通でがんす

いろんな広島を知って、ひろしま通になりましょう!
(旧ブログタイトル:通じゃのう)

ますやみそのコマーシャル~誕生と封印の歴史

2024年07月21日 | 広島の話題
お母ちゃん、間違えんさんな、ますやみそよ


「おぉ~、ますやみそのコマーシャルじゃん。久しぶりに聞いたねぇ」

「ますやみそが、このコマーシャルをラジオで流し始めたのが、50年くらい前じゃそうな」

「へぇ、それくらい長い歴史があるんじゃ」

「ところが、このコマーシャルは一時期、封印されたことがあるそうじゃ」

「…封印? なんで?」





「今日は、ますやみそのコマーシャル~誕生と封印の歴史についての話でがんす」





「ますやみそのコマーシャルは、どんな理由で封印されたん?」

「今から数十年前のこと。方言は教育上よくないとか、母親に対する話し方ではないとか、といった指摘を受けて封印されたそうじゃ」

「えぇーっ!? 「方言は教育上よくない」っていう、その意味がわからん」

「母親に対する話し方ではないというのは、わからんでもない。自分の親に向かって言うなら、「お母ちゃん、間違えちゃだめよ」くらいかの」

「うちゃ(=私は)、子どもが親に向かって「間違えんさんな」って言えるくらいの方が、仲のええ(=いい)親子関係って思えるけどね」

「ほうじゃの。で、ますやみそのコマーシャルが封印されたあと…。地方(=方言)を見直す動きが広がったこと、家族観の変化から「親しみがこもった話し方」と理解されるようになったことなどがあって、その封印を解除、放送が再開されたそうじゃ」

「ふーん。このコマーシャルにそんな歴史があったとは、知らんかったよ」





「以下、余談」


「今さらじゃが、ますやみそという会社について説明しとこう」

「ますやみそって名前は知っとるし、商品は店で見かけるけど、どんな会社かは、実はよう(=良く)知らんけぇね」

「ますやみそは、広島県呉市(くれし)に本社がある会社で、1929(昭和4)年に麹(こうじ)製造業の舛本商店として創業」

「みそやしょう油、日本酒を造るのに、麹は欠かせんね」

「みそを造るようになったのは戦後のことで、株式会社ますやみそを設立したのが、1965(昭和40)年5月じゃそうな」





「こ、この写真は?」

「今から60年くらい前いうけぇ、ますやみそが設立されたころかの。今のコマーシャルの元となったフレーズを、車のスピーカーから流して宣伝活動をされとったそうじゃ」

「へぇ。むかしは車を使うて宣伝をしよっちゃったんじゃね」

「このときは、会長のお母さんの声を録音したものを使われとったそうじゃ」



↓ますやみそについては、こちら↓

株式会社ますやみそ -Masuyamiso-





「以下、さらに余談」


「ますやみそのコマーシャルには、「お母ちゃん、間違えんさんな、ますやみそよ」のほかにもいろんなバージョンがあるんじゃの」

「たとえば?」

「たとえば、会社のキャッチコピー「母さんの味」にひっかけたもの」


「(伴奏あり)♪母さんの味、ますやみそ」


「あぁ、これは聞いたことがあるよ」

「そして、複数の子どもたちによるもの」


「(男の子の声で)ぼくの母さん、ますやみそ」
「(女の子の声で)うちの母さん、ますやみそ」
「(声を揃えて)向こう三軒両隣、みんなそろってますやみそ」



「うーん、こりゃ聞いたことがないね」

「こりゃ、わしの勝手な推測じゃが…。ますやみそのコマーシャルが封印された時期に使われたのが、このコマーシャルじゃなかったんかの?」

「ひょっとしたら…、っていうことね」

「最後に、元広島カープの選手で、6年前の2018年に亡くなられた、衣笠祥雄(きぬがさ さちお)のものもあるんじゃ」


「僕も好きです、ますやみそ」



↓ますやみそのコマーシャルについては、こちら↓

「ますやみそ公式チャンネル」YouTube





【参考文献】

「封印の時期も その訳は ますやみそ(呉市)のコマーシャル」中国新聞、2024年7月11日






「今日は、ますやみそのコマーシャル~誕生と封印の歴史について話をさせてもろうたでがんす」

「ほいじゃあ、またの」
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子ども時代の吉川晃司

2024年02月01日 | 広島の話題
「ロックアーティストの吉川晃司が、40年前の今日、1984年2月1日にシングル「モニカ」でデビューされました」

「デビュー40周年、おめでとうございます」

「吉川は、デビュー当時から派手なパフォーマンスをされとったの」

「歌番組に出演して、歌の途中に足を垂直に蹴り上げたり、歌の終わりにバク転をしたりと、すごかったね」

「今日は、今はなき広島の情報誌『映画手帖(えいがてちょう)』の1984年8月号に掲載された、「吉川晃司 マル秘アルバム」という記事から、子ども時代の吉川晃司を紹介していこう」




(『映画手帖 1984年8月号』広島映画手帖社)





「今日は、子ども時代の吉川晃司についての話でがんす」







「吉川は、1965(昭和40)年8月18日に、県立広島病院(通称:県病院)で生まれちゃったんじゃね」

「県病院って、わしが生まれたのと同じ病院じゃんか」

「生まれた時の身長が58センチで、体重が2650グラム」

「で、これが生まれて半年ころの吉川」

「目のあたりに面影があるね」


吉川晃司君のお宅に写真を借りに行きました。生後間もない頃の”オールヌード”もあったのですが…。

(あとがきより)





「こちらは2歳ころの吉川」

「まんま、吉川晃司じゃね」




「竹原へオリエンテーリングに行ったときの、小学校4年の吉川」

「頭にかぶっているのは、やっぱりカープの帽子」

「吉川が小学校4年のときいうたら、1975(昭和50)年。カープが初優勝した年じゃの」

「カープの帽子が、それまでの紺色に「H(Hiroshima)」のマークから、赤色に「C(Carp)」のマークになったのも、この年じゃったね」




「吉川といえば、水球」

「これは、吉川が修道中学3年のとき、全日本ジュニア水球大会で準優勝したときの写真じゃそうな」


キャプテン・吉川晃司(前列中央)としては、準優勝では不満が残る…といった表情

(写真の説明文より)



「吉川は修道高校時代、世界ジュニア水球選手権大会の日本代表、2年連続して全日本高校最優秀選手に選ばれ、最年少の日本代表として海外遠征に参加して活躍したんじゃの」

「その修道高校を、1983年3月に2年で中退して上京、渡辺プロダクション(通称:ナベプロ)に入ったんよね」

「翌1984年2月にデビュー。それ以降の快進撃は、ご存じのとおりじゃ」



↓吉川晃司については、こちら↓

K2 NET CAST : KOJI KIKKAWA OFFICIAL WEBSITE





「以下、余談」


「この雑誌の中には、吉川のライブビデオの紹介も出とったで」

「1984年いうたら、ビデオが出始めのころか」

「「KIKKAWA KOJI '84 FLYING PARACHUTE TOUR」の模様を収めたもので、60分で9,800円じゃった」

「ビデオの値段がそれくらいしよったころの話じゃね」

「ビデオの紹介は、第一産業の広告ページに出とったんじゃがの」

「うわー、第一産業なんて名前、久しぶりに聞いたよ」

「家電とエレクトロニクスのダイイチ」

「第一産業は、ダイイチ、デオデオと名前を変えて、今はエディオンじゃね」





「以下、さらに余談」


「吉川の実家は、今の平和記念公園がある中島地区にあったんよね」

「『この世界の片隅に』でも描かれとるが、戦前の中島地区は、広島はもとより中国地方でも指折りの繁華街じゃったんじゃの」




(平和記念公園(爆心地)街並み復元図)


「この地図で左上に見えるのが、広島への原爆投下の目標にされた、T字の形をした相生橋(あいおいばし)。その相生橋から道なりに下っていって、画面右側4軒目にあるのが吉川旅館じゃ」

「吉川旅館は、原爆ドーム(原爆投下当時の名称:広島県産業奨励館)から、元安川(もとやすがわ)を挟んで向かい側にあったんじゃね」

「今の、平和の時計塔があるあたりから少し南側かの」

「地図には、(舩本)とあるけど?」

「原爆投下の前に、旅館を舩本さんという方に譲り渡して吉川一家は疎開したけぇ、原爆の直接の被害を受けずにすんだ。ところが、吉川のお父さんは原爆投下の直後に広島へ帰ってきたことで被爆された(入市被爆)そうじゃ」

「吉川も、うちらと同じ被爆2世なんじゃね」


注:入市被爆(にゅうしひばく)…原爆が投下された時は広島郊外にいて直接の被害は受けなかったが、原爆が投下されて15日以内(8月20日まで)に、救援活動や親族を探すため爆心地から2キロ以内に入った人をいう。





「今日は、子ども時代の吉川晃司について話をさせてもろうたでがんす」

「ほいじゃあ、またの」



(文中、敬称略)
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鉄道のレールが滑りやすくなるのは、「タンニン」が原因だった?!

2023年11月11日 | 広島の話題


(「車両空転 列車立ち往生」中国新聞 2023年11月7日)


11月6日(月)午後3時35分ごろ、
JR山陽本線の瀬野-八本松間を
走行していた上り列車の車輪が空転、
立ち往生した。

雨でぬれた落ち葉で
車輪がレールの上で滑り
前に進めなくなったのが原因とみられる。

午後4時すぎ、
滑り止めの処置をして運転を再開するも、
再び車輪が空転して動けなくなったため、
午後8時、瀬野-西条間は
それまでの運転見合わせから
終日運転取り止めとなった。


秋になると
鉄道のレールの上に落ち葉が積もる。

その上を列車が走ると滑りやすくなり、
加速をしたり
ブレーキをかけたりするのが難しくなる。

これまでは、
レールの上に落ち葉があるから滑りやすい
と考えられてきた。

しかし、最近の研究では、
落ち葉に含まれる「タンニン」が原因
ということがわかったそうだ。





今日は、
鉄道のレールが滑りやすくなるのは、
「タンニン」が原因だった?!
についての話でがんす。





「タンニン」といえば、
赤ワインや渋柿、茶葉などに含まれ、
また、抗酸化作用があるため、
活性酸素のはたらきを抑制したり
取り除いたりすることが知られている。

活性酸素とは、
老化や免疫機能の低下、がん、動脈硬化
などの要因とされる。


その「タンニン」と
鉄道のレールの滑りやすさとは
どういう関係があるのか?

レールの上に積もった
落ち葉に含まれる「タンニン」が、
レール上の結露による水分、
または雨水を吸収して、
レールの鉄成分と化学反応を起こし、
黒色の「タンニン酸鉄」となる。

この「タンニン酸鉄」が、
車輪とレールの摩擦を大幅に減少させ
レールを滑りやすくしているという。

ちなみに、「タンニン」を含まない
落ち葉で試してみると、
「タンニン酸鉄」は形成されず、
車輪とレールの摩擦をそれほど減少させない
こともわかった。



【参考Web】

「線路の上に「落ち葉」があると電車が滑りやすくなる現象を解明。タンニンによって秋の電車は遅延していた!」
ナゾロジー






以下、余談。


わしがJR山陽本線を使って
通勤をするようになって10年になるが、
今回のように落ち葉で車輪が空転、
瀬野-八本松間で列車の遅延・
運転見合わせということが何度かあった。

その対策のひとつとして、
2015年から投入されたのが、227系電車
通称「Red Wing(レッドウィング)」。

今回のような「運転取り止め」は、
レッドウィング投入後
初めてのことじゃと記憶する。


この日の午後6時の時点で、
JRの西日本ホームページには、
「運転再開見込日時:目処立たず」
「西条から瀬野まで運転見合わせ」
と出とった。

たいていは運転再開見込み時間が
掲載されるもんじゃが、
運転再開のメドが立たん、
というのも珍しかったの。

ほいじゃけぇ、この日は
職場の人に車で送ってもろうた。

午後7時すぎくらいに、
瀬野駅から約4キロくらいのところで
立ち往生しとった上り列車を、
2号線を走っている車から見た。

報道によると、
午後3時35分ごろに停車したこの列車には
およそ150人の乗客が乗っていた。

停車から約4時間後、
横付けされた下りの列車に乗り換えて
瀬野駅まで移動、
バスで西条駅へ向かったという。

この列車に乗っておられた方、
お疲れさまでありましたのう。



↓JR西日本 中国エリアの列車運行情報については、こちら↓

「中国エリア 運行情報」JR西日本列車運行情報





以下、さらに余談。


今回、列車が立ち往生した
JR山陽本線の瀬野-八本松間は、
「瀬野八(セノハチ)」と呼ばれる
国内でも有数の難所。

最大勾配は22.6‰(パーミル)、
つまり1,000メートル進む間に
22.6メートル高さを上る急勾配があって、
角度にすると約1.2度ある。

この区間を走る上り貨物列車は、
今でも勾配対策として
最後尾に補助機関車を連結して
「後押し」が行われているんじゃの。





今日は、
鉄道のレールが滑りやすくなるのは、
「タンニン」が原因だった?!
について話をさせてもろうたでがんす。



ほいじゃあ、またの。
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写真撮影に注意なさい

2023年10月19日 | 広島の話題
すでに終わってしまったが、
広島県立文書館で
『写真展 開業120年 呉線のあゆみ
ー蒸機・気動車の時代ー』
(2023年7月4日から9月16日)
をやっていた。

そこでおもしろい文章を見つけたので、
紹介してみよう。



↓広島県立文書館については、こちら↓

「広島県立文書館 ~私たちはかけがえのない歴史資料を未来へ伝えます~」広島県





今日は、
写真撮影に注意なさい
についての話でがんす。





1935(昭和10)年、
旧海軍の鎮守府と
工廠(こうしょう。工場)があった
広島県呉市(くれし)で
「国防と産業大博覧会」が行われた。

そのときに発行された
観光案内書の目次の末尾に、
次のような注意書きがあった。


寫眞撮影に注意なさい

呉軍港一帯では寫眞撮影は勿論[もちろん]その描寫等は國法で固く厳禁されて居[お]ります。若[も]し撮影せんと思ふ方は豫[=予(あらかじ)]め鎮守府の許可を得なければなりませぬ、この事はよく注意せないと飛[と]んでもない大迷惑を蒙[こうむ]ることがありますからカメラマンは大いに注意をして下さい

(原文ママ。[ ]内は筆者注釈)



呉で行われた
国防と産業大博覧会は、
1935年3月27日から5月10日まで
45日間開催され、
70万人が訪れたという。

戦前の呉は
人口40万人を超える大都市だったが、
70万人の訪問者があったということは、
呉以外からも
たくさんの人が来たことになる。

そうすると、
呉に住む人なら知っていることでも、
呉以外から来た人は知らない
ということもある。

海軍のある呉港と
陸軍のある広島湾一帯は
広島湾要塞と呼ばれ、
写真や出版物に対しては
軍が事前に検閲を行い、
許可されたものだけが流通していた。

それを知らずに写真を撮ったり、
写生をしたりする人が
いるかもしれないので、
それに対する注意として
「写真撮影に注意なさい」
の一文が書かれたのだ。





以下、余談。


呉、写生、で思い出すのが、
こうの史代先生の漫画
『この世界の片隅に』の
「第12回 19年7月」。

広島市から呉市へ嫁いできた
主人公の北條(旧姓:浦野)すずは、
呉軍港に泊まっている軍艦を
海が見える高台から写生していた。

それを間諜(かんちょう。
スパイのこと)行為とみなした憲兵は、
すずを北條家に連行し、
家族に厳重注意した。

先に書いたとおり、
呉湾一帯において
無断で写生をしたり
写真を撮ったりすることは
禁止されていたのである。

憲兵とは、
日本陸軍に所属する軍事警察で、
治安維持法や軍事保護法の下、
軍に対して批判的な行動をする
国民の監視・取り締まりを担った。





以下、さらに余談。


「国防と産業大博覧会」
という言葉から、
同じく『この世界の片隅に』の
「第41回 りんどうの秘密(20年10月)」
を思い出された方があるかもしれない。

口減らしのために売られた白木リンは、
そこから逃げ出し、
草津に住むすずの祖母に
匿(かくま)われていた。
(「大潮の頃(10年8月)」)

貨車にタダ乗りして
呉にたどり着いたリンは、
国防と産業大博覧会内の食堂で
老婦人から
あいすくりいむを食べさせてもらう。

リンはそのまま
朝日遊廓に連れて行かれ、
二葉館の遊女として働くことになる。





「第14回 19年8月」で、
朝日遊廓に迷い込んだすずに
絵を描いて欲しいリンが、
あいすくりいむを知らないすずに対して

「甘(あも)うて
冷(ひ)ようて
うえはーが付いとって」

…と説明しているが、
このとき食べたあいすくりいむが
そうだったのだ。

国防と産業大博覧会で
初めてアイスクリームを食べた
という人が、結構な数
いたのではなかろうか?





今日は、
写真撮影に注意なさい
について話をさせてもろうたでがんす。



ほいじゃあ、またの。
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君知るや、羽田別荘少女歌劇団

2023年10月09日 | 広島の話題
NHK連続ドラマ小説『ブギウギ』は、
「ブギの女王」といわれた歌手
笠置 シヅ子をモデルにした、
花田鈴子=福来 スズ子(演:趣里)
の活躍を描く物語。



↓『ブギウギ』については、こちら↓

「ブギウギ」NHK



第1週「ワテ、歌うで!」は、
鈴子が小学校卒業後の進路として、
「花咲歌劇団」の入団試験に挑むも、
不合格。

道頓堀の「梅丸少女歌劇団」に
押しかけ同然で直談判して
入団を許可されるという話。


花咲歌劇団とは、
笠置 シヅ子が1927(昭和2)年に受験した
宝塚音楽歌劇学校(現:宝塚音楽学校)
のことで、その8年前の
1919年(大正8年)に設立された。

そして、宝塚歌劇団は、
1913年(大正2年)に結成された
宝塚唱歌隊(のち、宝塚少女歌劇団)
を前身とする。



↓宝塚歌劇団については、こちら↓

宝塚歌劇公式ホームページ



宝塚少女歌劇団の成功を受けて、
各地で少女歌劇団が作られた。

そのうちのひとつが、
広島を拠点にした
羽田(はだ)別荘少女歌劇団である。




今日は、
君知るや、羽田別荘少女歌劇団
についての話でがんす。





羽田別荘は、
1900(明治33)年に
実業家の羽田 謙次郎が創業、
広島市中区舟入町に今もある料亭。



↓羽田別荘については、こちら↓

料亭 羽田別荘



少女歌劇ブームを受けて、
宝塚少女歌劇団の結成から5年後の
1918(大正7)年に
羽田別荘少女歌劇団を結成、
12月3日に初公演を行った。


羽田別荘の少女歌劇は、大正七年に
(略)
三十人の少女歌劇団を連れて窮状を訴えてきたのがきっかけで、経営者の羽田謙次郎氏が肝入りでできたものであった。

(薄田太郎『続々がんす横丁』たくみ出版 1973年 67ページ)



羽田別荘少女歌劇団は、
一時は約50人の団員を抱え、
「港の唄」「夢のわ」「宮島譚」
「クレオパトラ」「カフェーの線」
などの演目が人気だったという。

1930(昭和5)年、東京進出を果たすが、
その際「ハダカゲキ」騒動が起こる。


五十余名の乙女歌劇団が、遠く広島から東上して、来る十一日より新宿松竹座に公演する、
(略)
名も「ハダカゲキ」と改称し、大いにエロ感を煽る圧倒的エロ・レヴューを以てフアンに見ゆる事となった

(『読売新聞』1930年9月6日)



これは、羽田歌劇が、
羽田歌劇→ハダ カゲキ
→ハダカ ゲキ→裸劇
と読み替えられたものであろう。

時代的にも、
昭和の初めころに流行した
エロ・グロ・ナンセンス
に影響されているのかもしれない。

それはともかく、
羽田別荘少女歌劇団は、
東京や大阪、京都、神戸、
遠く台湾や満州でも公演を行ったが、
太平洋戦争が始まる直前の
1941年に解散した。





↓羽田別荘少女歌劇団については、こちら↓

「[ヒロシマの空白 被爆75年] 戦前 踊る少女たち 羽田別荘 歌劇団の写真200枚」ヒロシマ平和メディアセンター

「[[ヒロシマの空白 被爆75年 街並み再現] 踊り子や宴会 心弾む世界 壊滅前の羽田別荘」ヒロシマ平和メディアセンター





【参考文献】

被爆70年史編修研究会/編『広島市被爆70年史 あの日まで そして、あの日から 1945年8月6日』広島市 2018年 83ページ






今日は、
君知るや、羽田別荘少女歌劇団
について話をさせてもろうたでがんす。



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