通でがんす

いろんな広島を知って、ひろしま通になりましょう!
(旧ブログタイトル:通じゃのう)

帆船フェスタ2011 広島港宇品外貿ふ頭(1万トンバース)

2011年10月17日 | 季節の話題
「昨日(10月16日)は、帆船フェスタ2011に行ってきたんじゃ」

「今、海王丸(かいおうまる)という帆船が寄港しとるんよね。新聞で見たけど、帆を張った姿は美しいかったねぇ」

「一昨日(10月15日)は、 帆船の帆を張る「セイルドリル」という訓練があったんよ。わしゃ用事があったけぇ、見に行けんかったんじゃ」




セイルドリル時の海王丸
(独立行政法人 航海訓練所のホームページより)



「いつ出港するんかね?」

「明日(10月18日)の朝10時」

「それなら見に行けるね。うちも、帆を張った姿を見てみたいんよ」

「出港時には、エンジンを使われるそうじゃ。それと、瀬戸内海は狭いけぇ、帆は張れんのじゃと。帆を張るのは外洋に出てからになるそうじゃ」

「そうなん。残念じゃねぇ…」

「出港する時には、実習生がマストに登って、「ごきげんよう」と脱帽して挨拶をされるんじゃと」

「帆は、どういう順番で張っていくんかね?」

「まず、前の帆を張るんじゃ。次に、下から2番目の帆を張って、上へ上へと順番に張っていくんよ。その間に、斜めの帆を張って、最後に一番下の帆を張るそうじゃ。一番下の帆は、畳100枚分の広さがあるんじゃと」

「おぉ、広いねぇ」

「マスト1本に40人の実習生が取り付いて、作業をされるんじゃが、それでも作業に小1時間くらいかかるそうじゃ」

「すごいねぇ」

「余談じゃが、垂直に立っている柱を「マスト」、マストから横にのびる棒を「ヤード」と呼ぶんじゃと」

「帆を張る時には、ロープを使うじゃん。その時には、軍手をはめて作業してんかね?」

「ロープに挟まれる危険があるけぇ、軍手は使わんそうじゃ。基本は素手なんじゃが、豚の皮の手袋をはめて作業をすることもあるそうじゃ」

「へぇ」

「昨日は、船内の一般見学があったけぇ、見に行ってきたんよ。船の左舷側から乗り込んで、船尾側を回る。船内に入って、船室の一部を見た後、船首を回って船から下りる、というコースじゃの」




海王丸の入口


「船には、どんな物があった?」

「まず最初に目についたのが、ハンドキャプスタンじゃの」

「ハンドキャプスタン!? 何、それ?」



ハンドキャプスタン



同上 上部



キャプスタンバーとタイムベル



「ハンドキャプスタンに、穴が開いとるじゃろ。そこにキャプスタンバーを差し込んで人力で回すことで、ロープを巻き取ったり、重いものを動かしたりするそうじゃ」

「うーん。現代でもそういう作業をするんじゃね」

「もちろん、電動のものもあったで」

「タイムベルは、名前の通り、時間を知らせるための鐘?」

「ほうじゃの。30分に1回、鳴らすそうじゃ。タイムベルを1回鳴らすことを、1点鐘(てんしょう)というんよ。例えば、12時00分を基準とすると、12時30分が1点鐘、13時00分は2点鐘、13時30分には3点鐘という具合になるんじゃの」

「30分に1回じゃったら、今、何回鳴ったか、そのうち分からなくなるんじゃないんかね?」

「この鐘は、当直交代の合図のために鳴らされるそうじゃ。8点鐘、つまり4時間が経過したら、当直が交代するんよ。ほいじゃけぇ、8回以上は鳴らんそうじゃ」

「なるほどね」




帆走用操舵輪


「帆を張った時には、船尾にある、この舵輪で船を操縦するそうじゃ」

「ふつう、舵は見晴らしのいい場所に置いてないかいね?」

「帆を張っとる時は、帆の状態を見ながら船を操縦せんにゃいけんのよ。ほいじゃけぇ、船尾にあるんじゃ」

「それにしても、大きな舵じゃね」

「2人がかりで回して舵をとるそうじゃ」

「すごい!」




士官食堂



士官食堂の窓から見た景色



「船内に入って、階段を下りる。少し歩くと、士官食堂があるんじゃ」

「へぇ。おしゃれな感じじゃね」

「窓から外を見ると、こんな感じなんじゃの」




教室


「教室?」

「今、この船に乗っている実習生が勉強されとるんよ。海王丸は、実習生のための練習船じゃけぇの」

「ということは、航海訓練の途中なん?」

「ほうじゃの。今月の初めに神戸を出港して、3ヶ月の航海訓練をした後、東京で船を下りられるそうじゃ」

「そういや、この海王丸の持ち主は誰なんかね?」

「独立行政法人 航海訓練所というところじゃ。ここは、船員養成施設から実習生を受け入れて、航海訓練を実施されとってんよ」

「わかった。それじゃ、静かに、静かに…」




船内の階段


「うわー。この階段は、けっこう急じゃね」




甲板清掃用具


「甲板に出ると、清掃用具が置いてあったんよ」

「真ん中にある、丸い帽子みたいなのは何じゃろか?」

「ヤシの実なんよ。これを使って、甲板を掃除されるそうじゃ」

「ヤシの実? あぁ、そうか。亀の子タワシも、ヤシの繊維から作られとったよね」

「毎朝、6時30分に起床して体操をした後、7時15分まで、実習生が甲板の掃除をするそうじゃ」

「毎朝?」

「毎朝!」

「海王丸って、船首から船尾まで何メートルくらいあるん?」

「約110メートル」

「それを毎朝、掃除されるん!? 大変じゃね。それで、ヤシの実の左にあるのは?」

「石。これで落ちにくい汚れを削り取るそうじゃ」




前部航海船橋


「出入港時や、エンジンで走るときはここで船を操縦するそうじゃ」

「ここは船首にあるけぇ、見晴らしはええね」

「船内の見学は、これで終わりじゃ」

「うちは食事が気になるんじゃけど、食事の時間はいつ?」

「朝が7時30分。昼が12時00分で、晩が17時00分の、1日3回。食事は、専門の方が作られるんじゃと」

「晩ごはんが夕方の5時? お腹がすくじゃろうに?」

「ほいじゃけぇ、夜食が出ることもあるそうじゃ」




海王丸



船首像・紺青



「船首に取り付けてあるのが、紺青(こんじょう)という名前の船首像(フィギュアヘッド)なんじゃ」

「笛を吹いとるんじゃね」










練習船海王丸 諸元

総トン数/2,556トン
全長/110.09メートル
幅/13.80メートル
深さ/10.71メートル
マストの高さ(水面上)/約50メートル
主機関/ディーゼル機関 1,500馬力(1,103キロワット)
航海速力/帆走:6~7ノット
機走:12.97ノット
建造年月日/1989年9月12日
定員/199名






「日没から22時まで、ライトアップをされとるんじゃ」









「17時に晩ごはんじゃけぇ、夜が長いじゃろうね」

「17時30分を過ぎたころから、私服姿の人が船から降りてきよったけぇ、夜の街に羽を伸ばしに出かけちゃったんじゃないんかの」

「そういや、テレビなんか見れんのかね?」

「陸地から遠く離れてしもうたら、難しいじゃろうの。実習生の方に聞いたら、DVDを見とることが多い、と言われとったのう」





↓独立行政法人 航海訓練所については、こちら↓

航海訓練所





「今日は、広島港宇品外貿ふ頭(1万トンバース)で行われた帆船フェスタ2011と、練習船海王丸について話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」
コメント (2)
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西国街道を歩く 旧平田屋川から猿猴橋まで

2011年10月15日 | 見て歩き
「今日の中国新聞に書いてあったんじゃが、広島市中心部にある猿猴橋(えんこうばし)と京橋(きょうばし)が、土木学会の選奨土木遺産に選ばれたんじゃと」

「選奨土木遺産って、何?」

「土木遺産の顕彰を通じて、歴史的土木構造物の保存に資することを目的として作られたもので、2000年(平成12)度に始まったそうじゃ」

「この2つの橋が江戸時代から架かっている、歴史のある橋じゃけぇなんかね?」

「選奨土木遺産は、「近代」の土木構造物を対象にしとるんよ。ほいじゃけぇ、「被爆に耐えた装飾的橋梁」ということで、猿猴橋と京橋が選ばれたそうじゃ」

「なるほど…」

「それぞれの橋についての話は後日にして…。今日は「歴史のある橋」という視点で、この2つの橋を見ていこうと思うんよ」

「猿猴橋と京橋は、江戸時代から広島城下の西国街道に架かる橋じゃったんよね」

「東から順番に、猿猴橋、京橋、元安橋(もとやすばし)、本川橋(ほんかわばし。猫屋橋(ねこやばし))、天満橋(てんまばし。小屋橋(こやばし))が、江戸時代の西国街道筋に架かっとった橋になるんじゃの」

「この間は、本通りにある旧町名銘板を見ながら、元安橋から平田屋川、今の広島パルコ、並木通りまで歩いたよね」

「今日は、そこから猿猴橋まで歩いて行こうと思うんじゃ」

「ということは、本通りの広島パルコ前からスタートじゃね」




広島パルコ


「広島パルコ前を左(北側)に曲がると金座街に入る。金座街に入ってすぐ、廣文館書店の前を、今度は右(東側)に曲がると堀川通りに入るんじゃ」

「このあたりは堀川町(ほりかわちょう)じゃね」

「堀川町交差点を渡って、そのまま東に進むんじゃ」




堀川通り



堀川町交差点にあるキリンビールの看板



「流川通りを過ぎると、仏壇通りじゃね」

「流川通りと薬研堀通りの間は、1965年(昭和40)まで■(=金+斗)屋町(ちぎやちょう)と呼ばれとったそうじゃ。薬研堀通りを越えると、銀山町(かなやまちょう)じゃの」




仏壇通り


「本来は、徳栄寺(とくえいじ)の1つ手前の角を左(北側)に曲がるんじゃが、徳栄寺の角を左に曲がるというルートもあったそうじゃ」




この角を左折する



浄土真宗大谷派 徳栄寺



「電車通り(相生通り)を渡り、正光寺(しょうこうじ)の前を通って、青柳屋(あおやぎや)の前まで進むんじゃ」




浄土真宗本願寺派 常照山 正光寺



青柳屋



西国街道 石見屋町



「石見屋町(いわみやちょう)?」

「このあたりは、石見屋町と呼ばれとったそうじゃ。銀山町から石見屋町までの間は、山口町(やまぐちちょう)と呼ばれとったんよ」

「矢印に通りに右(東側)に曲がって行くと、京橋に着くんじゃね」

「この橋は、広島城から京・江戸へ行くために最初に渡る橋じゃったけぇ、「京橋」という名前がついたそうじゃ」




京橋


「西国街道にはもうひとつのルートがあるんよ。広島パルコ前で左(北側)に曲がって、金座街に入る。今度は堀川通りで曲がらずに、福屋(ふくや)の角で右(東側)に曲がるんじゃ」

「えびす通りを通って行くんじゃね」




福屋の角



えびす通りのバナー



「天満屋(てんまや)と三越の間にある、胡子神社(えびすじんじゃ)の前を通って行くんよ。余談じゃが、さっき出た徳栄寺と正光寺、この胡子神社は、広島城築城時、毛利氏と一緒に吉田から広島に移って来たそうじゃ」




胡子神社


「突き当たりを左(北側)に曲がると、右(東側)にひろしまハイビル21が見えるんじゃ」

「ひろしまハイビル21には、広島銀行銀山町支店(旧:広島東警察署)跡があるよね」




広島銀行銀山町支店 旧入口


「電車通り(相生通り)を渡ると、左(西側)に金刀比羅神社(ことひらじんじゃ)、右(東側)に廣教寺(こうきょうじ)があるんじゃ」




金刀比羅神社



浄土宗 一法山 廣教寺



廣教寺境内の六地蔵



「橋本町交差点を右(東側)に曲がると、京橋に着くんじゃ。ところで、京橋の南西側に市杵島姫(いちきしまひめ)神社があるんじゃが、知っとった?」

「神社があるのは知っとったけど、市杵島姫神社という名前までは知らんかったね」




市杵島姫神社



「このあたりは「明神の浜」と呼ばれとって、厳島の管弦祭の時には御供船(おともんぶね)が出て、にぎわっとったそうじゃ。市杵島姫は厳島神社の祭神じゃけぇ、何か関係があるんじゃろうと思うんじゃがの」

「こうやってみると、街道沿いには神社やお寺が多いね」

「むかしは、京橋から猿猴橋までまっすぐな一本道じゃったんじゃが、今は、駅前通りを横断して行かんといけんのじゃ」




ラポール



西国街道 京橋町



猿猴橋






↓猿猴橋・京橋の選奨土木遺産については、こちら↓

「選奨土木遺産に猿猴橋・京橋」中国新聞 2011年10月15日





↓広島金座街商店街については、こちら↓

広島金座街商店街!





↓西国街道についての関連記事は、こちら↓

西国街道の旧町名銘板 広島市中区本通





↓広島銀行銀山町支店(旧:広島東警察署)についての関連記事は、こちら↓

広島銀行銀山町支店(旧:広島東警察署) 広島市中区銀山町





【参考文献】

中国地域づくり交流会、西国街道ぶらり旅の会『西国街道を行く 街道ぶらり旅 安芸・備後路』2010年






「今日は、西国街道の旧平田屋川(現:並木通り)から猿猴橋までのルートについて話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」
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『「提げる」かざり -日本の粋は腰にあり-』 広島市郷土資料館

2011年10月14日 | 広島の話題
「この間、広島城で開かれとる企画展「江戸のおしゃれ」を、一緒に見に行ったよの?」

「江戸時代の女性のおしゃれの基本は、紅・白・黒の3色じゃったね」

「それに関連して、広島市郷土資料館で特別展『「提げる」かざり -日本の粋は腰にあり-』というのをやっとるんよ」



特別展「「提げる」かざり -日本の粋は腰にあり-」

会期/平成23年10月1日(土)~11月6日(日)
開館時間/9:00~17:00
休館日/月曜日、11月4日
入館料/一般100(80) 円、小学生~高校生50(30)円、幼児無料
 ※( )内は30名以上の団体料金

■はじめに
日本では身を飾る装飾品が発達しない時代が長く続きました。
しかし、江戸時代になると、女性だけでなく男性も凝った装飾品を身につけ、おしゃれをすることに夢中になりました。
そのデザインやおしゃれの仕方の魅力は、現代人をも惹きつけてやみません。
広島市郷土資料館では、こうした昔のおしゃれについて展示し、その魅力を紹介します。

■展示内容
印籠や根付、煙草入れなど、主に腰から提げる装飾品を展示し、その背景をパネルで解説します。




「腰から提げる(=下げる)か…。今じゃったら、ウエストポーチや携帯ケースかね?」

「美容師さんがハサミやクシなんかを入れて腰から提げてとる、シザーバッグなんかもあるよのう」

「でも、この展示は江戸時代の話じゃろ? 時代劇を見ると、財布や手紙などの大事なものは懐(ふところ)や袖に入れよってじゃん。腰から提げるものって、何かあったかいね?」

「印籠(いんろう)や煙草入れ、巾着(きんちゃく)なんかを腰から提げとったそうじゃ。これらの、腰から提げて使う物は「提げ物」と呼ばれとったんじゃと」

「印籠? 水戸黄門では、印籠を懐から出してじゃん。「えぇい! この紋所(もんどころ)が目に入らぬか!!」というセリフと一緒に」

「印籠は本来、腰から提げるものじゃったそうな」

「ほんま?」

「江戸時代、武士が裃(かみしも)姿で登城する時は、左に刀を差して、右に印籠を提げるのが習わしじゃったんじゃと」

「へぇ。そりゃ知らんかった。まぁ、考えてみりゃ、腰からぶら提げとる葵のご紋の入った印籠を出されても、「天下の副将軍」という重みが感じられんような気がするね」

「江戸時代は和服じゃったけぇ、ポケットというものがないんよの。ほいじゃけぇ、荷物がある時は、手に持つか、懐や袖に入れるか、肩に掛けるか、または、帯に差したり、腰からぶら提げたりしよったそうじゃ」

「印籠や根付、煙草入れなどを展示しとるということじゃったけど、「根付」って何かいね?」

「印籠などを、紐で腰からぶら提げるときに使った留め具が根付なんよ。その根付を帯の上に引っかけることで、印籠が落ちんようにしとるんじゃ」

「それで、どんな根付が飾ってあったん?」

「銭や酒樽に茶釜、タコや鹿、お岩さんなどが飾ってあったんよ。結構、細かいところまで彫ってあったのう。この根付、日用品や動植物、人物、故事説話などから題材を取っとってんじゃと」

「話を聞きよったら、「根付」って「ストラップ」のことなんじゃない?」

「ほうじゃの。ストラップの元祖が根付、という説もあるんよ」

「ということは、根付は、小さくて、丸みをおびたデザインがええんじゃね」

「帯に通しやすくて、あらゆる角度から見られるように作られとるんじゃ」

「そうか。ふつうの彫刻なんかじゃったら足の裏までは見えんよね」

「あとは、手で触るけぇ、視覚と触覚で楽しめるんよ」

「根付は、どんな方が作りよっちゃったん?」

「最初は、仏師(ぶっし)や蒔絵師(まきえし)、工芸師などが副業で作りよったそうじゃ」

「そんな方に頼むと、お金がかかりそうじゃね」

「その頃、根付を作らせたのは大名や裕福な武士や商人じゃったらしいけぇの。その後、根付を専門で作る根付師が登場し、袋物商や小間物屋で売られるようになって、一般の人が買えるようになったそうじゃ」

「へぇ。根付師という専門家がおっちゃったんじゃね」

「広島出身の根付師として有名なのが、大原光廣という方なんよ。1810年(文化7)、尾道生まれで、大坂で象牙彫刻を学んだ後、大坂・京都・江戸で活躍されたそうじゃ」

「江戸時代の人は、印籠や煙草入れ、根付を腰のあたりで見せることで、おしゃれを楽しんだ。それで、「日本の粋は腰にあり」ということになるんじゃね」

「江戸時代は、贅沢(ぜいたく)を禁止する法令、奢侈禁止令(しゃしきんしれい)がたびたび出されたんよ。ほいじゃけぇ、目立つことをしたり、派手な衣装を着たりするのが難しかったんじゃ」

「それで、「目立たないように目立たせる」ようになったんじゃね」

「根付は、もともと実用品じゃったんよ。それが、材料や意匠に工夫を凝らして、見た目の美しさを求めるようになったんじゃ。それと同時に、細かい彫刻が施されるようになって、根付自体が美術品として収集の対象となっていったんよ」

「根付の最盛期は、いつごろじゃったんかね?」

「文化・文政時代(1804年~1830年)から江戸時代の末期くらいじゃそうな」

「明治になると、和服から洋服に変わっていくよね?」

「洋服にはポケットがあるけぇ、提げ物が必要なくなった。それにつれて、根付も姿を消していったそうじゃ」

「根付と言われても、ピンとこんもんね」

「ところが、この根付、欧米で意外と知られとるんよ」

「なんで?」

「幕末から明治の初め、日本にやって来た外国人が、浮世絵や蒔絵などと一緒に根付を評価されたんよ。ほいじゃけぇ、根付のコレクターも海外に多いそうじゃ」





↓根付については、こちら↓

「根付とは何ですか?」根付のききて(ねつけ netsuke)

「File10 根付」NHK 鑑賞マニュアル 美の壺






↓広島市郷土資料館については、こちら↓

広島市郷土資料館





↓広島城の企画展「江戸のおしゃれ」についての関連記事は、こちら↓

企画展「江戸のおしゃれ」 広島城





「今日は、広島市郷土資料館で行われている特別展『「提げる」かざり -日本の粋は腰にあり-』について話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」
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映画『ひろしま -1945年8月6日、原子雲の下の真実-』 八丁座

2011年10月13日 | まんが・テレビ・映画
「この間、『ひろしま -1945年8月6日、原子雲の下の真実-』(1953年)という映画を見てきたんじゃ」

「『ひろしま』? 聞いたことがないタイトルじゃけど、どんな映画?」



自らも広島で被爆した教育学者・長田新(おさだ あらた)が編纂した文集『原爆の子~広島の少年少女のうったえ』を、日本教職員組合が映画化を決定し、八木保太郎(やぎ やすたろう)の脚色により映画化された本作は、広島県教職員組合と広島市民の全面的な協力の下で制作され、多数の広島市の中学・高校生と父母、教職員、一般市民等約8万8500人が手弁当のエキストラとして参加した。
その中には原爆を直接体験した者も少なくなかった。
映画に必要な戦時中の服装や防毒マスク、鉄カブト等は、広島県下の各市町村の住民から約4000点が寄せられた。
『ひろしま』で描かれる原爆投下後の圧倒的な群集シーンの迫力は、これら広島県民の協力なくしてはあり得なかっただろう。

東宝出身で戦後独立プロに転じた監督の関川秀雄(せきがわ ひでお)は、原爆が投下された直後の地獄絵図の映像化に精力を傾け、百数カットに及ぶ撮影を費やして、克明に原爆被災現場における救援所や太田川の惨状等の阿鼻叫喚(あびきょうかん)の修羅場を再現した。
そして被爆者たちのその後の苦しみを描いた。
それはひとえに被爆者の声でもあった。

(映画『ひろしま』のチラシより)



「『ひろしま』は、『原爆の子~広島の少年少女のうったえ』を基に作られた映画なんじゃね」

「前年に公開された新藤兼人(しんどう かねと)監督の映画『原爆の子』も、この本を原作にされとってんじゃ」

「『原爆の子』では、原爆投下直後のシーンを象徴的に描いとっちゃったけど、『ひろしま』は、その惨状をいかに再現するか、に力を入れとってんじゃね」

「新藤氏も、映画『ヒロシマ』で原爆投下の瞬間を描きたいと希望されとってんじゃ。もちろん、脚本もできあがっとるんよ。ほいじゃが、映画の制作費が20億円かかるということで、いまだに実現しとらんのじゃ」

「予告編を見ると、『ひろしま』はリアルな描写をされとってじゃね」

「確かに、リアルじゃった。今村昌平(いまむら しょうへい)監督の『黒い雨』(1989年)もかすんで見えるくらいじゃったけぇのう」

「原爆投下から間もない時期(被爆から8年後)の映画じゃったけぇかね?」

「それもあるが、エキストラの数が圧倒的に違うんよの。被爆後の広島の町に、救護所となった建物の中に、たくさんの人がおってんじゃ。カメラがパン(横に移動)しても、とにかく人人人…」

「そうか、9万人近くもの方がエキストラで出られたいうことじゃけぇ、数が違うよね。ロケはどのあたりでされたんかね?」

「原爆投下前の、建物の疎開作業は宇品港の近くの空き地で、原爆投下直後の広島の惨状は大芝公園で、それぞれロケをされたそうじゃ」

「へぇ」

「ところが、この描写が「リアル過ぎる」ということで、大手の映画配給会社から配給を拒否されたそうじゃ」

「ありゃま!」

「ほかにも、「反米色が強い」と映画の一部カットを要求されたのを断った、ということも理由のひとつなんじゃそうな。ほいじゃけぇ、日本での知名度は低く、幻の映画といわれとったそうじゃ。海外では、1955年(昭和30)に第5回ベルリン国際映画祭で長編映画賞を受賞されとってんじゃがの」

「その映画が、なんで今ごろ上映されるようになったんかね?」



復活上映は、父が関川監督の「監督補」を務めた映画プロデューサー小林一平さん(64)=東京都狛江市=が進めている。
小林さんは母が広島市出身で、母方の祖母が被爆死。
映画製作から55年後の2008年、広島市内で上映会を開いた際、大きな反響があった。

(「被爆直後の惨劇 リアル 来月広島で復活上映」中国新聞 2011年9月24日)



「小林さんは、『ひろしま』英語版のDVDを製作して、今年5月にはスペインで上映。国内でも東京や大阪などで上映されとるそうじゃ」

「この映画には、月丘夢路(つきおか ゆめじ)さんが出とられるんじゃね」

「月丘さんは、周囲の猛反対を押し切ってこの映画に出演されたそうじゃ」

「猛反対…? あぁ、そうか。このころの映画界では、俳優さんはほかの会社の作品に出られんことになっとったんよね」

「月丘さんは当時、松竹の専属じゃったんじゃが、その松竹の反対を押し切って、この映画にノーギャラで出演されたそうじゃ。月丘さんが、広島市袋町(現:広島市中区袋町)の出身ということが大きな理由じゃったんよ」

「反対といえば、『原爆の子』には、乙羽信子(おとわ のぶこ)さんが、所属会社の大映の反対を押し切って出演されとってよね」

「それがきっかけで、乙羽さんは大映を退社されたんじゃがの」

「月丘さんは、どんな役で出られとってん?」

「米原先生という、学校の先生役なんよ。被爆直後に逃げ込んだ川の中で、君が代を歌って生徒たちを励ますんじゃ。ところが、その生徒たちがひとり、またひとりと川に沈んでいって、最後には自分も沈んでしまうんじゃの」

「そのシーンが、チラシの写真に使われとるんじゃね」

「そういえば、月丘さんも乙羽さんも1937年(昭和12)、宝塚音楽歌劇学校(現:宝塚音楽学校)に入学されとってんじゃ」

「へぇ。この2人は宝塚の同期じゃったんじゃね」

「この2つの映画の音楽を担当されたのが、伊福部昭(いふくべ あきら)氏なんじゃ」

「伊福部さんて、『ゴジラ』の音楽を担当された方じゃね」



伊福部昭作曲の音楽は翌年の「ゴジラ」の劇中曲「帝都の惨状」等に転用されている。
被災した幼児の泣き声を音楽の一部として用いる手法も同じである。

(「ひろしま(映画)」ウィキペディア)



「1953年に『ひろしま』が公開された時、広島で初めて上映されたのが「福屋劇場」。現在の八丁座にあった劇場じゃそうな」

「『原爆の子』も、福屋にある映画館で上映したんじゃなかったっけ?」



上映は独立配給でやった。個人経営の配給業者である。
最初の上映は、8月6日、広島の福屋デパートの屋上にある映画館でやった。
入口の扉が閉まらないぐらい人がはいった。
わたしと乙羽さんが挨拶したが、舞台の足もとまで人が押し寄せた。

(新藤兼人『新藤兼人 原爆を撮る』新日本出版社 2005年)




「映画『ひろしま』は、広島市中区胡町にある八丁座で、10月21日(金)まで上映されとります」

「以下、この映画に寄せられたメッセージを紹介しておきますけぇの」



特別な思い出があります。
当時、大手映画会社と専属契約を結ぶ俳優は、他社の作品には出てはいけない「協定」があり、松竹専属の私は出演を猛反対されたのです。
それを押し切ったのは私のふるさとが広島だったから。
15歳で宝塚音楽学校に進むまで、爆心地に近い大手町に暮らしていました。
私と家族は辛くも被爆を免れましたが、一発の爆弾で町が消えた衝撃が胸にあり、微力でも平和につながる作品に出たいと思ったのです。
エキストラは本物の涙を流していた。
当時、あまりにも忙しく、作品を初めて鑑賞したのは数年前のこと。
画面いっぱいに原爆の悲惨さが再現されていて、頑張って良かった。
そんな作品が世界の人にも見られるようになるのはうれしい。
世界から核兵器を廃絶するヒントになってほしいと願っています。

月丘夢路



☆  ☆  ☆  ☆  ☆


「ひろしま」
一人でも多くの人に
みていただきたいと願っています。

あなたの胸に
被爆した人たちの、子どもたちの
切なる思いが届きます様に!

吉永小百合






↓映画『ひろしま』については、こちら↓

映画「ひろしま」予告編 - YouTube





↓映画『ひろしま』と小林一平については、こちら↓

映画「ひろしま」と父・小林大平





↓八丁座については、こちら↓

広島の映画館サロンシネマ、シネツイン、八丁座の広島地場劇場運営会社【序破急】





↓『原爆の子~広島の少年少女のうったえ』については、こちら↓

「原爆の子(上)―広島の少年少女のうったえ(ワイド版岩波文庫)」amazon

「原爆の子(下)―広島の少年少女のうったえ(ワイド版岩波文庫)」amazon






↓映画『原爆の子』については、こちら↓

「原爆の子[DVD]」amazon





↓映画『原爆の子』についての関連記事は、こちら↓

映画『原爆の子』 フィルムに残された広島の風景

映画『原爆の子』 ニューヨークで初上映






↓宝塚についての関連記事は、こちら↓

宝塚歌劇団団員養成所の名称は?





「今日は、八丁座で上映されている映画『ひろしま -1945年8月6日、原子雲の下の真実-』について話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」
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明顕寺の梵鐘 安芸郡海田町

2011年10月12日 | 広島の話題
「昨日は千葉家住宅の話をしたんじゃが、ここのすぐ近くに明顕寺(みょうけんじ)というお寺があるんよ」

「明顕寺? 聞いたことがない名前のお寺じゃけど、何か有名なものがあるんかね?」

「ここの梵鐘(ぼんしょう)が有名なんじゃそうな。梵鐘というのは、鐘のことじゃの」



銅製梵鐘(ぼんしょう)

所在地 広島県安芸郡海田町稲荷町一八二-三
総高 一二七センチ  口径 七〇センチ

この梵鐘は、銘文によると享保(きょうほう)年中(一七一六~一七三五)に海田の嶋屋浄祐、奥田屋善六、金屋源兵衛の三氏が寄進し、宝暦(ほうれき)二年(一七五二)に再び三氏によって鋳(い)直されたものである。
これを製作した鋳物師(いもじ)金屋(植木)源兵衛・新兵衛は、当時一里塚附近に住み芸州鋳物師筆頭総代で名工といわれた人である。

昭和六十三年十一月一日
海田町教育委員会

(説明板より)



明顕寺 説明板



手前が梵鐘



入口



本堂



「江戸時代の鐘が今も残っとるんじゃね」

「そこなんよ。太平洋戦争の時に、金属供出があったのは知っとるじゃろ?」

「知っとるよ」

「この鐘には文化的価値があるということで、供出を免れたそうじゃ」

「へぇ。その鐘を作られたのが、海田に住んどられた金屋(植木)源兵衛・新兵衛という方なんじゃね」

「植木家は代々、寺院の鐘を作られとったんよ」



植木氏は代々、広島県西部の多くの寺院の鐘を鋳造(ちゅうぞう)し、「芸州海田住植木某」という鐘銘により広くその名を残しています。
植木氏製作の梵鐘として、現在伝わっている最古のものは延宝(えんぽう)5(1677)のもので、18世紀後半の頃には、「芸備両国鋳物師筆頭」の肩書きを使用するにいたっております。

(海田町ふるさと館にある「植木源兵衛」の説明板より)



「たとえば、東広島市の重要文化財に指定されとる慶徳寺(東広島市西条中央3丁目1-8)の梵鐘には、「天和3年(1683) 植木六郎兵衛」の銘が確認できるそうじゃ」

「植木家は、海田の一里塚あたりに住んどられたんじゃね。一里塚いうたら、主な街道に1里、約4キロメートルごとに築かれた塚のことじゃろ?」

「ほうじゃの。海田の一里塚は、広島の元安橋東詰から出発して、2つ目の一里塚になるんじゃ」

「海田の一里塚は、どのへんにあるんかね?」

「明顕寺から西(広島方向)に200メートルくらい行ったところに碑が建っとるけぇ、そのあたりになるんじゃろうの」




一里塚跡の碑
(正面)旧山陽道海田市の一里塚跡
(正面右側)安芸ライオンズクラブ
(正面左側)昭和五十六年三月吉日建之
(裏面)古塚 大正十年 撤去




「おぉ。言い忘れとったが、明顕寺には越後高田藩士の墓もあるそうじゃ」

「越後って新潟県のほうじゃろ? なんで広島にお墓があるん?」

「前に、第二次長州征討の話をしたのは覚えとるかいの?」

「うーん、話をした記憶はあるけど…」

「広島県と山口県の県境で行われたのが芸州口の戦い。この戦いの緒戦となった小瀬川(おぜがわ)の戦いで、幕府軍の先鋒を命ぜられたのが高田藩と彦根藩(現:滋賀県)じゃったんよ」

「あぁ、思い出した。この戦いは、長州軍が圧勝したんよね。この時の戦いで亡くなった高田藩の方のお墓が広島にあるのは分かるけど、なんでこのお寺に?」

「高田藩は、明顕寺を宿にされとったんよ。ほいじゃけぇ、高田藩の戦死者34名がこの寺で葬られ、墓が建てられたそうじゃ」





↓明顕寺の梵鐘・一里塚跡・越後高田藩士の墓については、こちら↓

「歴史・文化・観光 文化財」海田町公式ホームページ





↓一里塚(広島市道路元標)についての関連記事は、こちら↓

西国街道の旧町名銘板 広島市中区本通





↓第二次長州征討についての関連記事は、こちら↓

彦根戦死士之墓 山口県玖珂郡和木町





↓海田町についての関連記事は、こちら↓

千葉家住宅 安芸郡海田町

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【参考文献】
『ふるさと散策マップ集』海田町教育委員会 2004年






「今日は、安芸郡海田町にある明顕寺の梵鐘について話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」
コメント
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