通でがんす

いろんな広島を知って、ひろしま通になりましょう!
(旧ブログタイトル:通じゃのう)

大正橋【花見に行こうや2014】

2014年03月31日 | 季節の話題
「昨日は、桜を見に出かけてきた」

「どのあたりへ行ってきたん?」

「今回は、大正橋(たいしょうばし)をスタートして、猿猴川(えんこうがわ)をさかのぼって栄橋(さかえばし)まで行く。栄橋からは京橋川(きょうばしがわ)を下って、東広島橋(ひがしひろしまばし)までを歩いてみたんじゃ」







「広島市東区にある大正橋の右岸(南側)にある大正橋交差点には、大きな桜の木と…」











「枝垂れ桜(しだれざくら)が咲いとる」

「おぉー、今年もきれいに咲いとるよ」







「この日は、結婚式用の写真を撮りよるカップルもおられたのう」

「満開の桜の下で写真を撮るのもええねぇ」







「大正橋には、1959年(昭和34年)に建てられた段原(だんばら)地区町民原爆慰霊碑もあるんじゃの」

「ふつう、碑の石って縦に長いじゃん。なんで横に長い石を使(つこ)うとってんかね?」

「原子爆弾が投下された時の原子雲(げんしぐも)、いわゆる「きのこ雲」に似せた石で作られとるそうじゃ」



原爆に あまた逝かせし

なげきのみ うづきてやまず

きのうのごとく

山本康夫








「…かと思えば、こんなカッパの像もあるんよ」

「カッパじゃのうて、「猿猴(えんこう)」という名前を持つ架空の生き物なんじゃの」

「この近くを流れる猿猴川も、この猿猴からつけられた名前なんよね」







「大正橋の名前のとおり、この橋は大正12年(1923年)に架けられたんじゃ」

「原子爆弾の爆風で欄干(らんかん)に被害を受けたけど、渡ることはできたんよね」

「その後、1945年(昭和20年)9月の枕崎台風(まくらざきたいふう)で橋げたが流されたそうじゃ。今の橋は、1958年(昭和33年)に架け替えられたものなんじゃの」





訪問日:2014年3月30日





「今日は、大正橋にある桜に咲いとる桜について話をさせてもらいました」

「次は、大正橋から荒神橋(こうじんばし)までの桜を紹介する予定じゃ。ほいじゃあ、またの」
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NHK大河ドラマ『花燃ゆ』

2014年03月27日 | 見て歩き
「3月15日・16日は、家族旅行で山口県にある長門湯本温泉(ながとゆもとおんせん)に行ってきた」

「昨日は、道の駅 萩往還に置いてある、吉田松陰(よしだ しょういん)と維新の群像について話をしたんじゃけど…」

「今日は、萩市(はぎし)にある松陰神社(よしだ しょういん)について話をしようと思うたんじゃが、入り口にこんな幟が立ててあったんで気が変わった」





「平成27年 NHK大河ドラマ「花燃ゆ」決定!! …てあるけど?」

「来年の大河ドラマは『花燃ゆ(はなもゆ)』いうて、幕末の思想家・吉田松陰の妹・文(ふみ)を主人公にした話なんじゃ」

「吉田松陰じゃのうて、妹さんの話?」

「…らしいのう」

「へぇ。で、誰が演じとってんかね?」

「えーと…、なんとか真央(まお)いう名前の女優さんなんじゃが、子どもたちは知らんかいの?」

「真央いうたら、井上真央(いのうえ まお)ちゃんじゃろ?」

「おーおー、それそれ。たぶん、その方じゃ」

「真央いうけぇ、うちゃ大地真央(だいち まお)さんかと思うたよ」

「大河ドラマの主役を演じるには、ちょいとお年が…」

「まぁまぁ、わたしゃ、浅田真央(あさだ まお)ちゃんかと思うたよ」

「おばあちゃん、その真央ちゃんはフィギュアスケート選手じゃん」

「ありゃ、そうじゃったかいね?」

「それにしても、大河ドラマで女性が主役をやると『花』とか『桜』(『八重の桜』(やえのさくら))がタイトルになるんかね?」

「『花』といえば、三田佳子(みた よしこ)が主演で、「悪女」と呼ばれた、室町幕府将軍・足利義政(あしかが よしまさ)の妻・日野富子(ひの とみこ)の生涯を描いた『花の乱』(はなのらん。1994年)というのもあったのう」

「お母さん。『花』はつかんけど、『江(ごう)』(2011年。主演:上野樹里)いうのもあったよ」

「そうか。『篤姫(あつひめ)』(2008年。主演:宮あおい)いうのもあったね」

「『花』といえばそのむかし(1977年)、幕末の長州藩の医師で、兵学者の村田蔵六(むらた ぞうろく。大村益次郎(おおむら ますじろう)と、明治維新にかかわった若者たちを描いた『花神(かしん)』いうのもあったで」

「花神? 花の神様のこと?」

「花さかじいさんのことを、中国では「花神」というらしいの」

「へぇ…。この村田なんとかいう方を演じられたのは?」

「4代目・中村梅之助(なかむら うめのすけ)じゃ」

「まぁまぁ、中村梅之助いうたら、『伝七捕物帳(でんしち とりものちょう)』じゃね」

「そうそう。事件が解決すると、指締めで「よよよい、よよよい、 よよよい、よい!」ってやるやつですよ」

「めでてぇなぁ!」

「大河ドラマでは最近、幕末ものがおおいね」

「『篤姫』(2008年)、『龍馬伝(りょうまでん)』(2010年)、『八重の桜』(2013年)、そして来年の『花燃ゆ』と続いとるよのう」

「篤姫は、13代将軍・徳川家定(とくがわ いえさだ)の奥さんじゃったよね」

「『八重の桜』は、その徳川幕府に忠義を尽くしたがために、新政府軍にやっつけられてしまう話。これとは逆に、『龍馬伝』は幕府を倒す側から描いた話じゃったのう」

「『花燃ゆ』は、どんな話になるんかね?」




明治維新のまっただ中を生きぬいた女性がいた。

幕末の思想家・吉田松陰の妹・文(ふみ)。

久坂玄瑞の妻となり、激動の長州藩の運命に翻弄されながらも、

新しい時代へと、松陰の志を引き継いでいく…。





↓『花燃ゆ』については、こちら↓

「平成27年大河ドラマ『花燃ゆ』制作発表!主演は井上真央さん」 NHKドラマトピックス





訪問日:2014年3月15日





「今日は、道の駅 萩往還に置いてある、吉田松陰(よしだ しょういん)と維新の群像について話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」
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あしたはどっちだ!?

2014年03月26日 | 見て歩き
「先週の土日(3月15日・16日)は、家族旅行で山口県にある長門湯本温泉(ながとゆもとおんせん)に行ってきた」

「昨日は、道の駅 萩往還(はぎおうかん)について話をしたんじゃけど…」

「今日は、道の駅 萩往還に置いてある、吉田松陰(よしだ しょういん)と維新の群像について話をしようと思う」





「道の駅 萩往還には、吉田松陰生誕160周年記念事業の一環として、近代日本の礎を築いた教育者としての吉田松陰を紹介する「松陰記念館」と…」





「「吉田松陰と維新の群像」があるんじゃ」









(左から、高杉晋作、吉田松陰、久坂玄瑞)



【高杉晋作(たかすぎ しんさく)】

天保10年(1839)- 慶応3年(1867)

萩城下の菊屋横町に武士の子として生まれました。19歳の時に、友人の久坂玄瑞のすすめで松下村塾に入塾し、久坂と並んで村塾の双璧(そうへき)と称されました。長野の佐久間象山(さくま しょうざん)を訪ね学びました。
身分に関係なく組織された奇兵隊(きへいたい)を結成し、四境戦争などで連戦連勝して長州藩の勝利におおいに貢献しました。幕末にたいへん活躍しましたが、明治維新を見る直前に下関で病死しました。



【吉田松陰(よしだ しょういん)】

天保元年(1830)- 安政6年(1859)

江戸時代の終わり頃、萩の松下村塾で幕末の志士や明治維新に活躍する多くの人材を育てました。萩藩士の二男として、萩の松本村に生まれ、幼くして吉田家の養子となり、山鹿流兵学師範(やまがりゅうへいがくしはん)の職を継ぎました。また、松陰は生涯にわたって日本中を旅しています。
世界に眼を向けた松陰はアメリカに軍艦で海外渡航しようと計画しましたが失敗しました。その後、安政の大獄(あんせいのたいごく)によって処刑されました。



【久坂玄瑞(くさか げんずい)】

天保11年(1840)- 元治元年(1864)

萩城下の平安古で生まれました。松陰と出会ったのは17歳の頃で、松陰から「防長年少第一流の才気ある男」と評されました。松陰の妹の文(ふみ)と結婚して松陰の実家・杉家に同居し、松下村塾での松陰の教育事業を助けていました。
吉田松陰の亡くなった後の村塾ではつねに中心的人物でした。京都の蛤御門(はまぐりごもん。禁門)の変の戦いで負傷し、25歳の若さで亡くなりました。








(左から、山県有朋、木戸孝允、伊藤博文)



【山県有朋(やまがた ありとも。小助(こすけ))】

天保9年(1839)- 大正11年(1922)

下級武士の子として生まれ、松下村塾に21歳の時に入りました。奇兵隊血盟(きへいたいけつめい)に加わり、その中心的な役割を担いました。高杉晋作の挙兵、四境(しきょう)戦争、戊辰(ぼしん)戦争などで奇兵隊をひきいて活躍し、明治維新後は軍隊の近代化、確立につとめ、内閣総理大臣や枢密院(すうみついん」議長などを歴任しました。



【木戸孝允(きど たかよし)】

天保4年(1833)- 明治10年(1877)

藩の医者の子として生まれました。幼名を小五郎といい8歳で桂家の養子となりました。吉田松陰とは藩校明倫館(めいりんかん)で知り合い、のちも交流をつづけ、江戸での松陰門下生たちの世話もしました。幕末には薩長同盟を結び、また西郷隆盛(さいごう たかもり)・大久保利通(おおくぼ としみち)と共に明治維新の三傑(さんけつ)と呼ばれています。



【伊藤博文(いとう ひろぶみ。利助(りすけ))】

天保12年(1841)- 明治42年(1909)

熊毛郡束荷(つかり)村に農民の子として生まれました。17歳の時に、来原良蔵(くりはら りょうぞう)に認められて、その紹介で松下村塾に入塾しました。松陰は伊藤を「周旋屋(しゅうせんや。世話好き)」と評しています。維新後は国会の開設、憲法制定など「明治日本」の確立に中心的役割を果たし、日本最初の内閣総理大臣となりました。








(左から、天野清三郎、野村和作)



【天野清三郎(あまの せいざぶろう。渡辺蒿蔵(わたなべ こうぞう)】

天保14年(1843)-昭和14年(1939)

武士の家に生まれ、松下村塾には16歳の時に入りました。塾に寝泊まりして学び、松陰はその学識を高く評価していました。のち長州藩の海軍所に入り、馬関(ばかん)戦争や奇兵隊創設にも参加しました。明治維新後は長崎造船所の創設に貢献し、また松陰門下生の中で最も長命で、97歳まで生きました。



【野村和作(のむら わさく。靖(やすし)】

天保13年(1842)-明治42年(1909)

足軽(あしがる)の子として生まれました。16歳の時に兄の入江九一(いりえ くいち)とともに松下村塾に入塾しました。松陰が最も信頼する門下生の一人でした。
松陰没後は京都や江戸で村塾グループの尊王攘夷(そんのうじょうい)運動に参加し、四境戦争や戊辰戦争で各地を転戦しました。維新後は政府高官となり、内務大臣を務めました。








(左から、品川弥二郎、山田顕義)



【品川弥二郎(しながわ やじろう)】

天保14年(1843)- 明治33年(1900)

足軽の子として生まれ、松下村塾に15歳の時に入塾しました。松陰が亡くなった後も塾の勉強会のメンバーで、のち攘夷血盟(じょういけつめい)に加わり、英国公使館焼討ちや蛤御門(はまぐりごもん)の変などに参加しました。明治維新後は政府高官となってヨーロッパ諸国に滞在、外交方面で活躍したり、内務大臣などを務めました。



【山田顕義(やまだ あきよし。市之允(いちのじょう))】

弘化元年(1844)- 明治25年(1892)

武士の長男として生まれ、14歳の時に松下村塾に入塾しました。村塾の一燈銭申合(いっとうせんもうしあわせ)や攘夷血盟のメンバーで、当時外国と日本が結んだ不平等な条約に強く反対し、尊王攘夷に参加しました。明治維新後は司法大臣を務め、また日本大学、国学院大学を創設し、教育者松陰の遺志を実現しました。








「吉田松陰の指さす先にあるものは?」





↓道の駅 萩往還については、こちら↓

道の駅 萩往還





訪問日:2014年3月15日





「今日は、道の駅 萩往還に置いてある、「吉田松陰(よしだ しょういん)と維新の群像」について話をさせてもらいました」

「明日は、萩市にある松陰神社について話をする予定じゃ。ほいじゃあ、またの」
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道の駅 萩往還

2014年03月25日 | 見て歩き
「先週の土日(3月15日・16日)は、家族旅行で山口県にある長門湯本温泉(ながとゆもとおんせん)に行ってきた」

「昨日は、萩往還(はぎおうかん)について話をしたんじゃけど…」

「今日は、道の駅 萩往還について話をしようと思う」





「広島を出発して、中国自動車道を西へ進む。山口IC(インターチェンジ)で降りて、国道262号線を北上し、道の駅あさひで休憩したあと、さらに北へ進む」







「トンネルを抜けると、「ようこそ萩」の文字が書かれた巨大な屋根があらわれた!」

「なに、これ?!」

「屋根の下を通り過ぎると…」





「またきて萩」

「うーん、こりゃなんじゃろかのう?」

「車を駐車場に停めて、屋根の下に行ってみると…」





「萩有料道路いうのがあったんじゃね」

「調べてみたら、全長1100メートル(うちトンネル570メートル)の有料道路で、ここには料金所があった。ちなみに、通行料は普通車で150円じゃったそうな」







「地下道を通って、道路の反対側へ渡ると、そこが道の駅 萩往還」

「松陰(しょういん)記念館や農産物の直売所があったよ」









「書状集箱(しょじょうあつめばこ)、今でいう郵便ポストも置いてあった。当時は、こんな形をしとったんじゃのう」

「日本の郵便制度を確立したのは、前島 密(まえじま ひそか)じゃったね」

「「郵便」「切手」「葉書」という言葉を考え出したのも前島じゃそうな」









「あと、公衆電話ボックスには、みかんの花や椿の花が描いてあったよ」

「みかんは山口の特産品のひとつでもあるし、県の花でもあるよの」

「「萩・椿まつり」いう旗が、あちこちに立てられとったね」



(松陰神社の前に咲いていた椿)





↓道の駅 萩往還については、こちら↓

道の駅 萩往還





↓萩有料道路の無料化については、こちら↓

「3月20日 萩有料道路 無料化!」萩市公式ホームページ





↓萩・椿まつりについては、こちら↓

「萩・椿まつり」萩市観光ポータルサイト





訪問日:2014年3月15日





「今日は、道の駅 萩往還について話をさせてもらいました」

「明日は、道の駅 萩往還に置いてある、吉田松陰(よしだ しょういん)と維新の群像について話をする予定じゃ。ほいじゃあ、またの」
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萩往還

2014年03月24日 | 見て歩き
「先週の土日(3月15日・16日)は、家族旅行で山口県にある長門湯本温泉(ながとゆもとおんせん)に行ってきた」

「昨日は、山口市にあるKDDI山口衛星通信センターについて話をしたんじゃけど…」

「今日は萩往還(はぎおうかん)について話をしようと思う」





「山口IC(インターチェンジ)で中国道を降りて、山口市内で昼食をとる。国道262号線を北上して、萩(はぎ)へ向かう」







「休憩をしようと思うて、道の駅あさひに寄ったら、こんな看板があった」





「萩往還って?」

「豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)の時代、毛利元就(もうり もとなり)の孫にあたる毛利輝元(てるもと)は、中国地方の8カ国120万石を安堵され、五大老も務めとった。ほいじゃが、西軍・豊臣方の総大将になった関ヶ原の戦いで負けて、周防・長門(すおう・ながと)の2カ国(=長州藩)36万石に減封(げんぽう)されたんじゃ」

「長州藩は、幕末には討幕運動の中心になったんよ」

「広島から移ってきた毛利氏は、慶長9年(1604年)に萩城を築いた。そして、日本海側の萩(長門)と、瀬戸内側の三田尻(みたじり。周防)を結ぶ街道として、道幅2間(約4メートル)に整備したのが、萩往還」

「日本海と瀬戸内海、山陽と山陰を結ぶ道でもあるんじゃね」

「江戸時代、参勤交代にも使われて、御成道(おなりみち)、お殿様が通る道ともいわれたそうじゃ」

「うちらは国道262号線を走ってきたけど、山の中を通っとるし、起伏がけっこうある道じゃったよ」

「毛利氏は、城を築くにあたって、防府(ほうふ)・山口・萩の3か所を候補地として幕府にお伺いをたてたんじゃの」

「…で?」

「これに対して幕府は、防府・山口は分限(ぶんげん)にあらず、つまり、幕府に反抗した外様(とざま)大名として身の程をわきまえなさい、ということで、三方を山に囲まれ、日本海に面した萩に城を築くことになったというわけじゃ」

「そういうことか。防府や山口は瀬戸内海側にあって、交通の便もええじゃろうしね」

「防府は、西国街道(さいごくかいどう)、江戸時代の山陽道(さんようどう)沿いにあるしの」





↓道の駅あさひについては、こちら↓

「道の駅「あさひ」」萩市観光ポータルサイト





↓萩往還については、こちら↓

歴史を感じ 自然を感じる 萩往還を歩こう ー歴史の道「萩往還」ー





「おぉ、肝心なことをひとつ忘れとった!」

「何?」

「道の駅あさひのトイレの案内板のことじゃ」







「男岳に女岳?」

「この近くに山があって、萩市の最高峰、一番高いところが男岳(おんたけ)の789メートルになるそうじゃ」





↓男岳については、こちら↓

「萩市の最高峰は? 【萩市】」やまぐち地ブログ





訪問日:2014年3月15日





「今日は、萩往還について話をさせてもらいました」

「明日は、道の駅萩往還について話をする予定じゃ。ほいじゃあ、またの」
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