通でがんす

いろんな広島を知って、ひろしま通になりましょう!
(旧ブログタイトル:通じゃのう)

福井芳郎とがんす横丁の世界

2021年03月21日 | 広島の話題


広島市郷土資料館では、
「企画展 福井芳郎とがんす横丁の世界」
を開催中。
(2021年3月13日から5月5日まで)





↓広島市郷土資料館については、こちら↓

広島市郷土資料館





今日は、
福井芳郎氏と
がんす横丁を書かれた薄田太郎氏
についての話でがんす。





がんす横丁は、
郷土史家で大衆芸能評論家の
薄田太郎(すすきだ たろう)氏が、
1949年から1961年にかけて
中国新聞に断続的に連載した随筆。

戦前の広島にあった
盛り場や世相・風俗など、
今ではすっかり失われてしまった
町の風景を紹介してある。



薄田氏は、1902年(明治35)
広島市生まれ。

1928年(昭和3)に開局した
広島放送局(現:NHK広島放送局)に
アナウンサーとして勤務。

太平洋戦争中は南方にいて、
1946年夏に引揚船で帰国。

原爆で焼け野原となった広島を歩き
知人からの聞き取りを行ったうえで
がんす横丁を書き上げた。



この連載は、薄田氏の死後の
1973年(昭和48)に
以下の4冊の本として出版される。

『がんす横丁』
『続がんす横丁』
『続々がんす横丁』
『がんす夜話』

わしゃ、広島の老舗古書店
アカデミイ書店で
買い揃えたでがんすよ。



中国新聞セレクト日曜版には、
復刻版が掲載中。



(2021年3月14日掲載分)





↓アカデミイ書店については、こちら↓

アカデミイ書店





↓中国新聞については、こちら↓

中国新聞デジタル





この連載でさし絵を担当されたのが、
今回の企画展で紹介されている
画家の福井芳郎氏。

この企画展では、福井氏のさし絵に
当時の様子と現状の写真を加えて紹介。

もちろん、
原画の一部も展示してあります。



福井氏は、1912年(明治45)
広島市的場(まとば)生まれ。

1931年(昭和6)大阪美術学校卒業。

広島に原子爆弾が投下された
1945年(昭和20)8月6日は
陸軍の救護班として任にあたる。

原子爆弾が投下から1時間以内に
燃える広島の街をスケッチし、
「最初に原爆を描いた画家」
として知られる。

その時の絵も、
今回の企画展で紹介してあります。





がんす横丁を通して出会った
薄田氏と福井氏。

薄田氏とのことを、
福井氏は次のように回想している。



「がんす横丁」が連載されていたころは、よく町角で薄田太郎さんと出会ったものです。オーイ、ええとこで会うたわい、こんなぁ茶でも飲んで話そうやーというぐあいで、

(略)

ほいからのーこの前いうとった○○さんにうまく会えてのーいろいろ聞いたわいや、ええ話も聞かれたし、わしもやりまんで…。

(「あとがき」『がんす横丁』1973年 たくみ出版)




まこと、広島弁丸出しの会話でがんす。

「こんなぁ」いうたら、
映画『仁義なき戦い』で使われて
「ヤクザ言葉」のように思われとるが、
わしより年上の人じゃったら、
親しみを込めて
「こんなぁ」「あんなぁ」
いう言葉を使いよっちゃった。

「やりまんで」いうのは
あんまり聞かん言葉じゃが、
「(いい話が聞けたので、わしも)
頑張って纏(まと)めます」
くらいの意味じゃろうの。



今、さし絵を描くとしたら、正確を期して
当時の資料や写真を集めたうえで、
それを基に描いていくのだろう。

しかし、福井氏は当時の記憶を基に
描かれた。

そういう意味では、
正確ではないかもしれないが、
当時の雰囲気は、絵の中に息づいている。



何一つ資料なしで描くので苦労をしながら描いたものです。幼年期、少年期、青年期の記憶をたどって描きました。

しかし、これらの記録が昔の広島城下町、がんす広島の風景、人情その他のことが今になってよく出ていると思います。

(同上)






今日は、
福井芳郎氏と
がんす横丁を書かれた薄田太郎氏
について話をさせてもらいました。



ほいじゃあ、またの。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

春といえばキャンディーズでしょう

2021年03月20日 | 音楽
先日(2021年3月4日)の
ラジオ深夜便午前3時台は
「キャンディーズ作品集」でした。

番組中でも紹介さていたが、
「なぜ今、キャンディーズの
特集をするの?」と、
アンカーがディレクターに聞いたそうな。

そのディレクター曰く、
「春といえばキャンディーズでしょう」





名言である!





今日は、
春とキャンディーズ
についての話でがんす。





↓キャンディーズについては、こちら↓

「キャンディーズ」SonyMusic





↓ラジオ深夜便については、こちら↓

「ラジオ深夜便」NHK





キャンディーズは、1970年代に活躍した
女性3人組のアイドルグループ。



メンバーは、

伊藤 蘭(いとう らん。愛称:ラン)

田中好子(たなか よしこ。愛称:スー)

藤村美樹(ふじむら みき。愛称:ミキ)

の3人。



わしゃ、3人の中で
スーちゃんが好きじゃった。

彼女が2011年の4月に亡くなってから、
早いもんで10年になるんじゃのう。

合掌。



NHKの音楽番組で
マスコットガールに選ばれるが、
歌手としてデビューする予定はなかった。

その後、プロデューサーの目にとまり、
1973年に「あなたに夢中」でデビュー。

1975年、5枚目のシングル
「年下の男の子」がオリコン9位と、
初のベストテン入りを果たし、ブレイク。





春とキャンディーズ
最初に取り上げるのが、
今でも春になると紹介される
「春一番」。

1976年3月1日に発売された
9枚目のシングルで、
オリコン3位を記録。



♪雪がとけて川になって
流れて行きます

つくしの子がはずかしげに
顔を出します

もうすぐ春ですね
ちょっと気取ってみませんか

(作詞:穂口雄右)






↓「春一番」については、こちら↓

「キャンディーズ 春一番」YouTube





余談じゃが…。



つくしといえば、
初めておつきあいした彼女と
太田川へつくし摘みに行ったことを
思い出した。

この歌に触発されたわけじゃのうて、
あのころは春になれば川土手などへ
つくしを摘みに行くのが
ふつうじゃったよの。





春とキャンディーズ
2番目に取り上げるのが、
こちらも春になると紹介される
「微笑(ほほえみ)がえし」。



1977年の夏、野外コンサートで
「私たち、9月に解散します」
と、突然の解散宣言。

所属していた渡辺プロとの
話し合いの結果、
翌1978年4月に解散することが決まった。

このときの
「普通の女の子に戻りたい!」は、
流行語になりましたのう。

解散前の2月25日、
ラスト・シングルとして
発売されたのが「微笑がえし」。



キャンディーズにとって
最初で最後のオリコン1位を獲得した歌。

内容は、ファンへの感謝を
涙でなく微笑みで伝え、
新たな道へそれぞれ歩いて行く
3人の新たな門出を祝うというもの。

歌詞の中に
過去のシングル曲のタイトルが
ちりばめられているのも微笑ましい。





♪春一番が
掃除したてのサッシの窓に
ほこりの渦を踊らせてます

机本箱
運び出された荷物のあとは
畳の色がそこだけ若いわ



1(アン) 2(ドゥ) 3(トロワ)
三歩目からは
1(アン) 2(ドゥ) 3(トロワ)
それぞれの道 私達
歩いて行くんですね
歩いて行くんですね

(作詞:阿木燿子)






↓「微笑がえし」については、こちら↓

「微笑がえし CANDIES」YouTube





余談じゃが…。



歌詞の中に出てくる、
「畳の色がそこだけ若いわ」
というフレーズ。

い草(いぐさ)から作られる畳の色は、
最初は青々としている。
それが太陽の日に焼けて変色し、
黄色くなる。

引っ越しの時にタンスを動かすと、
黄色になっている畳の色が、
タンスの下だけ変色せずに
青いままだったりするのを歌ったもの。

今年の初めからひとり暮らしを始めた
娘1号もそうじゃが、
今の若い人に聞いてみると、
畳のある部屋に住んでいる人は
ほとんどおらん。

「畳の色がそこだけ若い」という言葉も
死語になってしまうんじゃろか?





春とキャンディーズ
3番目に取り上げるのが、
1978年4月4日、後楽園球場に
5万5千人のファンを集めて行われた
「ファイナルカーニバル」。

これは、その3年前に行われた
ザ・ピーナッツのさよなら公演に続く、
日本で2例目のお別れコンサートで、
歌謡界史上最大のショーともいわれた。

しかも、女性歌手(グループ)が
後楽園球場でコンサートを開いたのは、
キャンディーズが初めて。

こうして、キャンディーズは
4年半の活動に終止符を打った。

最後の
「本当に私たちは、幸せでした!」も
有名になりましたのう。







『キャンディーズ ファイナルカーニバル』
1978年4月15日 講談社






センター側にステージが
設けられているのが分かる。

「ForFreedom」の下に、左から右へ
ミキちゃん、ランちゃん、スーちゃんの
サインが書かれています。






リハーサルの様子。





↓ファイナルカーニバルについては、こちら↓

「Candies - Candies Final Carnival Plus One [キャンディーズ ファイナルカーニバル プラス・ワン] (1978)」YouTube





余談じゃが…。



キャンディーズのバックを務めたのが、
MMP(エムエムピー。
ミュージック・メイツ・プレイヤーズ)。

リーダーは、
グループサウンズのワイルドワンズで
キーボードを担当していた渡辺茂樹さん。

のち、スペクトラムのリーダーとなる
新田一郎さん(トランペット)をはじめ、
渡辺直樹さん(ベース)
西 慎嗣さん(ギター)
兼崎順一さん(トランペット)
たちもMMPのメンバーじゃった。





↓MMPとキャンディーズについては、こちら↓

「つばさ キャンディーズ メモリーズ」YouTube

「つばさ」の作詞はランちゃん、
作曲は渡辺茂樹さん。


「キャンディーズ~「SUPER CANDIES」」YouTube

熱く歌っているのが、西 慎嗣さん。


「PLAY THAT FUNKY MUSIC/キャンディーズ」YouTube





春とキャンディーズ
4番目に取り上げるのが、
コマーシャル。

人気のあったキャンディーズは当然、
コマーシャルにも出ていました。

中でも有名なのが、
ハウス食品のククレカレーの
「おせちもいいけどカレーもね!」

おせち料理は、
新年(初春)にいただくもの。

ここでも、キャンディーズは
春と関係があった。

うーん…、
こじつけっぽうなってしもうた。





↓ククレカレーのコマーシャルについては、こちら↓

「ククレカレー(その2)」YouTube

「ハウス ククレカレー Candies キャンディーズ New Year」YouTube






余談じゃが…。



年末の買い出しに行った折、
若い人がカップヌードルや
レトルトカレー
(ボンカレー・ククレカレー)
などを箱買いするのを
見かけるようになったのが
このころじゃったように記憶する。

今のようにコンビニのない時代、
年始の3が日は店が開いていなかった。

ほいじゃけぇ、その間の食料は
買いだめをしておかにゃ
いけんかったんじゃの。





春とキャンディーズ
最後に取り上げるのが、
広島市内から一番近くにあった
遊園地・ナタリー。

1973年9月のデビューから半年後の
1974年3月、広島ナタリーで
コマーシャル初出演を果たしました。





↓広島ナタリーのコマーシャルについては、こちら↓

「キャンディーズCM ~広島ナタリー(74年3月)」YouTube





余談じゃが…。



1974年4月23日にオープンした、
遊園地のナタリー。

あのころは、広島で遊園地といえば
ナタリーというくらい有名じゃった。

コースの一部が海の上にはみ出していた
ジェットコースターや、
当時、東洋最大といわれた大観覧車、
プールなどがあった。

バブル崩壊後の1996年3月に閉園。





以下、余談。



おとつい(3月21日)の朝、
NHK総合を見ていたら
『もう一度投げたかった 炎のストッパー
津田恒美の直球人生』(1994年)
の再放送をしていた。



津田さんは1980年代、
抑えとして赤ヘル黄金期を支え、
「炎のストッパー」と呼ばれた。

「弱気は最大の敵」を座右の銘とし、
バッターに剛球勝負を挑んだ。

津田さんが亡くなってから、
早いもので28年になるんじゃの。

合掌。



番組の中で、高校時代の津田さんが
部屋でくつろぐ写真が紹介された。

部屋の壁に貼ってあったのが、
キャンディーズのポスター。

壁のポスターは一部しか
写っていなかったが、
「ラン」という文字も読み取れた。

津田さんもキャンディーズの
ファンじゃったんじゃろか?

(青文字部:2021年3月23日追加)






今日は、
春とキャンディーズ
について話をさせてもらいました。



ほいじゃあ、またの。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アストラムライン橋げた落下事故から30年

2021年03月14日 | 広島の話題


(「アストラム橋桁落下 きょう30年」2021年3月14日 中国新聞)





今日は、30年前の広島市で発生した
アストラムライン橋げた落下事故
についででがんす。





アストラムライン橋げた落下事故とは
どんな事故じゃったんじゃろ?



今から30年前といえば、
1991年3月14日。

そのころの広島市は、
1994年10月に行われる
広島アジア大会開催に向けて、
各地で準備が行われていた。

アジア大会が行われたのは
広島市郊外にある広島広域公園で、
主会場となったのが
広島広域公園陸上競技場
(通称:広島ビッグアーチ)。

広島ビッグアーチは、サッカーJ1の
サンフレッチェ広島の本拠地となり、
今はエディオンスタジアム広島
と呼ばれている。

広島市中心部から
広島広域公園までは遠いため、
この間を結ぶ交通機関として
整備されたのが、広島新交通1号線
(愛称:アストラムライン。
18.4キロメートル)。



そう、今回紹介する
アストラムライン橋げた落下事故は
この工事中に発生した。



据え付け作業中の、
長さ63メートル、
重さ約60トンの橋げたが、
約10メートル下の県道に落下。

工事現場の真下で信号待ちをしていた
車11台を押しつぶし、
車内の人や橋桁と一緒に転落した作業員
計15人が死亡、8人が負傷した。





「100人以上いた群衆が一言も発していなかった」。

(略)

車高はわずか0.5メートルほどまでに押しつぶされ、ガソリンに引火して炎上していた。それなのに異様なまでに静かだった、と原田さんは振り返る。

(「手を握り返してきた男性…命救えず アストラム橋桁落下30年、無念今も 安芸消防署長の原田さん」2021年3月13日 中国新聞)






このあたりは、車の通行量が
一日あたり1万5千台と多く、
迂回路もないので通行規制をすると
交通渋滞が起きるという理由で
工事現場の通行規制をしなかった。

交通渋滞が起きると
主張したのが広島市で、
広島県警もこれに同意したという。

それが、結果として被害を大きくした。





広島市は工事中は交通規制を行わないとした方針を転換し、迂回路を設置して全面通行止めにしてクレーンで直接設置する工法に変更した。
また、全国的に危険が予想される現場では交通を遮断する措置が行われることになったほか、作業員の安全教育が徹底されるようになった。

(「広島新交通システム橋桁落下事故」ウィキペディア)






過去にこのよう事故があったため、
今のように工事現場での交通規制が
厳しく行われるようになった。

工事現場で待たされて、
「あぁ、もう。
こんな所で待たせずに、
早ょ行かしてくれぇや」
という気持ちも分かりますが、
事故を防ぐためです。

イラッとせずに、気持ちよく従って
安全運転でいきましょう。





消防士をしていた従兄は、
事故現場へ救助のため出動。

テレビで現場の映像を見ていたし、
その状況も人づてに聞いていたので、
従兄には直接聞きづらかったし、
本人も何も言わなかったので、
今もって当時のことは聞いていない。





事故現場の近くにある女子大に通っていた
娘2号に事故の話をしたら、
「(事故の話は)初めて聞いた」という。

そうか、わしゃ娘に
話して聞かせたことがなかったのう。

4年間もアストラムラインを使って
通学していたというのに。



「災害は忘れたころにやってくる」
という名言がある。

逆にいうと、
「忘れたころにやってくるから、
その災害自体を忘れるな(=語り継げ)」
ということであろう。



先日、発生から10年たった
東日本大震災がそうであるように。

あと4ヶ月で3年を迎える
西日本豪雨(平成30年7月豪雨)が
そうであるように。





↓アストラムライン橋げた落下事故については、こちら↓

「広島新交通システムの橋桁落下」失敗知識データベース





以下、余談…。



わしゃ、広島市交通科学館に行ったとき、
元気な時はアストラムラインを利用せず、
JR可部(かべ)線の大町(おおまち)駅
まで歩いて帰る。

昨日も、企画展
「はたらくのりもの大集合!
救難飛行艇US-2」を見に行った帰り道、
上安(かみやす)駅南出口ちかくにある
慰霊碑に参って帰った。

画面の右上を通っているのが、
アストラムラインである。











訪問日:2021年3月13日





今日は、発生から30年を迎えた
アストラムライン橋げた落下事故
について話をさせてもらいました。



ほいじゃあ、またの。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする