通じゃのう

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創業140周年 広島銀行

2018年12月03日 | 広島の話題
広島銀行の歴史

前身は、第六十六国立銀行と第百四十六国立銀行

国立銀行ってなに?

ひろしま美術館は、創業100周年事業として建てられた







(中國新聞 2018年11月29日)



先日の新聞に、広島銀行が創業140周年を迎えたという広告が出とった。

そこで、広島銀行の歴史について調べてみた。





↓広島銀行については、こちら↓

「広島銀行のご案内」広島銀行





広島銀行は、今から140年前の1878年(明治11年)11月29日、尾道市に設立された第六十六国立銀行が始まりといわれる。



第六十六国立銀行(こくりつぎんこう)?



「第六十六」ってことは、66番目に作られたってこと?

ピンポーン!

これは、合(お)うとる。



「国立銀行」ってことは、国が経営する銀行ってこと?

ブー!

これは、間違い。



「国立銀行」は「国が作った銀行」という意味じゃのうて、1872年(明治5年)の国立銀行条例という「国の法律に基づいて、民間の資本によって作られ、経営された銀行」をいうそうじゃ。



1882年(明治15年)、中央銀行である日本銀行が設立されると国立銀行条例も改正され、国立銀行は普通銀行に転換。

これを受けて1897年(明治30年)7月、第六十六国立銀行は第六十六銀行と名前を変えた。





広島銀行の、もうひとつの前身にあたるのが、1879年(明治12年)4月に広島市で設立された、第百四十六国立銀行。

この銀行も1897年1月、廣島銀行と名前を変えた。





1893年(明治26年)の銀行条例によって、各地で銀行が設立されるようになった。

1912年(大正元年)には、広島県下で44行もの普通銀行が営業していたという。





1918年(大正7年)11月、第一次世界大戦が終わる。

大戦中から終わってしばらくの間、日本は景気がえかった。

が、その後は景気が悪うなって、取り付け騒ぎがおきる銀行が出た。

取り付け騒ぎというのは、銀行にお金を預けている人が、そのお金の払い戻しを求めて殺到、混乱を招くこと。

そんな状況にあった1920年(大正9年)6月、銀行の合併を進める動きが出てきた。

今まで紹介した第六十六銀行、廣島銀行のほかに、三次(みよし)貯蓄銀行、双三(ふたみ)貯蓄銀行など6行が合併。

広島市に本店を置く藝備(げいび)銀行が設立されたそうじゃ。





1945年(昭和20年)、戦時中の1県1行主義により、藝備銀行、三次銀行、備後(びんご)銀行、備南銀行、広島合同貯蓄銀行の5行が合併。

これにより、新しい藝備銀行が設立された。





同年8月、原爆被災。







広島銀行 本店

(撮影日:2017年9月23日)



1965年(昭和40年)2月、本店完成。

本店が完成するまで間、旧帝国銀行広島支店(後の広島アンデルセン)の建物を仮本店にしとった。



余談じゃが…。

本店は、2021年(元号未定)1月に完成予定。

広島アンデルセンも、2020年(元号未定)8月にリニューアルオープンの予定。

…と、どちらも建て替え工事の最中なんじゃの。





↓広島アンデルセンについては、こちら↓

ANDERSEN GROUP - アンデルセングループ





1950年(昭和25年)8月、行名を藝備銀行から廣島銀行に変更。





1978年(昭和53年)11月3日、創業100周年事業として、ひろしま美術館を開館。

ひろしま美術館は今年、開館から40年を迎えたんじゃの。





↓ひろしま美術館については、こちら↓

ひろしま美術館






1988年(昭和63年)7月、創業110周年事業として、行名を廣島銀行から広島銀行へ変更。

「広」島銀行は、たった30年前まで、旧字体の「廣」島銀行じゃったかいのう?

…覚えとらん。

というか、気にしとらんかっただけかもしれんが。








広島銀行 仮本店

(撮影日:2018年9月27日)



2018年(平成30年)、仮店舗に移転。

先に話したとおり、本店は今、2021年(元号未定)1月の完成を目指して建て替え工事中なんじゃの。





【参考文献】

(有元正雄・天野卓郎・甲斐英男・頼祺一:著『広島県の百年』山川出版社 1983年)






今日は、創業140周年を迎えた広島銀行の歴史について話をさせてもらいました。

ほいじゃあ、またの。

浅野氏の広島城入城

2018年11月27日 | 広島の話題
浅野氏、広島城入城から400年(その2)

浅野長晟(ながあきら)の広島城入城






最初に、前回(毛利氏による広島城築城と福島氏の広島城入城)の復習から…。



戦国大名の毛利元就(もうり もとなり)は、県北にある吉田(現:安芸高田市)から、中国地方のほぼ全域まで勢力を拡大した。

その元就の孫にあたる輝元(てるもと)が、太田川(おおたがわ)河口のデルタ地帯は築いたのが広島城で、天正19年(1591年)に入城したといわれる。

それから9年後の慶長(けいちょう)5年(1600年)、関ヶ原の戦いが起こる。

戦いに敗れた西軍・豊臣方の総大将だった輝元は、周防(すおう)・長門(ながと)の2国(今の山口県)に移された。

関ヶ原の戦いの翌年、慶長6年(1601年)、安芸・備後の2国(今の広島県)を領地とする初代広島藩主として福島正則(ふくしま まさのり)が広島城に入城。

広島城に入城して19年後の元和5年(1619年)、太田川の洪水で城の石垣が被害を受けたため、正則は修理をした。

しかし、このときの修理は幕府に無断で行ったとして非難され、正則は広島藩主の座を追われることになった。



以上、前回の復習、終わり。





今回は、正則に代わって浅野家・初代広島藩主として広島城に入城した、元・紀州(きしゅう)和歌山藩主の浅野長晟(あさの ながあきら)についての話。

正則が領地を移されたあと、長晟が広島城に入城するまでを、日にちを追って細かく見ていこう。





元和5年(1619年)6月2日、正則は津軽(つがる。今の青森県西部)、後に信濃川中島(しんしゅう かわなかじま。今の長野県の一部)へと移され、そこで謹慎させられた。



6月19日、正則の家臣・福島丹波たち、広島城を幕府の使者に引き渡す。



7月1日、家臣たち、正則夫人に従って広島を去る。



7月18日、江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠(とくがわ ひでただ)は長晟を呼び、広島藩へ移るよう命じる。

長晟は、このときの様子を、国元(くにもと。紀州和歌山藩)の家臣たちに手紙で書き送っているんじゃ。



将軍・秀忠様からじきじきに、芸備(げいび。安芸・備後の2国)をつかわすとのお話があった。

浅野家は、初代で長晟の父にあたる長政(ながまさ)以来、徳川家に忠誠を尽くしてきた。

また、浅野家は徳川家と、一度は縁続きとなったこともある間柄。

(注:長晟は、徳川家康の三女にあたる振姫(ふりひめ)と結婚したが、元和3年(1617年)に亡くなっている)

そのうえ、広島は中国の要(かなめ)といわれる地。

めったな者には与えることができない。

が、浅野家であれば安心して任せることができる。




この文面を読むと、藩主が家臣に対して、将軍からの話を誇らしげに自慢しているようにみえる。

実はこのときの長晟は、亡くなった兄・幸長(よしなが)の跡(あと)をついで和歌山藩主となって6年目で、藩内における権威がまだ低かった。

広島藩を任されたことを機会に、将軍の権威を借りて藩主としての権威を高め、家臣たちを統制しようとしたといわれとるんじゃの。



ところが、この話にはオチがあって…。



長晟が将軍・秀忠から、紀州和歌山藩主から広島藩主になれと命じられた、その翌日の7月19日。

秀忠は、紀州和歌山藩を、徳川家康の十男で駿府藩主の徳川頼宣(よりのぶ)に与えた。

これにより、尾張(おわり)・水戸(みと)とならぶ徳川御三家のひとつ、紀州徳川家が成立。

秀忠としては、もとは豊臣家につかえていた浅野家を和歌山から追っ払って、京都とその周辺を徳川一門で固めようというつもりじゃったらしい。



それはともかく…。



7月23日、長晟、和歌山へ戻る。



7月27日、浅野左衛門佐知近(さえもんのすけ ともちか)ら家臣約30名を、広島城受取りの先発隊として送り出す。



8月4日、長晟は跡継ぎの光晟(みつあきら。浅野家・第2代広島藩主)以下、おおくの家臣を伴って、船で広島に向かう。



8月7日、備後(現:福山市)の鞆(とも)で、幕府の使いから広島藩の引き渡しを受ける。



8月8日、長晟一行は広島に上陸。天神町(てんじんまち。今の中区中島町)の天神坊(満松院(まんしょういん)。今の天満神社)で休憩したあと、広島城に入城した。





というわけで、長晟は浅野家・初代広島藩主として広島城に入城。

以後、明治時代に至るまでの約250年間、浅野氏は12代にわたって広島藩を治めていくんじゃの。





↓浅野氏、広島城入城から400年については、こちら↓

「浅野氏入城400年記念事業」広島市





…以下、余談。



広島藩について少し説明しておく。



元和3年(1617年)の時点で、福島氏広島藩の石高は50万石。

元和5年(1619年)、浅野氏広島藩の石高は42万石。

差し引き8万石の差が出てくる。

なんでじゃろ?



福島氏広島藩の領地は、安芸・備後の2国と、今の広島県とほぼ同じ。

それに対して、浅野氏広島藩の領地は安芸と備後の一部。

浅野氏広島藩でなくなった備後の一部は、福山藩(10万石)となった。

その初代藩主となったのが、家康から従兄弟にあたる水野勝成(みずの かつなり)。



つまり、来年2019年は、「浅野氏、広島城入城から400年」であると同時に、「水野氏、福山藩入封から400年」でもあるんじゃの。





↓水野氏、福山藩入封から400年については、こちら↓

福山城築城400年記念事業公式サイト





【参考文献】

西村 晃『浅野家入城とその後の施政』(平成30年度 城下町広島の歴史講座 2018年10月13日)

土井作治『広島藩』(吉川弘文館 2015年)






今日は、浅野長晟の広島城入城について話をさせてもらいました。

ほいじゃあ、またの。

毛利氏による広島城築城と福島氏の広島城入城

2018年11月22日 | 広島の話題
浅野氏、広島城入城から400年(その1)

毛利輝元(もうり てるもと)による広島城築城

福島正則(ふくしま まさのり)の広島城入城




平成最後の年となる来年、2019年(平成31年)は、浅野家初代広島藩主・浅野長晟(あさの ながあきら)が広島城に入城して400年という記念の年。

1月20日(日)に行われる「ひろしま通認定試験」も、浅野氏広島城入城400年を記念した「広島城下町の歴史・文化」がテーマになっとるんじゃの。



今回は浅野氏が広島城に入城するよりも前、広島城を築いた毛利輝元と、輝元に続いて入城した福島正則について話をしていこう。





【毛利輝元による広島城築城】


広島の戦国大名といえば、県北にある吉田(現:安芸高田市)から、中国地方のほぼ全域まで勢力を拡大した毛利元就(もうり もとなり)。

広島湾の入り口にあたる太田川(おおたがわ)河口のデルタ地帯は、海上・河川・陸上の交通が交わる中心地。

元就はデルタ地帯の、政治的・経済的、そして交通の重要性を認めて、この地へ進出していた。

このデルタ地帯に城を築いたのは、元就の孫にあたる輝元になるんじゃが。



輝元は、豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)が建てた大坂城や聚楽第(じゅらくだい)を目にし、城づくりを決意。

天正(てんしょう)17年(1589年)、当時「五箇村(ごかむら)」と呼ばれていた太田川河口のデルタ地帯に城を築き始めた。

この城が今の広島城で、輝元は天正19年(1591年)に入城したといわれる。

また、「五箇村」と呼ばれていたあたりが「広島」と名づけられたのは、このころじゃそうな。



輝元が広島城を築いて約10年後の慶長(けいちょう)5年(1600年)に関ヶ原の戦いが起こる。

輝元は、実際の戦いには加わることはなかったものの、西軍・豊臣方の総大将となり、敗れた。

関ヶ原の戦いの後、世の中は徳川氏のものとなった。

そのため、中国地方のほとんどを支配していた輝元は領地を減らされ、石高も110万石から30万石まで減らされたうえで、周防(すおう)・長門(ながと)の2国(今の山口県)に移されたんじゃの。



毛利氏は江戸時代を生き延び、幕末には薩摩(さつま)藩と結んで幕府を倒し、明治政府の中心となっていったのは、ご存じのとおりじゃ。





【福島正則の広島城入城】


慶長6年(1601年)、毛利輝元に代わって広島城に入城したのが、関ヶ原の戦いでの功績を認められた福島正則。

正則は秀吉のいとこにあたり、子供のころからなにかと面倒を見てもらっていた。

ところが、秀吉の死後、石田三成(いしだ みつなり)と対立したことから、関ヶ原の戦いでは東軍・徳川方に味方し、その勝利に貢献した。

そこで、尾張国清州(きよす)24万石から、安芸・備後(びんご)の2国(今の広島県)40万石の大名に取り立てられることになった。

これは同時に、周防・長門の毛利氏を監視する役目も負わされたことになったんじゃ。



広島市街はむかしから、大雨で太田川が氾濫(はんらん)すると被害を受けてきた。

正則の時代の元和(げんな)3年(1617年)も長雨や豪雨で太田川が氾濫、城の石垣や塀などに被害を受けた。

そこで正則は、幕府に対して城の修理の許可を申し出た。

…自分の城を修理するのに、なんで幕府の許可がいるんじゃろ?

それは、元和元年(1615年)に出された武家諸法度(ぶけしょはっと)という法律に、「城を修理するときは必ず報告すること」という一文があったため。

正則は幕府に許可を求めたんじゃが、なかなか許可がおりなかったので、正式な許可がないまま城の修理をした。

そのことを、「無断で城を修理した」と非難されたため、正則は修理したところを壊すことで幕府の命に従う態度を示した。

ところが元和(げんな)5年(1619年)、正則は安芸・備後を没収された上、最初は津軽(つがる。今の青森県西部)、後に信濃川中島(しんしゅう かわなかじま。今の長野県の一部)へと移された。

正則が広島藩を治めたのは約19年ということになるんじゃの。



寛永(かんえい)元年(1624年)、正則は高井野(たかいの。今の長野県高山村)で亡くなる。

そののち、福島氏は取り潰しとなった。





↓広島城については、こちら↓

「広島城の歴史」広島城





今日は、来年は浅野氏が広島城に入城して400年ということで、毛利輝元の広島城築城と、福島正則の広島城入城について話をさせてもらいました。

「浅野氏、広島城入城から400年(その2)」は、浅野長晟の広島城入城の予定じゃ。

ほいじゃあ、またの。

學則天と広島

2018年11月19日 | 広島の話題
學則天(がくそくてん)

瞑想するロボット

広島昭和産業博覧会でも展示






中國新聞発行の「ちゅーピー子ども新聞 2018年11月号」に、ロボット(当時は「人造人間」と呼ばれた)學則天が紹介されていたので、今回取り上げる。



↓ちゅーピー子ども新聞については、こちら↓

「ちゅーピー子ども新聞」中国新聞アルファ





東洋で初めてのロボットといわれる學天則は、今から90年前の1928年(昭和3年)に開かれた大礼(たいれい)記念京都博覧会に出品された。



「大礼」というのは、天皇の即位の礼のこと。

昭和天皇の即位の礼はこの年の11月に行われ、「大礼記念」ということで各地で記念行事が行われたんじゃの。

今上天皇(きんじょうてんのう。在位中の天皇のこと)が即位される時も、昭和天皇の時よりも少なかったと思われるが、各地で記念行事が行われた。

来年、2019年5月1日は、今の皇太子さまが即位される。

ということは、大礼記念の記念行事が行われるんじゃろうの。



ロボット・學天則を造ったのは、大阪毎日新聞の西村真琴(にしむら まこと。1883年~1956年)さん。

西村さんは長野県出身で、広島高等師範学校(現:広島大学)博物学科を卒業。

生物学者にして、元・北海道帝国大学(現:北海道大学)教授でもある。



「ロボット」という言葉が初めて使われたのは1920年、チェコスロバキアの小説家カレル・チャペックの戯曲『R.U.R.』において。

チェコ語で「強制労働」を意味する「robota(ロボッタ)」と、スロバキア語で「労働者」を意味する「robotnik(ロボトニーク)」から、「ロボット」という言葉が創られた。

そのため、「人に代わって労働をするために作られた存在」という意味合いが強いんじゃ。



ところが、學天則は生物学者の先生が造られたロボット。

単に「働く」ための機械ではなく、人間が「創造」する姿をあらわしたロボットなんじゃの。

具体的にいうと、學天則は右手にペン、左手にライトを持つ。

頭の上に鳥がおって、この鳥が鳴くと學天則は瞑想(めいそう。目を閉じて静かに考える)を始める。

ひらめいたところで、右手に持ったペンで、そのひらめきを文字にしたという。

わしゃ、學則天が実際に動いたところを見たことがないが、アニメの一休さんが、とんちを思いつくときの感じに似とるんかもしれん。



…なに、アニメの一休さんをご存じない?

まぁ、1975年から1982年にかけて放送されたテレビアニメじゃけぇ、今の若い方はご存じないかもしれんの。

最近、NTTドコモ(docomo)のテレビCMでやっとるじゃろ?

「♪すき すき すき すき すき~ すきっ! イッキューパッ(1980円)」ってやつ。

あれはアニメの一休さんのオープニングテーマ

「♪すき すき すき すき すき~ すきっ! 一休さん」(「とんちんかんちん一休さん」)

をもじったものがCMで使われとる。

「とんちんかんちん一休さん」は、作詞:山元護久(やまもと もりひさ)、作曲・編曲:宇野誠一郎(うの せいいちろう)という、人形劇『ひょっこりひょうたん島』のコンビが作った曲なんじゃ。



…おぉっと、こりゃ余談がすぎてしもうたわい。

話を學則天に戻して…。



學則天という名前にもひとひねりあって。

「學則天」の「學」は「学」の旧字体。

このころの人は、こんな難しい漢字を書いとったんじゃ。

「則天」は「天則(てんそく)=自然の法則」のこと。

つまり、「學則天=自然の法則に学ぶ」という意味がある。

西村さんのロボットに対する考え方が、鉄腕アトムやASIMO(アシモ)といった日本のロボットのルーツなんかもしれんの。



學天則は、造られた翌年の1929年(昭和4年)、広島市主催の昭和産業博覧会でも展示された。

当時の広島の人は、時代の最先端を行くロボットを目にすることができたんじゃの。

この博覧会は、4月25日から5月14日まで、西練兵場(にしれんぺいじょう)や比治山(ひじやま)、宇品(うじな)を会場として開かれた。

「練兵場」は「兵隊が訓練する場所」のことで、かつての広島市民球場や、今の広島県庁や市民病院があるあたりに戦前まであったんじゃの。

原爆ドーム、当時の広島県立商品陳列所では、昭和産業博覧会に協賛して昭和美術展覧会が開かれたそうじゃ。



↓昭和産業博覧会の映像は、こちら↓

「ひろしま戦前の風景」RCC

(6 昭和産業博覧会 正門、7 昭和産業博覧会 子供の国)






【参考文献】

(広島県立美術館『廣島から広島 ドームが見つめ続けた街』2010年8月)






…以下、余談。



學天則を造った西村真琴さんの息子にあたるのが、俳優の西村 晃(にしむら こう。1923年~1997年)さん。

西村さんは、テレビの2代目・水戸黄門(みとこうもん)、アニメ映画『ルパン三世 ルパンVS複製人間(クローン)(上映時のタイトルは『ルパン三世』)』(1978年)でマモーを演じておられます。

映画『帝都物語(ていとものがたり)』(1988年)では、父親の真琴役を演じておられました。

わしが學天則を知ったのは、この時じゃったのう。



↓『ルパン三世 ルパンVS複製人間』については、こちら↓

「『ルパン三世 ルパンvs複製人間(クローン)』MX4DR版 予告編/"LUPIN THE 3RD THE SECRET OF MAMO" MX4D Ver. Trailer」YouTube





今日は、「學則天と広島」ということで、東洋で初めて造られたロボット・學則天と、広島の昭和産業博覧会で展示されたことについて話をさせてもらいました。

ほいじゃあ、またの。

カープ優勝 懸垂幕2018~八丁堀・本通り・紙屋町

2018年09月29日 | 広島の話題


(中國新聞 2018年9月27日)

プロ野球・広島東洋カープは2018年9月26日、地元・マツダスタジアムでの対ヤクルト戦に0対10で勝って、セ・リーグ3連覇、V9、そして27年ぶりの地元優勝を決めました!
おめでとうございます!!

前回は、JR広島駅周辺で見かけた、カープ優勝の懸垂幕やポスター、バスの行き先表示などを紹介しました。

今回は、八丁堀(はっちょうぼり)・本通り・紙屋町(かみやちょう)で見かけた、カープ優勝の懸垂幕などを紹介していきたいと思います。





↓前回の記事は、こちら↓

カープ優勝 懸垂幕2018~JR広島駅周辺









もみじ銀行 本店









広島三越









福屋 八丁堀本店







広島信用金庫 八丁堀支店







本通り・えびす通り商店街







本通り・金座街(きんざがい)商店街











廣島仁多屋 八丁堀店







広島PARCO







ひつじやサロン













着物のみやび







赤松薬局













本通ヒルズ







SMBC日興証券 広島支店







広島アンデルセン













広島そごう










エディオン広島本店 新館






訪問日:2018年9月27日





今回は、八丁堀・本通り・紙屋町で見かけた、カープ優勝の懸垂幕などについて話をさせてもらいました。

台風24号の接近する週末、写真を撮りに行ければ、次回、または写真の追加をする予定です。





ほいじゃあ、またの。