さんと少数の作画スタッフだけで描きあげたので、密度が濃い!)
そして、すぎやま こういちさんの音楽も素晴らしく、イデオンの物語を支えた。
1日に3回観ても、飽きることはなかったの。




(『月刊OUT 1982年8月号』ピンナップ、原画:湖川友謙)

『発動篇』の冒頭のシーン。
このあと、キッチ・キッチン(左)をはじめ、すべての登場人物が容赦なく殺されていく。
イデが発動するクライマックスに向けて。




(『伝説巨人イデオン 記録全集5』日本サンライズ 1982年 139ページ、原画:湖川友謙)

最後の決戦を前に、ベスとカララを真似て、キスをしようとするコスモとカーシャ。
しかし、お互いが被(かぶ)るヘルメットに邪魔されて…。

この場面を作り出した脚本家もすごいが、絵として再現した湖川さんの力量もすばらしい。




(『伝説巨人イデオン 記録全集5』日本サンライズ 1982年 97ページ)

子どもができて(女の子ふたり)から感情移入するようになったのが、バッフ・クラン宇宙軍総司令にして、カララとハルルの父親であるドバ・アジバ。
彼は、宇宙軍総司令という公の立場からではなく、「父親としての口悔(くや)しみ」という個人的な理由で、戦いを続けた。
これこそが、人間が乗り越えることのできない、己(おのれ)の業(ごう)である。




(『伝説巨神イデオン 総音楽集』キングレコード 2009年)

すぎやま こういちさんの音楽の素晴らしさを表現する力が、残念ながら私にはない。
YouTube等で、ぜひ聞いてみてください。





今日は、前代未聞!ラッシュフィルム上映会について話をさせてもろうたでがんす。


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喜多川柯理墓碣銘

2024年12月29日 | 江戸時代
来年(2025年)1月5日から、NHK大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺(つたじゅうえいがのゆめばなし)~』の放送が始まる。
「蔦重」とは、蔦屋重三郎(つたや じゅうざぶろう)のこと。
重三郎は、18世紀半ばの江戸で、多くの浮世絵師や作家の才能を見い出して世に広め、ヒット作を出した版元、今でいう出版業者である。
彼の生涯については、「喜多川柯理墓碣銘(きたがわかりぼけつめい)」が残されているので、それを紹介していこう。





今日は、喜多川柯理墓碣銘についての話でがんす。





【原文】
喜多川柯理本姓(ほんせい)丸山称(しょうす)蔦屋重三郎
父重助母広瀬氏
寛延三年庚午正月初七日
生(うまる)柯理於江戸吉原里
幼為(おさなくしてなる)喜多川氏所養(やしなうところと)
為人(ひととなり)志気英邁(しきえいまい)
不修細節(さいせつをおさめず)
接人以信(ひとにせっするにまことをもってす)
嘗(かつて)於倡門外開一書舗
後移居(きょをうつす)油街
乃(すなわち)迎父母奉養(ほうよう)焉
父母相継(あいついで)而没
柯理恢(かい)廓産業
一倣(ならう)陶朱(とうしゅ)之殖
其巧思妙算(こうしみょうさん)
非他人所能及也(よくおよばざるところにあらざるなり)
遂為一大賈(だいこ)



【現代語訳】
重三郎は、寛延(かんえん)3年(1750年)1月7日、丸山重助と広瀬津与の子として、遊郭のある江戸・吉原に生まれる。
幼名は柯理といった。
(柯理は、「かり」または「からまる」と呼ばれた)
重三郎が幼いころに両親が離婚したので、喜多川家の養子となる。
長じて蔦屋重三郎と名乗った。
(喜多川家は、吉原で遊客を遊女屋へ案内する引手茶屋(ひきてぢゃや)を営んでおり、その屋号が「蔦屋」だった)

重三郎は常にやる気十分で、小さいことにはこだわらない。
また、人に接するときは相手を信頼し、自らもまことを尽くす人でもあった。

倡門(吉原大門)の外に書物商いの店を開き、後に日本橋の通油町(とおりあぶらちょう)に移る。
(倡(ショウ)は、遊女の意。
書舗(しょほ)は、書店の意。書肆(しょし)とも)
父母を迎えて孝養を尽くすが、その父母も相次いで亡くなった。

重三郎は廓(吉原)の産業を盛んにし、その活躍は、中国の陶朱公(とうしゅこう)を思わせた。
(恢(かい)は、大きくするの意。
陶朱公は、中国・春秋時代の商人で、その成功によって巨万の富を得たといわれる)
彼の発想力、人を結びつける力、先を読む力は人より抜きんでていて、一代の間に耕書堂(こうしょどう)という大書商となった。
(大賈(たいこ)は、大商人、富裕な商人の意)


【原文】
丙辰秋得重痼(じゅうこをえ)弥月(つきをかさねて)危篤
寛政丁巳夏五月初六日謂人曰(ひとにいいていわく)
吾亡期在午時
因(よって)処置家事決別妻女
而(しこうして)至午時笑又曰
場上(ばはあがれるに)未撃柝(いまだげきたくせず)何其晩也
言畢(いいおわりて)不再言(ふたたびいわず)
至夕而死
歳四十八
葬山谷正法精舎
予居相隔十里
聞此訃音
心■[心+木+`]神驚(しんじゅつしんきょう)豈不悲痛哉(あにひつうせざらんや)
吁(ああ)予霄壌間(しょうじょうのかん)一罪人
餘命(よめい)唯■[心+占](ただたのむは)知己之恩遇(ちきのおんぐう)而巳(のみ)
今既如此
嗚呼命哉
銘曰
人間常業(じんかんのじょうぎょう)
載在稗史(のせてはいしにあり)
通邑大都(つうゆうのたいと)
孰不知子(たれかしをしらざらん)



【現代語訳】
寛政8年(1796年)の夏、重三郎は脚気(かっけ)を患い、秋には危篤となる。
(脚気はビタミンB1不足による病気で、当時は「江戸わずらい」と呼ばれた)

翌9年(1797年)夏5月6日、次のように言った。
(当時は、1・2・3月が春で、4・5・6月が夏だった)
「私は今日のお昼時に死ぬよ」と。
そこで、自分が死んだあとのことについて指示を出し、妻にも別れを告げた。
お昼時になって、笑ってこう言った。
「私の人生はもう終わっているはずなのに、それを告げるまだ拍子木が鳴らない。遅いではないか」と。
(柝(タク)は、合図として用いられる、打ち合わせて音を出す木の意。ここでは、芝居の終わりを告げる拍子木のことと思われる)
これが最後の言葉となり、夕方には息を引き取った。
蔦屋重三郎、享年48。
その亡きがらは、山谷にある正法寺に葬られた。
(正法寺については後述)

江戸から10里(約40キロメートル)ほど離れたところにいた私(=石川雅望)は、この訃報に接して心から驚くとともに、悲痛な気持ちになった。
(石川雅望については後述)
ああ、私はこの世にあるひとりの罪人である。
(霄(じょう)は空で、壌(じょう)は大地の意)
今は、君(=重三郎)から受けた援助や励ましを思い出しながら、私は余命を過ごすことにしよう。



以下、余談。


喜多川柯理墓碣銘は、重三郎の菩提寺である正法寺にあった。
しかし正法寺は、震災や戦争・空襲の災禍によって古いものはほとんどが失われているため、今、建っている墓碣銘も、平成の時代に再建されたものである。

従って、ここで取りあげた墓碣銘は、原念斎(はら ねんさい)『史氏備考(ししびこう)』を基に、今田洋三著『江戸の本屋さん 近世文化史の側面』(日本放送出版協会 1977年)に掲載されているものを参考にさせていただいた。

原文は『江戸の本屋さん』から流用させてもらい、現代語訳は、これに私の意訳を加えたものである。
したがって、読みづらい、意味が通りづらい部分があれば、私の力不足である。
ご容赦いただきたい。



↓正法寺については、こちら↓

「誠向山 正法寺」日蓮宗 寺院ページ



以下、さらに余談。


喜多川柯理墓碣銘を撰(せん。文章を作ること)したのは、重三郎のブレーンのひとりでもあった、国学者の石川雅望(いしかわ まさもち)。
江戸時代、狂歌(きょうか)を詠む人たちは、自分の号を「狂名(きょうみょう)」と称した。
たとえば、蔦屋重三郎は「蔦唐丸(つたのからまる)」、浮世絵師の喜多川歌麿(きたがわ うたまろ)は「筆綾丸(ふでのあやまる)」と名乗っていた。
狂歌四天王のひとりといわれた石川雅望の狂名は、「宿屋飯盛(やどやの めしもり)」という。
「宿屋」と名乗るだけあって、実家は旅籠を営んでいた。
その旅籠屋がえん罪を受けたことで、寛政3年(1791年)石川雅望は江戸払いとなる。
江戸払いとは、品川、板橋、千住、本所、深川、四ツ谷の外へ追放される刑罰のこと。
重三郎が亡くなった寛政9年、石川雅望は江戸払いとなっていたので、原文中に「予居相隔十里」という一文が入っているのだ。



以下、もひとつだけ余談。


今日は、今年(2024年)のNHK大河ドラマ『光る君へ』総集編が放送された。
平安時代は手書きで書かれた物語を、手書きで筆写した写本を、皇族や貴族たちだけが読むことができた。
それが江戸時代になると、印刷した本を、一般の人が手軽に読むことができるようになった。
もちろん『源氏物語』も。
そう考えると、このふたつの物語はつながりがあるといえる。





今日は、喜多川柯理墓碣銘について話をさせてもろうたでがんす。


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きつねポスト

2024年12月22日 | 山口の話題
先日、12月5日・6日の1泊2日で、山口県山口市にある湯田温泉(ゆだおんせん)に行ってきた。

この地の出身である詩人・中原中也(なかはら ちゅうや)記念館を探して歩いていると、きつねのポストを見つけた。
しかも、赤い色ではなく、白い色のポストを。



「山口の人は、白いガードレールを黄色にするだけじゃ飽き足らんで、赤いポストも白い色にしちゃったんかいの?」

だが、よくよく見てみると、ポストにはきつねの顔が描かれ、耳もついていて、後ろにはシッポも生えていた。

「ありゃー。こりゃ、白いきつねのポストじゃったんか」





今日は、きつねポストについての話でがんす。







きつねポストは、地域活性化のため湯田温泉旅館協同組合が山口市に提案。
2021年6月30日、日本郵便の協力で市内6ヶ所に設置された。

きつねポストは、湯田温泉のマスコットキャラクター「ゆう太」をかたどっている。



写真は、湯田温泉ユウベルホテル松政前に置かれたもの。



↓きつねポストについては、こちら↓

「きつねのポストを探せ」湯田温泉旅館協同組合【公式】



↓湯田温泉のマスコットキャラクター「ゆう太」については、こちら↓

「ゆう太くんとゆう子ちゃん」湯田温泉旅館協同組合【公式】





以下、余談。


白い色のきつねのことを「白狐(びゃっこ)」といい、神様の使いとされている。
湯田温泉には、白狐伝説があるという。



今から、およそ800年前のことじゃ。
権現山と呼ばれる山があっての、その山のふもとに古いお寺があったそうな。

ある日の夜のこと。
和尚さんが外出先から帰ってくると、境内にある池の方から、なにやら音が聞こえてくるではないか。
「こんな時分に、なんの音がするんじゃろ?」
和尚さんが見てみると、白いきつねが池の水に足を浸していた。
そのきつねはケガしていたようで、最初は足をひきずっておった。
それが数日の間、池に足を浸したことで、きつねのケガはすっかりよくなったそうじゃ。

これを不思議に思った和尚さん、きつねが足を浸していた池の水を触ってみた。
「おぉ、この池の水は温かい。これは、ひょっとして…」
里の人に手伝ってもらって池の近くを掘ってみると、こんこんと温泉が湧いてくるではないか。
さらに掘り進めていくと、薬師如来(やくしにょらい)という、ありがたい仏像も出てきた。
この薬師如来は、池の近くに建てられたお堂に、守り神として祀(まつ)られた。
それからというもの、薬師如来を拝んでから温泉に入ると、病気や体のケガがよくなったということじゃ。

…というのが、湯田温泉の白狐伝説で、湯田温泉は白狐が見つけたといわれている。







訪問日:2024年12月5日





今日は、きつねポストについて話をさせてもろうたでがんす。


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