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広島市郷土資料館では、
「企画展 福井芳郎とがんす横丁の世界」
を開催中。
(2021年3月13日から5月5日まで)
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広島市郷土資料館
今日は、
福井芳郎氏と
がんす横丁を書かれた薄田太郎氏
についての話でがんす。
がんす横丁は、
郷土史家で大衆芸能評論家の
薄田太郎(すすきだ たろう)氏が、
1949年から1961年にかけて
中国新聞に断続的に連載した随筆。
戦前の広島にあった
盛り場や世相・風俗など、
今ではすっかり失われてしまった
町の風景を紹介してある。
薄田氏は、1902年(明治35)
広島市生まれ。
1928年(昭和3)に開局した
広島放送局(現:NHK広島放送局)に
アナウンサーとして勤務。
太平洋戦争中は南方にいて、
1946年夏に引揚船で帰国。
原爆で焼け野原となった広島を歩き
知人からの聞き取りを行ったうえで
がんす横丁を書き上げた。
この連載は、薄田氏の死後の
1973年(昭和48)に
以下の4冊の本として出版される。
『がんす横丁』
『続がんす横丁』
『続々がんす横丁』
『がんす夜話』
わしゃ、広島の老舗古書店
アカデミイ書店で
買い揃えたでがんすよ。
中国新聞セレクト日曜版には、
復刻版が掲載中。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2a/44/077c88cdc2e2f5626247ed3187d2400e.jpg)
(2021年3月14日掲載分)
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この連載でさし絵を担当されたのが、
今回の企画展で紹介されている
画家の福井芳郎氏。
この企画展では、福井氏のさし絵に
当時の様子と現状の写真を加えて紹介。
もちろん、
原画の一部も展示してあります。
福井氏は、1912年(明治45)
広島市的場(まとば)生まれ。
1931年(昭和6)大阪美術学校卒業。
広島に原子爆弾が投下された
1945年(昭和20)8月6日は
陸軍の救護班として任にあたる。
原子爆弾が投下から1時間以内に
燃える広島の街をスケッチし、
「最初に原爆を描いた画家」
として知られる。
その時の絵も、
今回の企画展で紹介してあります。
がんす横丁を通して出会った
薄田氏と福井氏。
薄田氏とのことを、
福井氏は次のように回想している。
「がんす横丁」が連載されていたころは、よく町角で薄田太郎さんと出会ったものです。オーイ、ええとこで会うたわい、こんなぁ茶でも飲んで話そうやーというぐあいで、
(略)
ほいからのーこの前いうとった○○さんにうまく会えてのーいろいろ聞いたわいや、ええ話も聞かれたし、わしもやりまんで…。
(「あとがき」『がんす横丁』1973年 たくみ出版)
まこと、広島弁丸出しの会話でがんす。
「こんなぁ」いうたら、
映画『仁義なき戦い』で使われて
「ヤクザ言葉」のように思われとるが、
わしより年上の人じゃったら、
親しみを込めて
「こんなぁ」「あんなぁ」
いう言葉を使いよっちゃった。
「やりまんで」いうのは
あんまり聞かん言葉じゃが、
「(いい話が聞けたので、わしも)
頑張って纏(まと)めます」
くらいの意味じゃろうの。
今、さし絵を描くとしたら、正確を期して
当時の資料や写真を集めたうえで、
それを基に描いていくのだろう。
しかし、福井氏は当時の記憶を基に
描かれた。
そういう意味では、
正確ではないかもしれないが、
当時の雰囲気は、絵の中に息づいている。
何一つ資料なしで描くので苦労をしながら描いたものです。幼年期、少年期、青年期の記憶をたどって描きました。
しかし、これらの記録が昔の広島城下町、がんす広島の風景、人情その他のことが今になってよく出ていると思います。
(同上)
今日は、
福井芳郎氏と
がんす横丁を書かれた薄田太郎氏
について話をさせてもらいました。
ほいじゃあ、またの。