通でがんす

いろんな広島を知って、ひろしま通になりましょう!
(旧ブログタイトル:通じゃのう)

まめでがんす

2022年03月27日 | 広島弁
わしは毎日、必ずひとパックは
納豆を食べる。

今日も納豆を食べようと
冷蔵庫を開けてみると、
この納豆が入っとった。



商品名の「まめでがんす」は、
納豆の「豆(大豆)」に、
広島弁の「まめ」をかけたもの。

広島弁で「まめ」って
どういう意味じゃろ?





今日は、
広島弁「まめ」
についての話でがんす。






広島弁の「まめ」は、
「元気」とか、
「達者(たっしゃ。
からだが丈夫で健康なこと)」とかいう
意味の言葉。

ほいじゃけぇ、「まめでがんす」は、
久しぶりに会った人に
「お元気(達者)ですか?」
と尋ねるときに使う言葉なんじゃの。

最近、「達者」いう言葉を
使わんようになったように、
「まめでがんす」という言葉も
使うことがないよなった。

というか、最近では
この言葉を聞くこと自体が
ないよなったよの。

県北に住んどった
わしの母方のばあさんは、
「まめにゃー、ありますかいの
(=達者で暮らしていましたか)」
と、会うたんびに言うてくれよった。

また、自分のことを、
「わしも、まめでがんしたで
(=私も達者に暮らしていますよ)」
とも。


マメは、生活の平穏無事なこと、健康なことなど、相手の生活全般を思いやって使われる。
「お変わりなく」よりも、相手への思いやりの心情が深い。

(町 博光『ひろしまべん100話』渓水社 1999年 18ページ)






以下、余談。


先に書いたとおり、
わしのばあさんは自分のことを
「わし」と呼びよった。


男言葉のように思えますが、かつては女性も使っていました。
(略)
今でも老年層では男女とも自分のことを「わし」という人がいますが、残念ながら若年層で使う人はかなり少なくなってしまいました。

(監修/灰谷謙二『これが広島弁じゃ!』洋泉社 2016年 15ページ)






今日は、
広島弁「まめ」
について話をさせてもろうたでがんす。


ほいじゃあ、またの。
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世界初のOVA『ダロス』サントラ 最新リマスタリングで復活!

2022年03月23日 | 音楽
今から39年前の1983年12月、
世界初のOVA(オリジナルビデオアニメ)
『ダロス(DALLOS)』が発売された。

その『ダロス』のサウンドトラックが、
今日(3月23日)、最新リマスタリングで
タワーレコード限定でCD販売される。


↓『ダロス』サウンドトラックについては、こちら↓

「原作・脚本:鳥海永行、監督・脚本・演出:押井守の師弟コンビによる世界初のOVA作品で、音楽を新田一郎と難波弘之が手掛けた『ダロス』サウンドトラックCDが2022年最新リマスタリング、タワーレコード限定で3月23日発売」タワーレコード





今日は、
世界初のOVA『ダロス』のサントラと
その製作秘話(?)
についての話でがんす。





OVA(オーブイエー)、
オリジナルビデオアニメとは、
ビデオのために作られたアニメ作品。
それまでのアニメ作品は、
映画で上映するか、
テレビで放送することを前提に
作られたものだった。
それを、ビデオという新しいメディアに
合わせた作品として制作された。

『ダロス』は、もともと、
打ち切りが決まっていたテレビアニメ
『魔法のプリンセス ミンキーモモ』
(1982年-83年、制作:葦プロ)
の後番組として企画された。
しかし、『モモ』の放送延長が
決まったことでこの企画は流れる。
また、男の子向けにキャラクター展開
できる番組の企画を、という話だったが、
それも難しいそうだということで、
テレビシリーズの企画としては断念した。

のち、ビデオの企画として復活。
1983年12月21日、
「世界初のOVA」という触れ込みで
バンダイの「EMOTION(エモーション)」
レーベルから発売された。


↓EMOTIONロゴ動画については、こちら↓

「Bandai - Emotion」YouTube


『ダロス』は
どんな物語かというと…。


21世紀末--。
人口増加や資源枯渇など諸問題を抱える地球連邦政府は、その解決策として月面開拓を計画する。
月からの鉱物資源によって、地球はふたたび豊かになる。
その一方で、月の裏側に建設された都市「モノポリス」に住まわされたルナリアン(月面開拓民)たちは、その生活を徹底的に管理され、地球に対して不満を抱いていた。
反連邦政府の機運が高まる中、ルナリアン第三世代が、自由と独立を求めて起ち上がる!
主人公のシュン・ノノムラ、幼なじみのレイチェルは、ゲリラのリーダー、ドグ・マッコイが主導する独立運動に巻き込まれていく。
一方、月面都市統轄局の司令官、アレックス・ライガーは、彼らの要求を拒絶、武力を持って鎮圧しようとする。



↓『ダロス』については、こちら↓

「ダロス」株式会社ぴえろ 公式サイト


タイトルとなっている「ダロス」は、
モノポリスの近くの月面にある
巨大な機械構造物。
ルナリアンたちは、
このダロスを神のように思っていた。

テレビシリーズ(全52話)の設定では、
ダロスとは古代人が月面に残した
巨大な通信機で、物語のラストに
宇宙の彼方からメッセージが届き、
ルナリアンたちはそれに乗って
新天地へ脱出するという、
壮大な物語だったという。

OVA『ダロス』は、
その壮大な物語の序章を描く物語。
当初は全3話、
3話×各30分=90分
の予定だったが、
それでは収まりきらなかったため、
第3話を前・後編での発売となった。

最初に書いたとおり、『ダロス』は
世界初のOVAとして発売された。
とはいえ、このころはまだ、
すべての家庭にビデオデッキが
普及していないころ。
街中にビデオレンタル屋が
でき始めたころ。
「ビデオ戦争」といわれる、
VHS(ブイエイチエス)対β(ベータ)の
激しい争いがあったころ。
…だったと記憶する。







『ダロス』の音楽は、
ブラス・ロックバンド
スペクトラムのリーダー
新田一郎(にった いちろう)さんと、
プログレッシブ(プログレ)・ロック
第一人者で、キーボード奏者の
難波弘之(なんば ひろゆき)さん
が担当した。
そのため、サントラの帯には
次のように書かれている。


伝説のスペクトラム・サウンド&プログレ・サウンドのハイブリッド・ミュージック


「ハイブリッド(「組み合わせる)」は、
今では「ハイブリッドカー」などで
知られるようになった言葉だが、
このCDが発売された1984年当時は、
あまり知られていない言葉だった
と記憶する。


↓『ダロス』サウンドトラックについては、こちら↓

「Dallos OST - Opening Theme」YouTube


新田さんと難波さんは、
以前から交流があった。
難波さんが司会を務める
『マツダ・ザ・ミュージック』
というFM番組に新田さんが出演、
「トランペッター・ベスト10」
について話をした回があって、
それをカセットテープに録音したものが
手元に残っている。
(放送年月日、不明)





『ダロス』の原作は、
『科学忍者隊ガッチャマン』をはじめ
数多くのタツノコ作品を手がけた
鳥海永行(とりうみ ひさゆき)さんが、
監督は、鳥海さんの弟子にあたる
押井 守(おしい まもる)さん
が手がけた。
しかし、人間ドラマにしたい鳥海さんと、
状況描写に重きを置きたい押井さん
との間で方向性が全く違ったため、
あらゆる場面で対立、
現場が混乱したという。


あれは現場がかわいそうだったよね。監督が二人いるんだもの。スタッフが言ってた。「どっちの言うことを聞いたらいいんだよ」って。

(『ロマンアルバム 攻殻機動隊 PERSONA 押井守の世界』徳間書店 1996年 P47)



音楽の面でもふたりは対立。


いちばん参ったのは、音楽なんです。僕が最初、「民族音楽風のリズムでいってくれ」って。「アルジェの戦い」みたいなの。あれがいいんだ、リズム主体で作ってくれと。
(略)
上がってきたのが演歌だった。

(同上)



この音楽が気に入らなかった
押井さんは、『紅い眼鏡』(1987年)から
川井憲次(かわい けんじ)さん
とコンビを組むことになる。
一方、この音楽をいたく気に入った
鳥海さんは、OVAでの次回作となる
『エリア88』(1985年から1986年)
でも新田さんを起用した。





今日は、
世界初のOVA『ダロス』のサントラと
その製作秘話(?)
について話をさせてもろうたでがんす。


ほいじゃあ、またの。
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古葉人形、復活!

2022年03月21日 | スポーツ
今日、3月21日午後2時から、
「カープレジェンドゲーム」が
マツダスタジアムで行われ、
広島テレビで放送がある。

OBによる紅白戦や
歴代4番バッターによるホームラン競争、
そして、夢のレジェンド対決
(江夏 豊 対 山本浩二
黒田博樹 対 新井貴浩)など、
手に汗握る対決が予定されている。


↓カープレジェンドゲームについては、こちら↓

Carp Legend Game -共に立ち上がろう。広島は屈しない-


このゲームで、
伝説の古葉人形が復活するという。





今日は、
古葉人形と古葉監督
についての話でがんす。





「古葉人形」とは、
昨年11月に亡くなった
古葉竹識(こば たけし)
元監督の顔に似せて、
私設応援団が作ったかぶりもの。

縦60センチ、横40センチ、
奥行き45センチの発泡スチロール製。

カープが初優勝した1975年から10年間、
私設応援団のメンバーがかぶって、
三塁側スタンドから応援していた。

往年のファンの方なら、
「あぁ、あれか」と思い出して
いただけるはず。




背番号72のユニフォームを着て、
手を叩いているのが古葉人形

(津田一男:編集『赤ヘル激闘譜 1975 広島東洋カープ優勝までの全試合』中国新聞社 1975年10月25日)



↓古葉人形については、こちら↓

「カープ「古葉人形」復活 21日のレジェンドゲームに登場」YouTube





古葉さんは1936年、
熊本市生まれ。

野球で専修大学に入学するが、
家庭の事情で中退。
日鉄二瀬を経て、
1958年にカープに入団。

プロ6年目の1963年は
開幕から打撃が好調、
オールスター戦に初めて選ばれる。
後半戦も安打を量産し、
同じ1958年に入団した大スター
長嶋茂雄(ながしま しげお)さんと
首位打者争いを演じた。
が、残り13試合となった
10月12日の大洋戦で、
あごに死球を受け骨折。
長島さんの打率.341、
古葉さんの打率.339と、
わずか.002(2厘(りん))差で
タイトルを奪われた。

翌1964年は、死球の後遺症から
打席で腰が引けてしまい、打撃不振に。
悩んだ末に盗塁に活路を求め、
自己最多の57盗塁で
盗塁王のタイトルを獲得。
1968年にも39盗塁で
2度目の盗塁王を獲得し、
カープも球団創設以来、
初のAクラス入りを果たす。
この時の経験が、古葉野球の代名詞である
「走る野球」の礎となった。

1970年、トレードで
パ・リーグの南海へ。
当時の南海は、
野村克也(のむら かつや)さんが
選手兼任監督で、それを
コーチのドン・ブレイザーさんが支える
という形をとっていた。
ブレイザーさんは、日本に
「シンキング・ベースボール」
を持ち込んだ人。

野球は右の耳と左の耳との中間でするものだ。

これがブレイザーさんの口ぐせだった。
のちに野村さんが提唱した
「ID(アイディー)野球」は
彼から受けた影響が大きい。
現役を引退した後の1972年、
南海のコーチとなった古葉さんは、
監督となった後の1978年、
一軍守備兼ヘッドコーチとして
ブレイザーさんをカープに招いている。

3年連続セ・リーグ最下位に終わった
カープは、翌1975年、
日本球界初の大リーグ出身監督として
ジョー・ルーツさんを招く。
ルーツ監督は、
チームの帽子の色をそれまでの紺色から
燃える闘志を表す赤色に変えた。
が、開幕からわずか15試合目、
4月27日の阪神戦で
判定を巡るトラブルから辞任・帰国。
彼は次のような言葉を残した。

可能性があれば失敗を恐れず最後まで全力を尽くせ

ルーツの後を継いで監督に就任したのが、
前年の1974年に古巣・カープに復帰した、
当時39歳の古葉さんだった。
その年齢から「青年監督」
という呼び方もされた。

「カープが元気がいいのは
鯉のぼりの季節(5月の節句)まで」
と言われていたが、5月17日に首位に立ち、
その後も快進撃を続ける。
この年のオールスター戦でも、
カープの主軸2人、
山本浩二(やまもと こうじ)さん
衣笠祥雄(きぬがさ さちお)さんが、
第1打席・第2打席と続けて
アベックホームランを打つ。
こういったカープの活躍は、
カープの赤いヘルメットにちなんで
「赤ヘル旋風」と呼ばれた。

そして10月15日、後楽園での巨人戦に勝ち、
球団初のリーグ優勝に輝いた。
中国新聞の記者・津田一男さんは、
次のようなコラムを書いた。

真っ赤な、真っ赤な、炎と燃える真っ赤な花が、いま、まぎれもなく開いた。
(略)
苦節二十六年、開くことのなかったつぼみが、ついに大輪の真っ赤な花となって開いたのだ。



(同上 1ページ)



あぁ、古葉監督の胴上げシーンは
いつ見てもええのう。





以下、余談。


かぶりもの関係でいうと、
広島市内の本通り商店街で行われた、
カープ優勝パレードの1シーン。



(同上 77ページ)

各選手に似せたかぶりものの
カープ選手が練り歩くところに、
本物の古葉監督が飛び入り参加したところ。





以下、さらに余談。


次は、かぶり物でなく
着ぐるみ。



(同上 53ページ)

「なんじゃ、こりゃ!?」
と思われた方も多いと思います。

写真に写っているのは、1970年代、
広島県比婆郡(ひばぐん)で目撃された
「ヒバゴン」と呼ばれる謎の類人猿。

身長は約1.6メートル、
逆三角形の顔で、
ゴリラに似た体つきをしている。


「ヒバゴンは、いざなみのみことが眠る比婆山の守護神、必ず勝つ」
(略)
ご利益あってか、7-4で広島の快勝。
ヒバゴンは意気揚々と引き揚げていった。



うーん、こんな形で
カープを応援していたんですね。
知らんかった。

10月5日、広島市民球場で行われた
巨人戦でのヒトコマでした。


↓ヒバゴンについては、こちら↓

「ヒバゴン~実在した、謎の類人猿~」庄原観光ナビ 【公式】広島県庄原市観光情報サイト






【参考文献】

「生きて(再録)プロ野球広島東洋カープ元監督 古葉竹識さん」中国新聞セレクト 2021年10月9日から27日

「古葉人形「再登板」」中国新聞 2022年3月16日






今日は、
古葉人形と古葉監督について
話をさせてもろうたでがんす。



ほいじゃあ、またの。
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サエコ、コウフクダッタネ

2022年03月20日 | まんが・テレビ・映画
映画『ゴジラ』(1954年)をはじめ、
舞台やテレビで活躍された俳優の
宝田 明(たからだ あきら)さんが、
3月14日、肺炎のため亡くなられました。
87歳でした。

ご冥福をお祈りいたします。
合掌。





今日は、宝田 明さんの戦争体験と
映画『世界大戦争』
についての話でがんす。





宝田 明さんは1934年、
旧満州(まんしゅう)で生まれる。

戦後の1953年、
東宝ニューフェイス6期生として
俳優生活をスタート。

同期には、
『ゴジラ』でヒロインを演じた
河内桃子(こうち ももこ)さん、
『空の大怪獣 ラドン』(1956年)で
主役を演じた
佐原健二(さはら けんじ)さん、
『仮面ノリダー』で
「ファンファン大佐」を演じた
岡田眞澄(おかだ ますみ)さん
などがいる。

先に書いたとおり、
『ゴジラ』で主役を演じるなど
200本以上の映画に出演。

また、『アニーよ銃をとれ』で
ミュージカルに挑戦、
舞台俳優としても活動。

今月10日には、来月公開予定の
映画『世の中にたえて桜のなかりせば』の
完成披露舞台挨拶に出席した
ばかりだった。


↓映画『世の中にたえて桜のなかりせば』については、こちら↓

映画『世の中にたえて桜のなかりせば』東映ビデオオフィシャルサイト





その宝田さんは、
少年時代の戦争体験を
語っておられます。

先に書いたとおり、宝田さんは
1934(昭和9)年、旧満州で生まれる。
旧満州は中国の東北部にあって、
1932年に日本が植民地にしたところ。

1945(昭和20)年、
宝田さんが11歳の時、
日本は戦争に負けた。




途端にソ連軍が押し寄せてきて、町を占拠し、略奪暴行の限りを尽くすのを目撃しました。

(「映画ファンに反核訴え
宝田明 米で戦争体験語る」
中国新聞セレクト 2019年9月11日)



ある日、宝田さんは
貨車で連行される日本兵を見た。
行方不明になっていた
兄がいるかもしれないと、
貨車に近づくと…。


見回りのソ連兵がいきなり銃を撃ち始めた。必死で家に逃げ帰りましたが、脇腹を撃たれ血だらけ。

(同上)



傷口が膿(う)んできてたので、
元軍医という人が弾を取り出した。


人間の肉を切ると、ジョリっと音がするんです。絶叫しました。握りしめていたベッドの柵が曲がっていました。

(同上)



宝田さんに打ち込まれたのは
ダムダム弾だったという。

ダムダム弾は、
非人道的兵器であるという理由で、
1907年のハーグ会議で
使用が禁止されていた。





宝田さんは『ゴジラ』俳優として有名で、
先に紹介した記事も
世界最大のゴジラファンの祭典
Gフェストでの話である。

1作目の『ゴジラ』は、
核兵器反対を打ち出した作品。

しかし、わしとしては
宝田さんが出演された
映画『世界大戦争』(1961年)
を紹介したい。

どんな話かというと…。


第二次世界大戦が終わって
16年。

しかし、世界は東西2大陣営に分かれ、
核兵器を手に互いににらみ合っていた。

外国人プレスセンターの運転手・田村茂吉
(演:フランキー堺(さかい))は、
戦後日本の復興を信じながら
家族5人でささやかな幸せを築いていた。

が、世界情勢が緊迫し、
あることがきっかけで
全面戦争に突入してしまう。



(『世界大戦争』ポスター
『東宝特撮映画DVDコレクション No.40 世界大戦争』デアゴスティーニ 2011年4月)



↓『世界大戦争』については、こちら↓

「世界大戦争 (1961) - 日本版 予告編 (復興)」YouTube


宝田さんは、
田村の家に下宿し、長女・冴子
(演:星 由里子(ほし ゆりこ))と
恋仲の航海士・高野を演じている。

世界情勢が緊迫する中、
高野は笠置丸で航海に出ることになり、
その前夜、ふたりは結婚する。




今ならスマートフォンで連絡が取れるが、
当時は電話がない家もある時代。

船に乗る高野と、
陸(おか)にいる冴子の
通信手段となったのが
アマチュア無線。

東京に向けて
核兵器が発射されたことを知った
高野と冴子は最後の通信をする。




サエコ サエコ コウフクダッタネ




タカノサン アリガトウ



笠置丸は、核兵器で壊滅した
日本に帰ることを決断。
炊事長の江原
(演:笠 智衆(りゅう ちしゅう)
は、船員たちにコーヒーを振る舞ったあと、
誰に言うともなくつぶやく。




人間は素晴らしいもんだがなぁ…。
一人もいなくなるんですか…、地球上に…。









以下、余談。


今から6年前、宝田さんは
核兵器廃絶や平和をテーマにした
取材活動をする
中国新聞ジュニアライターから
取材を受けた。
宝田さんは、「不戦不争」と書いた
色紙を彼らに贈った。

憎しみしかもたらさぬ戦争を許すな、絶対に-。
そう読める4文字をかみしめている。

(「天風録」中国新聞 2022年3月20日)



↓中国新聞ジュニアライターについては、こちら↓

「ジュニアライター発信」中国新聞ヒロシマ平和メディアセンター





以下、さらに余談。


この映画で父ちゃん役を演じた
フランキー堺さんは、
テレビ版・映画版の両方に主演した
『私は貝になりたい』
での熱演を買われてのこと
と思われる。
また、1961年には映画『モスラ』にも
出演している。

母ちゃん役の
乙羽信子(おとわ のぶこ)さんは、
広島出身の映画監督・
新藤兼人(しんどう かねと)の
『原爆の子』(1952年)に出演。

監督の
松林宗惠(まつばやし しゅうえ)さんは
島根県出身だが、
広陵中学(現・広陵高校)の卒業である。

広陵高校といえば今日、
3月20日の第1試合(9時試合開始)で
福井県の敦賀気比高校と対戦する。

映画『世界大戦争』については、
フランキー堺さん目線で
語りたいことがあるが、
それはまた後日の話として…。





今日は、宝田 明さんの戦争体験と
映画『世界大戦争』
について話をさせてもろうたでがんす。


ほいじゃあ、またの。
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大きいことはいいことだ!~山本直純さん

2022年03月06日 | 音楽
昨日(3月5日)の深夜、
トイレに行った後
布団の中でウトウトしていると、
耳元に置いている携帯ラジオから
ある歌が流れてきた。

♪アースがうんだ 正義はマグマ
地球の平和を まもるため
(「マグマ大使」
作詞:長谷川 竜生、歌:コール東京)


1966年から1967年にかけて
フジテレビで放送された
特撮テレビ番組『マグマ大使』
(制作:ピー・プロダクション)
の主題歌である。

思わず口ずさんでしまった!


↓「マグマ大使」については、こちら↓

「マグマ大使 Opening」YouTube


この日のNHKラジオ『ラジオ深夜便』
午前3時台は、作曲家の
山本直純(やまもと なおずみ)さん
の特集だった。





今日は、
「大きいことはいいことだ!」のCMで
一世を風靡(いっせいをふうび)した
作曲家・山本直純さん
についてでがんす。





山本さんは、
1932年(昭和7年)東京生まれ。

東京芸術大学の作曲科に入学、
のち指揮科へ転じる。

そのむかし、TBSのテレビ番組
『オーケストラがやって来た』で
指揮をされていたのは、
そういう理由だったんですね。





山本さんが生涯に手がけた曲は、
4000曲以上といわれている。

たとえば…、
『男はつらいよ』、
『8時だョ! 全員集合』、
『ミュージック・フェア』など
映画・テレビのテーマ音楽。

「一年生になったら」、
「歌えバンバン」、
「こぶたぬきつねこ」(作詞も担当)
などの子ども向けの歌。

そして、
♪大きいことはいいことだ
の森永エールチョコレート、
♪戸締り用心 火の用心
の日本船舶振興会などの
コマーシャル(CM)ソング。

森永エールチョコレートの発売が
1967年(昭和42年)というから、
わしが4歳の時。
テレビで観て、このCMが
すり込まれたのだろう。
今でもちゃんと歌えます。


↓森永エールチョコレートのCMについては、こちら↓

「【懐かCM・1967~68年】森永エールチョコレート「大きいことはいいことだ」」YouTube


また、このころの山本さんが
次のようなイメージであったことが
わかる。


当時、型破りでひょうきんな指揮者として人気を博しつつあった山本直純を起用した「大きいことはいいことだ」のテレビCMだった。

(「エールチョコレート」森永ミュージアム)



日本船舶振興会といえば、
1975年から1982年にかけて
テレビ朝日で放送されたテレビアニメ
『一休さん』(制作:東映)の
スポンサーだったので、
このCMは毎週のように見ていた。
先頭に立って纏(まとい)を
振っているのが山本さんです。


↓日本船舶振興会のCMについては、こちら↓

「戸締り用心 火の用心 完全版(月曜~日曜)」YouTube





以下、わしにとっての
山本直純ベスト3を紹介していこう。

ベスト3は、
風と雲と虹と、
恐怖の町、そして
明日の心だ。


■風と雲と虹と


『風と雲と虹と』は、
1976年に放送されたNHK大河ドラマ。
現在放送中の『鎌倉殿の13人』も、
大河ドラマの中では古い時代の
平安末から鎌倉前期が舞台だが、
この作品はそれよりも前の
平安中期を舞台にしている。

平 将門(たいらのまさかど)は、
京の都から遠く離れた坂東(ばんどう。
関東)の地で独立を宣言、
自らを新皇(しんのう)を名乗る。
将門はしかし、
朝廷に反旗を翻(ひるがえ)したことで
逆賊として討伐される
…という物語だった。

今から思えば、
『風と雲と虹と』から始まって、
『花神(かしん)』、
『黄金の日日』と、
わしの中学3年間は、
NHK大河ドラマとともに過ごした
3年間でもあった。

この作品のオープニングは、
演奏のバックに流れる
重々しいコーラスが
とにかくかっこいい。


↓「風と雲と虹と」オープニングについては、こちら↓

「風と雲と虹とop」YouTube


お聞きのとおり、
オープニングは演奏のみだが、
本作の脚本を担当した
福田善之(ふくだ よしゆき)さんが
作詞を手掛けた歌もある。

主役の平 将門を演じた
加藤 剛(かとう ごう)さんと、
演歌界の大御所
村田英雄(むらた ひでお)さんが、
それぞれ歌われています。


↓「風と雲と虹と」加藤 剛版については、こちら↓

「加藤剛歌「風と雲と虹と」」YouTube


↓「風と雲と虹と」村田英雄版については、こちら↓

「風と雲と虹と 村田英雄」YouTube


(村田英雄「風と雲と虹と」東芝EMI)


余談じゃが…。

村田英雄版のB面に入っているのが、
「ひとり笛」という曲。
これは、平 将門を陰から支えた
スパイや忍者のような存在の
(とにかく、足が速い!)
鹿島玄明のテーマ曲。
この鹿島玄明を演じたのが、
新人でまだ若かりし頃の
草刈正雄(くさかり まさお)さん
でした。


↓「ひとり笛」については、こちら↓

「ひとり笛 村田英雄」YouTube


■恐怖の町


「恐怖の町」は、
1968年から1969年にかけて
TBSで放送された特撮テレビ番組
『怪奇大作戦』
(制作:円谷プロダクション)
の主題歌。


(桑田次郎『怪奇大作戦』朝日ソノラマ 1999年)

主題歌といっても、
エンディングで使われている。
子ども向け番組で
主題歌がエンディングに流れるのは
珍しかった。
オープニングに流れるのは、
本作で劇伴を担当した
玉木宏樹(たまき ひろき)さん
が手掛けた20秒ほどの
「メインタイトル」。


↓「メインタイトル」と「恐怖の町」については、こちら↓

「サニー・トーンズ「恐怖の町」」YouTube


(「SF特撮TV音楽全集3 怪奇大作戦・ウルトラセブン」キングレコード 1986年)


この時点(1986年)では、
『怪奇大作戦』単独でLPを出せるほど
音源が発見されなかったため、
『ウルトラセブン』との
カップリングになっている。


■明日の心だ


「明日の心だ」は、
『小沢昭一の小沢昭一的こころ』の
テーマ音楽。
『小沢昭一の小沢昭一的こころ』は、
1973年から2012年まで
月曜から金曜までの平日の10分間、
TBSラジオで放送された番組。
放送回数が10,410回を誇る
ご長寿番組でもある。

わしが敬愛する
小沢昭一(おざわ しょういち)さんが
毎週ひとつテーマについて
その軽妙な話術で語る、
というものだった。
わしが子供のころ、夕方になると
おふくろが聞いていたラジオから
流れてきた番組である。

20秒ほどのテーマ音楽に、
番組のナレーションを務めた
藤田恒美(ふじた つねみ)さんの声で、
今日は「(その週のテーマ)」について考える。
口演(こうえん)・小沢昭一。
筋書き・(作家の名前)。
お囃子(おはやし)・山本直純。
の紹介が入る。


余談じゃが…。

この音源、実は
NHKになかったので、
中古で手に入れて
放送されたそうです。
逆にいうと、
中古で手に入れてまでも
放送したかった曲ともとれた。


↓「小沢昭一の小沢昭一的こころ」については、こちら↓

「小沢昭一 オープニング」YouTube





以下、余談。


先に、
山本さんが生涯で手がけた曲は、
4000曲以上といわれている
…と書いた。
山本さんの弟子で、
『怪奇大作戦』の劇伴を手がけた
玉木宏樹さんは、
次のように語っている。


当時は、師匠の名前で弟子が曲を書くことが多かったんです。
(略)
『男はつらいよ』のイントロとアレンジは僕やってますから。山本直純音楽監督ですから、いわゆる直純節の曲を意識して書きましたけど。

(荻野友大・白石雅彦・なかの陽『怪奇大作戦大全』双葉社 2001年 206ページ)


山本さんが書いたメロディに、
玉木さんがイントロとアレンジを加えて
今のような形になったというのだ。
もちろん、山本さんの
凄さについても触れている。


1日に4本テレビの音楽録ったことがありますよ。その日の最後が40人編成(オーケストラ)で、何にも曲書いてない。そうしたら「大丈夫だ、俺に任せろ」ってダーッと書いちゃう。その頃はそれくらい実力があって仕事の鬼でした。

(同上)






今日は、
作曲家・山本直純さん
について話をさせてもろうたでがんす。

ほいじゃあ、またの。
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