通でがんす

いろんな広島を知って、ひろしま通になりましょう!
(旧ブログタイトル:通じゃのう)

仁保島西新開の堤防跡を歩く(その4)

2016年09月30日 | 見て歩き
県病院から山城町公園まで

江戸堤

ブラタモリ 広島編






↓前回記事は、こちら↓

仁保島西新開の堤防跡を歩く(その3)





先週の土曜日(9月24日)、

NHK総合で放送された『ブラタモリ 広島編』。





番組の中で、

タモリさんが「江戸堤」と命名した干拓堤防跡が、

案内人である広島市郷土資料館の学芸員・本田さん

によって紹介されました。





この干拓地は江戸時代、広島藩が比治山(ひじやま)の南側から、

当時はまだ海の中にあった

仁保島(=今の黄金山(おうごんざん))までを干拓したもので、

「仁保島西新開(にほじまにししんがい)」と呼ばるところ。





今の広島の街は、

広島デルタと呼ばれる三角州の上に作られた街で、

毛利輝元(もうり てるもと)が築いた広島城も、

この三角州の上に築かれとるんじゃの。





そして江戸時代以降、遠浅の瀬戸の海を、

南へ南へと埋め立てていって広島の街が作られたんじゃ。





仁保島西新開も、その干拓地のうちのひとつ。





この仁保島西新開の堤防跡を4回にわたって紹介しとりますが、

今回は最終回、

県病院から山城町公園までじゃ。





↓『ブラタモリ』については、こちら↓

「ブラタモリ」NHK





↓広島市郷土資料館については、こちら↓

広島市郷土資料館







広島県道86号(翠町仁保線。通称:黄金山通り)に入ると、

右手にはわしが生まれた県病院が見える。





このあたりは段差が小そう(=小さく)て、

分かりづらいんじゃ。





段差を求めて東へ東へと進むうちに…、







テレビにも出てきた、

翠町(みどりまち)中学校東側の道路に着いた。







ここの高低差は、分かりやすいのう。





向かって左側が堤防跡で、

右側は仁保島西新開じゃけぇ

堤防跡の方が高う(=高く)なっとります。







翠町中学校の前にある

宇品3丁目1番交差点から東側を見ると、

正面に標高221.7メートルの

黄金山(むかしの仁保島)が見える。





最初にも紹介したが、

今、歩いとる仁保島西新開は、

北にある比治山(ひじやま)から

この黄金山のふもとまでを埋め立てた干拓地じゃ。







広島南警察署前交差点を渡って北へ進むと、

鉄道のレールと、踏切の警報機や遮断機、

木製の短いホームなど

宇品線のモニュメントが残されとる。





鉄道ファンのタモリさんが

ここを黙って通り過ぎるはずはないけぇ、

ここでのやりとりは放送でカットされたか?







この坂を上って行くと…、







道はここで2手に分かれる。





堤防跡は左側にもう少し先まで続いとるんじゃが、

番組ではこの角を右へ曲がったので、

この角を右へ進むことにする。







山城町(やましろちょう)公園。







道路(堤防跡)と公園の高低差が分かる。







番組の中でも紹介されとったが、

この公園があったところには、

1980(昭和55)年に埋め立てられてしまうまで、

入り江があった。





ここにはもともと漁師町があったことから、

仁保島西新開を作る時も、

わざわざ堤防を曲げて入り江を作り、

港を残すようにしたんじゃそうな。





公園の北側には、

港から海へ昇り降りするための足場(階段?)が

今も残っとる。





『ブラタモリ』を見て、ここの写真を撮りに来られた方が

何人かおられました。







公園の北側には、

英橋(はなぶさはし)の記念碑が建ててある。





英橋(はなぶさはし。通称英造橋(えいぞうばし))は、

広島市南区旭三丁目地先から

山城町地先に至る間に架橋していた。



英橋は、明治三十年旧仁保島村大河(現山城町)に

在住していた英修作氏が、

入江を隔てた対岸への通行に難渋していた村人のために

私財を投じて入江に護岸を築き、

木橋を建設し、村に寄贈したのが始まりである。



その後、広島市において

昭和二十六年にコンクリート橋に改修したが、

昭和五十五年十二月に下水道整備事業による

入江の埋立により八十余年に及ぶ歴史を閉じ廃橋となった。



ここに故英修作氏の偉業と

同橋が長年にわたり住民の交通に寄与したことを記念して、

この碑を建立する。



 昭和五十六年五月

  広島市






訪問日:2016年9月25日





【参考文献】

本田美和子「”街”を拓く~城下町に残る街づくりの痕跡~」広島市郷土資料館「ひろしま再発見3」関連講座 2016年5月






今日は、先日放送された『ブラタモリ』の中で

タモリさんが「江戸堤」と命名した「仁保島西新開」の堤防跡を

県病院から山城町公園まで話をさせてもらいました。





…というわけで、

「仁保島西新開の堤防跡を歩く」はこれで終わりです。





おつきあい、ありがとうございました。





ほいじゃあ、またの。
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仁保島西新開の堤防跡を歩く(その3)

2016年09月29日 | 見て歩き
千田廟公園から県病院まで

江戸堤

ブラタモリ 広島編






↓前回記事は、こちら↓

仁保島西新開の堤防跡を歩く(その2)





先週の土曜日(9月24日)、

NHK総合で放送された『ブラタモリ 広島編』。





番組の中で、

タモリさんが「江戸堤」と命名した干拓堤防跡が、

案内人である広島市郷土資料館の学芸員・本田さん

によって紹介されました。





この干拓地は江戸時代、広島藩が比治山(ひじやま)の南側から、

当時はまだ海の中にあった

仁保島(=今の黄金山(おうごんざん))までを干拓したもので、

「仁保島西新開(にほじまにししんがい)」と呼ばるところ。





今の広島の街は、

広島デルタと呼ばれる三角州の上に作られた街で、

毛利輝元(もうり てるもと)が築いた広島城も、

この三角州の上に築かれとるんじゃの。





そして江戸時代以降、遠浅の瀬戸の海を、

南へ南へと埋め立てていって広島の街が作られたんじゃ。





仁保島西新開も、その干拓地のうちのひとつ。





この仁保島西新開の堤防跡を4回にわたって紹介しとりますが、

今回はその3回目

千田廟公園(せんだびょうこうえん)から県病院までじゃ。





↓『ブラタモリ』については、こちら↓

「ブラタモリ」NHK





↓広島市郷土資料館については、こちら↓

広島市郷土資料館







千田廟公園は明治時代、

宇品港(うじなこう。今の広島港)の築港に尽力された

広島県令(けんれい。今の県知事)・千田貞暁(せんだ さだあき)の

功績をたたえて作られた公園で、

公園の中には銅像も建てられている。





小学2年までこのあたりに住んどったわしも

よう(=よく)遊びに行きよった。





先ほども紹介したとおり、

広島は三角州の上に作られた街。





遠浅なので、大きな船が入ることができず、

沖合の宇品島(現在の元宇品)あたりで

小舟に乗り換えて上陸しよった。





1880年(明治13年)、前任地の大分から船に乗って

広島へ赴任してきた千田貞暁も、

上陸するときに苦労されたそうじゃ。





そこで千田貞暁は、広島が発展していくためには

港の整備とそこへ続く道路の整備が必要と考え、

宇品築港を決意。





5年余りの歳月と

30万円余の工事費をかけて完成させたのが、

宇品港(今の広島港)で、

仁保島西新開から宇品島まで間を

干拓して作られたのが、「宇品新開」なんじゃ。







千田廟公園の西側を、

南へとまっすぐに伸びる道路。

ここは宇品新開の堤防跡。





道の左側(東側)が宇品新開で、

右側(西側)は、1940年から1947年にかけて

宇品港を広くするために埋め立てられたところ。





この道は、「御幸通り」と呼ばれとる。





御幸橋と同じく、明治天皇が広島に来られた時、

この道を通って宇品まで行かれたので、

この名前がつけられたそうじゃ。





…ということは、前回紹介した御幸橋から

千田廟公園横の御幸通りまでの堤防跡も、

明治天皇が通られたことになるんじゃの。







公園の奥、今はマンションが建っているところに、

野球で有名な広陵(こうりょう)高校が、1973年まであった。





ほいじゃけぇ、今は「県病院前」と名づけられとる電停も、

1935年に電車の軌道が今のところに移設されたころには

「広陵中学前」という名前じゃったそうな。







ここで堤防跡は、広島電鉄宇品線が通る

国道487号線と交差する。





ここの県病院入口交差点で、

高低差を確認してみることに。







宇品側(南側)から見ると、

奥(仁保島西新開)が低く、

中央部(堤防跡)で高くなって…、







手前(宇品新開)でまた低くなっているのが

分かってもらえますかの?







ここから西は、

広島県道86号(翠町仁保線。通称:黄金山通り)で、

右手にはわしが生まれた県病院が見える。





このあたりは大正のころ、

道の両側にたくさんの桜の木が植えられていたことから、

「桜土手」と呼ばれとったそうじゃ。





戦争が激しくなった1945年6月には、

桜土手引込線が引かれて電車の疎開が行われ、

原爆が投下された日も

ここに10両の車両がここに置かれていた。







薬局に貼ってあるポスター。





訪問日:2016年9月25日





【参考文献】

本田美和子「”街”を拓く~城下町に残る街づくりの痕跡~」広島市郷土資料館「ひろしま再発見3」関連講座 2016年5月

長船友則『広電が走る街今昔』JTBキャンブックス 2005年06月






今日は、先日放送された『ブラタモリ』の中で

タモリさんが「江戸堤」と命名した「仁保島西新開」を

千田廟公園から県病院まで話をさせてもらいました。





次回は、県病院から

山城町公園までを紹介していく予定じゃ。





ほいじゃあ、またの。
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JR広島駅北口改良工事(その31)

2016年09月28日 | 広島の話題
JR広島駅北口(新幹線口)

ペデストリアンデッキ整備

ほぼすべての囲いが取り外される






↓JR広島駅北口改良工事については、こちら↓

「広島駅北口広場」URBAN HIROSHIMA 街づくりデータベース





↓前回記事は、こちら↓

JR広島駅北口改良工事(その30)







このブログでは、「ペデストリアンデッキ」なんていう、

舌をかみそうな横文字は使いとうないんで、

「ペデストリアンデッキ」を「歩行者専用通路」と

呼ぶことにします。





また、上のイメージ図にある3つの歩行者専用通路は、

左から、東側通路、中央通路、西側通路

と呼び分けています。







東側通路、シェラトンホテル広島の2階から見る。

左側がJR広島駅で、

向かい側に見えるのが、ホテルグランヴィア広島。







中央通路の階段とエレベータ以外の

ほぼすべての囲いが取り外された。







東側通路にある昇降口階段も

足場が取り外されて、

全体が見えるようになった。





…ん?

気になるところがあるので近づいてみると…。







階段の支柱がほかと違うとる。





ほかのところは円柱形の柱なんじゃが、

ここだけは、三角形の支柱が、しかも2つ取り付けてある。





…なんでじゃろ?







駅北口構内への入口上部に取り付けてあった足場が取り外されて

通路の下が見えるようになった。







へぇ~、こんな感じになっとるんじゃの。







中央通路の下、

東側にある階段の横には

ライトが取り付けてある。





階段を通る人のために

ここにライトを取り付けちゃったんじゃろうの。







新幹線口東交差点の南側にある中央通路の階段も、

全体が見えるようになった。







新幹線口東交差点の北側にある中央通路の昇降口には、

エスカレーターの踏板が取り付けてあった。











訪問日:2016年9月25日





今日は、JR広島駅北口改良工事について話をさせてもらいました。

ほいじゃあ、またの。
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仁保島西新開の堤防跡を歩く(その2)

2016年09月27日 | 見て歩き
御幸橋から千田廟公園まで

江戸堤

ブラタモリ 広島編






先日(9月24日)、

NHK総合で放送された『ブラタモリ 広島編』。





番組の中では、

案内人である広島市郷土資料館の学芸員・本田さんによって、

タモリさんが「江戸堤」と命名した干拓堤防跡が紹介された。







この干拓地は「仁保島西新開(にほじまにししんがい)」と呼ばれ、

江戸時代に比治山(ひじやま)の南側から、

海の中にあった仁保島(=今の黄金山(おうごんざん))までを

広島藩の事業として行った干拓地のことなんじゃ。





前回は前振りだけで終わってしもうたが、

今回から3回にわたってこの堤防跡を紹介していきます。





第1回目は、御幸橋(みゆきばし)から

千田廟公園(せんだびょうこうえん)までじゃ。





↓『ブラタモリ』については、こちら↓

「ブラタモリ」NHK





↓広島市郷土資料館については、こちら↓

広島市郷土資料館





御幸橋は、広島に流れる6つの川のひとつで、

東から2番目を流れる京橋川(きょうばしがわ)に架かる橋。





1885年(明治18年)、明治天皇が広島を訪問した時に

この橋を渡ったことから

「御幸橋」という名前になったそうじゃ。





「御幸(みゆき)」、「行幸(ぎょうこう)」いうのは、

天皇が外出すること。











1945年(昭和20年)8月6日、

中國新聞社のカメラマン、故・松重美人(まつしげ よしと)氏が

ここ御幸橋で写真を撮ったので

橋の西詰め南側にモニュメントが設置してある。





この写真は

広島に原爆が投下された当日、

市中心部で撮影された写真のうちの1枚なんじゃ。











橋の北東側には、

バレーボールのVプレミアリーグ・JTサンダーズの合宿所と、

広島市出身で「世界一のセッター」と呼ばれた

故・猫田勝敏(ねこだ かつとし)氏を記念した

猫田記念体育館がある。





↓JTサンダーズについては、こちら↓

JTサンダーズ「JT ウェブサイト」













橋の南側から御幸橋東詰交差点を渡って右へ曲がり、

自動車が入っている道を進むと…、













…いきなり、段差が!





左側が堤防跡で、

右側は明治時代、宇品港を築くために干拓された

「宇品(うじな)新開」。





「仁保島西新開」は後に

「皆実(みなみ)新開」呼ばれるようになった。





そのため、地名は

道の左側が皆実町6丁目で、

右側は宇品御幸1丁目になっとります。





余談じゃが、わしゃ小学2年生まで、

この皆実町6丁目に住んどったんじゃの。











さらに歩いて行くと…、











至る所に段差が残っとる。





人々はここで生活するために坂や階段を作り、

日常の生活を送っとられる。





こうなってくると、

「この段差はね、江戸時代にね…」

といちいち説明するもんじゃのうて、

日常にある生活の一部なんじゃろうの。





さて、タモリさんたち一行が歩いた道をはどこじゃろか?

と探してみると…、





…あった!











平和塔があって、

その昔、わしの遊び場じゃった皆実町緑地の

西側にあるこの路地を入ると…、











テレビで見たような建物が右側に見える。

左側の建物の丸い窓が分かりやすいかもしれん。











クランクを曲がると、

突き当たりに急な坂が見える。











横から見ると、確かに急な坂になっとる。

この坂を上ったところが堤防跡じゃ。











この坂を上ったところで、

タモリさんは道路の反対側を見下した。





タモリ

「こっち低いですね」





本田さん(案内人)

「坂道じゃなくて ストンと落ちているような」






…という会話があったんじゃが、

この場所を下から見上げてみた。





このあたりの段差は3~4メートルくらいあって

とっても分かりやすい。











堤防跡を歩いていくと、千田廟公園が見える。

木が生い茂っとるところがそうじゃ。





千田廟公園いうのは、

明治時代、宇品港を築くために尽力された、

広島県知事・千田貞暁(せんだ さだあき)を記念して建てられた公園。





この公園も、その昔、

わしの遊び場のひとつじゃった。











この交差点を、北側から見たところ。





この微妙な段差、

左側(堤防跡)が高う(=高く)て、右側が低いという高低差を

写真から理解してもらえるじゃろか?






訪問日:2016年9月25日





【参考文献】

(本田美和子「”街”を拓く~城下町に残る街づくりの痕跡~」(広島市郷土資料館「ひろしま再発見3」関連講座 2016年5月)






今日は、先日放送された『ブラタモリ』の中で

タモリさんが「江戸堤」と命名した「仁保島西新開」を

御幸橋から千田廟公園まで話をさせてもらいました。





次回は、千田廟公園から

広島県病院までを紹介していく予定じゃ。





ほいじゃあ、またの。
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仁保島西新開の堤防跡を歩く(その1)

2016年09月26日 | 見て歩き
仁保島西新開

江戸堤

ブラタモリ 広島編








(中國新聞 2016年9月24日)





毎週土曜の夜7時30分から、

NHK総合で放送中の

オールロケによる日本紀行バラエティ番組

『ブラタモリ』。





おとつい(9月24日)の放送は、

カープ優勝に沸く広島からじゃった。





いうても、ロケ自体は、

ネットで調べてみると、

3か月前の6月14日に行われとったらしいがの。





↓『ブラタモリ』については、こちら↓

「ブラタモリ」NHK





それにしても、

カープ優勝シーンの映像にかぶって流れた曲が、

『勝て勝てカープ』いうのには驚いた。





♪青いグランド 緑の風に

ひらく花びら 世紀のチーム

(『勝て勝てカープ』作詞:池田真琴、作曲:山本寿、歌:塩見大治郎)






わしが知る限りじゃ、

最近の広島の街で流れるカープの応援歌いうたら、

『それ行けカープ~若き鯉たち~』がほとんどじゃけぇの。





『勝て勝てカープ』を久しぶりに聞けて、

正直な話、うれしかった。





♪カープ カープ カープ広島

広島カープ

(『それ行けカープ~若き鯉たち~』作詞:有馬 三恵子、作曲:宮崎 尚志、歌:塩見大治郎)






↓『勝て勝てカープ』については、こちら↓

「塩見大治郎 勝て勝てカープ、EPレコード」YouTube





↓『それ行けカープ~若き鯉たち~』については、こちら↓

「広島東洋カープ それ行けカープ(注:南 一誠氏バージョン)」YouTube





それはさておき…。





番組の中で、「段差オタク」を自称するタモリさん。





案内人として登場されたのは、

広島で「段差」を語らせたら

おそらくこの人の右に出る人はいない(はず!)、

広島市郷土資料館(元広島城)学芸員の

本田美和子(ほんだ みわこ)さん。





番組の中でも紹介されとったが、

広島市は広島デルタという三角州の上に作られた街。





広島城自体が、「島普請(しまぶしん)」と言われ、

川の中州を埋め立てて、その上に建てられたもの。





ほいじゃけぇ、広島の街を広げていくためには、

広島城下の南に広がる瀬戸内の海を干拓して

広げていくしかなかったんじゃの。





干拓するときは、海に堤防を築いた後

海水をかき出して土を盛っていくけぇ、

堤防は干拓した土地よりも一段高う(=高く)なる。





そこで、「段差」ができる。





その「段差」には、

はっきりと分かるものから

ビミョ~なものまでいろいろあるんじゃが、

今に残るその痕跡(=海と陸地との段差)を探し出しておられるのが、

本田さん。





今年の5月、郷土資料館の企画展「ひろしま再発見3」の関連講座で

「”街”を拓く~城下町に残る街づくりの痕跡~」

というタイトルで話をされとられます。





また、2年前の2014年には、

「広島町新開絵図を読む」という企画展にもかかわっておられ、

本田自身さんによる解説も聞かせていただきました。





同じ頃、中國新聞の文化欄の緑地帯というコラム欄に

「城下町の…」というタイトルで連載をされたこともある

…はずじゃが、新聞の切り抜きをなくしてしもうたので、

これに関しては保留にさせてくだされ。





番組中で紹介され、

タモリさんが「江戸堤」と名づけた堤防は、

「仁保島西新開(にほじまにししんがい)」と呼ばれる

新開地の堤防跡。





「新開(しんかい)」いうのは、

新しく土地を拓く(開く)こと。





仁保島西新開は、江戸時代の寛文2年(1662年)、

比治山(ひじやま)の南側から、

海の中にあった仁保島(=今の黄金山(おうごんざん))

の大河(おおこう)あたりまでを、

広島藩が拓いた新開地のことなんじゃ。





今回は前振りだけで終わってしもうたが、

次回からは、仁保島西新開の堤防跡を紹介していきますけぇの。





↓広島市郷土資料館については、こちら↓

広島市郷土資料館





今日は、『ブラタモリ 広島編』

について話をさせてもらいました。





次回は、仁保島西新開を

御幸橋から千田廟公園まで紹介していく予定じゃ。





ほいじゃあ、またの。
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