通でがんす

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(旧ブログタイトル:通じゃのう)

東映娯楽版

2024年03月03日 | まんが・テレビ・映画
「東映時代劇YouTubeでは、3月1日から3月17日まで、映画『里見八犬傳 第一部 妖刀村雨丸(以下、「八犬伝」と略す)』(1954年)を無料配信中じゃ」

「1954年いうたら、今から70年前かぁ…」




映画ポスター(ウィキペディアより拝借)


↓映画『里見八犬傳 第一部 妖刀村雨丸』については、こちら↓

「里見八犬傳 第一部 妖刀村雨丸 [公式]」東映時代劇YouTube



「第1部っていうたけど、八犬伝って全部で何作あったん?」

「第1部から第5部まで、全部で5作品が作られた」

「5作品って、それだけ人気のシリーズだったんじゃね」

「…じゃのうて、八犬伝は東映娯楽版の1作として、最初から5部作として作られたんじゃ」

「東映娯楽版?」

「東映が日本でメジャーの映画会社になった要因のひとつが、ジャリ(子供)向けとして製作した東映娯楽版の成功といわれているんじゃの」





「今日は、東映娯楽版についての話でがんす」





「今さらじゃが、まずは東映という会社についておさらいしておこう」

「東映といえば、東宝・松竹と並んで、日本のメジャー映画会社のひとつじゃね」

「その東映は1951(昭和26)年、東横映画を吸収合併する形でスタートした。が、当初から多額の負債を背負って、経営的には苦しかった」

「ほぉ、それは知らんかった」

「経営難の理由のひとつが、自社で製作した映画を配給できる劇場が少なかったことにあったんじゃの」

「ちょっと待ってよ。むかしは、広島東映、東映パラス、駅前東映って、広島市内だけでも東映の直営館がよぉけ(=たくさん)あったけど?」

「それは、1960年代生まれのわしらが子どものころの話で、今は1950年ころの話をしとる。直営館の少ない東映が目をつけたのが、地方の映画館じゃった」

「なんで地方の映画館に目をつけたん?」

「むかしは、二番館、三番館と呼ばれる映画館があったじゃろ?」

「二番館、三番館いうたら、正規の公開が終わった映画を、2本立てで上映する映画館じゃったね」

「別々の会社の映画を2本集めて上映している状況を、東映はこうとらえた。これらの映画館で、2本とも東映の映画を上映してもらえれば、事実上の東映の直営館となって万々歳じゃ、と」

「なるほど、うまいこと考えちゃったね」

「2本のうちの1本は、片岡千恵蔵(かたおか ちえぞう)や市川右太衛門(いちかわ うたえもん)といった、映画館の館主からの要望が強い、時代劇のスターが主演して、確実に儲かる映画を作って…」

「もう1本が、東映娯楽版だった?」

「ほうじゃの。でも、考えることはどこも同じで、他社でも主役級の俳優が主演する映画と、それに併映という形で、たとえば新人が主演する映画を作っとった。が、他社の場合は、その添え物的な映画にも、それなりの予算を使うとったんじゃの」

「お金のない東映は、その予算をケチった?」

「そのとおり!」

「『八犬伝』は1度に5作を撮ったっていうたけど、どれくらいの予算で作ったん?」

「1本分の予算」

「5本の映画を、たった1本分の予算で作った?」

「そーゆこと」

「うわー、無茶苦茶してじゃね」

「そのときの現場の様子が、どうだったかというと…」


メインになるのは姫路城でのロケだったが、ロケ隊を宿泊させる予算はない。そのため、京都から早朝に出発して昼につくと夜まで撮影をし、そして夜中に帰ると少し眠り、また早朝から出発…そんな撮影が十日続けられた。助監督の沢島忠は電話帳のように分厚くなった五本分の台本を抱え、「どこまで続く五部作よ~♪」と半ば呆れながら自作の歌を歌って毎日の現場に臨んだ。

(春日太一『仁義なき日本沈没-東宝vs.東映の戦後サバイバル』新潮新書 2012年 61ページ)



「すごいというより、開いた口がふさがらんよ」

「時代は戦後ということもあって、「大陸から引き揚げてくる映画人の救済」ということも、東映には課せられていたそうじゃ」

「ふーん」

「ジャリ物(子供向け映画)とバカにされようが、ワンパターンといわれようが、東映は大衆娯楽主義に徹して、明朗で勧善懲悪(かんぜんちょうあく。善きを勧(すす)めて、悪を懲(こ)らしめること)の時代劇を作り続けた」

「そういや、「時代劇は東映」というキャッチフレーズがあったね」

「1951(昭和26)年に発足した東映は、1956年(昭和31年)には松竹を抜いて配給収入でトップになり、その黄金時代を築いたんじゃの」

「へぇ」

「このときに撮影所の施設を充実させ、そこで時代劇を量産した。その施設を使って1975年(昭和50年)にオープンさせたのが、太秦(うずまさ)映画村じゃ」



↓東映太秦映画村については、こちら↓

東映太秦映画村





「以下、余談」


「八犬伝の話しかせんかったけど、東映娯楽版には、ほかにどんな作品があったん?」

「たとえば、『八犬伝』(1954年5月から6月)の直前、1954年のゴールデンウィークには『新諸国物語 笛吹童子』3部作が、翌55年の正月映画として『新諸国物語 紅孔雀』5部作が公開されたそうじゃ」

「「八犬伝」は江戸時代、滝沢馬琴(たきざわ ばきん)が書いた作品じゃったよね。でも、「笛吹童子(ふえふきどうじ)」「紅孔雀(べにくじゃく)」はあんまり知らんのじゃけど…」

「どちらも、北村寿夫(きたむら ひさお)の「新諸国物語」の1作として書かれた小説。『笛吹童子』は1953年に、『紅孔雀』は1954年にNHKのラジオドラマとして放送されて、子どもたちには人気があったんじゃの」

「ラジオドラマで人気があった作品を映画化して、大当たりしたと」


このころ東映の電話応対は女性交換手がにこやかに「はい、『紅孔雀』の東映です」と応えたという。

(「紅孔雀」ウィキペディア)



「それまでは、子ども向けの面白い映画というのが、少なかったらしい。で、子どもたちに人気のあった作品を映画化したことで、東映娯楽版は大成功。経営危機を乗り越えたうえに、東千代之介(あずま ちよのすけ)、中村錦之助(なかむら きんのすけ。のち、萬屋錦之介(よろずや きんのすけ))といった、若くて新しいスターも生まれた」

「ほぉ。ほいじゃ、子どものときに東映娯楽版を観て、その影響を受けた人がたくさんおってじゃろ」


倍賞美津子や、高平哲郎、角川春樹など、当時幼少期を送った映画人の中に『笛吹童子』や『里見八犬伝』『紅孔雀』を初めての映画体験と話す者も多い。

(「笛吹童子」ウィキペディア)






「以下、さらに余談」


「東映時代劇YouTubeでは、映画『里見八犬傳』全5部作を、以下のスケジュールで配信する予定じゃそうな」


『里見八犬傳 第一部 妖刀村雨丸』
(公開日:1954年5月31日)
2024年3月1日から3月17日まで

『里見八犬傳 第二部 芳流閣の龍虎』
(公開日:1954年6月8日)
2024年3月15日から3月31日まで

『里見八犬傳 第三部 怪猫乱舞』
(公開日:1954年6月15日)
2024年3月29日から4月14日まで

『里見八犬傳 第四部 血盟八剣士』
(公開日:1954年6月22日)
2024年4月12日から4月28日まで

『里見八犬傳 完結篇 暁の勝閧』
(公開日:1954年6月29日)
2024年4月26日から5月12日まで



「ほぉ、このころの映画は毎週、新作が上映されとったんじゃね」

「毎週放送される、テレビのようなもんかの」





「今日は、東映娯楽版について話をさせてもろうたでがんす」

「ほいじゃあ、またの」



(文中、敬称略)
コメント
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