巡洋艦・青葉
呉市警固屋(けごや)沖
海底に大破着底
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/1f/1462e1e6381e1e8f0632eacd74bc373f.jpg)
音戸の瀬戸の近く、警固屋(けごや)というところに、
今から4年前の2012年(平成24年)4月29日に建立された
「巡洋艦青葉終焉之地碑」がある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/07/b9/92ee7f8593689a02ca0cc6722bc9bcc9.jpg)
揮亳(きごう)は、青葉の乗組員で元内閣総理大臣の
中曽根康弘(なかそね やすひろ)氏によるもの。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/09/84/134c4be96c4a7b69b6341357f534bd15.jpg)
建碑記
「巡洋艦青葉」は太平洋戦争のフィリピン沖海戦において
昭和19年10月23日ルソン島西方で米潜水艦の魚雷を受けて大破し,
呉海軍工廠に帰還しましたが,修理の見込みが立たないため
防空砲台として警固屋地区の海岸に繋留されていました。
しかしながら,昭和20年7月24日と28日のアメリカ爆撃機の
熾烈な爆撃を受け,「青葉」は大破着底しました。
この爆撃により警固屋地区にも
死者3名,民家全壊48戸という被害を生じてしまいました。
これら戦争の事実とともに,「命と平和の尊さ」を
次世代に伝えるため,「青葉」に乗艦経験を有する
中曽根康弘元内閣総理大臣にご揮亳いただき,
終焉であるこの地に碑を建立しました。
呉市警固屋まちづくり協議会
巡洋艦青葉終焉之地碑建設保存会
「防空砲台」という言葉が出てきたが、
文字どおり、アメリカ軍の空からの攻撃を防ぐために
地上に据え付けられた砲台のことじゃ。
呉に帰還した青葉は、修理の見込みが立たん上に、
燃料の重油が不足して航行が不可能になったため、
呉湾沖に繋留(けいりゅう)されとったんじゃの。
つまり、艦艇として移動するはできんが、
船に据え付けてある砲塔を
海に浮かぶ砲台として使おうというわけじゃ。
青葉だけじゃのうて、
戦艦・日向(ひゅうが)、榛名(はるな)、
空母・天城(あまぎ)、葛城 (かつらぎ)など
呉や江田島(えたじま)周辺の海では
同じような運命をたどった艦艇があった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6f/18/0f73d38333bef19ad71f6643731917ab.jpg)
一等巡洋艦青葉戦歴表
昭和二年九月二十日
三菱長崎造船所にて建造
排水量 約一〇、〇〇〇屯(改装後)
乗組員 約八〇〇名
戦没者 一七二名
昭和十五年十一月十五日
第一艦隊第六戦隊旗艦となる
昭和十六年十一月三十日
太平洋戦争開戦のため柱島を出港
昭和十六年十二月十二日
グアム島攻略作戦
昭和十六年十二月二十二日
ウェーキ島攻略作戦
昭和十七年一月二十三日
ビスマルク攻略作戦
昭和十七年五月七日-九日
珊瑚海海戦
昭和十七年八月八日
第一次ソロモン海戦(ツラギ夜襲戦)
昭和十七年十月十一日
サボ島沖夜戦
昭和十八年四月三日
カビエング泊地の遭難
昭和十八十一月二十五日
第一南遣艦隊第十六戦隊の旗艦
昭和十九年六月
印度洋作戦
昭和十九年十月二十三日-三十日
比島沖海戦(マニラ沖遭難)
昭和二十年七月二十四日-二十八日
瀬戸内海方面(呉軍港被空襲)
昭和二十年七月二十八日
艦載機の攻撃により後部切断着底
昭和二十年八月十五日
終戦となり青葉終焉
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3f/0a/824c256cbbaa4ef923971721e85b8d90.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/24/54/f5adc21f30aaaefd82c873c9b25bef28.jpg)
碑の前には、音戸の瀬戸に架かる
第二音戸大橋につながる警固屋音戸バイパスがある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/41/2c/96a0c722bfabf61841ff6a4633d215ce.jpg)
青葉が着底していたであろう、
今はおだやかな瀬戸内海を望む。
海の向こうには、
かつて海軍兵学校があった江田島が見える。
撮影日:2013年5月12日
今日は、呉市警固屋にある巡洋艦青葉終焉之地碑
について話をさせてもらいました。
ほいじゃあ、またの。
呉市警固屋(けごや)沖
海底に大破着底
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/1f/1462e1e6381e1e8f0632eacd74bc373f.jpg)
音戸の瀬戸の近く、警固屋(けごや)というところに、
今から4年前の2012年(平成24年)4月29日に建立された
「巡洋艦青葉終焉之地碑」がある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/07/b9/92ee7f8593689a02ca0cc6722bc9bcc9.jpg)
揮亳(きごう)は、青葉の乗組員で元内閣総理大臣の
中曽根康弘(なかそね やすひろ)氏によるもの。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/09/84/134c4be96c4a7b69b6341357f534bd15.jpg)
建碑記
「巡洋艦青葉」は太平洋戦争のフィリピン沖海戦において
昭和19年10月23日ルソン島西方で米潜水艦の魚雷を受けて大破し,
呉海軍工廠に帰還しましたが,修理の見込みが立たないため
防空砲台として警固屋地区の海岸に繋留されていました。
しかしながら,昭和20年7月24日と28日のアメリカ爆撃機の
熾烈な爆撃を受け,「青葉」は大破着底しました。
この爆撃により警固屋地区にも
死者3名,民家全壊48戸という被害を生じてしまいました。
これら戦争の事実とともに,「命と平和の尊さ」を
次世代に伝えるため,「青葉」に乗艦経験を有する
中曽根康弘元内閣総理大臣にご揮亳いただき,
終焉であるこの地に碑を建立しました。
呉市警固屋まちづくり協議会
巡洋艦青葉終焉之地碑建設保存会
「防空砲台」という言葉が出てきたが、
文字どおり、アメリカ軍の空からの攻撃を防ぐために
地上に据え付けられた砲台のことじゃ。
呉に帰還した青葉は、修理の見込みが立たん上に、
燃料の重油が不足して航行が不可能になったため、
呉湾沖に繋留(けいりゅう)されとったんじゃの。
つまり、艦艇として移動するはできんが、
船に据え付けてある砲塔を
海に浮かぶ砲台として使おうというわけじゃ。
青葉だけじゃのうて、
戦艦・日向(ひゅうが)、榛名(はるな)、
空母・天城(あまぎ)、葛城 (かつらぎ)など
呉や江田島(えたじま)周辺の海では
同じような運命をたどった艦艇があった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6f/18/0f73d38333bef19ad71f6643731917ab.jpg)
一等巡洋艦青葉戦歴表
昭和二年九月二十日
三菱長崎造船所にて建造
排水量 約一〇、〇〇〇屯(改装後)
乗組員 約八〇〇名
戦没者 一七二名
昭和十五年十一月十五日
第一艦隊第六戦隊旗艦となる
昭和十六年十一月三十日
太平洋戦争開戦のため柱島を出港
昭和十六年十二月十二日
グアム島攻略作戦
昭和十六年十二月二十二日
ウェーキ島攻略作戦
昭和十七年一月二十三日
ビスマルク攻略作戦
昭和十七年五月七日-九日
珊瑚海海戦
昭和十七年八月八日
第一次ソロモン海戦(ツラギ夜襲戦)
昭和十七年十月十一日
サボ島沖夜戦
昭和十八年四月三日
カビエング泊地の遭難
昭和十八十一月二十五日
第一南遣艦隊第十六戦隊の旗艦
昭和十九年六月
印度洋作戦
昭和十九年十月二十三日-三十日
比島沖海戦(マニラ沖遭難)
昭和二十年七月二十四日-二十八日
瀬戸内海方面(呉軍港被空襲)
昭和二十年七月二十八日
艦載機の攻撃により後部切断着底
昭和二十年八月十五日
終戦となり青葉終焉
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3f/0a/824c256cbbaa4ef923971721e85b8d90.jpg)
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碑の前には、音戸の瀬戸に架かる
第二音戸大橋につながる警固屋音戸バイパスがある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/41/2c/96a0c722bfabf61841ff6a4633d215ce.jpg)
青葉が着底していたであろう、
今はおだやかな瀬戸内海を望む。
海の向こうには、
かつて海軍兵学校があった江田島が見える。
撮影日:2013年5月12日
今日は、呉市警固屋にある巡洋艦青葉終焉之地碑
について話をさせてもらいました。
ほいじゃあ、またの。