通でがんす

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(旧ブログタイトル:通じゃのう)

映画『聯合艦隊司令長官 山本五十六』

2011年12月31日 | まんが・テレビ・映画
「昨日は、大和ミュージアムに展示してある「特殊潜航艇 甲標的甲型」の話じゃったね」

「大和ミュージアムには、12月23日(金)から劇場公開されている映画『聯合艦隊司令長官 山本五十六』についても展示してあるけぇ、今日はそれを紹介してみようかの」




大佐 第一種軍装


同上 襟章


同上 袖章
(撮影日:2011年12月18日)



「大佐の服が展示してあったけど、山本さんの階級は?」

「1940(昭和15)年11月に海軍大将になられたけぇ、映画の中での階級は大将じゃの」

「映画で使われた衣裳が大和ミュージアムに展示してあるのは、なんでかね?」

「海軍つながりということもあるじゃろうし、呉でロケがあったということもあるんじゃろうの」

「呉でロケをしちゃったん? いつごろ?」

「今年の7月4日から9日にかけて行われたそうじゃ」



【御手洗町並み保存地区 7月4日・5日】

日本が真珠湾奇襲攻撃の成功に沸く中、呉に停泊中の「大和」を降り、町へと出かける山本五十六長官(役所広司)と三宅義勇参謀(吉田栄作)。
その折、街角にある団子屋を偶然見つけ、訪れる。



「山本さんは、戦艦大和に乗っとっちゃったん?」

「海軍の司令官は、旗艦(きかん)と呼ばれる艦に乗って、そこから指揮・命令をするんじゃ。大和は1942(昭和17)年2月に連合艦隊の旗艦になったんよ。もっとも、1年後の1943(昭和18)年2月には、旗艦は武蔵になったんじゃがの」

「ということは、真珠湾攻撃の時の旗艦は?」

「長門という戦艦じゃ」

「呉の町に出て団子屋に入ったということじゃけど、山本さんのような海軍軍人がそんな店に入るもんなんかね?」

「山本五十六は下戸で、甘いものが大好物じゃったそうな」

「へぇ。意外じゃね」

「この映画、とにかく食事、物を食べるシーンが多かった感じがするんじゃ。甘いものといえば、山本五十六が大好物じゃった水まんじゅうもおいしそうに食べられとったのう」

「水まんじゅうって、どんなまんじゅう?」

「まんじゅうというより、まんじゅうの食べ方じゃないんかの。映画での食べ方は、こういう感じじゃったんよ。どんぶりに水を七分目ぐらい入れた上に氷を浮かべ、そこにまんじゅうを入れる。水を吸ってふやけたまんじゅうの上に、山盛りの砂糖をかけて、スプーンですくって食べる」

「へぇ…。まんじゅうにはあんこが入っとるはずじゃけぇ、冷やしたお汁粉のような感じじゃと思えばええんかね?」

「うーん。食べたことがないけぇわからんが、多分、そんな感じじゃろうの。あと、この団子屋に2回目に行ったときは、店が閉まっとったんよ」

「なんで?」

「戦争中、物資が不足しとった日本では、食料は配給制になってしもうたんよ」

「あぁ。小豆や砂糖が足りんけぇ、店を営業することができんかったんじゃね」



【海上自衛隊 呉地方総監部 7月8日・9日】

旧海軍省・正門前にて、三国同盟締結支持派の陸軍近衛団が、同盟締結に反対する海軍に対し抗議し、銃で威嚇する物語冒頭の重要なシーン。



「三国同盟いうたら、日本・ドイツ・イタリアじゃったっけ?」

「ほうじゃの。山本五十六は、米内光政(よない みつまさ)海軍大臣、井上成美(いのうえ しげよし)海軍省軍務局長とともに、この同盟に反対しとったんじゃ」

「なんで?」

「ドイツ・イタリアと手を組むということは、イギリス・アメリカを敵にするということなんよ。山本五十六はアメリカに駐在した経験があって、日米の国力の違いが分かっとったけぇということじゃ」

「なるほどね」

「ここに見学に行った時に係の人から聞いたんじゃが、玄関前に撮影用の門を建てて、そこで撮影をされたそうじゃ」



海上自衛隊 呉地方総監部
(撮影日:2011年12月18日)




【江田島・海上自衛隊第一術科学校幹部候補生学校 7月8日・9日】

旧海軍省・正門前や本編冒頭シーンの一部として撮影。
ポツダム宣言受諾後、海軍兵学校で井上成美(柳葉敏郎)が生徒たちとラジオから流れる玉音放送を聞いている。



「井上さんは、さっき「海軍省軍務局長」という役職じゃったけど、終戦時は江田島の海軍兵学校におっちゃったん?」

「1942(昭和17)年10月から、海軍兵学校の校長をされとったそうじゃ。映画では、校長に就任することを報告に行った井上に対して、山本は「若者を育ててくれ」と言うんじゃの」



↓映画『聯合艦隊司令長官 山本五十六』のロケ情報については、こちら↓

「劇場用映画「聯合艦隊司令長官 山本五十六」2011年12月23日全国公開」呉地域フィルムコミッション ロケ実績


「映画「聯合艦隊司令長官 山本五十六」の撮影について」呉市ホームページ


「映画『聯合艦隊司令長官 山本五十六 ―太平洋戦争70年目の真実―』が公開されます!」くれナビ


「映画「聯合艦隊司令長官 山本五十六」第1庁舎ロケ」防衛省・自衛隊


「「聯合艦隊司令長官山本五十六」映画撮影」防衛省・自衛隊




「最後になったんじゃが、大和ミュージアムには、以下のものも展示してありますけぇの」



山本五十六書 「明治天皇御製(ぎょせい)」


山本五十六書 七言絶句「一躍雄飛五大州」
(撮影日:2011年12月18日)




↓大和ミュージアムについては、こちら↓

呉市海事歴史科学館 大和ミュージアム オフィシャルWebサイト



↓映画『聯合艦隊司令長官 山本五十六』については、こちら↓

映画『聯合艦隊司令長官 山本五十六』公式サイト




「積み残しもたくさんあるんじゃが、これで今年も終わりじゃ」

「今年もたくさんの方にご訪問いただき、ありがとうございました」

「今年は、仕事の都合で長期間、ブログを更新できない時期があって、申し訳なかったですのう。来年は、なるべく毎日更新できるようしていきますけぇの。また立ち寄ってくださいや」

「今日は、映画『聯合艦隊司令長官 山本五十六』について話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」
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特殊潜航艇 甲標的甲型

2011年12月30日 | まんが・テレビ・映画
「先日、大和ミュージアムに行った時、NHKドラマ「真珠湾からの帰還」(2011年12月10日放送)で使われた、特殊潜航艇(とくしゅせんこうてい)甲標的(こうひょうてき)甲型のセットが展示してあったんじゃ」



正面左側から見る


正面上部を見る


背面から見る


九七式転輪羅針儀







【諸元】

全没排水量/46トン
全長/23.9m
全幅/1.85m
主機/600馬力電動機
最大速度/水中19ノット
乗員/2名
兵装/45センチ発射管×2
安全潜航深度/100m

(展示パネルより)



「甲標的って、人間魚雷のような特攻兵器なんかね?」

「確かに、太平洋戦争末期には、蛟龍(こうりゅう。正式名称:甲標的丁型)や人間魚雷の回天(かいてん)のような特攻兵器もあった。ところが、甲標的を開発した当初(1931年)は、そういう発想はなかったそうじゃ」


検討されたアイデアの中に、横尾敬義予備海軍大佐の提案した「魚雷肉攻案」があった。
これは魚雷に人間が乗って誘導し、確実に命中させるというものであった。
この提案は課員の強い興味を集めたが、当時の海軍には必死兵器を採用しないという伝統があったことから発想には変更が加えられ、小型の潜航艇から魚雷を発射するものとなった。

(略)

軍令部総長は体当たり兵器ではないことを確認して了解

(「甲標的」ウィキペディア)



「なるほど。「必死兵器を採用しない」「体当たり兵器ではない」ということで開発が許可されたんじゃね」

「艦隊決戦時、母艦から発進して、敵艦隊が通る海域で待ち伏せる。搭載した魚雷で敵艦隊に奇襲攻撃を仕掛けた後、母艦に回収される。甲標的はこういう構想で作られたそうじゃ」

「1941(昭和16)年の真珠湾攻撃で使われたんじゃね」

「5基が投入されて、これが初陣じゃったそうな」

「なんで、大和ミュージアムに展示してあるん?」

「試作・製造が行われたのが、呉海軍工廠(こうしょう)じゃったことが関係しとるんじゃないんかの。あと、呉市音戸(おんど)町の大浦岬にP基地が作られて、ここで甲標的の製造と整備、搭乗員の訓練を担当したそうじゃ。もっとも、この基地が稼動したのは1942年(昭和17)10月からということじゃそうな」

「このドラマ、実は観とらんのよ。どんな話じゃったんかね?」

「わしも観とらんのじゃ。NHKさん、再放送をよろしくお願いしますの」


昭和16年、日米の緊張が高まるなか、「甲標的」という二人乗りの特殊潜航艇の搭乗員に選ばれた酒巻和男少佐(青木崇高)は、岩佐直治大尉(平岳大)らとともに愛媛県佐多岬半島の三机で訓練に励んでいた。
酒巻たちの宿となった旅館の娘・岩宮緑(蓮佛美沙子)は、訓練生から慕われていた。

同年12月8日、酒巻たち10名は5艇の甲標的に乗り込み、真珠湾攻撃に参加する。
しかし、全艇帰還せず9人が戦死。
ただひとり酒巻だけが生き残り、太平洋戦争における捕虜第一号となった。
大本営は戦意高揚のために9名の戦死者を「九軍神」と讃える一方、捕虜となった酒巻の存在を隠そうとした。
酒巻はアメリカの収容所で捕虜生活を続けるうちに、なぜ自分だけが生き残ったのか、生かされた自分は何をすべきなのかを考えていく。

(「真珠湾からの帰還 あらすじ」展示パネルより)



↓NHKドラマ「真珠湾からの帰還」については、こちら↓

NHK 土曜ドラマスペシャル「真珠湾からの帰還」






訪問日/2011(平成23)年12月18日





↓大和ミュージアムについては、こちら↓

呉市海事歴史科学館 大和ミュージアム オフィシャルWebサイト



↓大和ミュージアムについての関連記事は、こちら↓

夕日に眠る 戦艦大和

大和ミュージアムの正式名称は何?




「今日は、大和ミュージアムに展示してある特殊潜航艇 甲標的甲型について話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」
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音戸大橋 開通から50年

2011年12月29日 | 広島の話題
「今年の12月3日は、音戸大橋が開通して50年じゃそうな」


夢のような出来事だった。
海の上を橋が通り、島と本土が結ばれた。
呉市警固屋(けごや)地区と倉橋島に架かる音戸大橋は3日、開通から50年を迎える。
海上交通の難所、音戸瀬戸を容易に往来できるようになり、とりわけ島の住民の利便性は大幅に向上した。
らせん型やループ式の取り付け道路は異彩を放ち、観光名所にもなった。

(「音戸大橋 夢つなぐ50年」中国新聞 2011年12月2日)



本土側南方向から見る
(奥の赤い橋は第2音戸大橋)


音戸町側南方向から見る



「橋って、最初に渡り初めをするじゃん。この時はどのくらいの人が集まっちゃったんかね?」

「約5万人じゃそうな」

「5万人も?! すごいねぇ」

「故宮沢喜一(みやざわ きいち)参議院議員も、総理大臣代理で駆けつけられたそうじゃ」

「音戸大橋って、最初は有料道路じゃったよね?」

「ほうじゃの。確か、本土側の一番上に料金所があったよのう」

「料金はいくらじゃったんかね?」

「開通時は普通車が120円、歩行者が5円じゃったそうな」

「??? 歩行者の料金があるということは、橋を人が歩けるようになっとるん?」

「ウィキペディアには、路側帯があって「歩行者の通行も可能」と書いてはあるんじゃが、人が歩いとるのを見たことはないよのう」

「歩くには、危ないよね」

「橋の登り降りだけでも大変じゃしの」

「車のない人は、渡し船を利用してんじゃろうね」

「橋が開通した翌日から、市営バスも運行を始めたそうじゃ」

「いつから無料になったんかね?」

「1974年(昭和49)8月からじゃそうな。最初の計画では30年かけて建設費の返済をする予定じゃったんよ。マイカーブームや観光客が増えたことで、開通から12年8カ月で無料化されたそうじゃ」

「どうしてこんな真っ赤に塗っちゃったんかね?」

「平清盛が音戸の瀬戸を切り開いたという伝説があるのは知っとるよの。その清盛が社殿を造営した、宮島にある神社といえば?」

「厳島神社!」

「正解じゃ」

「ということは、厳島神社の大鳥居にならって赤い色にしちゃったん?」

「そういうことじゃそうな」

「へぇ。そりゃ初耳じゃね」

「わしの記憶が確かなら、映画『愛と死の記録』(1966年)で、渡哲也と吉永小百合がバイクに乗ってある浜辺に行く途中、この料金所を通っとったんよ」

「今年の4月には第2音戸大橋の中央部分の取り付けをしたし、来年はNHK大河ドラマ『平清盛』もあるし、盛り上がるじゃろうね」

「来年は、5年に一度行われる音戸清盛祭もあるけぇの」



音戸の瀬戸公園から見る


音戸渡船本土側乗り場から見る




↓音戸大橋については、こちら↓

「音戸大橋」くれナビ



↓音戸清盛祭については、こちら↓

「音戸清盛祭」呉地域広域商工会青年部 エイトネットワーカー



↓音戸大橋についての関連記事は、こちら↓

第2音戸大橋 4月24日にアーチ架設

日本一短い、音戸渡船の運行距離は何m?




「今日は、開通から50年になる音戸大橋について話をさせてもらいました」

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来島者、過去最高の350万人に 廿日市市宮島

2011年12月28日 | 広島の話題
「今年の宮島の来島者数が350万人を超えて、記録を更新したそうじゃ」

「今までの最高は?」

「2009(平成21)年の346万人じゃの」

「今年は東日本大震災があって、観光客が減ったいうて聞いとったんじゃけど?」

「ほうじゃの。6月までの来島者数は約152万で、前の年に比べて5・1%も減っとったそうじゃ」

「ということは、7月から200万人の方が来られたということになるんじゃね」

「その理由というのが、さっき話があった東日本大震災の影響で、修学旅行の行き先を広島に変更した学校が多かったからじゃそうな。あとは、みやじマリン(宮島水族館)が8月にリニューアルオープンした効果もあるんじゃと」

「へぇ。そうじゃったんじゃ」



世界遺産の島・宮島(廿日市市)のことし上半期(1~6月)の来島者数は151万9855人で、前年同期比5・1%減と6年ぶりに減少した。
東日本大震災と福島第1原発事故の影響で、国内では自粛ムードが広がり、外国人観光客も大幅に落ち込んだ。

廿日市市の集計によると、月別では震災が起きた3月が24万4843人と、前年同月比16・4%の大幅減となった。
4月は7・2%減。5月はゴールデンウイークこそ過去最高の人出となったものの、月全体では6・8%減だった。

ただ国内客について市観光課は「正確な調査はないが、修学旅行生がかなり増えている」としている。
6月は7・6%増の20万5488人。
この月としては過去2番目の高水準となった。

外国人観光客には原発事故の影響で敬遠されたとみられる。
例年なら一年で最も多く訪れる4月、3506人と前年同月比80・5%減を記録した。
3月は51・9%減、5月も58・6%減だった。

宮島では8月1日に新宮島水族館(愛称みやじマリン)がオープン。
来年のNHK大河ドラマ「平清盛」キャンペーンも控えており、市観光課は「年間で昨年並みの水準に回復してくれれば」と期待している。

(「宮島来島者が6年ぶり減少」中国新聞 2011年7月11日)




「ちなみに去年(2010年)の来島者数は342万じゃったんよ」

「みやじマリンがリニューアルオープンした時は、どれくらいの方が来られたんかね?」

「8月の1カ月間だけで、みやじマリンに約18万人、宮島に約51万の方が来られたそうじゃ」



廿日市市宮島の8月の来島者数は51万4622人で、月別では過去最多となったことが1日、市の集計などで分かった。
市は、8月1日にリニューアルオープンした宮島水族館「みやじマリン」が集客に大きく貢献したとみている。

これまで最多だったのは、旧水族館の休館記念イベントと紅葉シーズンが重なった2008年11月の50万773人。
8月はこれを1万3849人上回り、昨年同月比からは35%の大幅増となった。

市観光課は「みやじマリン効果が絶大だった」。
水族館の31日までの来館者数は17万5377人で、目標の15万人をクリア。
単月でも前回の大規模改修直後だった1981年8月の19万8415人に次ぐにぎわいだった。

(「みやじマリン効果で来島最多」中国新聞 2011年9月2日)




「すごいねぇ…」

「来年はNHK大河ドラマ『平清盛』もあるけぇ、観光客ももっと増えるじゃろうの」



↓みやじマリンについては、こちら↓

宮島水族館 - みやじマリン



↓宮島の来島者についての関連記事は、こちら↓

2010年の宮島来島者数 340万人突破



「今日は、今年の宮島の来島者数が過去最高の350万人になったことについて話をさせてもらいました」

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夕日に眠る 戦艦大和

2011年12月27日 | 広島の話題
「先日、大和ミュージアムに行った時、偶然じゃが、夕日をバックにした戦艦大和の写真を撮ることができたんじゃ。今日はその写真を紹介してみようかの」

「シロウトの撮った写真ですけぇ、そのつもりで見てやってください」







「こうやって見ると、大和の艦首って、意外と細いんじゃね」

「やっぱり宇宙戦艦ヤマトのイメージがあるけぇの」

「ヤマトの艦首には、波動砲が付いとるけぇね」

「大和の、艦首からバルバスバウにかけてのイメージは、聖悠紀(ひじり ゆき)の描くヤマトに似とるかのう」

「聖悠紀って?」

「お前、聖悠紀を知らんのか? あの有名な『超人ロック』なんかを描かれとるマンガ家じゃ」

「あぁ。お父さんに読ませてもろうた『スペクトラム学園』の作者じゃね」



↓聖悠紀については、こちら↓

電脳かば 聖悠紀オフィシャルサイト





「さっき言うた「バルバスバウ」って、何?」

「艦首の下の方、喫水線(きっすいせん)下の赤色の部分にある球状の突起で、球状艦首ともいうんじゃ」


球状艦首(バルバスバウ)

艦首の水線下に球状の突起をつけることで、速力27ノットで8パーセント以上の造波抵抗を減らすことができ、有効馬力の節約と航続距離の増大につながりました。
戦後、この球状艦首は、世界の大型タンカーから漁船に至るまで幅広く利用されています。

(『呉市海事歴史科学館大和ミュージアム 常設展示図録』2005年 株式会社ザメディアジョン)



「余談じゃが、この本の表紙も夕日をバックにした戦艦大和のCGじゃのう」




「ところで、「夕日に眠る 戦艦大和」というタイトルはどこから?」

「アニメ『宇宙戦艦ヤマト』のBGMに「夕日に眠るヤマト」というのがあるんよ。そこからつけさせてもろうたんじゃ。第1話「SOS地球!! 甦れ宇宙戦艦ヤマト」(脚本/藤川桂介)のラスト、以下のシーンでこのBGMが流れるんじゃの」


古代(弟)「おい、見てみろよ、あれを…」

赤さびた巨体に海藻をからませ、傾いたままの姿を見せている戦艦ヤマトがあった。

古代(弟)「あれがヤマトか?」

島「鉄屑にしか見えないじゃないか」

古代(弟)「あれが、どうやって地球を守るっていうんだ」

絶望的な目で見つめる進と大介。
夕陽の中で沈黙している戦艦ヤマト。

ナレーション「夕陽を浴びて、死んだように沈黙しているヤマト。しかしヤマトには、人類の明日への希望が託されているのだ。果たしてヤマトが、恐るべき力を発揮するのはいつか? ヤマトよ、250年の眠りから醒めて甦れ!」

(『宇宙戦艦ヤマト 全記録集 TVシナリオ版』1979年 株式会社オフィス・アカデミー)



「ちょっと説明が必要かもしれんが、脚本の中で「古代(弟)」とあるのは、古代進のことじゃ。第1話冒頭の冥王星海戦で出てくる兄の古代守は、「古代(兄)」と表記してあるんじゃの」





撮影日時:2011(平成23)年12月18日 16時45分から50分まで



↓大和ミュージアムについては、こちら↓

呉市海事歴史科学館 大和ミュージアム オフィシャルWebサイト



「今日は、夕日をバックにした戦艦大和について話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」
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