通でがんす

いろんな広島を知って、ひろしま通になりましょう!
(旧ブログタイトル:通じゃのう)

石段の家 呉市両城

2011年04月29日 | 広島の話題
「昨日の「両城の200階段 呉市両城」の続きで、今日は石段の家じゃ」

「200階段よりまだ高いところにあるんじゃろ?」

「200階段を上りきった所にある両城中学校の、さらに上に石段の家があるんじゃ」




石段の家(遠景)

「どれが石段の家かいね?」

「2階の窓に、赤と白の旗がかかっとるのが、そうじゃ」



石段の家

「あぁ、分かった。で、あそこまで上っていくんじゃね」




石段の家の下

「うわ、最後の最後でこの坂があるんじゃね」

「わしゃ訪問者じゃけん、気が楽じゃ。毎日、上り下りをしようと思うたら、ぶち大変じゃがの」




石段の家の入口に取り付けられたプレート



石段の家から見た風景


「あぁ、やっぱり景色がええね」

「画面の真ん中の右側に見える赤い屋根が両城中学校の校舎で、その向こうに見えるのが呉港じゃ」




急傾斜地崩壊危険区域

「両城には、この看板があっちこっちに立っとったのう」

「傾斜地って、崖(がけ)のことじゃろ?」

「ほうじゃの。地面と斜面との勾配(こうばい)が30度以上で、高さが5メートル以上ある所にこの看板が立っとるそうじゃ」

「確かに、呉は傾斜地が多いよね。そういや、石段の家はどういう理由で作っちゃったんかね?」

「高齢化社会になったことと、若い人たちが出て行くことで、空き家の問題の深刻になっとるんじゃ。車が通れんような細い道で、しかも坂が多いとなると、何かと不便じゃけんの。そこで、坂道があることを逆手にとって、石段の家が作られたんじゃ」



”石段の家”プロジェクト

映画「海猿」などで有名になった「両城の二百階段」を喜々(きき)として登る人々がいる。
つまり、住民にとっては不便な「急斜面の石段を登ること」や「崖の上から海や船を眺める」という当たり前のことが、呉以外の人々にとっては”非日常的体験”であり、これぞ即ち”観光”といえるのではないか。

両城地区の海の見える空家を宿泊施設にすれば、観光客にも喜ばれ、空き家対策にもなるはず。

(冊子「NPO法人「くれ街復活ビジョン」について」)




「ほうじゃね。この親父のように、自分が高所恐怖症じゃいうことを忘れて、両城の200階段を喜んで上る人もおるけんね」

「出張で東京の立川に行くことがあったんじゃが、海も山も川もない関東平野のど真ん中におると、すごい違和感があったんよの。わしにとって、海も山も川もない場所というのは、「非日常的体験」になるんじゃろうの」




両城付近の呉の町並み



両城中学校付近から見た呉港






↓石段の家については、こちら↓

呉 石段の家





↓呉についての関連記事は、こちら↓

第六潜水艇殉難者之碑 鯛乃宮神社 呉市三津田町






「今日は、石段の家について話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

両城の200階段 呉市両城

2011年04月28日 | 広島の話題
「今日は、映画『海猿』(2004年)のロケ地で有名になった、両城(りょうじょう)の200階段を紹介しようかの」

「えぇ!? お父さん、ほんまに行ってきたん?」

「意を決して、行ってきたんよ」

「お父さんは高いところが苦手じゃけん、ちびったりせんかった?」

「それは、ノーコメントにさせてくれ」




両城小学校の裏手から見る

「これを見ただけで、わしゃ足がすくんでしもうたで」




両城の200階段入口

「あれ、ここが入口?」

「ほうなんよ。民家の横にある、ふつうの階段なんじゃが、ここから上っていくと…」




両城の200階段(下から)



両城の200階段(上から)


「ああ、これこれ。仙崎を始めとする海猿たちが、酸素ボンベを背負ってここを上りよったね」

「それは映画の話じゃ。本物の海猿たちは、ここで訓練をしたりはしませんけんの。念のため」




東北側の坂から両城の200階段を見る

「ほんまに、勾配(こうばい)が急じゃね」

「わしゃ、そんなに苦にせんかったが、体力のない人にはおすすめできんよの」

「それじゃ、うちはダメじゃね。高いところは平気じゃけど。ところで、お父さんはどうやって下りてきたん?」

「そこなんよ。わしも、上ったはええが下りるのはどうしょうかと悩んどったんよ。ほんなら、200階段の南側に緩やかな階段があったけん、そっちから下りてきたんじゃ」

「100万円あげるけん200階段を下りてきんさい、いうて言われたら、お父さんはどうする?」

「絶対に、いやじゃ!!!」




両城の200階段を上りきった所から呉市街地を見る

「あぁ、景色はええねぇ」




両城の200階段の案内板(両城中学横)

「両城の200階段の入口は両城小学校の裏手にあって、階段を上りきった所に両城中学校があるんじゃ」

「この階段を作った人も大変じゃったろうけど、階段を上り下りする人も大変じゃね」

「ほんまじゃのう」

「なんでこんな所に住むようになっちゃったんかね?」

「呉には平地が少ないんじゃ。その平地のほとんどを海軍が軍用地にしてしもうたけん、傾斜地に住むしかなかったんよの。この両城地区には、海軍士官が多く住んどられたそうじゃ」




両城の200階段から東北側の坂を見る



同上(下から)



同上(上から)






↓両城の200階段については、こちら↓

「映画「海猿」ロケ地紹介-両城の200階段」くれナビ





↓呉についての関連記事は、こちら↓

第六潜水艇殉難者之碑 鯛乃宮神社 呉市三津田町

石段の家 呉市両城






「今日は、両城の200階段について話をさせてもらいました」

「明日は、この上にある「石段の家」について話をしようかの。ほいじゃあ、またの」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旧海軍墓地 長迫公園 呉市上長迫町

2011年04月26日 | 広島の話題
「今日も戦艦大和の話題じゃ」

「最近、大和づいとるね。で、なんで旧海軍墓地なん?」

「ここには大和の碑もあるんじゃ。で、映画『男たちの大和/YAMATO』(2005年)のロケも行われたんじゃ」



↓映画『男たちの大和/YAMATO』の呉のロケ地については、こちら↓

「映画「男たちの大和/YAMATO」ロケ地紹介>旧海軍墓地」くれナビ



戦艦大和戦死者之碑



大和の勇姿




「旧海軍墓地には、合祀碑が約90基、個人の碑が約160基建立されとるそうじゃ」

「すごい数じゃね」

「海軍の知識があると興味深く見ることができるんじゃろうが、ちょっとわしの手には負えんよの」

「海軍墓地は、いつごろ作られたん?」

「1890年(明治23)じゃけん、呉鎮守府(くれちんじゅふ)が開庁したのと同じ年じゃの。海軍軍人の戦没者、殉職者等の埋葬地として設置されたんよ。戦前までは毎年、慰霊祭を行われとっちゃったんじゃ」

「戦後は?」

「一時は農地に転用する案もあったそうじゃが、昭和40年代から、碑が建立されるようになったんよ。ほいで、1986年(昭和61)に国から市に無償で譲与されて、今は長迫(ながさこ)公園として整備されとるんじゃ」




海軍墓地の碑




案内板




皇太子殿下御降誕記念樹の碑


「「昭和八年十二月廿三日」とあるけん、当時の皇太子、今の天皇陛下がお生まれになった日に植えられちゃったんじゃの。肝心の樹は見あたらんかったが」




英国水兵の墓碑

「ここだけ柵で囲ってあったんじゃが、なにかあったんじゃろうか?」










管理棟



手前に長迫公園、遠くに呉の海が見える






↓戦艦大和についての関連記事は、こちら↓

戦艦大和の原寸大ロケセット 呉市宝町





「今日は、旧海軍墓地について話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

キャンディーズとアミューズと広島と

2011年04月25日 | 日記
「今日はキャンディーズのスーちゃんこと、田中好子さんの告別式があったのう」

「テレビのニュースで見よったら、彼女の声でメッセージが流れたんよ。これにはやられたねぇ」



↓スーちゃんのメッセージについては、こちら↓

「スーちゃん肉声メッセージ全文 「幸せな、幸せな人生でした」MSN産経ニュース 2011年4月25日



「東日本大震災の被災者の方を心配して、天国でお役に立ちたいと言われとったよの」

「自分の死を意識しとるときに、他人に対してこれだけの気配りや思いやりができるもんなんじゃね」

「スーちゃんが亡くなった21日は、桑田佳祐や福山雅治のチーム・アミューズ!!のチャリティーソング「Let’s try again」の配信が始まった翌日にあたるんじゃ」

「あの曲はえかったね。うちゃ、ダウンロードしたよ。ほいでも、なんでスーちゃんからアミューズに話が飛ぶん?」

「アミューズを立ち上げた大里洋吉(おおさと ようきち)という方はもともと、渡辺プロでキャンディーズのマネージャーをしよっちゃったんよ」

「あぁ、そういう関係があるんじゃ。それにしても、アミューズって豪華メンバーじゃね。桑田さんの隣に福山さん、上野さんと、NHK大河ドラマの主人公が並んどってじゃけんね」

「アミューズ初期のころからのメンバーいうたら、三宅裕司や富田靖子に、活動休止の爆風スランプなんかがおってじゃの」

「うちゃ知らんかったけど、ポルノグラフィティやPerfume(パフューム)といった広島出身の人もおってんじゃね」

「アミューズ自体が、広島出身の原田真二(はらだ しんじ)を売り出すために作られたんじゃけんの」

「えぇ、ほんま?」



デビュー時の所属事務所アミューズは、現在は大手となっているが、渡辺プロダクションのマネージャーだった大里洋吉(現アミューズ会長)が渡辺プロダクション退社直後に原田を紹介され、原田のために設立したものであった。
アルバム(LP)中心のアーティストのためのプロダクションを経営したいと考えていた大里のところに、原田に最初に接触したバーニングプロダクションとフォーライフが原田のプロモーション・マネジメントを持ちかけた。
「マスメディアを使うにもバーニングでは原田との接点がない、フォーライフではマスメディアとの接点がないということで、ぼくが間に立つことになった」と大里は説明している。

(「原田真二」ウィキペディア)




「1977年(昭和52)の10月、「てぃーんず ぶるーす」でデビューして、翌11月に「キャンディ」、12月に「シャドー・ボクサー」をリリースしてデビューしたのは覚えとるじゃろ?」

「よう覚えとるよね。子ども心に、「男の人が、なんであんな声で歌うんじゃろうか」と思うたもんね」

「さっきも話したように、大里さんはキャンディーズのマネージャーじゃったんよ。大里さんは渡辺プロを退社してアミューズを設立した直後じゃったんじゃが、1978(昭和53)年4月の解散までの半年間、再びプロデューサーとしてキャンディーズに関わっちゃったんよ」

「原田さんは、ほったらかし?」



それで(’78年)4月4日の後楽園球場のさよならコンサートの演出も終わって、僕が原田君のために創ったアミューズに戻ってみたら、彼はしっかり外部の人に「アミューズにいたらキャンディーズみたいなアイドルタレントになっちゃうぞ」と洗脳されてたんです。

(「キャンディーズの解散、原田真二との別れ、そしてサザンオールスターズとの出会い」musicman-NET)




「原田さんはアイドルとして扱われるのは嫌じゃったんじゃろうの。結局はアミューズを辞めて、個人事務所を立ち上げちゃたんじゃ」

「アーティスト志向じゃったけんね。で、アミューズはどうなったん?」

「所属アーチストは、キャンディーズのバッグバンドMMP(ミュージック・メイツ・プレイヤーズ)をやっとったホーン・スペクトラムだけになったんよ。そのころはまだレコードを出しとってんなかったんじゃがの」

「ホーンスペクトラムって、新田一郎の?」

「ほうじゃ。で、原田さんがアミューズを辞めてから2週間後、大里さんはサザンオールスターズに出会ったそうじゃ。ほいでその年の6月に、サザンは「勝手にシンドバッド」でデビューしとってんよ」

「すごい出会いというか、タイミングじゃね」

「アミューズつながりで、サザンの初期の楽曲には新田一郎率いるホーン・スペクトラムが参加されとってんよ」

「あぁ、管編曲に「ホーン・スペクトラム」とか「新田一郎」とか書いてあるよね」

「スペクトラムに「ミーチャンGoing to the Hiokuen」という曲があるんじゃが、そこに出てくるミーチャンが大里さんの娘さんなんじゃ」



↓「ミーチャンGoing to the Hiokuen」については、こちら↓

「Spectrum「ミーチャンGOING THE HOIKUEN」」You Tube



「ん!? この曲はどっかで聞いたことがあるよ?」

「じゃろ? RCCラジオ『あっちゃんのSay春ing(せいしゅんあいえぬじー)』のテーマにも使われとったんじゃ」

「懐かしいね。あっちゃん(西田篤史)は今、RCCテレビで『イブニング・ふぉ~』をやっとってじゃ」

「アミューズと広島の話をしたが、キャンディーズも広島ナタリーのCMをやりよっちゃったしの」

「田中好子さんは、広島の原爆を描いた映画『黒い雨』(1989年)で最優秀主演女優賞をとっとってじゃしね」

「こうやってみると、いろんなつながりがあるよのう」

「いろんなつながりがあるけん、田中さんのように他人に気配りができる人になりたいね」





↓チーム・アミューズ!!「Let’s try again」については、こちら↓

チーム・アミューズ!!



↓「てぃーんず ぶるーす」については、こちら↓

「てぃーんず ぶるーす/原田 真二」You Tube



↓ホーン・スペクトラムについては、こちら↓

「「裕矢のテーマ」新田一郎&ホーンスペクトラム 1977年」You Tube





↓キャンディーズについての関連記事は、こちら↓

「追悼 キャンディーズのスーちゃん」





「今日は、キャンディーズとアミューズと広島と、ということで大里洋吉を中心に話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

戦艦大和の原寸大ロケセット 呉市宝町

2011年04月24日 | 広島の話題
「4月18日(月)に「50年の歴史に幕 呉シネマ閉館」ということで話をしたんじゃが、覚えとるかいの?」

「4月末で閉館してじゃけん、最後に『男たちの大和 YAMATO』や『男はつらいよ』を上映しよってんよね」

「大和つながりで、実物大の大和を紹介しようと思うんじゃ」

「えぇ、実物大!? そんなもんがあるんかいね?」

「映画ロケのために造ちゃったんよ」



広島県尾道市向島町(むかいしまちょう)の日立造船向島西工場跡地に、総工費約6億円をかけ、原寸大の戦艦大和ロケセットが造られた。
全長263メートルのうち、艦首から艦橋付近までの190メートルが再現された。
主に鉄骨と内装用のフレーム、ベニヤ板で建設された。

(「男たちの大和/YAMATO」ウィキペディア)




「ああ、びっくりした。全部じゃのうて、一部だけ造っとってんじゃ。それでも6億円かけとってんじゃね」

「それでも長さが190メートルもあるんじゃけんの」

「幅は?」

「最大幅が38.9メートルじゃ。今は大和ミュージアムの北東側にあるマリンビルに展示してあるんじゃがの」




尾道での展示風景

「う~ん、実物を見てみたかったのう」

「ロケ用じゃけん、艦橋とかは省略しとってんじゃね」




主砲砲身
94式45口径46センチ砲塔

大和に搭載された主砲の設計は、皇紀2594年(昭和9年、1934年)に採用・着手されたことから94式と呼ばれたが、太平洋戦争期間の戦艦の中でも群を抜いた巨砲だった。
また日本海軍最初の三連装砲塔ということもあり、一基あたりの重量は2,760トンと、駆逐艦一隻に匹敵する巨大なものとなった。
砲自体も砲口(ほうこう)から尾栓(びせん)頭までの砲身長20.7メートル(45口径。46センチの45倍)もあり、砲尾まででは約22メートルに、その重量は一門あたり165トンにもなった。
水圧で駆動する。

(説明板より)



「うわ~、砲身の長さが20.7メートルもあるんじゃね。しかも重量が165トン」

「計算式でいうと、こうじゃ。

 45口径46センチ=45(口径)×46(センチ)=2,070センチ=20.7メートル

 21メートル近くもあるけん、1枚の写真に入りきらんのじゃ。ほいじゃけん、正面から撮影しとります」

「とにかく大きいねぇ」

「大和にはこの主砲が、艦橋より前部に2基6門、後部に1基3門の合計9門が搭載されてとったんよ。ほいで、前からじゃ1番主砲、2番主砲、艦橋より後ろにあるのが3番主砲と呼ばれとったんじゃ」




副砲
3年式60口径15.5センチ砲塔

大和型の60口径15.5センチ砲塔(三連装)は最上(もがみ)型巡洋艦の主砲を取り外して搭載された。
砲塔は全周に厚さ2.5センチの装甲がはられ、砲塔内には24名の兵員が配置された。
15.5センチ砲の初速は920メートル/秒で砲弾は55キログラム。
1分間に7発までの発射が可能だった。

(説明板より)



「こっちも大きいね」

「建造時は4基据え付けられとったんじゃが、最終的には前後に1基ずつの計2基になったんじゃ」

「計算すると…、こうじゃね」

 60口径15.5センチ=60(口径)×15.5(センチ)=930センチ=9.3メートル



「それくらい長さがあるけん、天井を軽く突き破っとるじゃろ」






三連装機銃
96式25ミリ三連装

日本陸海軍は、多くの機銃の中でもフランスのホチキス社製の機銃がお気に入りで、長年コピーして使用している。
96式25ミリ三連装機銃は、13ミリ機銃と同じく銃口にラッパ状の消炎器を持ち、ペダル式の発射装置を踏んで打つ方式だった。
そのほかに、単装、二連装の3種類があるが、いずれも銃身にひだのついた空冷式で、1分間に220発までの射撃が可能だ。
全長2.4メートル、三連装のものは重量1.8トンにもおよぶ機銃だった。
最大射程は7,500メートルで、距離3,500メートルから射撃を開始するが、1,500メートル以下でないと敵機に致命傷を与えることが出来なかった。

(説明板より)






「これらを大和ミュージアムにある10分の1大和で紹介すると、写真中央に2番主砲があって、その右手に副砲があるんよの」




「ほいで、2番主砲の上両側2ヵ所と、甲板上に三連装機銃があるんじゃ」




高角砲
89式40口径12.7センチ連装

航空機を目標に射撃する砲が高射砲だが、大和には日本海軍の主力高角砲としてほとんどの艦が搭載した89式40口径12.7センチ連装高射砲が搭載された。
砲身長4.9メートル、砲身重量3トンで、砲架などの全重量20トンを直流220Vのモーターで動かした。
砲は11人で操作され、発射速度は1分間に14発、2連装で1基あたり28発の弾丸が発射できた。
当初は6基12門が設置されていたが、昭和18年、2番、3番副砲を撤去した後に高角砲6基が追加設置され、計12基24門となった。

(説明板より)



「副砲を4基から2基に減らした分、高角砲を追加しちゃったんじゃね」

「両舷(りょうげん)に据え付けてあった副砲2基を取り払ったんよ。大和は空からの攻撃に対する守りが足りんかったけん、それを強化するに高角砲を追加したんじゃ」




三連装機銃(シールド付)





「これらをもう一度、大和ミュージアムにある10分の1大和で紹介すると、この写真では、高角砲が上側に3基、三連装機銃(シールド付)は手前の舷側(げんがわ)に6基あるんじゃ」

「三連装機銃にシールドが付いとるのと、付いてないのがあるのはなんでなん?」

「それはの、大和が主砲を撃つとものすごい衝撃波が起きるけぇじゃ。大和と同型艦の武蔵が主砲を撃ったら、甲板におった乗員がみんな飛ばされたという、ウソのような本当の話があるそうじゃ」

「衝撃がすごいというのはわかるけど、人が吹き飛ばされるもんかね?」

「詳しいことはわからんが、とにかく大和が主砲を撃つ時は、ブザーを鳴らして警告したそうじゃ。1回目のブザーで甲板におる乗員は艦内に退去して、2回目のブザーで主砲を発射するという手順を踏んどったそうじゃ」




『男たちの大和 YAMATO』パネル





↓戦艦大和の原寸大ロケセットについては、こちら↓

「原寸大・大和ロケセット」おのなび





「今日は、戦艦大和の原寸大ロケセットについて話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする