通でがんす

いろんな広島を知って、ひろしま通になりましょう!
(旧ブログタイトル:通じゃのう)

巡洋艦青葉終焉之地碑

2016年04月30日 | 見て歩き
巡洋艦・青葉

呉市警固屋(けごや)沖

海底に大破着底








音戸の瀬戸の近く、警固屋(けごや)というところに、

今から4年前の2012年(平成24年)4月29日に建立された

「巡洋艦青葉終焉之地碑」がある。







揮亳(きごう)は、青葉の乗組員で元内閣総理大臣の

中曽根康弘(なかそね やすひろ)氏によるもの。







建碑記


「巡洋艦青葉」は太平洋戦争のフィリピン沖海戦において
昭和19年10月23日ルソン島西方で米潜水艦の魚雷を受けて大破し,
呉海軍工廠に帰還しましたが,修理の見込みが立たないため
防空砲台として警固屋地区の海岸に繋留されていました。

しかしながら,昭和20年7月24日と28日のアメリカ爆撃機の
熾烈な爆撃を受け,「青葉」は大破着底しました。
この爆撃により警固屋地区にも
死者3名,民家全壊48戸という被害を生じてしまいました。

これら戦争の事実とともに,「命と平和の尊さ」を
次世代に伝えるため,「青葉」に乗艦経験を有する
中曽根康弘元内閣総理大臣にご揮亳いただき,
終焉であるこの地に碑を建立しました。


呉市警固屋まちづくり協議会

巡洋艦青葉終焉之地碑建設保存会






「防空砲台」という言葉が出てきたが、

文字どおり、アメリカ軍の空からの攻撃を防ぐために

地上に据え付けられた砲台のことじゃ。





呉に帰還した青葉は、修理の見込みが立たん上に、

燃料の重油が不足して航行が不可能になったため、

呉湾沖に繋留(けいりゅう)されとったんじゃの。





つまり、艦艇として移動するはできんが、

船に据え付けてある砲塔を

海に浮かぶ砲台として使おうというわけじゃ。





青葉だけじゃのうて、

戦艦・日向(ひゅうが)、榛名(はるな)、

空母・天城(あまぎ)、葛城 (かつらぎ)など

呉や江田島(えたじま)周辺の海では

同じような運命をたどった艦艇があった。







一等巡洋艦青葉戦歴表


昭和二年九月二十日
 三菱長崎造船所にて建造

排水量 約一〇、〇〇〇屯(改装後)
乗組員 約八〇〇名
     戦没者 一七二名

昭和十五年十一月十五日
 第一艦隊第六戦隊旗艦となる

昭和十六年十一月三十日
 太平洋戦争開戦のため柱島を出港

昭和十六年十二月十二日
 グアム島攻略作戦

昭和十六年十二月二十二日
 ウェーキ島攻略作戦

昭和十七年一月二十三日
 ビスマルク攻略作戦

昭和十七年五月七日-九日
 珊瑚海海戦

昭和十七年八月八日
 第一次ソロモン海戦(ツラギ夜襲戦)

昭和十七年十月十一日
 サボ島沖夜戦

昭和十八年四月三日
 カビエング泊地の遭難

昭和十八十一月二十五日
 第一南遣艦隊第十六戦隊の旗艦

昭和十九年六月
 印度洋作戦

昭和十九年十月二十三日-三十日
 比島沖海戦(マニラ沖遭難)

昭和二十年七月二十四日-二十八日
 瀬戸内海方面(呉軍港被空襲)

昭和二十年七月二十八日
 艦載機の攻撃により後部切断着底

昭和二十年八月十五日
 終戦となり青葉終焉














碑の前には、音戸の瀬戸に架かる

第二音戸大橋につながる警固屋音戸バイパスがある。







青葉が着底していたであろう、

今はおだやかな瀬戸内海を望む。



海の向こうには、

かつて海軍兵学校があった江田島が見える。





撮影日:2013年5月12日





今日は、呉市警固屋にある巡洋艦青葉終焉之地碑

について話をさせてもらいました。



ほいじゃあ、またの。
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重巡洋艦・青葉~あのころの廣島・呉(その4)

2016年04月29日 | 広島の話題
『この世界の片隅に』

廣島と呉を中心に

重巡洋艦・青葉(じゅうじゅんようかん・あおば)






↓前回記事は、こちら↓

昭和8年のヨーヨー・ブーム~あのころの廣島・呉(その3)







今年(2016年)の秋、

映画『この世界の片隅に』(監督・脚本:片渕須直)

が公開される。





そこで、原作漫画と映画の

『この世界の片隅に』に出てくる、

当時の廣島と呉に関係する場所や出来事

ついて話をしてみたいと思います。





今回は、呉湾沖で大破・着底し、

戦後解体された重巡洋艦・青葉じゃ。





↓映画『この世界の片隅に』については、こちら↓

映画「この世界の片隅に」公式サイト





↓漫画『この世界の片隅に』については、こちら↓

こうの 史代『この世界の片隅に(前編)』Amazon

こうの 史代『この世界の片隅に(後編)』Amazon





主人公すずの幼なじみで、

海軍に入った水原 哲(みずはら てつ)は、

重巡洋艦・青葉の乗組員じゃった。




その関係か、原作漫画では、

第21・22回(『19年12月』)、

第33回(『20年6月』)、

第43回(『水鳥の青葉(20年12月)』)

の4回、青葉が出てくる。





第21・22回は、哲が呉で入湯(にゅうとう)上陸したとき、

呉にある、すずの嫁ぎ先の北條(ほうじょう)家を訪れるという話。





入湯上陸とは、

原作者・こうの 史代(ふみよ)さんの解説によると、

軍艦の乗員は、港に滞在中数日ごとに

ゆっくり風呂につかるという名目で

外泊が許可されたそうじゃ。





この時、哲はすずの夫・周作(しゅうさく)とこんな会話をする。





周作「…青葉はどがいな(=どんな様子)ですか?」



哲「はあ… マニラで負傷して

漸(ようよ)う戻って来ました」





このセリフについて、

アニメ映画版の監督・片渕須直(かたぶち すなお)さんは

次のように解説されとってじゃ。





彼が乗っていた巡洋艦青葉は、

19年10月23日マニラ湾口南西70海里のところで

潜水艦からの雷撃を受け、右舷に魚雷命中。

大傾斜、航行不能になり、僚艦の軽巡洋艦鬼怒に

曳航されてマニラに入港。

さらに空襲を受けつつ応急修理後、

12ノットの低速しか出なくなったヨタヨタした体で

12月12日呉に帰りついている。

哲が語る「マニラで負傷」というのはそういうことなのだった。

(「第34回 登場人物たちの履歴書」1300日の記録[片渕須直])






原作者・こうのさんもそういう史実を調べたうえで、

『19年12月』というサブタイトルをつけられたんじゃろうの。





そういや、アニメ映画のポスターには、

スケッチしとるすずの姿を描いたもののほかに、

漸う呉まで戻って来た青葉を正面から描いたものがある。





この2枚のポスターは、

左右に並べて一組になるようデザインにしてある

という話を聞いたことがあるのう。





第33回は、すずの回想シーンで、

姪の晴美(はるみ)が呉湾に浮かぶ艦艇の名前を呼んでいるところ。





第43回は、昭和20年7月末、アメリカ軍の爆撃を受けて、

呉湾沖の海に大破、着底した後の姿が描かれとる。





青葉は着底したままの状態で終戦を迎え、

翌昭和21年に解体されたんじゃ。





青葉が着底したあたり、

呉市警固屋(けごや)には今、

「巡洋艦青葉終焉之地碑」が立つ。





(撮影日:2013年5月12日)





今日は、重巡洋艦・青葉について話をさせてもらいました。

ほいじゃあ、またの。
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坂町ぶらり(その6)

2016年04月28日 | 見て歩き
坂町(さかちょう)

海沿いぶらり歩き

広島湾を望む






↓前回記事は、こちら↓

坂町ぶらり(その5)







前回は坂町にある森山ジョギングコース(5.2km)の

途中から寄り道をして、横浜公園へ行ってみた。





今回はさらに西側(海側)に行ってみることにする。







広島湾に出ると、そこには…、







「海の安全」を守る神様(?)が祀ってあった。



う~ん、最近はこんな神様もおられるんじゃのう。







浜辺に降りて、広島湾を望む。



左手に見えるのは、江田島と似島(にのしま)。







正面に見えるのは、金輪島(かなわじま)。







右手奥、遠くにかすんで見えるのは、

三滝山・武田山あたりじゃろうの。








ゆっくり海を眺めたあと、

さあ帰ろうと振り返ってみると、



…ん!?

海に向かって立っとる

この三角形の物体はなんじゃ?





船の灯火を反射する反射材で

「ここには島がありますよ」

と注意を促しとるとか??





…以下、オマケ。







「S」の字の坂町章が入った、汚水管マンホール蓋。







上から、

町の鳥・メジロ、

町の木・ウメ、

町の花・アサガオ

と盛りだくさんの、汚水管マンホール蓋。





訪問日:2016年2月21日





今日は、坂町ぶらりということで、

広島湾を一望してきました。

次回は森山ジョギングコース(5.2km)に戻って、

坂町をぶらぶらする予定じゃ。



ほいじゃあ、またの。

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昭和8年のヨーヨー・ブーム~あのころの廣島・呉(その3)

2016年04月27日 | 広島の話題
『この世界の片隅に』

廣島と呉を中心に

ヨーヨー・ブーム






↓前回記事は、こちら↓

あのころの廣島・呉(その2)







今年(2016年)の秋、

映画『この世界の片隅に』(監督・脚本:片渕須直)

が公開される。





そこで、原作漫画と映画の

『この世界の片隅に』に出てくる、

当時の廣島と呉に関係する場所や出来事

ついて話をしてみたいと思います。





第3回目の今日は、

昭和8年に流行したヨーヨー・ブームじゃ。





↓映画『この世界の片隅に』については、こちら↓

映画「この世界の片隅に」公式サイト





↓漫画『この世界の片隅に』については、こちら↓

こうの 史代『この世界の片隅に(前編)』Amazon

こうの 史代『この世界の片隅に(後編)』Amazon





原作漫画の第1話『冬の記憶(9年1月)』は、

主人公の浦野(うらの)すずが、

廣島市南部にある江波(えば)から、

中心街の中島本町(なかじまほんまち)にある料理屋「ふたば」まで、

実家で作った海苔を届けに行くというお話。





すずはこのとき、お駄賃(だちん)として

穴の開いた10銭硬貨2枚をもろうとって、

これで何を買おうかと心おどらせとるんじゃの。





チョコレートを買おうか、

それともキャラメルにしようか。

いやいや、アンパンもおいしそうじゃ。

きれいな色のおはじきもええね。





その中に、ヨーヨーも入っとった。





…ヨーヨー?





なんでこの時代(昭和9年)、

すずのような子どもがヨーヨーを欲しがるんじゃろ?





ウィキペディアで調べてみると、

1933年(昭和8年)、洋行(ようこう)帰りの教員が

アメリカ土産として持ち帰って、

翌34年の夏くらいまで大流行したそうじゃ。





「洋行」という言葉をご存じない方に説明しとくと、

「欧米へ旅行したり留学したりすること」を

むかしは「洋行」いうて言いよったんじゃの。





つまり、アメリカ留学(または旅行)に出かけた先生方が、

ヨーヨーをアメリカみやげとして持ち帰った。

それが、サラリーマンや学生の間にも広まって、

お年寄りから若者までヨーヨーを持ち歩くようになった

らしい。





そんな時代背景があって、

すずもヨーヨーが欲しいと思うたんじゃろう。

原作漫画の中では、中島本町を歩くすずの後ろで、

ヨーヨーで遊んどる子どもも描かれとるんじゃ。





この時期の雑誌で、ヨーヨー・ブームが

写真特集になっているものとかを見てみると、

日本中の大の大人たちが寸暇を惜しんで

ヨーヨーに勤しんでいる写真がこれでもかと

大量に載っている。

ほんとうに大ブームだったのだ。

「第14回 9年1月」1300日の記録[片渕須直]






…以下、余談。





わしの記憶が確かなら、

広島カープが初優勝した1975年(昭和50年)、

わしが小学6年生じゃったころにも

ヨーヨー・ブームがあったんじゃ。





ある日、放課後の小学校の校庭に、

コカ・コーラ・カラーの赤いジャケットを着た

ヨーヨーの外国人チャンピオンがやって来た。



もちろん、通訳兼広報担当の方も一緒じゃった

…と記憶する。





そのチャンピオンはわしらの前で、

「犬の散歩」や「輪投げ」、「ブランコ」などの

ヨーヨーの技を見せてくれた。





チャンピオンの繰り出す技のすごさに、

小学生のガキどもは目を見張ったことはもちろん、

当時、めったに見かけることのなかった外国人に会うたことも

よう覚えとるで。





さっき、「コカ・コーラ」と書いたが、

当時のヨーヨーには、「コカ・コーラ」のほか、

「ファンタ」や「スプライト」のロゴが入っとったんじゃの。





↓ヨーヨー・ブームについては、こちら↓

「コカコーラヨーヨー:ヨーヨーショップ スピンギア」楽天市場





そういや、今から40年前の1976年(昭和51年)に放送された

アニメ『超電磁ロボ コン・バトラーV』では、

ヨーヨー・ブームを受けて

「超電磁ヨーヨー」という必殺技があったのう。





↓アニメ『超電磁ロボ コン・バトラーV』については、こちら↓

「超電磁ロボ コン・バトラーV OP」YouTube





今日は、昭和8年に大流行したヨーヨー・ブームと、

わしが小学6年生のころにあったヨーヨー・ブーム

について話をさせてもらいました。



ほいじゃあ、またの。
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栄橋~猿猴川ぶらり(その1)

2016年04月26日 | 見て歩き
猿猴川ぶらり歩き

栄橋






広島は、市内に6つの川が流れることから、

「水の都」と呼ばれとる。





その6つの川のうち

一番東側を流れる猿猴川(えんこうがわ)を、

上流から下流に向けて

ぶらぶら歩いて紹介してみたいと思います。





第1回目の今日は、

栄橋(さかえばし)じゃ。







写真手前から流れてきた京橋川(きょうばしがわ)は、

京橋川(向かって右側)と

猿猴川(向かって左側)に分かれる。





写真の真ん中、

川が分かれるところにあるのが、

「台屋(だいや)の鼻」と呼ばれるところじゃ。





↓台屋の鼻についての関連記事は、こちら↓

台屋の鼻と(広島)駅前橋記念碑







京橋川と猿猴川が分かれるところより少し上流の

京橋川に架かるのが、今日紹介する

栄橋じゃ。





【栄橋 基本情報】


橋長:87.22メートル、

幅員:7.2メートル、

上部:鉄筋コンクリート連続桁橋、

下部:多柱式橋脚


(「被爆橋梁リスト」広島市)






その栄橋の歴史をたどってみると…。





江戸時代、ここには「大須賀(おおすが)渡し」

という船で渡る渡し場があったという。





1873年(明治6年)、

広島城跡に旧陸軍の広島鎮台が設置された。





…が、広島駅から広島鎮台を結ぶ道は、

猿猴橋から京橋(きょうばし)を通って行く

旧西国街道しかなかった。





これは遠回りで不便じゃいうことで、

1906年(明治39年)、米穀商の熊谷栄次郎という人が

ここに木橋を架けたのが栄橋の始まり。





ちなみに、栄橋の「栄」という字は、

栄次郎さんの名前から一字とってつけたものじゃそうな。





1928年(昭和3年)、暴風雨で橋が落ちたため、

1930年(昭和5年)、鉄筋コンクリート橋として再架橋された。





1945年(昭和20年)8月6日、

アメリカが広島に原子爆弾を投下。





爆心地から約1.5キロメートルのところにあった栄橋は、

爆風が吹き抜けるのと同じ方向に架かっとったため、

爆風は橋を通り抜け、橋が落ちることはなかった。





そのため、広島市内から、広島駅北口側にある

東練兵場(ひがしれんぺいじょう。現:東区二葉の里あたり)への

避難する通り道として使われたそうじゃ。







ここからまっすぐ1.5キロメートルくらい進んで、

その上空580メートルあたりが、

爆心地になるんじゃの。





1971年(昭和46年)、歩道の幅を広げる工事を行って

現在のような形になったそうじゃ。







橋の下から見ると、

中央の3本の橋脚(きょうきゃく)は最初からあったもので、

外側の2本が歩道を増やしたときに取り付けられたものじゃそうな。







橋の東側の親柱、向かって右側(上流側)。







左側(下流側)。







橋の西側の親柱、向かって左側(上流側)。







右側(下流側)。





訪問日:2016年3月20日





【参考文献】

被爆建造物調査研究会/編『ヒロシマの被爆建造物は語る―被爆50周年 未来への記録―』(広島平和記念資料館 1996年)






今日は、猿猴川ぶらりということで、京橋川に架かる

栄橋を紹介させてもらいました。

次回は、栄橋のすぐ隣(上流側)にある

水管橋を紹介する予定じゃ。



ほいじゃあ、またの。
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