通でがんす

いろんな広島を知って、ひろしま通になりましょう!
(旧ブログタイトル:通じゃのう)

Xの挑戦

2024年07月24日 | まんが・テレビ・映画
今年、2024年は、石ノ森章太郎(いしのもり しょうたろう。旧表記:石森章太郎)のSF漫画『サイボーグ009』の原作誕生から60周年。

1964(昭和39)年30号(7月19日)から、『週刊少年キング』誌上で連載が始まったんじゃの。

これを記念して、YouTubeの東映アニメーションミュージアムチャンネルでは、1968(昭和43)年にテレビ放送された『サイボーグ009』(以下、「白黒版009」と略す)を期間限定公開中。

今回紹介するのは、白黒版009の第2話「Xの挑戦」じゃ。



↓「Xの挑戦」については、こちら↓

「60周年記念【公式】サイボーグ009「第1話 恐怖の怪人島」「第2話 Xの挑戦」」YouTube





今日は、「Xの挑戦」についての話でがんす。




「Xの挑戦」のストーリーを紹介すると…。

ある夜、サイボーグXの乗る円盤が、ギルモア研究所を襲う。
Xは、ギルモア博士を狙うオメガ博士が、ナックという青年を改造して作ったサイボーグだった。
ギルモア研究所から立ち去る途中、Xは十字架にバラの花を捧げる少女を見つける。
その少女は、ナックの婚約者・ミッチィ。
彼女は、ナックが交通事故で死んだものと思い、彼が好きだったバラの花を供えていたのだ。
再会を喜ぶミッチィに、ナックは自らの下半身は機械の体で、円盤と一体であることを告げ、立ち去る。



(『アニメージュ増刊 ロマンアルバム2 サイボーグ009』徳間書店、1977年、59ページ
メモ中に「5話」とあるところから、制作話数が「5話」で、放送話数が「2話」であることがわかる)


ナックを追って崖から落ちたミッチィは、009たちに助けられてギルモア研究所へ。
一方、009と一緒に行動していた003は、Xに連れ去られる。
003を人質に取ったオメガ博士は、Xと009との対決を要求する。



(『アニメージュ増刊 ロマンアルバム2 サイボーグ009』徳間書店、1977年、12~13ページ、書き起こしカラーピンナップ
左上が009とXとの対決シーン。右下が、ふたりの対決を見守るミッチィと003。真ん中手前は006)




「Xの挑戦」は、石ノ森原作にはない、脚本の辻真先(つじ まさき)と、演出の芹川有吾(せりかわ ゆうご)のコンビによる、オリジナルストーリー。

白黒版009では、第16話「太平洋の亡霊」、第26話(最終回)「平和の戦士は死なず」と並んで、人気のある作品のひとつじゃ。

ビデオがまだ普及していなかった1970年代後半、自主上映会が各地で行われていたが、その上映会でよく上映されていたんじゃの。

当時は、ビデオですらなく、16ミリフィルム(!)による上映会じゃったが。

1977(昭和52)年夏に公開された、劇場版『宇宙戦艦ヤマト』の大ヒットによって、アニメブームが起こったのはご存じのとおり。

それまで、「テレビ漫画」「まんが映画」と呼ばれていたのが、「アニメ」とか「アニメーション」とか呼ばれるようになったんじゃの。

で、そのアニメブームを受けて同年末に発売された、『サイボーグ009』のテレビ・オリジナル・サウンドトラック盤(LP)には、「Xの挑戦」「平和の戦士は死なず」が収録された。

そして、翌年春に発売されたEP盤には、「Xの挑戦」だけが収録されたんじゃの。

というわけで、白黒版009中でも「Xの挑戦」は人気のある作品じゃった。





以下、余談。


ことほど左様に人気のあった「Xの挑戦」じゃが、最近は後れを取っているようじゃ。

「平和の戦士は死なず」は、『サイボーグ009トリビュート』で、辻真先自らリメイクされとるし、「太平洋の亡霊」は、『サイボーグ009 太平洋の亡霊』で漫画化されている。

「Xの挑戦」も、どっかでリメイクしてもらえませんかいの?



↓『サイボーグ009トリビュート』については、こちら↓

「サイボーグ009トリビュート (河出文庫 い 42-2)」amazon



↓『サイボーグ009 太平洋の亡霊』については、こちら↓

「サイボーグ009 太平洋の亡霊 (チャンピオンREDコミックス) 」amazon




以下、さらに余談。


サイボーグXこと、ナックの声を担当されたのが、朝井ゆかり。

1965(昭和40)年に放送されたSFアニメ『宇宙少年ソラン』で、主人公・立花ソラン役をされた方じゃの。

おぉ、こちらもサイボーグという設定じゃった。



↓ソラン役の朝井ゆかりについては、こちら↓

「【1324】ソノレコード 宇宙少年ソラン「大潮流の巻」②」YouTube



↓宇宙少年ソランについては、こちら↓

「宇宙少年ソラン」株式会社エイケン オフィシャルサイト





今日は、「Xの挑戦」について話をさせてもろうたでがんす。

ほいじゃあ、またの。
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ますやみそのコマーシャル~誕生と封印の歴史

2024年07月21日 | 広島の話題
お母ちゃん、間違えんさんな、ますやみそよ


「おぉ~、ますやみそのコマーシャルじゃん。久しぶりに聞いたねぇ」

「ますやみそが、このコマーシャルをラジオで流し始めたのが、50年くらい前じゃそうな」

「へぇ、それくらい長い歴史があるんじゃ」

「ところが、このコマーシャルは一時期、封印されたことがあるそうじゃ」

「…封印? なんで?」





「今日は、ますやみそのコマーシャル~誕生と封印の歴史についての話でがんす」





「ますやみそのコマーシャルは、どんな理由で封印されたん?」

「今から数十年前のこと。方言は教育上よくないとか、母親に対する話し方ではないとか、といった指摘を受けて封印されたそうじゃ」

「えぇーっ!? 「方言は教育上よくない」っていう、その意味がわからん」

「母親に対する話し方ではないというのは、わからんでもない。自分の親に向かって言うなら、「お母ちゃん、間違えちゃだめよ」くらいかの」

「うちゃ(=私は)、子どもが親に向かって「間違えんさんな」って言えるくらいの方が、仲のええ(=いい)親子関係って思えるけどね」

「ほうじゃの。で、ますやみそのコマーシャルが封印されたあと…。地方(=方言)を見直す動きが広がったこと、家族観の変化から「親しみがこもった話し方」と理解されるようになったことなどがあって、その封印を解除、放送が再開されたそうじゃ」

「ふーん。このコマーシャルにそんな歴史があったとは、知らんかったよ」





「以下、余談」


「今さらじゃが、ますやみそという会社について説明しとこう」

「ますやみそって名前は知っとるし、商品は店で見かけるけど、どんな会社かは、実はよう(=良く)知らんけぇね」

「ますやみそは、広島県呉市(くれし)に本社がある会社で、1929(昭和4)年に麹(こうじ)製造業の舛本商店として創業」

「みそやしょう油、日本酒を造るのに、麹は欠かせんね」

「みそを造るようになったのは戦後のことで、株式会社ますやみそを設立したのが、1965(昭和40)年5月じゃそうな」





「こ、この写真は?」

「今から60年くらい前いうけぇ、ますやみそが設立されたころかの。今のコマーシャルの元となったフレーズを、車のスピーカーから流して宣伝活動をされとったそうじゃ」

「へぇ。むかしは車を使うて宣伝をしよっちゃったんじゃね」

「このときは、会長のお母さんの声を録音したものを使われとったそうじゃ」



↓ますやみそについては、こちら↓

株式会社ますやみそ -Masuyamiso-





「以下、さらに余談」


「ますやみそのコマーシャルには、「お母ちゃん、間違えんさんな、ますやみそよ」のほかにもいろんなバージョンがあるんじゃの」

「たとえば?」

「たとえば、会社のキャッチコピー「母さんの味」にひっかけたもの」


「(伴奏あり)♪母さんの味、ますやみそ」


「あぁ、これは聞いたことがあるよ」

「そして、複数の子どもたちによるもの」


「(男の子の声で)ぼくの母さん、ますやみそ」
「(女の子の声で)うちの母さん、ますやみそ」
「(声を揃えて)向こう三軒両隣、みんなそろってますやみそ」



「うーん、こりゃ聞いたことがないね」

「こりゃ、わしの勝手な推測じゃが…。ますやみそのコマーシャルが封印された時期に使われたのが、このコマーシャルじゃなかったんかの?」

「ひょっとしたら…、っていうことね」

「最後に、元広島カープの選手で、6年前の2018年に亡くなられた、衣笠祥雄(きぬがさ さちお)のものもあるんじゃ」


「僕も好きです、ますやみそ」



↓ますやみそのコマーシャルについては、こちら↓

「ますやみそ公式チャンネル」YouTube





【参考文献】

「封印の時期も その訳は ますやみそ(呉市)のコマーシャル」中国新聞、2024年7月11日






「今日は、ますやみそのコマーシャル~誕生と封印の歴史について話をさせてもろうたでがんす」

「ほいじゃあ、またの」
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宇品線跡を歩く~広島駅からマツダスタジアムまで

2024年07月17日 | 見て歩き
「今年、2024年は、1894(明治27)年に起こった日清戦争から130年にあたる。そこで、広島市内に残る、日清戦争に関するものを紹介していこう」

「日清戦争は、近代日本が初めて経験する、外国との本格的な戦争じゃったね」

「今日は、宇品線跡じゃ」





「今日は、宇品線跡を歩く~広島駅からマツダスタジアムまで、についての話でがんす」





「最初に、宇品線について簡単に説明しておこう。宇品線は、山陽鉄道の広島停車場(今のJR広島駅)と宇品港(うじなこう。今の広島港)を結ぶ、全長約6キロメートルの鉄道として作られた」

「宇品港があったところに、広島まで鉄道が通った。ほいじゃけど、そのふたつを結ぶ輸送手段がなかった」

「日清戦争が始まって間もない1894年8月20日に、仮設ではあるが宇品線が開通した。軍部からの要請もあって、わずか17日間という突貫工事じゃったそうな」

「宇品線は、最初から軍用線として作られたんじゃね」

「戦後、原子爆弾の被害が少なかった宇品線の沿線には、官公庁の施設が置かれたり、学校が作られたこともあって、宇品線は通勤通学の足として使われた」

「広島と宇品は、広島電鉄の路面電車もあるし、戦後はバス路線も充実してきたし、なにより日本が車社会になったしね」

「官公庁も、市内中心部に移転したしの。宇品線は最後、貨物専用線として使われとったんじゃが、今から38年前の1986(昭和61)年9月末をもって廃止となったんじゃの」



「では、宇品線跡を見ていこう」

「宇品線のホームって、広島駅のどこにあったん?」

「今の広島駅の南側に1番ホームがあるじゃろ?」

「1番ホームいうたら、山陽本線の広島から西(宮島・岩国方面)へ行く電車が発着するところじゃね」

「その1番ホームの南東側に、0番ホームがあって、それが宇品線専用のホームじゃった」





「上の写真で見ると、左手にあるのが1番ホームで、右手のフェンスの向こう側に0番ホームがあったんじゃの」

「ありゃ、今はないよなって(=無くなって)しもうとるよ」

「駅の中にはないが、駅からマツダスタジアムまでのカープロードには、宇品線の跡を今でも見ることができるんじゃの」

「カープロードは、JR広島駅とマツダスタジアムを結ぶ、約500メートルの歩道のことじゃね」





「そのカープロードは、JRから土地を取得した広島市が、昨年秋から歩道を広くする工事をすすめとるんじゃの」

「左側の歩道が広くなったところが、かつての宇品線が通っていたところじゃね」





「そうそう。マツダスタジアムの前で、道が右へ曲がっとるよね」





「マツダスタジアムのスロープ前から広島駅側を見ると、ゆるやかじゃが、道がカーブを描いとるのがわかる」





「マツダスタジアムのスロープ前から、上の写真と反対側を見た」





「マツダスタジアムの前を通って…」





「県道164号、広島海田線と交差する球場前(西)交差点を通って、猿候川(えんこうがわ)橋梁(今の平和橋)を渡って、宇品へ続いとったんじゃの」





今昔マップ on the web


「これを地図でおさらいすると、こうなる。左側の白黒の地図が大正15年の広島、右側のカラーの地図が今の広島じゃ」

「なるほど。宇品線跡が、今のカープロードの一部になっとるんじゃね」





↓宇品線跡についての関連記事は、こちら↓

旧宇品線跡を歩く(その1)





【参考文献】

長船友則『宇品線92年の軌跡』ネコ・パブリッシング、2012年





訪問日:2024年7月13日





「今日は、宇品線跡を歩く~広島駅からマツダスタジアムまで、について話をさせてもろうたでがんす」

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広島駅の路面電車高架橋(工事中)を間近で見る

2024年07月14日 | 見て歩き
「今年、2024年は、1894(明治27)年に起こった日清戦争から130年にあたる。そこで、広島市内に残る、日清戦争に関するものを紹介していこう」

「日清戦争は、近代日本が初めて経験する、外国との本格的な戦争じゃったね」

「今日は、JR広島駅(開業当時は、山陽鉄道の広島停車場)じゃ」




(「広島駅ビル開業50年のあゆみパネル展」広島駅、2015年)


「広島駅が開業したのは、いつ?」

「開通式が行われたのが、1894年6月10日。もっともそれより少し前から、大陸へ向けて兵士の輸送に協力をしていたそうじゃが」

「広島の宇品港から大陸へ向けて兵士たちを運んだことで、それからの広島は軍都への道を歩んでいったんじゃったね」

「その広島駅では、来年、2025年春の開業を目指して、新しい駅ビルの建設が進められとるんじゃの」




(「新広島駅ビルの完成イメージ」JR西日本)


「おぉ、すごいね。この新しい広島駅が、来年の春にお目見えするんかぁ」

「今回の広島駅の目玉は、上の完成イメージの中央に見えるとおり、広島電鉄の路面電車が広島駅の2階へ直結することじゃ」

「稲荷橋交差点で左に曲がって、駅前大橋を通って広島駅まで一直線で進む、駅前大橋ルートが新しくできるんじゃったね」

「路面電車が広島駅に乗り入れることで、JRとの乗り継ぎがスムーズになるんじゃの」








「今日は、広島駅の路面電車高架橋(工事中)を間近で見る、についての話でがんす」








「というわけで、久しぶりに広島駅南口へ行ってみた」

「おぉ、工事の囲いもだいぶ外しとってじゃし、外観はほぼ完成しとるように見えるね」

「工事の進捗状況は、80パーセントくらいじゃそうな」





「駅前大橋南詰交差点から、広島駅方向をみたところ」

「電車の線路は敷いてあるんじゃね」

「路面電車は、ここまで地上を走る。ここから先、駅前大橋から広島駅の間に高架橋が渡してあるんじゃの」





「その高架橋は、今、3つに分かれとる」

「3つ?」

「手前の高架橋は、駅前大橋の上。赤いクレーンの奥に見える、中央の高架橋は、駅南口前を走る大洲(おおず)通りの上を。ほいで、奥にある高架橋は、広島駅南口に取り付けられてあるんじゃの」

「おぉ、確かに3つ見えるね」





「高架橋は、こうやってバスと比べてみると、大きいねぇ。ところで、この高架橋の幅はどれくらいあるんじゃろ?」

「幅は、約10メートルくらいあるそうじゃ」





「高架橋を、広島駅南口側から見たところ」

「高架橋の内側にある、三角のやつ。ありゃ、なんていうんじゃったっけ?」

「リブ。補強のためにつけられた部材じゃの」

「あのリブが、電車の窓から見える日が、もうすぐ来るんじゃね」





「広島駅南口の2階にとりつけられた高架橋と…」





「…それを支える円柱」

「この円柱、ごっついねぇ」

「見た感じ、直径が2メートルくらいあったかの」





「広島駅2階、路面電車が通るところを支える梁(はり)。いやぁ、こんなむき出しの形見れるとは思わんかった」

「こっちも、ごっついねぇ」

「今はまる見えじゃけど、完成するときには、天井でちゃんと隠してじゃろうがの」





「黄色いクレーンが停まっとるところは、つい最近までバスのりばがあったところじゃね」

「ここで組み立てられた高架橋が、8月末くらいまでに取りつけられて、一体となる。その工事が終わったあとは、ふたたびバスのりばとして整備されるそうじゃ」



↓新しい広島駅ビルについては、こちら↓

「広島駅ビル開発プロジェクト」JR西日本





訪問日:2024年7月13日






「今日は、広島駅の路面電車高架橋(工事中)を間近で見る、について話をさせてもろうたでがんす」

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臨時帝国議会仮議事堂跡

2024年07月10日 | 見て歩き
「今年、2024年は、1894(明治27)年に起こった日清戦争から130年にあたる。そこで、広島市内に残る、日清戦争に関するものを紹介していこう」

「日清戦争は、近代日本が初めて経験する、本格的な外国との戦争じゃったね」

「今日は、臨時帝国議会仮議事堂跡じゃ」











「今日は、臨時帝国議会仮議事堂跡についての話でがんす」







臨時帝国議会仮議事堂跡

明治27年(1894年)日清戦争のとき、宇品港が兵站(へいたん)基地となった関係もあって、明治天皇は広島に大本営を進められることとなった。
広島城内の第五師団司令部の庁舎を行在所(あんざいしょ)と定めて、同年9月15日ここにおうつりになった。それにともなって政府の高官や要職が来広した。その後、翌28年4月戦争が終結して、天皇が帰京されるまでの約7か月余、広島市は事実上日本の首都となった。
この間、同年10月18日から7日間の会期で臨時帝国議会第七議会が広島に招集された。そのため貴族院、衆議院の仮議事堂がこの当たりに仮設された。

(説明板より)



「日清戦争があった1894年の広島には、宇品港(うじなこう。今の広島港)が1889(明治22)年に竣工、山陽鉄道の糸崎-広島間が1894年6月に開通しとった」

「鉄道を使えば、本州の北端、青森から広島まで、そして船に乗れば、宇品港から大陸へ向けて兵士を運ぶことができたんじゃね」

「第1師団・東京、第2師団・仙台、第3師団・名古屋、第4師団・大阪が、鉄道を使って広島へ移動することができた」

「第5師団は、広島にあったね」

「第6師団は九州の熊本にあるんじゃが、これも鉄道を使えば、関門海峡のある福岡・小倉まで移動することができたんじゃの」

「軍事的に便利な場所にあって、戦地にも近い広島へ大本営が移されることになって、明治天皇も9月15日に広島へ来られたと」

「明治天皇が広島に来られたことで、帝国議会も広島で開かれることになった」

「帝国議会って、今でいう国会のことじゃろ?」

「ほうじゃの」

「それを広島で?」

「このとき開かれた第7回帝国議会は、戦前戦後を通じて、東京以外の場所で開かれた、唯一の国会じゃそうな」

「ほぉ」

「で、貴族院・衆議院あわせて500人以上の議員のほとんどが、広島に来られたそうじゃ」

「明治天皇が広島に来られるだけでも大変じゃろうに、それだけよぉけ(=たくさん)の議員さんが来られたら、そりゃ大変な騒ぎじゃったじゃろう」

「広島県は、議員が泊まる場所の確保に奔走したといわれとる」

「ところで、戦争をやっとるこんな時期に、なんで議会を開かにゃいけんかったんじゃろ?」

「この年の9月に衆議院議員の選挙があっての」

「ほぉ、選挙があったん」

「このときの帝国議会では、1億5000万円という臨時軍事予算案や、戦争関連法案が取り上げられた。戦時中ということもあって、提出された議案のほとんどが、全会一致で可決されたそうじゃ」





「以下、余談」


「そういや、大本営は第五師団の司令部を借りとっちゃったけど、議会の議事堂は仮設のを建てられたんじゃね」

「9月30日から工事に着工して、10月14日に竣工、翌15日に議会を召集する詔勅(しょうちょく)が公布されたんじゃの」

「文字どおり、突貫工事じゃった」

「最初は50人の職人で始めた工事が、最後のころには1,000人近い職人で工事をしよったいうけぇの」

「ほぉ。で、広さはどれくらいあったん?」

「敷地面積が約25,200平方メートルで、建築面積が約2,350平方メートル。洋風の木造平屋建てで、建設費は約32,000円かかったそうじゃ」

「そのころ、国会議事堂ってあったん?」

「今の国会議事堂が竣工したのが、1936(昭和11)年。ちなみに、第1回の帝国議会が開かれたときの仮議事堂は、1890(明治23)年に竣工。建築面積が約8,469平方メートル、建築費が約233,868円かかったそうじゃ」

「こっちも平屋建て?」

「洋風の木造2階建てじゃったそうな」

「そういや、仮議事堂が広島城の外にあるのは、城内に場所がなかったけぇかね?」

「確かに、今は広島城の外、中国電力の基町ビルの一角に仮議事堂跡碑が建てられとる。が、この場所も江戸時代の広島城の敷地内で、戦前まで旧陸軍の第五師団が西練兵場として使いよった場所なんじゃの」








「以下、さらに余談」


「帝国議会初日の10月18日には、明治天皇が出席されて、会期が始まった。その休憩所として仮議事堂内に建てられたのが、御便殿(ごべんでん)」

「御便殿といえば、比治山(ひじやま)に御便殿跡があるよ」

「御便殿は、日清戦争の終わった1895(明治28)年、広島市に払い下げられた。広島市はこれを比治山公園内に移築し、市民に開放したんじゃの」

「御便殿は、広島に投下された原子爆弾で倒壊して、今はないんよね」

「仮議事堂の方は、1931(昭和6)年に解体されるまで、広島陸軍予備病院第四分院や第五師団司令部庁舎、広島陸軍地方幼年学校仮校舎など、いろいろと使われたそうじゃ」





【参考文献】

財団法人広島市文化財団 広島城『日清戦争と広島城』2009年、31ページ

財団法人広島市文化財団 広島城『広島城の近代』2008年、24ページ

竹内正浩『鉄道と日本軍』ちくま新書、2010年、116ページ





訪問日:2024年7月6日






「今日は、臨時帝国議会仮議事堂跡について話をさせてもろうたでがんす」

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